【習作】IS/C~Ichika the Strange Carnival   作:狸原 小吉

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金髪さん現る。

皆なにかを抱えて生きている。


第3話 「金髪との遭遇」

 夕時。

 

 島を囲む海の先――水平線に沈んでいく日に照らされて、IS学園は夕暮れの赤色と校舎が纏う影に包まれている。

 

 近代的なデザインの建造物が多いIS学園ではあるが、夕日に染まり影の色を徐々に濃くしていくその姿は見る者に――――少なくとも一定数の日本人に――――寂寞感を感じさせる何かがあった。

 

 そんな学園の一角――――広大な敷地から成る実技試験場に乾いた音が響く。知る者にその音が何かと問えば『銃声』と答えるであろうそれは、一発ではなく幾ばくかの感覚を空けながらも連続して響いている。

 

 音は銃声ばかりではない。物体が高速で飛翔することで揺れる大気の音。金属のような硬質の物体が何かにぶつかったような甲高い音。ざりざり、と擦れて削がれる硬い土の音……と挙げていけばきりがない。

 

 実技試験場は主に二つのエリアから構成されている。建造物もそれを囲む木々も無い整地された土地のみのグラウンドと、周囲を外壁と膨大な客席に囲まれるようにして楕円形を形作っているアリーナだ。音はそのうちのアリーナ側から生じている。

 

 ISの競技が行われるアリーナの地面。そこより高い位置にある無数の観客席。音の主はそれらとほぼ同じ高さで浮遊している人型――――パワードスーツIS(インフィニット・ストラトス)・ラファール・リヴァイブだ。そして、濃紺の装甲に『疾風』の名を冠するその仏国(フランス)製の量産型ISを纏うのは金の長髪の少女だ。

 

 少女は手に握られたIS用に調整された自動小銃の銃口を油断なく地上へと向けると、意志の強さが光として点ったような碧眼の片方を静かに閉じ、躊躇いなく引き金を引いた。

 

 

 と、

 

 

 銃口から高速で吐き出される弾丸。続くのは硬い物体が大地に衝突する鈍い音。それと同時にアリーナの中央に土煙が生じると、少し遅れて再び無数の銃弾がその土煙をさらに濃くするかのように中空に一瞬の軌跡を残して撃ちこまれた。

 

 弾丸が土を穿つ音と硬いものに衝突する音が鳴り、周囲に土塊が飛び散る。

 

『容赦』という言葉は一切見られない銃撃は唐突に止み、アリーナには抉られた土が崩れる微かな音。

 

 静寂、とまではいかないまでもさきほどまでの騒音とはうって変わって、アリーナで動くのは土色の大気のみ―――――――と思われた。

 

 小銃を下ろしかけていた少女の口元が不快そうに歪み、その視線の先に変化が生じた。

 

 ギ、と金属が軋む音。それより数瞬の後。夕時の暗さと相まって見る者の視界を妨げる土色が、その内部から飛び出した鉛色の腕に払われ弾けるように霧散する。

 

 生身の人間にはあり得ない速度と力で振るわれたその腕が視界を開き、現れるのは鋼の人型――――純日本製の第2世代IS・打鉄(うちがね)だ。攻めよりも守りに特化した防御型の基本性能と、派手さは無いが抜群の安定感を誇る量産型ISであるそれは、傷一つ無いその姿をもって己に与えられた評価に恥じない力を示した。

 

 そのことに、ふう、と安堵の息を吐く者がいる。

 

 打鉄を纏いアリーナに立つ少年、織斑一夏――――――――の姿をアリーナの客席から盗み見る少女、篠ノ之箒である。

 

 自分の姿を客席の背もたれに隠すように身を低くしながらも、その視線は一心にアリーナ中央で向かい合う二機のISに向かっていた。

 

 そんな彼女の視線を気にした様子も無く、静止していた濃紺と黒のISは再び動き出す。両者の動きは極端なものだ。

 

 打鉄はただ愚直に真っ直ぐに。

 

 ラファール・リヴァイブは一定の距離を保つよう慣れた様子で後ろへと。

 

 続く光景は小銃より放たれる銃撃。それを躱そうとし、しかし逃げきれず被弾する黒色の装甲。

 

 そのことが箒の表情を不安と、同時に不機嫌な色も雑じった複雑なものにする。

 

 不安の正体は目の前の戦いだ。

 

――――だ、大丈夫なのか一夏?

 

 素人目に見てもこの二者の戦いで優勢を誇っているのが彼女の幼馴染である一夏ではなく、ラファール・リヴァイブを纏う金髪の少女であることが理解できた。それが彼女の眉尻を下げさせている。

 

 それに対し不機嫌の正体は――――やはり目の前の戦いだった。

 

――――どうしてそんな女と訓練をしているんだ一夏!

