~ ニューマリンフォード・窓縁にて ~
「……月が綺麗じゃのぅ」
らしくない言葉が、白い髭に覆われた口から漏れる。
大凡、情景を楽しむといった風流な趣味があるとは、見かけからは思いも寄らない男。数々の武勇伝を誇る生きた伝説。モンキー・D・ガープの双眸は、まさしくその月に注がれていた。
月の影が兎に見えるのか、それとも"シミ"を数えているのかも、想像が付かない。
幸いな事に、その似合わぬ台詞を聞いていたのは、彼の事を昔より知るもう一人の男だ。
「食ったものに何か傷んでいるのが混ざっていたか?」
「違う、単に昔を思い出しただけじゃ」
"仏のセンゴク"の異名を誇った、かつての海軍元帥。長い間軍の中で肩を並べた二人。ガープが己の右腕を静かにさするのを横目に見やり、そのまま表情を見比べて言う。
傷だらけの英雄が眼の奥に潜むものを、センゴクはよく知っている。豪放磊落な海軍中将は、こう見えて異様な繊細さを持ち合わせている男である事をだ。
「
「…………」
センゴクの問いに帰ってくるのは、無言。
苦虫を噛み潰したように口元を歪ませるガープの眼は、様々な情を混ぜた眼差しで月を見上げたまま。それを見たセンゴクは、一回だけ、それでいて大きなため息をつく。出来る事ならば、"あの頃"の事は思い出したくない。
あの、忌々しい顔。
あの、おぞましい声。
そして何よりも、忘れられない名前。
齢70を越え、数多の修羅場をくぐり抜けた。それでなお、胸中から消えてくれない"傷"への苦しみ。多くの仲間を失って、多くの敵の最後を見届けてきた男の中で、今日となってものたうち回っているモノ。
「奴め、ここ最近になってまた夢に出て来おった」
二人の顔の皺が増える。顔をしかめ、地上で何が起ころうと綺麗なままの月を見上げたまま。この嫌な予感は、昔からよく当たる。
「冗談でもやめろ。"奴"は死んだ。そう断言したのは――」
「儂じゃ。そうじゃとも、アイツは死んだ」
目の前で。
そう、死んだ ―― 筈だ。
この眼でしかと見ていた。巨大な熱が押し寄せて、中心から溶けていく大地と空。
街が消滅し、命だったものすら飲み込んでいく光景が甦る。
そしてその熱は、アイツをも飲み込んでいった。ガープにとって、アレ以上のおぞましい記憶は無い。それこそ2年前、孫を失った"対白ヒゲ戦"がようやく"悲しみが比肩する"と言えば良いだろうか。
護りたかったものと、護れなかったもの。
護りたくも無かったものと、それに頼られる自分。
本来闘わなければならない相手と協力した事。
あの時の思い出は、"英雄ガープ"を作り上げた。
「消滅していく光の中に消えて行くアイツの顔は忘れんよ」
「それをまた夢に見るようになったとは、何かあったのか」
「あぁ、何かがこれからあるのかも知れん」
ガープは天に浮かぶ月へ手をかざす。指の間から差し込む月光を額に浴びながら、手をくるりと回して、己の掌を見、握りしめる。汗がにじんでいた。
センゴクの額にも、一筋の汗が垂れる。思い出したくない光景が、嫌でも脳裏に浮かんで来たのであろう。
「もうあの頃を知っている者もそうおらん、何事も無ければ良いが」
「同感じゃ。儂とお前と、おつるちゃんくらいか?」
「……海賊共を含めても、生きてる者は少ないな。私は『大海賊時代』から相当経った今日になっても、"アイツ"を前にした時以上の
センゴクはその汗を指でぬぐい、ぼやく。
「少し思い出すだけで、コレだ」
※※※※※※※※※※
~ シャボンティ諸島 ~
独りでに、グラスが割れた。酒場の女店主・シャクヤクは顔を小さくしかめる。
「シャッキー、そのグラスは――」
「えぇ、お気に入りだった」
酒場のカウンターには、唯一の客となっている、老いた男性が一人座っていた。
