~ テイワ=ラグ島 ~
―― 天が奈落に変わったかのようだった
ウタとナミは、いつの間にか空の色が一面の蒼から紅へと変貌していた事に度肝を抜かれる。偉大なる航路、そして新世界は磁場の影響で天候が非常に移ろいやすいものだが、空が赤く染まるのは始めてである。
一体全体、何が起こったというのだろう。下では、新たな異変が港で起きて、それがまさにサニー号での事だと聞く。2人も気が気では無かった。チョッパーは下でジブの手伝いをしている上、ルフィは何も言わずに屋上へ行ってしまった。
「不気味ね。サニー号でブルックが襲われたって言うし」
「ルフィも、一体どうしちゃったんだろ」
不安が消えるどころか、刻一刻と経つ間にどんどん増えていく。
ゾロとロビンも下にいる。これから何が起こるのか解らず、1階で警戒しているのだそうだ、それはチョッパーが上がってきた時に聞いた。ルフィの事も無論心配だが、ジブも調書を取っているのだそう。その裏付けとして、チョッパーは証言してきたと言う。
「多分、2人も何か聞かれると思う。すげぇ圧のある隊長さんだった」
調べが入った。そうするだけの事が外では起こったのだ。他ならぬナミは被害に遭った当事者でもある。
「ジブ先生に、何の疑いが?」
「ブルックを襲った奴、先生の服を着てたんだって。その時間、俺と一緒にナミに寄生した生物を調べてたから、犯行のしようが無いって事は話したぞ」
「そうだよね。でも疑われるのも仕方無いのかなぁ」
「隊長さんも言ってた。この10年、ずっとそうしてきたんだって。
ゾロとロビンも、無理も無いなって……あの隊長さんの味方みたいだ」
「2人は何て?」
「調書取り終わったら、ゆっくり話すって」
気が気では無い。ナミは自分だけで無く、ルフィに現れたという一抹の変化がどうにもひっかかる。ウタとしては、養父であるシャンクスが自分をこの島に預けるに至った真意も気になるが、先ほどのルフィの顔に出ていた表情が脳裏から消えてくれなかった。
ウタの手が小さく震える。彼が、自分の知らない間にどんどん成長して、旅してきた事を知った上でなお、怖いのだ。見たくない彼の顔だったから。表情が無かった。少なくともウタにはそう見えた。
(あれは、ルフィだけどルフィじゃない……なんで?)
ナミは、ゆっくりとベッドから降りて、ウタのそばに寄ると彼女の手を握った。彼女が抱えている不安はナミも同じである。
「大丈夫、アイツはどんな時だって最後に乗り越えてくる奴よ?
未来の海賊王なんだから」
「そう、だよね。うんっ!」
ほんの少しばかり、気持ちを取り戻す。彼は良い仲間に恵まれたんだなぁという気持ちがあって、羨ましくなる。しかし、彼の事をきっと今の自分より理解しているであろうナミに対しての、僅かな嫉妬をひとつまみ。
それは心のささくれをつっついてくる。だがナミのその言葉は、自分自身を落ち着かせる意味も持っていた。それをウタは感じ取る。ナミの手も不安で震えていたからだ。
その時、
―― ガシャン
と下から音が聞こえた。
「先生、先生!?」
隊長らしき男の声が聞こえる。ウタはよろりと立ち上がる。ナミはウタに肩を貸し、チョッパーが先に降りていった。階下では、ジブが膝をついている。窓から差し込まれる紅色の光を浴びたのか、横顔が赤い光に照らされている。
外を警戒しに行ったのか、自警団は隊長以外の者達を周囲に散らしていたようだ。
隊長と、ゾロ、ロビンがいる。ロビンがジブの身体を能力を発揮してささえているのがわかった。地べたに身体を打ち付けないように。
「チョッパー、彼女を!」
「わかった!」
ロビンの言葉にすぐチョッパーは応じた。崩れ落ちそうになっていたジブを、待合室のベンチに座らせて、荒い息を吐く彼女の容態を見た。
目の焦点が合っていない。
何か恐ろしいモノを見ているように、冷や汗があふれ出て、呼吸もまばらになり、全身に震えが見られた。胸を押さえていて、胸部・腹部の不快感に耐えているようにも見受けられる。典型的なパニック症状。
「Dr? Dr!? 聞こえるか?」
「 あ ―― あ ―― 」
かちかちと歯を鳴らして、何かを聞くまいと耳を両の手で塞いで、よりいっそう震えが非道くなる。チョッパーだけで無く、ウタもジブへと駆け寄った。短い期間で、職務上のものであったとしても、間違い無く彼女はウタにとっても恩人なのだ。
「先生! 先生!?」
「ち、違……そんな……私……」
ジブには今、何も見えていないようだ。目の瞳孔の開き方もおかしい。
一体、何を見ている?