 

 6年ぶりに再会した幼馴染である一夏。彼に対する様々な感情で渦巻く箒の心は、本格的な試合形式の厳しい訓練とはいえ放課後の人気の無い時間に男女二人という幼馴染の状況によって一層複雑さを増していた。それが彼女の口元を不機嫌そうに曲げている。

 

――――どうしてこんなことになっている……。

 

 今、自分が一夏に向けている不機嫌の感情が理不尽なものであることをどこかで感じながら、箒は自分が見たここに至るまでの経緯を思い返した。

 

 

 

 

 

 

 第3話 「金髪との遭遇」

 

 

 

 

 

 

「ちょっとよろしくて?」

 

 一人の金髪碧眼の少女が放ったその一言は、1年1組の教室に本日何度目になるかもわからない静寂と、その後に続くやはり何度目になるかわからないどよめきを与えた。

 

――――学園生活初日で1組話題のツートップが衝突!?

 

 果たしてそれは誰の心の声だったのか。ただ一声かけただけで『衝突』という極端な未来を想像したその人物の心中はどのようなものであったのか。それを確かめる術は残念ながら無いが、その声は1組に所属する生徒の限りなく総意に近いものであった。

 

 1年1組に所属する生徒達は入学初日にして既に一つの認識を共有している。それは、この1組には今後の学生生活を送る上でクラスの中心に成りえる人間が少なくとも二人いるということである。

 

 一人は当然ながらというべきか、たった今金髪の少女に声をかけられている男子生徒、織斑一夏だ。世界初にして唯一のISを動かせる男であり、女子のみのIS学園において唯一の男子生徒。この二つに一夏の容姿が悪く無いということも相まり、一夏はクラスの人間とろくに会話を交わしていないという現状にありながらもその身に周囲の生徒達の意識を集めていた。それが良いものか悪いものかはともかく。

 

 そしてもう一人、そんな彼の対抗馬と成りえる人物がいる。それが彼の机の正面で腕を組んで仁王立ちする少女だった。

 

 流れるような金の長髪に意思の強い光を点す碧眼。常識の範囲内での制服の改造が許されたIS学園において膝下までの長さを持つロングスカートはパニエを仕込み若干のボリュームを持たせてある。そこから伸びる細い脚は、他人に素肌を見せまいとするかのような濃い目の黒のタイツで包まれており、それが美しい脚線を一層引き立たせていた。おまけに、歩き、立ち止まるという何気ない動作の一つ一つに余裕が感じられ、組んだ腕の間で制服の袖に着いたフリルが揺れる様にさえ嫌味のない優雅さを感じさせる徹底ぶりだ。

 

 

 

 どれ一つとっても周囲の視線を惹かずにはいられない、その少女の名をセシリア・オルコット。才女集うIS学園においてなお頭一つ飛びぬけた英国(イギリス)の才媛である。

 

 

 

 IS学園は一年を通して様々な学内行事を行う。それら多数の学内行事を運営していく上で積極的に動いていくのが学園の教師陣、生徒会、そしてクラス代表だ。

 

 このクラス代表は一般の学校におけるクラス委員と同じように、行事の際にはクラスの意思統一をはかりこれに臨み、他のクラス間との調整を行ったりするという役割があるが、それ以外にIS学園ならではと言える役割がある。

 

 それがクラス代表が矢面に立たされるクラス対抗戦『リーグマッチ』である。ここでクラス代表は文字通りクラスの代表選手として試合に出場する。

 

 リーグマッチ開催の目的はいくつかあるが、IS学園1年のリーグマッチにおける主たるものとしては二つが挙げられる。一つは本格的な学習が始まる前にスタート時点での実力の指標を作ること。そしてもう一つはクラス単位での交流およびクラスの団結力を強めることだ。

 

 学園生活が始まったばかりの1年生のリーグマッチは他の学年とは異なり、新入生歓迎のお祭りイベント的な側面が強い。そのためこの対抗戦での結果が悪かったからといってクラス間やクラス内で形成される歪んだヒエラルキー構造の犠牲者になるというようなことはない。なお余談ではあるが、対抗戦において見事に一位に輝いたクラスには優勝賞品として豊富な品数を誇る学食デザートの半年フリーパスが配られるという特典があり、これが少女たちの乙女心っぽい何かの琴線に触れて毎年恒例のお祭りイベントを死闘に変貌させているがそれは割とどうでも良い話である。

 

 重要なのはクラス代表が文字通りそのクラスの『顔』となることである。

 

 先にも述べたように学内行事で積極的に動くのは教師陣と生徒会とクラス代表である。

 

 よってクラス代表は学園の教師や生徒会、他学年や他クラスの代表と顔を合わせる機会が一般の生徒よりも多い。また、リーグマッチのようなクラス対抗戦は学年ごとに開催されるため最初の1年は良くても、後の2年間はその役割の重さがまるで変わってくる。

 

 才能豊かな少女たちが通う学園にあってさらなる能力――――人をまとめる能力、ISを扱う技量、他者を惹きつける魅力(カリスマ)が求められていくことになるのである。

 

 クラス代表が不甲斐なければ、それはそのままクラスへの評価につながる。クラス代表一人だけの問題では済まないのだ。

 

 

 

――――だからこそ、クラス代表という地位は極めて重要なものとなりますわ。

 

 

 