シャクヤクが一瞬見せた悲哀の表情を、見逃すような存在では無い事を、彼女自身よく知っている。すぐに何時もの表情へ顔を戻していたが、老人の目は普段より優しさが込められている。
「不思議なこともあるものね、悪い夢を見たと思ったら、今度はコレ」
「夢? 奇妙なものだなぁ、私も今日、夢見が異様に悪かった」
励まし、とは違うようだ。眼に宿る驚きの感情に、嘘偽りが無い。ただ、次に口から漏れた言葉が被った事で、空気が変わってしまった。
「「 ……"アイツ"の夢を見た? 」」
背骨がまるごと氷柱と入れ替わったかのような悪寒が、彼女と老人を襲う。老人の額には脂汗がつたい、シャクヤクの頬が歪んだ。お互い顔を見合わせて、おそらく脳裏に浮かんでいる"忌々しい顔"が、同じである事を再確認する。
「本当に、奇妙な話ねレイリー。あんな、思い出したくも無いヤツの」
「全くだな。
「ごめんなさいね、お酒がマズくなる話題になっちゃって」
「ハハ、気にするな」
そう良いながら、レイリーと呼ばれた老人は、手元のグラスに残る酒をあおる。
酔いが、一気に醒めていった。無言でシャクヤクにおかわりを所望し、彼女はレイリーへ酌する。
海賊王:ゴールド・ロジャーの右腕、シルバーズ・レイリー。
方や、40年前に海賊から足を洗った経験を経ている酒場の女主人。
その両人が持っている共通の思い出というのは、どちらにとっても記憶の奥底でじっとしていて欲しかったものであった。
「シンクロニシティ、と言うんだったか? こういうのは」
「共時性ね。歳の近い人達みんな、同じ夢見てたりして」
そんな事があろうかと一瞬思ったが、シャクヤクも、レイリーも、再び頬が引きつる。
酒場の女店主となった彼女も、昔は沖で海賊活動をしていた経験もある。そして、レイリーはいわずもがな。長い人生経験の中で、こういう
それが、よりにもよって二人にとって共通の、『最悪の思い出』であるだけの事。それだけの事と、切って捨てる事も出来ないもどかしさに、震える他無い。
「同じ夢、か。今となっては風化しかかっているだろうが」
「あの時、あの島を知っている人間は、もうそんなにいないもの」
シャクヤクは、指を折りながら名前を挙げていく。
「ロジャーと貴方。白ヒゲ、カイドウ、リンリン、シキ。
ジョン、王直と銀斧……。あぁ後はガープと、センゴクとおつる」
「今となっては殆どが懐かしい名前だなぁ」
海賊王であるロジャーが、海賊王としての名を広める以前の世代。
今となっては殆どが伝説と化している年代の男女達。生きている者、死んでいる者、そして最近生死不明の状況へと墜ちた者。その生き残っている僅かな者達に、レイリーとシャクヤクも入っている。
この世代にしか、この『悪寒』も理解する事は難しい。
一つ下の世代である、現行の大海賊達や、海軍大将・中将達も、辛うじて名前は聞いたことがある程度の者達しかいない。そして、大海賊時代へと突入して年月が経ち、この大海原を暴れ回る十把一絡げの海賊達の中には、もはやその威名も、恐ろしさも知らぬ者が増えすぎた。
形骸化という意味では無い。
当時の海賊・海軍双方で、奇妙な一致であるが"封殺"したのである。
名が広まる事が無いように。
その行為が知られる事が無いように。
アレに従っていた事を忘れ去るように。
あの顔も、声も、一挙一動も。すべて歴史の彼方に葬り去る。
「アレが正解だったのだ。他にどうしようも無かった」
「よく知ってるわ。貴方もあの船長も、よくやった。そして、ガープも」
「当時の白ヒゲ達もだ、シャッキー」
「前にも話しただろう。
ロジャーや私達、ガープの奴が見た、アイツの最後を。
……あれでまだ生きているというのなら」
レイリーは、窓辺に浮かぶ月へ目をやった。
「私達の知っている