何を聞いている?
それが彼女をおかしくしているのは間違い無い、きっとこの赤くなった空が関係しているのかもしれない。チョッパーは必死に頭の中で"どの病"に当たるのか、考えを巡らせる。
パニック症状が発作的に起こっているとして、それは心理的・物理的なストレスによるものが原因であるのが殆どである。今まさに島で起きている状況が積み重なったのであれば、10年分の蓄積とも言えるのだろうが、それを踏まえても変だ。
「ヒュ……ヒュ~……ヒュ……」
息が細くなっていく。それに引き寄せられたかのように、2階から降りてくる影が一つ。
ルフィだった。ゾロが降りてきた彼に、
「ルフィ、今まで何処行ってたんだ?」
と、普段の彼からしてみれば"お前が言うか"という言葉をかける。だが今はそうもいっていられない。天が赤く染まり、船で襲撃が起き、死体が出て、医者が体調を崩す。怒濤のごとく、次から次へと起こる珍事を思えば。
ルフィは、ゾロ、ロビン、チョッパー、ナミ。そしてウタにも、何も言わずにジブへ近づいた。震える医師の肩に手を乗せ、顔をのぞき込む。
「る、ルフィ?」
ウタは、おそるおそる、不審な挙動をする彼に声をかけた。声へ反応するかのように、ルフィは振り向いて彼女を見る。感情の無い機械の如き動きであった。目には何も映っていないように見えた。
一味の皆も、ウタも、初めて見る顔だった。
本当に、何も思っていない、怒りだとか焦りだとか、喜びといった起伏が一切無い、フラットな顔つき。タダひたすらに淡々と動く。そんな感じ。
「ねぇ、ルフィ……変だよ?」
「どうにも」
返答にも起伏は無かった。そう聞かれたらそう返す。
あらかじめ決められた返答を返す。
おかしい。ルフィという男はこんな無表情に、冷たい言葉で対応する男では無い。相手によっては冷淡な反応を示す事はあるが、それは大抵外道な敵を相手にした時である。一味の仲間や、それこそウタ相手にこんな対応をとる事など決して無かった。
そう、今まで無かった。
いよいよ確信する。
変になったのはジブだけでは無い。
ルフィはジブを抱きかかえて立ち上がった。
その場にいる大半が、事情を受け入れられないのが半分といった感じで咄嗟の判断が遅れた。ただ2人、ゾロと自警団隊長:クリスは動くのが早かった。
「「 動くなっ!! 」」
声を放った対象は、ルフィだ。
ゾロは刀を抜いて、ルフィに突きつける。クリスは"ルフィの身体"について知らないため仕方が無いが、左手に逆手でナイフを構え、右手にピストルを持ち彼との距離を詰めていく。
無論、抑え付けるためである。特にゾロはこれ以上変な事をしないでくれと、心中で何度も何度も祈りながら。この異常な局面において、多少の暴力はやむなしと即断したのだ。まだゾロとロビンは、門の向こうの光景を話していない。
門の向こうで出会った『ピアーズ』という鳥人間が言っていた仲間の異変。
そして今まさにルフィに起こっている異変。これが同じだと言うのなら最悪の事態が起ころうとしている。
「お、おいゾロ!」
チョッパーの静止する声も、今は聞かない事にする。
我らが船長の顔には、今感情が何もない。何も感じていない。刀を見ても何も思わない。きっと、自分が傷つこうがどうとも思わないだろう。
誰にやられた? 何を目的に?