 と、織斑一夏の席の正面で腕組みしているセシリア・オルコットは思っていた。

 

 彼女の考えは決して間違ってはいない。ただ満点解答というわけでもない。

 

 アクの強い人物も多く集まるIS学園では、面倒事は『まあ適当にやってよ』とクラス代表に放り投げて我が道を行こうとする人間も多くいるし、クラス総出で他人を笑かす路線で行こうと団結する狂った集団もいる。

 

 そのため、セシリアの考えるクラス代表像というのは様々な人間が選出されるクラス代表者の一側面でしかない。当然セシリアのように真面目に考えるいわゆる委員長気質な生徒もいるにはいるが、一概に多数派とはいえないのである。

 

 とはいえ、セシリアもそのようなことは理解していた。

 

 だが、先ほど述べたセシリアの『クラス代表』観はそれでも確かに一側面を担っているのは事実だ。

 

 だからこそ、

 

――――その地位に就くことはこの先の学生生活において、きっとわたくしの為になりますわ。

 

 セシリアは学園に入学する前から様々な伝手を使いIS学園に関する情報を集めていた。

 

 彼女は英国の名門貴族の生まれであり、家を支えるべく海千山千の魑魅魍魎が跋扈する一見優雅なように見えるがその実は伝説におけるサルガッソ海ばりの恐ろしさを持つ貴族社会に若い身空で飛び込んでいる女傑である。

 

 優雅に見えるその立居振舞の裏には泥臭いまでの努力の集積がある。

 

 家を支え、会社経営などにも携わる忙しい身の上である彼女が長期間母国を離れることになってでも日本のIS学園に入学したのには理由がある。

 

 

 繰り返すがセシリア・オルコットは英国の名門貴族の生まれである。

 

 しかし、セシリア・オルコットの両親は彼女が幼い頃に他界している。

 

 両親が他界した当時のセシリアは幼く、いかにセシリアが才能豊かな努力家であろうとも、いかに周囲に信頼できる人間がいたとしても、その小さな手にはオルコットという家は大きすぎた。

 

 後は想像通り。オルコット家の遺産は周囲の人間に好き勝手に食い尽くされ、何も残らなくなる――――かに思われた。

 

 しかしそれを防ぐ手立てが一つあった。

 

 ISだ。

 

 幸いなことにセシリアは生まれながらにして高いIS適性を持っていた。それは前の英国代表生であった女性が絶賛するほどに。英国政府がセシリアが成人するまでオルコット家の適切に管理し、彼女を保護するという条件と引き換えにしてでも欲しいと思うものだった。

 

 そうしてセシリアはISの世界へと身を投じた。

 

 今ではその立場を英国代表候補生へと変え、第3世代装備『BT』にも高い適性を示した彼女はデータサンプリング目的の試験機的な面が強いとはいえ専用機を与えられるまでに成長した。

 

 それまでの間にも彼女はIS以外の家を守るための知識をがむしゃらに詰め込み己の血肉としてきた。

 

 彼女が成人するまでにはまだ数年の時間がある。しかし、がむしゃらにひた走ってきたセシリアにとって、これまでの数年は瞬く間に過ぎ去っていった年月であった。ならばこれからの数年もまた、瞬く間に過ぎ去っていくのだろうと考える。だからこそ、その間に少しでも僅かでも己の力になるものを得るべく彼女は貪欲に動く。それはIS学園1年1組クラス代表の地位という小さなものであってもだ。

 

 セシリアは朝からこの1年1組というクラスを静かに観察していた。より正確に言うならば、周囲の人間が自分に向ける視線、そして1組の中にクラス代表に選出され得る何かしらの能力を持つ人間がいるかどうかを彼女は見ていた。

 

 そうして入学式を終え、自己紹介を兼ねたSHRを終えて、初日の授業も終えた後、彼女は一つの結論に達した。

 

 

 

――――馬鹿がいる。

 

 

 

 いったい誰のことだ、などと今さら言うまでもなく一夏のことである。いったい何が、などということも今さら問うまでもなく思い浮かぶのは朝からの数々の奇行である。

 

 SHRでいきなり狸よばわりすることで副担任を叫ばせ、実の姉にして第一回モンドグロッソ総合優勝者であるクラス担任に撃沈され、授業中に流麗なペン回しを披露して副担任を泣かせて、クラス担任に撃沈され、日本人にしてはやたら胸囲の発達著しいクラスメイトと意味ありげな会話をしてクラスの視線を惹きつけ、素直に授業を受けていると思ったらいきなり奇術を披露してクラスの興味を惹きつけた後にとりあえず副担任を絶叫させ、駆け付けたクラス担任に撃沈された。

 

 その行動には脈絡がないようにも見えるが、こうして列挙してみると自然と浮かび上がるその行動の骨子。

 

 

――――どれだけ副担任狙い撃ちですの!?

