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俺には名前が無い。
孤児だとかそういう類いのものではなく、生まれた当初から
ごく一般的な医者の家に生まれ、姉妹には名前が与えられた。心の底から、羨ましいと思い、かつ憎悪したあの瞬間の事は今でもよく覚えている。
名前というのは、存在を表す単語。それをソレと定義する最初のシンボルだから。
故に俺には、俺を確固たるものとする最も大事なものを持たずに生まれたという訳だ。それを誰かに語る術も、俺には与えられなかった。俺の声は、親父に届くことは無かった。助けを求めたとしても、おふくろに届くことは無かった。聞き入れてもらえなかったのだ。
眠る事すら出来ないまま、映画を見ているような気分だった。
しかも、出入り口は溶接されているときたもんだ。真っ暗闇の中で、一人称視点の映像作品を見させられている。この胸くそ悪さに比肩するものとは、一体なんなんだ?
姉妹が始めて立った事に感動する親父とお袋。そこに俺はいない。
姉妹が始めて言葉を発したあの日。そこに俺はいない。
姉妹が教師にその頭脳を褒められた記念日。晩餐会。そこに俺はいない。
医師として自立したあの日。それまで姉妹がお世話になった人達が祝いの言葉を家族に投げかけている。
―― そこに俺はいない。
「……クソが」
そう吐き捨てた所で、聞いてくれる人はいない。聞こうにも、聞こえないのだから仕方が無い。泣いても喚いても、両親姉妹に俺の言葉は届かない。決して。
この映画館の居心地は、そう悪いものでは無かった。それは確かだった。幸いな事に、俺と姉妹の嗜好は一緒だった。殆ど何もかもが。
好きな本、好きな音楽。好きな科目。好きなにおい。好きな料理。
姉妹と一緒に味わうそれは、悪く無かった。それは救いだったと思う。これが無ければ、きっと俺は狂ったままこの闇の中で消えていた事だろうから。
ただ一つだけ、一緒じゃなければ良かったと思った。
何で、姉妹と好きになる人まで一緒になるんだろう。
『い、一緒に鍛錬でもどうですか!?』
『……はぁ?』
『『 迷った末にそれか大馬鹿者ぉっ!! 』』
こんな馬鹿馬鹿しいお誘いをする、筋肉ダルマは初めて見た。きょとんとする姉妹を余所に、お仲間らしき男女に頭をはっ倒されていたその男。海兵だと名乗っていた。
カッコイイかと言われれば、人によるというのが正直な所だろうが、俺にとっては最高の顔だと思った。真っ赤になって、必死になって考えて出てきた言葉が"鍛錬"となってしまうような、不器用な所も素敵だと思った。
そんな愚直さは、俺には無かったから。
自分の芯に立つ柱を曲げず、時として上に逆らってでも自分を貫くその頑固は眩かった。怪我をしても、心配かけまいとやせ我慢して見せる笑顔は、太陽のようだった。
「……なんで、俺じゃないんだ」
何で、姉妹なんだ。彼と出会ってから姉妹への憎悪は増した。
俺は、誰にも気づかれない。親父にも、お袋にも名前を与えられなかった。姉妹の影にひっそりと押し込められた、隠れて生きている存在なのだから。せめて、この光だけでも俺に向けて欲しかった。でもそれは叶わない願いだ。
俺は、彼にも知られていない。一緒にトリオを組んでいる男女にも、気づいてもらえない。彼に笑顔を向けて欲しい。声をかけて欲しい。手を握って欲しい。抱きしめて欲しい。俺の事を知って欲しい。左目の側に入った傷も愛おしい。彼にさわりたい。
暗闇のなかに映っている、出来の悪い映像の中にしか彼はいない。
そして姉妹に、彼はこう言った。
『俺と、結婚してください』
膝をついて、真っ赤になって、銀色に光るモノが入った小箱をかざす彼。勿論、相手は俺では無い。憎い、姉妹だった。
「……なんで」
視界が歪んでいく。嫌だ。俺の人生こんなのばっかりだ。
お前は何もかも、手に入れている。俺には何も無い。名前も、親父も、お袋も。友達も、知人も、恩人も、みんなお前のモノ。そして彼も。
「ふざけんな! ふざけるな! 何か一つくらい俺にも分けてくれたっていいじゃないか!」
この叫びは誰にも聞こえる事は無い。この胸くそ悪い、目をそらすことも許されない、出来の悪い映画は何時終わるんだ。
俺にもすこし寄越せ。狡いぞ、姉妹のお前ばっかり。
「―― 畜生!」
地べたを、蹴った。その時の事だった。背後に一筋、光が差した。暗闇の中、映画館の入り口の方向からだ。おののきながら近づいていくと、今まで閉ざされたままだった扉が、半開きになっていた。
ここから出られる?
