~ 51年前 ~
―― これは何かの悪い夢だ
若い3名の男女が、目の前で起こった出来事のあまりの受け入れがたさに、口を開けて固まっていた。
それぞれの名を、ガープ、つる、センゴクという。皆海軍に在籍しており、20代後半という若さでありながら佐官だ。将官の地位も目前かと噂されていた新鋭達。今日は皆が非番だった。
「ジェーニャ、嫌……」
つるの頬を、涙が伝う。休暇を取って、ガープの家族旅行を案内していた。海兵という職務上、纏まった休みを取ることは難しい。特に、期待されている若者となれば必然と。寂しい思いをしているかもしれないと、気に病んでいたガープを組んで、任務中に見つけた観光地で羽を休めようと提案したのは、つるだった。
どうしてこうなった?
センゴクは、水入らずの空間を作るべきだろうと、『仕事脳』になってしまう情報をあえて絶った。ガープの性格からして、海賊出没だとかそういう時はきっと、真っ先に先陣を切っていってしまうだろう。若妻と4才の子供を置いて。
故に、脳裏から自然と"仕事"に携わる事を外してしまっていた。若さ故の油断と言えばそこまでだが、原因は自分にあると思っていた。
どうしてこうなった?
ガープは、周囲を取り巻いていた異常な空気に気づけなかった。
いや、気づかないように周到に張り巡らされた蜘蛛の巣、その真ん中に立ってしまっていたと気づいた時には、もう遅かった。
早くても数ヶ月おきでしか会えない妻子と、かけがえのない友と楽しむ旅行だったから。
忌憚なく冗談を言える親友達、そして会う度に大きくなって、将来が楽しみな息子。何より微笑む妻の顔。幸せとはこういうものを言うのだと。そして、そんな幸せを踏みにじる悪党達をぶっ飛ばす活力を補給する。
そんな数日間にする筈だった。
筈だったのだ。
< ―― 今だっ!! >
狡猾、邪知奸佞が代名詞の海賊【ロックス・D・ジーベック】が現れたのである。
そうだ、こういう奴だったでは無いか。周囲の店という店から飛び出してくる海賊達。殺気すら感じなかった。ついさっきまで、普通にお客と応対していた店員から、観光客の姿をした男女に至るまで、奴の手が及んでいた。
この場所で、自分達がノコノコやって来るのを、待っていたのだ。
何処から漏れた?
今回の休暇は、今彼らが詰めている海軍本部の同僚、直の上司や部下しか知らない筈なのに。それも、考えるまでも無かった。彼らの誰かとも奴は繋がっていたのだろう。
「待ってたぞぉ、ガープ♪」
そう言って奴が銃を構えるのと、自分が飛び出すのが、ほぼ同時だった。
左右を囲もうとしていた連中に、センゴクとつるも向かい合う。左右の連中がガープの妻子に危害を加えぬように。
そして真っ直ぐ、ガープは突っ込んだ。力を振り絞って、"拳骨"の名に恥じぬ一撃を奴に振るわんと。だが奴は何度も見てきた、むかっ腹の立つ笑い顔のまま、銃を抜いて構える。狙いは……自分では無い。銃口が向いているのはガープの肩の向こう側。
―― パァン
全てが、ゆっくりに見えた。狙いが解った。対応しようと咄嗟に手を出した。
進んできた弾丸が、防ぐべく構えた右手の指の間をすり抜けていくのが、とても、とてもゆっくりに見えた。
何故、握り拳を構えなかった?
咄嗟の事で判断が鈍ったか? なぜ不用意に飛び出した?
すり抜けていく弾に視線が吸い寄せられる。向かう先は他でもない。
愛する妻、ジェーニャ。
待ってくれ。やめてくれ。
止まれ。止まれ。止まれ。
どうしてこうなった?