 

 

 これが日本のお笑い界に伝わる伝統技能ジャパニーズ・テンドン!? とセシリアは慄いた。

 

 同時に、織斑一夏という人間は危険である、とセシリアは判断した。

 

 世界で唯一のIS操縦者で一人の男子生徒というだけで目を惹くのだ。おまけに朝から続く奇行の数々は、本来セシリアに向けられるはずであった興味関心の視線を根こそぎ奪い去っていった。

 

 このまま手をこまねいていれば、自分ではなく一夏がクラス代表として選出され、そればかりか自分が所属するこの1年1組が一夏を先頭にして笑いのレッドカーペットの上を全力疾走するはめになりかねないのだ。

 

 なにより、英国貴族にして代表候補生たる自分が所属するクラスがそのような路線に走るなど、

 

 

――――そんな、そんなことを……このセシリア・オルコットが認めるわけにはいきませんわ!

 

 

 彼女は決断した。このタイミングで行動を起こすことを。一夏への関心が高まっているのなら、それを利用して自分も一気に同じ高みへと昇り、雌雄を決することを。

 

 利用できるものはどんなものでも利用する――――表現は悪いが、そんな決意を持ってセシリア・オルコットはここにいる。

 

 だが彼女は知らない。一夏のこれまでの人生で彼に関わった周囲の人間が、その行動にどれほど振り回されてきたのかを。IS学園入学前、彼の警護の人間や織斑千冬にどれだけ『思うようにいかない』と頭を抱えさせたのかを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ちょっとよろしくて?」

 

 

 甘い声質だ、と一夏は思った。こちらに問いかけるその言葉は丁寧なもので、しかし声の中には相手をチクリと指すような硬さがある。

 

 一夏は鞄からノートを取り出そうとしていた手を一度置いて一息吐く。そして視線を眼前の人物へとちらりと向ける。すると視界に入るのは腕組みする少女。その姿は先の声もあり脳裏に『御令嬢』という言葉が浮かぶ。

 

 視覚から得た情報に一夏はハテと考える。声に混ざる硬さ。その出所。自分の容姿か行動か、何かしらの要素に相手を苛立たせるものがあったか。

 

 しかしいくら考えたところで答えは出ない。自分が他者に不快感を与えるつもりで行動したことなど、物心ついたときから一度たりともありはしない。世間一般の常識に照らし合わせて己の朝からの行動を顧みてみるも、

 

 

――――うん。何も問題は無いな。今日も宇宙は千冬姉を中心に回っている。ああ……太陽だとも!

 

 

 誰にも知られぬ意識下でお手軽なスナック感覚で『実姉を宇宙の中心に据えた天動説』という狂人の思考を披露した一夏は、大宇宙の神秘的な流れで己の潔白を確信した。己の行動に瑕疵が無いのなら、後は相手の問題だ。

 

 考え方を変え、一夏は改めて目の前の少女を観察する。

 

 整った容姿だ、と素直に思う。言葉は丁寧でも己を良く見せる術が叩き込まれているのか、妙に目を惹く存在感がある。表情には若干の不機嫌の色があり、どこかこちらに挑むように真っ直ぐ向けられる視線がある。

 

 一夏は目の前の少女のことを良くは知らない。以前雑誌か何かの記事で目にしたことがあるような気がするが思い出せない。何か当時の一夏の興味を引く要素がその記事にあったような気もしたのだが、今となっては忘却の彼方というやつだ。だが今こうして本人を見ていて感じるのは、他者に傲慢とも取られかねないほどの気位の高さ。

 

 ああ、と思い、それならばこちらが気に入らないのだろう、と思う。

 

 我が事ながら面倒な身の上で、何の因果かIS学園という女の園に自分はいる。そのことを面白く思わない者はこれまでもいた。

 

 ならば彼女もその種の人間だろう。

 

 納得いった、と一つ頷くと一夏は難問の解を導き出した爽快感を持って思考を打ち切り、視線を鞄の中へと戻し一冊のノートを取り出す。

 

 一夏はともかく周囲の人間は誰もその行動は予想していなかったのかクラスのざわめきが一層増したが、もはや彼の意識にそれが影響を与えることはない。それは目の前で呆然とする少女の顔さえも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 遠のきかけた意識を慌てて引き戻し、目じりを険しく吊り上げたセシリアは並の人間ではないと言っていいだろう。

 

「ち・よ・つ・と・よ・ろ・し・く・て!」

 

 彼女は額に青筋を浮かべながらも、何とか怒りを抑えてもう一度声をかける。しかしそれすらも目の前の男は何食わぬ顔で無視する。

 

 この行動がいよいよセシリアのプライドを刺激した。彼女は一夏が眺めている『観察日記』と書かれたノート(題名の下に緑色のペンで大きく『狸』と書かれている)を細い指先で掴んで引っ張った。

 

「わたくしの話をお聞きなさい!」 

 

 そこでやっと一夏は視線を向けた。ようやく自分の要求が通ったことに満足したセシリアだったが、向けられた黒い瞳に何の感情の色も読み取れず、僅かに焦り後ろずさる。

 

「さ、先ほどからあなたは! わたくしの声が訊こえていませんの? このセシリア・オルコットの声が響いたら、きちんとお返事を返すのが礼儀というものでしょうに!」

 