おそるおそる、扉に手をかけた。凄まじく錆び付いた思い扉だ。
全身の力を込めて、俺はその扉を押し開く。すると光は段々と大きくなっていって、まぶしさに思わず眼をつぶった。
どれぐらいの時間が経っただろう。
ゆっくりと、目を開ける。
鼻腔を、"臭い"というものがくすぐった。周囲から聞こえてくる"音"とは、こういうものなのか。そして肌を撫でる"感触"の新鮮さ。眼に入ってくる"光景"は、こんなにも鮮やかなものなのか?
クソみたいな映画の景色が、全て
これは、何だ? 俺は一体どうしたんだ?
そして今俺が両の手で持っているのは、作りかけのぬいぐるみだった。
『楽しみにしてて、子供と遊ぶ為のお友達を作ってるの』
『帰ってきたら見せてくれ! 息子の最初の友達だからな』
『もぅ、まだ息子って決まった訳じゃないのよ?』
あぁそうだ。そうだった。この忌々しい姉妹が、来たるべき
「……クソが」
引き裂いた。床の上を転がる糸玉と、はじけ飛んだボタン。
コレは、姉妹と趣味が合わない所だった。彼は生き生きと何を話していたと思っているんだ。海に出て海賊を取り締まる事とか、幼い頃から虎と生身で戦ったとか、そういう事が彼は好きじゃ無いか。
――『戦い』が
喜ぶと思うのか、こんなモノで。
俺なら、彼が踊り狂うようなモノを用意出来る。きっと、彼も喜んでくれる。
ぐるりと周囲を見回して見る。ここは、そうだ。姉妹が彼のプロポーズを受け入れて、婚約した後に移り住んだ新居。愛の巣という奴。吐き気がする。俺のモノでは無いのに。
近くのカウンターに、写真立てがある。彼と姉妹が頬を寄せ合って笑っている。はらわたが煮えくり返りそうだ。思い切り、殴りつけた。
右手を、鋭い"痛み"が走る。これが、【痛い】ということか。掌を見る。右手に大きな切り傷が出来ていた。硝子で手を切ったようだ。こんなにも、手とは脆いものなのか?
忌々しい。忌々しい。忌々しい。
親父もお袋も、コイツも、友達だとか言っていた連中も、先生とコイツが言っていた奴等も全員憎い。消えてしまえば良い。
この
だが今はどうだ?
そうだ、今はチャンスじゃないか。やっと俺は、彼と言葉を交わせるんだ。
いっぱい
どんなお話をしようか。心が浮き立つ。
こんな軽やかな気分は初めてだ。彼が俺を見たら、どんな顔をするんだろう。まずは自己紹介からだな。
俺は――
そこでまた、気分はどん底に墜ちていく。
「今戻ったぞ~♪」
俺は……名前が無い。
「ただいま……っ!? お、おい! これは一体どうした!?」
「あっ……あ……」
お帰りなさい? それとも初めまして?
声をかけようとした時、また目の前の光景が変わっていく。廻りに闇が増えていく。
止めてくれ、嫌だ。俺は……やっと彼とお話を……
俺の名前は……名前は……
誰か俺に名前をくれ