つるとセンゴクも、彼女を庇おうと動いたがもう遅かった。友の愛する人を、そして同性の友人を、大切な人を。全てが悪い方向へ動いている。それが3人の心にヒビを入れていく。
((( 俺(私)のせいだ…… )))
「……あなタっ」
弾丸が、ジェーニャの右目の上辺りを捉えた。頭部にめり込んでいく弾、衝撃で飛び出しかける右の眼球、そして飛び散った血しぶき。すべてがゆっくりに見えた。しぶきは、彼女の脚にしがみついて震えていた息子の顔に、ぱたたとこぼれていく。
「おかぁ、さん?」
息子は、理解が追いついていない様子だった。力なくだらりと下がる母の手を見る。頭を打ち抜かれた母の身体がゆらりとその場で揺れるのを見上げていた。
どんな力が働いていたのかはわからない。妻の身体は倒れ込む事も無く、その場に立っていた。意識は既にないのだろう、眼からは光が消えて虚ろになっていた。
「ジェー……ニャ」
「――っキッヒ! ヒハハ! ハーハッハッ! ハハッ!」
ロックスの哄笑が響いた。だがそれも耳には届かない。絶頂からどん底にたたき落とされる感覚に、3人の思考が一時的に止まってしまったから。周囲の海賊達は、さんざ自分達の邪魔立てをしてきた海軍将校の、あっけに取られた顔がツボにはまったらしい、皆が皆、ガープを、つるを、センゴクを指さして笑った。
「「「 ――っハハッハッハ 」」」
ここまでは、ロックスの計画通りだった。
ここまでは。
怒った彼奴等に正面切って勝てるとは最初から思ってはいない。頭に血が上るであろうコイツ等を狩る事が出来れば上の上であろうが、様子を見てからにしなければ。
しかし一つ計算に入れていない事があった。知りようが無い事であったから、計算に入れるも何も無いのだが。
「おかあ、さん……?」
息子、ドラゴンが、力なく立ち往生した母親を見上げて、再度言葉を発した。
最初は、親の死に目を信じられないガキの言葉だと、周囲の海賊は思った。それであればどれ程彼らにとっては良かっただろう。
「さて、今度はお前……等……?」
周囲の海賊達までも、固まった。
なんだあれは?
打ち抜いた女の頭に、どんどん赤黒い風船が出来ていくのだ。弾が当たった傷跡からふくれあがっていくソレは、人間の頭くらいの大きさになっていく。脚が動かない。もしやあの女は悪魔の実の能力者だったとでも言うのだろうか。
しかし、あんな能力は聞いた事も無い。"自然系"ならそも形態変化して銃弾は効いていない筈だし、"超人系"であったとしても変だ、弾は当たった。血も出た。
考えを巡らせていたロックスの目の前に、その赤黒いソレは
瞬きをする間すら無く、いきなり。赤黒いソレの中から、得体の知れない圧迫感を感じる。底冷えするような恐怖と、それでいて美しさを有する輝き、そしておぞましさを両立している何かが。
「お前等! 何してるコイツを撃――ビュ」
―― バクン
ロックスの上半身を、一口でソイツは喰った。
周囲の海賊達、そしてガープ達も、何が起こったのか理解が追いつけずにいる。
赤黒い液体が、ロックスの全身を喰った頃、奴の後方に控えていた海賊の1人が、ようやく我を取り戻して行動した。
「バケモノがっ! 【スラスラの虎挟】!!」
スライム人間。身体を粘性の粘りけある物質へ変質させる厄介な能力者。ソイツがジェーニャの足下を捉える。左足を捕らわれ、ソイツに銃を向けた能力者だったが、またも意表を突かれた。まだ自由が利いた右足で、足にまとわりつく粘液を踏みつけたのである。
右足は、黒く硬化していた。
「……は、"覇気"なんて使え……ビッ」
能力を使う次のタイミングは来なかった。粘液全体を覆い尽くす程にふくれあがった赤黒いモノが、ジェーニャの身体と、ロックスの残りカスと、その能力者だった身体全体を覆い尽くしていく。