 焦りを表情には出さないまま、崩れかけたペースを持ち直すべくあえて高圧的な態度をとる。

 

 しかし、そこで一夏はぽん、と両手を合わせた。また先ほどの副担任のときのように花でも出るのかと身構えたがその様子は無い。

 

 ただ小声で『思い出した』と言っているのが非常に気になった。

 

 と、

 

「日本語がお上手ですね」

「え?」

 

 褒められた。唐突にである。ただの社交辞令かもしれない。だがこの流れで何故そのような言葉を言う必要があるのか。あるとすればどのような意図があるのだろうか。相変わらず向けられた瞳に感情の色は無い。

 

 セシリアに対して、一夏はさらに考える暇を与えないと言わんばかりに話を続ける。 

 

「他言語をそこまで流暢に使えるなんて、よっぽど努力したんだろうな」

「え、ええ訓練の合間に……いえ! このわたくしにとって他言語の習得の一つや二つ、わけもないことですわ」

 

 脳裏に日本語の教本を片手に勉強していた光景を思い出したがそれは言わなかった。他人に弱いところは見せない。常に余裕をもって、泰然とあるのがセシリアの記憶の最も古いところに根付いた貴族像だ。

 

 強がり、と思われなかったか少し心配になったが一夏の様子は変わらなかった。そのことに少し安心する。

 

「インフィニット・ストライプスっていう雑誌の特集で海外の代表候補生の記事があったんだけど、セシリアさんも英国の代表候補生なんだよな?」

「ご、ご存じでしたの?」

「代表候補生ってIS操縦者としての技量を高めるだけじゃなくて、そういうモデルみたいなこともやってるし、そのうえ同年代なのにグループ企業の代表も務めているんだろ? 凄いよな」

「ま、まあそれほどでもあるかもしれませんわね」

 

 雑誌名に覚えは無かった。恐らく直接取材を受けたものではないのだろう。しかし目の前の男が自分のことを知っていることに微かな驚きを覚える。この男は自分のことと、実姉のこと以外には一切興味が無い人形のような男なのだろうと思っていた。意外に思い、先ほどまでの無礼な振る舞いによる悪いイメージをほんの少し良くした。

 

「日本にも関連企業があるんだろ? 確か家電系と製薬系で。代表候補生として頑張りながらそれだけ手広く展開している企業の代表なんて大変だろう?」

「わたくしにとってはやって当たり前、できて当たり前のことをしているだけですわ」

 

 そう、セシリアにとってそれはやらなくてはならないことであって『きちんとこなす』以外は道は無かったのだから。

 

「苦労を苦労と思わないタイプなんだな。それだけ能力があって、責任のある仕事をしっかりとこなしているんだな。本当に頭が上がらないよ」

「ま、まあそれほどでもありますわね」

 

 自分だって疲れることはある。それを口に出すことは幼馴染である専属メイドの前以外ではないのだが。

 

「しかも立ち姿が凄く綺麗だし、高貴さが身に染みついているっていうのか? 立ち振る舞いが凄く優雅なんだ。背筋が真っ直ぐで、歩き方もかなり気を使っているんだろ?」

 

 容姿のことは当然のことで言われ慣れている。社交の場でお世辞のような言葉はさんざん耳にしてきた。しかし同年代が集うIS学園という場所で、自分の立居振舞について指摘されたことにセシリアは更なる意外性を感じた。織斑一夏という男が予想以上に自分のことを良く見ていたことに戸惑い、この変わった男は一体どのような人間なのかわからなくなってきた。

 

 そこに、

 

「俺はセシリアさんのことはあまりよくは知らないんだけど、凄い美人だよな。きっと性格も天使みたいに優しいんだろうな」

 

 歯の浮くような台詞、しかもえらく直接的な言葉で褒められた。真っ直ぐに面と向かって、真面目な表情で言われたそれは、似たようなことは言われ慣れているはずなのに、何故かぐらりとセシリアの心を揺さぶった。率直に言うと、セシリアは少し照れた。

 

「ちょっ、いくら本当のこととはいえそんなに褒められても困りますわ。……まあ本国では幼い頃から女神のような美しさと評判でしたけど」

「いや、女神は千冬姉だな」

「え? 今なにか仰いまして?」

「ん? いや何も言っていないよ」

 

 小声で何か言われた気がしたがとりあえず気にしないことにした。

 

「それよりも、そんな天使みたいなセシリアさんの下で働ける人は幸せだろうな。俺だったらきっと神棚にセシリアさんの写真を飾って毎朝炊き立てのご飯をお供えしてお参りするレベルだ」

「神道はあまり馴染みがありませんけど、それはご遠慮願いたいですわ……。でもまあ、周囲の人には助けられていますから、待遇面や環境面では他所よりも少し気を使っているつもりではいますわ。まあわたくしが勝手にそう考えているだけですけど、もし働いている人が幸せに思ってくれているなら良いですわね」

 