周囲にも気を配らなければならなくなった。きっとこの医院をどこかで見ている奴。もしくはこの中にいるのだ。ルフィに
ルフィが、窓の方を見る。紅色の空に、渦が巻き始めたように見えた。
「 来た 」
「 来た 来た 」
「 来た 来た 来た 」
その単語だけを繰り返す。その時、ルフィが腕に抱えていたジブの――
「……ガフッ」
口から赤黒い液体が噴き出した。血だ。
目が左右独立したように、方々に視線が動いているのがわかる。
手足がけいれんし始める。それでもなおルフィは彼女を放さない。
「ルフィやめて! 先生が死んじゃう! ルフィ!!」
「……このバカ、何に憑かれやがった!」
「すまんが君らの船長を抑える!」
ゾロとクリスが距離を一気に詰めようとした。それを察知したかのように、ルフィは大きく後ろへ飛んだ。階段の踊り場まで跳躍して。
ジブのけいれんがいっそうひどくなる。
「嫌……死にタクナ……」
あぶくのなかから微かに聞こえる声。懇願に似ていた。
まるで先ほどから彼女に
そしてルフィの腕の中で、ジブは動かなくなった。
だらりと腕が垂れ、目元、鼻、口から血が出ていた。
"ジブ"というモノを形作っていた証を、不要な残りカスとして排出するように。
「――ッ」
ウタは、声にならない悲鳴を上げて膝を突いた。信じたくない光景だった。
彼が、腕の中で人が死ぬまで待つという事態。フーシャ村の少年・ルフィでも、12年越しの再開を果たした、青年・ルフィからも考えられない行動。
アレは一体、何だ。
一味の皆の気持ちも同じだ。紅色の光を背中に浴びる船長の姿。腕の中で息絶えた女医。その女医から流れ出ている血を、ルフィは丁寧に拭いてやっていた。
「 来た、センセ。来た 」
「 聞こえているぞ、騒々しい 」
「「「「「「 ――っ!!? 」」」」」」
常夜の奥底、深淵から突き出てきた手が、心の臓を握りしめる。そう錯覚する程の圧迫感が医院にいる人間全てに襲いかかった。その手がゆっくりと、身体を下へ下へと引きずり下ろそうとしているかのようだ。どんどん、その場にいる皆の身体が重くなっていく。
いや、重くなったのでは無く、力が抜けていくのが正しい。
気を当てられたのだ。
ルフィの腕の中にあった筈の、ジブの身体が浮いていた。
稼働を停止したはずの肉体が、また動き始める。腕がぴくりとうねった。足先を曲げ伸ばしして、両肩を交互に動かし、腰を回したり。動作確認をしているのがわかる。
ソレは、姿勢を正した。淡い光が、自ら肉体から発せられ始めたかのような感覚。
その光は宝玉のような優美さを持ちながら、くりぬかれた臓腑の如きおぞましさを有している。
一度閉じていた
瞳の色は金色。
髪毛にも変化が現れる。波打ち始める髪の中に金色が混じり始め、黒と金をもって、まるで紅に輝いているかのようだった。業炎がたなびいている、そう見えた。
肌も、少し血色の変化があり、細工物のように艶やかな光を反射し始める。動きから体つきに至るまで、全てに優美が共についてくるような感覚。
そうでありながら、そのあり方全てに吐き気を催す。それも確信をもって言える。
あざやか、煌びやか、優美にして高貴。相対するだけで心穏やかになってしまいそうな程の神聖さを帯びながらもなお、地の底どころで無い深淵の彼方よりわき出る穢れ。
――"邪悪"
ゾロ、クリス、ロビンは辛うじて耐えた。
ナミ、チョッパー、ウタは押し潰されそうになっていた。心が、だ。
「なぁお医者さん! 一体どういう事だこれは?」
「お医者?」
ゾロが言った。ゾロへを目をくれたソイツは、首をかしげた。一体誰の事をさしているのかを考えているかのように。すぐに合点はいったようで、軽く手を合わせて答えた。自分自身が身に纏っている衣服を引っ張って、
「……あぁ、
どういう事かと聞かれれば、そうだな。
ただ存在するだけ、ただ喋るだけで周囲に怖気をまき散らす。
これ程の存在でありながら、『赤髪のシャンクス』がそれに気づけなかった。
「哀しいかな、私はそこらの者共と比べてかくれんぼが苦手でね?
昔から海賊や海軍の連中にすぐ気づかれるんだ」
よくよく考えればそうだ、可笑しな話である。何故あれ程の人物が気づけなかったのだろう。
「だから、"人"を表面に代理で立たせたんだ、よく出来ていただろう?
悪い事をしたとは思うさ、その……君らが"ジブ"と呼んでいた女は
意識があって、自分で考えて、したいように医者をしていたからね」
外道。そんな言葉しか出てこない。
「誰も気づかなかった。そりゃそうだ、"心優しき女医・ジブ"なんだから。
『慈愛で名高いシスター』、『献身的な看護師』、『のどかな村の村長』とか、そこらをつぎはぎしてこしらえたものだったが、正解だったようだ。なぁに、医者としての知識と経験は紛れもなく『私』のものだから、ヤブでは無いぞ?」
「「 お前(貴様)は、誰だ 」」
ゾロとクリスの口が揃った。押し潰されそうな圧力の中で立ち上がる2人の男を見て、嬉しそうに"ジブだったもの"は微笑んだ。
「どうとでも? ……でもそうだな、世間的に言えば」
聖母のような笑みだった。
魔王の如き微笑であった。
「【ロックス】とでも呼んでくれ」
そしてその存在そのものが、悪夢であった。