恐ろしい事が起きようとしている。
周囲の海賊達全体が、半狂乱となった。とんでもないバケモノだった。とんでもない女に手を出した。逃げようにも逃げ道を塞ぐ程に大きくなっている赤いモノ。手にしている銃を、斬弾が尽きるまでその赤黒いモノへ放つ。弾が尽きた海賊は剣を抜いて、赤いモノへと切りつけ、突いた。
恐ろしい事が起きようとしている。
つるが、ドラゴンを抱き寄せて目を塞いだ。少年は呼吸が乱れている。他ならぬつる自身も。センゴクは、目の前で起こった事の整理が付かず、足下がふらついている。ガープは、妻に起きた変事を理解しても、呑み込めなかった。呑み込める筈も無かった。
<―― あなた♪ >
ついさっきまで、そういって笑っていた妻がいない。
頭を打ち抜かれる妻の姿。そしてほんの一瞬で恐ろしい何かへと変じた妻。あれはきっと【実の覚醒】だと理解する。だがこんな形であって良いはずが無い。
―― これは何かの悪い夢だ
恐ろしい事が起きようとしている。
赤黒い何かが、蠢いた。そして、四方へと粘性を帯びたかのように広がった。海賊達の多くがそれに巻き込まれた。
「「「 ギャアアアァアァア ―― 」」」
次いで聞こえてきたのは悲鳴。そして、ガープは受け入れがたい光景を目にする。飲み込まれた粘性の赤黒いものの中から、"ゴリゴリ"と音がする。
咀嚼音だった。
人を、喰っている。耳を塞ぎたかった。海賊達も同様だった、そして凶事を目の当たりにして周囲の建物に立てこもっていた住民達も同じだったようだ。窓をしめる音、駆け出し始める音が聞こえる。
「ば、バケモノ!!」
「逃げろ! 船長も副長もやられた!」
バケモノじゃない、ジェーニャだ。
ガープは呆然と、蠢きながら周囲へ恐怖をまき散らすモノを見ていた。ソレは逃げ惑う海賊を飲み込んで、喰っていく。建物へへばりついたと思ったら、窓の割れる音と、女子供の悲鳴が聞こえ、そして消えて行く。
―― これは何かの悪い夢だ
建物が崩落して飛び出したソレが伸びている先に、逃げだそうとしていた海賊や、住民達がいる。それらを巻き込みながら、どんどんソレは海の方角へと向かっていく。
「ま、待ってくれ! ジェーニャ! ジェーニャ!」
「止まって! ジェーニャ、待って!」
ガープ達はやっと脚に力が入るようになった。皆の眼から涙が溢れ出てくる。どうしてこんな事になってしまったのだろう。
休暇に行こうと言わなければよかった?
水入らずの旅行にしようと思わなければ良かったのか?
息子の4つを数えたお祝いに、観光をしようと思わなければ?
幸せを享受しようと思っただけじゃないか。
―― これは何かの悪い夢だ
「ば、バケモノがこっちに来るぞ!」
違う。ジェーニャだ。俺の愛しい妻だ。
「人を食ってる、こ、怖い!」
違う。その子は私の親友で、医者で、人の命を助ける仕事をしているの。
「海賊共が呼び込んだのか!! 誰でも良い、怪物を止めろ!」
違う。その子は我が友のかけがえのない妻で……
「嫌ぁ! ウチの人を返して! 返してバケモノぉ!」
ちがう、その人は僕のおかあさん……
「「「「「「 バケモノ!! 」」」」」」
船着き場に停泊していたある船に、海賊達は逃げ込んでいく。
その船に、赤黒いモノが着弾した。マストには【ROCKS】の文字があった。
『ろっく……す……ロックス……ロックス……』
赤黒い何かから、声が聞こえる。
愛しい妻の声。
大切な友の声。
おかあさんの声。
「待って、くれ。ジェーニャ。待って……」
『ロックス、か♪』
船の上で、
人の形に戻っていく。妻の、友の、母の姿に。
ただ、振り返った顔には、何も無かった。妻も、友も、母も。
―― あぁ、これは何かの悪い夢だ