 そこで一夏は唐突に身を乗り出し、話しているセシリアの手を取った。驚き、思わず『きゃ』と声をもらす。何が琴線に触れたのか、一夏の瞳は先ほどまでは無かった情熱的な色の光で輝いている。

 

「いやそう考えてくれる代表がいるのならきっと幸せだよ。だから……俺はもっとセシリアさんのことを知りたい。いきなりこんなことを言われて戸惑うかもしれないけど、どんな小さいことでもいいんだ! セシリアさんは美しく偉大で、俺は愚かで卑小かもしれないけど、君のことを少しでも知ることができたら俺は幸せになれるかもしれない。そしてほんの少しでも、セシリア・オルコットという少女の人生の一片にでも関われたら、もっと幸せになると思う」

「ちょ、ちょっとお待ちになって。と、突然そんなことを言われても困りますわ!?」

 

 いきなり手を掴まれて頬を赤くする、など街場の小娘のすることで、それは貴族たるセシリア・オルコットのすることではない。

 

 だいたい、いきなり会って間もない淑女(レディ)の手を握り告白めいたことを言うなど段階を飛ばし過ぎている。それもまた貴族であるセシリア・オルコットに認められるところではない。

 

 自分はそんな安い女ではない。そう言いたかった。しかしそれを言わせないだけの迫力が、セシリアに口を噤ませる何かが今の一夏にはあった。

 

 この僅かな時間のなかで次々と色々な面を見せる男。恥ずかしい言葉を躊躇いなく口にする織斑一夏という人間はセシリアの持つ日本人像とは異なっていた。

 

 金か、地位か、身体目当てなのか。しかしそのどれもが目の前の男に当てはまる気がしなかった。相手はこちらの素性を知っていて、それでも何の興味を示していなかった男なのだ。そんな人間が僅かな会話の中で、うって変わったようにして自分に迫る。その理由が何なのかを知りたい、という思いがセシリアの胸中に渦巻いた。

 

――――ま、まあ小さいことならいいですわよね? ええ、持てる者は持たざる者に施しを与えるのも高貴な人間としての務めですわよね!

 

 そうしてセシリアは自分を納得させる。

 

「で、では少しだけならいいですわよ」

「本当か?」

 

「ええ、あまりプライベートな質問は困りますけど」

「ああ、大丈夫だ。セシリアさんが嫌がるようなことは絶対に聞かないよ」

 

 そこで一夏は笑った。嬉しそうに、本当に心から嬉しそうに笑う顔にセシリアは胸を動かされた。それほどまでに一夏の表情は邪気が無かった。直前に一夏が言っていた『君のことを少しでも知ることができたら俺は幸せになれるかもしれない』というその言葉が嘘ではないと信じられるような笑みだった。

 

 じゃあ、と一夏が前置きする。

 

 何を聞くのだろうか? 想像以上に自分のことを良く見ていた少年だ。そんな彼の心境を僅かな時間の中で変化させたのは自分のどんなところなのだろうか? 彼は――――

 

――――これまで見てきた男とは違うのかしら?

 

 

 そして、

 

「まずは日本にある家電系の関連企業の就職に求められる能力や資格、それと年収と福利厚生面について教えてくれ」

「え?」

 

 その言葉にセシリアの思考は停止した。

 

 クラスの誰かが呟いた『シューカツだ……!』という意味不明の言葉が妙に教室に響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 英国の海千山千の貴族達に挑んできた(口先で弄ばれてきたともいう)セシリアはあまりに繋がらないように思えるこの現状について深く考え込む。必要以上に。

 

 その結果、ある答えに行きついた。

 

――――やられた……!

 

 嵌められた、という認識がセシリアの脳裏に渦巻いた。

 

――――意味の無い行動、脈絡の無い言動はこの男の十八番。そうすることで相手のペースを乱し、強引に場の流れを自分に有利なものへと変える。先ほどの会話さえもそのための算段でしたのね?

 

 セシリアの脳裏に母国である英国を出国する直前に参加した茶会の光景が思い浮かぶ。

 

 ティータイムの時間に談笑する優雅な淑女の集い。暖かな日差し。ソーサーに置かれたティーカップの中で静かに波打つ紅茶。黄金の焼色のスコーンとクロテッドクリーム。銀のフォークと甘い香りを漂わせるケーキ。そこで静かに、上品に囁くように紡がれる会話の流れはこうだ。

 

『わたくし以前にお話ししたように英国風和食にこっておりますの。セシリアさんは春からIS学園にご入学されるのでしょう? 帰国されたときは色々と和食のお話を伺いたいわ』

『そ、そうですわね。奥様に楽しんでいただけるようにわたくしも色々と勉強してきますわ』

 

『あ、そうそう! わたしの夫は健康のために英国風ブラジリアン柔術のマスターを家に呼んでいて師事しているんです。セシリアさんには是非とも本場の――――』

『え、ええ!? その本場は本当に日本ですの?』

 

『そういえばわたしは英国風ジャーマンスープレックスで――――』

『カー○・ゴッチ!?』

 

『ほら奥様方、セシリアさんが困っていますよ』

『あらごめんなさい。ついお話に夢中になってしまいましたわ』

『ごめんなさいねセシリアさん。皆セシリアさんが可愛くてついついからかいたくなっちゃうの』

『そ、そうですか。で、では先ほどまでのお話は全て冗句でしたのね』

『……え?』

『え!?』

 

 他国の名を冠する単語が次々と『UK(英国)』の字に浸食されていくその様はまるで大航海時代を経て世界を席巻した偉大なる大英帝国の雄姿を見るようであった。しかし何故か自分にとってはアウェーにいる気がしてならなかった。

 

 楽しく歓談する筈の茶席でいつの間にか追いつめられている謎の感覚を思い出し、セシリアは冷や汗を流す。

 

『何かはわからないがヤバい』

 

 そんな感覚から来る焦りがセシリアの脳を焼いた。馬に跨り、猟犬を従え、猟銃を掲げて意気揚々と野山を駆けて狐を追っていたら、いつのまにか狐に化かされて深い森に迷い込んだような和洋折衷の気分であった。

 

 同時に、

 

『やはりこの男はどうしようもありませんのね』

 

 という思いがセシリアの胸を苦しくした。

 

 この感情は怒りだ、とセシリアは考えた。ただ、怒っているはずなのにどうして胸が苦しくなるのかセシリアにはわからなかった。

 

 

 

 

 

 

▽▲▽ ▽▲▽ ▽▲▽ ▽▲▽ 

 

 

 

 

 

 

 その後は滅茶苦茶だったな、と箒は思い返した。

 

 顔を不快気に歪ませて、何も言わずにセシリアは自分の席へと戻っていった。箒はその時のセシリアの表情が誰かに似ている気がしたが、それが誰なのかは思い出せなかった。

 

 とにかくセシリアはそれ以降の時間ずっと黙り込み、周囲の人間も居心地悪そうにしていた。

 

 そうこうして、若干変則的ながらも帰りのSHRの時間がきた。様々な連絡事項があるため長めの時間を取ってあるこの時間に『クラス代表』の話が千冬より出された。

 

『では候補者は織斑一夏……私が言うのもなんだが、お前ら本当にいいのか? 他に候補はいないのか? 自薦でも他薦でも構わないぞ? ……おい。どうして全員私から目を逸らしている?』

 

 クラスの人間の多くが面白さ重視で一夏を推薦する最中で、悠然と立ち上がる人間がいた。

 

 セシリアだ。

 

 彼女の口からはクラス代表という役職の重要性と、そんな地位に一夏を推すことの危険性を滔々と説いていき、最後は私怨の入り混じった『馬鹿』だの『愚かで無礼』だの『年上好きの狸好き』だのと言った悪口が息継ぎすることなく続いた。

 

 そうして、

 

『とはいえ、それでもこの男を代表にと推す方もいるでしょう。ですから実力を持って誰がクラス代表に相応しいのかを決めさせていただきたいですわ』

 

 と千冬に向けて言い放った。対する千冬は、

 

『構わんぞ。やれ』

 

 と返した。その表情はひどく愉快そうで、箒を含めて誰もそのことに異を唱える人間はいなかった。 

 

 そうしてこの日、1年1組ではクラス代表の候補が二人挙がった。

 

 決戦は一週間後の月曜日。

 

 英国の代表候補生で疑い無い実力を持つセシリア・オルコットに対して、インパクトはあるが操縦は素人の域を出ない織斑一夏。

 

 普通に考えれば相手にならない。勝負の結果は行うまでもなく明らかだった。

 

 しかしそれでも避けては通れない戦いがある。

 

 だからこそ箒は、恥ずかしながらも勇気を出して一夏に『一緒に訓練をしよう』と言おうとしたのだ。

 

 

――――そのはずなのに!

 

 

 SHRの後。箒が両手の人差し指を合わせていじいじと戸惑っているその横を通り過ぎていく人間いた。

 

 一夏である。

 

 彼はそのまま真っ直ぐ教室から出ようとしていたセシリアに歩み寄った。

 

 その時のセシリアの表情はお世辞にも育ちの良い令嬢とは言い難い、年相応の少女のような不機嫌そうなもので、周囲の人間は『これ以上さらに火に油を注ぐのか』と不安に思うもの、期待するものに分かれた。

 

 最初はセシリアが『今になって怖くなって、ハンデでももらいに来ましたの?』と言った。だがその後に一夏が『貰えるのならば遠慮なく』と言い放ち交渉を開始した。

 

 しかし一夏がハンデのレートを際限なく上げていき、とうとう『射撃武装無し、目隠しあり、IS本体に重り3トン』というところに至って交渉が決裂した。

 

 とうとう肩を怒らせて教室を出ようとするセシリアに、一夏が言い放った。

 

『じゃあ、試合の日まで俺に稽古をつけてくれ』

 

 セシリアだけではなく、クラスの人間全員と、そして何よりも似た提案をしようとしていた箒がぽかんと口を開けた。

 

 一夏の提案が意味するところを瞬時に理解できたものは恐らくいなかっただろう。

 

 だから箒は『ありえないことだ』と思った。

 

 だが少しの間を置いてギャラリーの中から『実力的に間違いの無いセシリアさんが教えれば良い勝負になるかも』という言葉が出て、段々とその発言に乗る人間が現れていった。最初の発言をしたのは一夏の隣の席の谷本なにがしという生徒で、箒は密かに『あの野郎許さねえ』とおどろおどろしい気焔を上げた。

 

 とはいえそんな提案をセシリアが素直に呑むはずがなく、セシリアは『ありえませんわ!』とその提案を両断した。

 

 箒はこのとき初めてセシリアを『話のわかるやつじゃないか』と会話もしていないのに評価を上げた。

 

 しかし元を辿れば言い始めたのは一夏である。この男が素直に引き下がるはずがなかった。

 

 教室を出るセシリアを追って一夏もそのまま出て行ってしまい、有耶無耶のままにその場は解散となった。

 

 箒はその後しばらく学園を歩いて一夏の姿を探して回ったがとうとう発見できず、諦めて明日に一夏に訓練のことを伝えようと考えて割り当てられた寮の自室へ行った。相部屋と聞いていたのだが、この日に箒の部屋をノックする人間は何故か現れず、そのことを疑問に思いながらも箒は一人寂しく眠りについた。

 

 この日の夜。どこかの部屋で悲鳴のような声が聞こえたり『いくら頼まれても絶対にダメですわ!』という絶叫が響いたり、廊下を誰かが走るような音と『ウナギはもう嫌ぁ……』という酷く疲れたような声が聞こえたり、廊下を這うような音に続いて荒く息を吐くような音と『や、やります。やりますから……も、もう許し』という声もした気がしたが、とりあえず明日に備えて気にしないことにした。

 

 そうこうして朝になり二日目の授業が始まり、そして終わった。

 

 いつもと変わらない様子の一夏を横目で見つつ、目の下に隈を作って憔悴しきった様子でいたセシリアの姿に首を傾げたが、放課後に一夏に訓練することをどう切り出すかに頭を悩ませる箒はそれほど長く気に掛けなかった。

 

 そうこうして放課後になり、日は傾いていった。

 

 箒は今度こそ、と気合を入れて立ち上がり、そして場面は冒頭に戻る。

 

 

――――その結果がこれか!

 

 と、箒は脳内で絶叫した。

 

 それを煩いと言わんばかりに箒のいる位置の近くに小銃の弾丸が飛来し、客席を守るシールドに弾かれた。

 

 そのことに少し驚きつつも、くそう、と箒は歯噛みした。

 

 昨夜何があったのかは箒の知るところではない。ただ、予想だにしない何事かが起こったのだ。それが状況をあるべき自然なカタチから強引に捻じ曲げて今の目の前の光景――――セシリアと一夏の訓練という認め難い光景を見せつけられるに至ったのだ。

 

――――何故、わたしではないんだ一夏……。

 

 セシリアの実力を考えれば、それがいかにおこがましいことかは箒もわかっている。それでも、容易く割り切れはしなかった。

 

 こうして二人から隠れるようにして盗み見ていると、セシリアも嫌がっていたわりには訓練が始まると至極真っ当に一夏にISの操縦を教えているのがわかった。

 

 一夏もそれに答えるように真剣にセシリアの教えに聞き入り、そうして実践していく。

 

 一夏の横顔を遠目に見て、いっそのことぞんざいにやってくれれば、と言いそうになり慌てて口を噤む。

 

――――わたしは……嫌な女だ。

 

 胸が酷く重苦しくなり、箒はそのまま前の席の背もたれの裏に背を預けるようにしてずるずると体育座りをして、顔を伏せた。

 

 一夏が変わっていることを恐れた。

 

 自分が変わっていることを恐れた。

 

 それでも会いたいと思った。

 

 そうして会ったら世界が鮮やかに見えた。

 

 でもやっぱり色々なことは変わってしまっていて、何より辛いのが、自分がそんなことを考えてしまうような嫌な人間になってしまっていることだった。

 

 こんなやつに好かれる人間は迷惑だろうなと考えて、唐突に目が熱くなった。

 

 箒がゆっくりと顔を上げると、二、三の滴が膝を濡らした。

 

「あれ? あれ? おかしいな……何で、こんなに、弱くなっちゃったんだろう」

 

 誰も聞いていないと思って出した声が自分でも驚くほど弱弱しく震えていた。

 

 いつのまに日はすっかり落ちていて、アリーナの客席の影も一層濃くなっていた。

 

 箒はいつのまにかアリーナから音が消えていることに気付いた。携帯を取り出して時間を見るともう夕食の時間も半ばほどだ。恐らく今日の二人の訓練は終わったのだろう。

 

 帰ろう、と呟いたが立ち上がる気力が一切湧かない。

 

 アリーナ中央の明かりもいつのまにか消えている。僅かに残っている明かりは教員の見回りのためだろうか。

 

 箒はこのまま目をつぶれば、自分の身体が闇に呑まれていくような気がした。 

 

 それでも、こんな嫌な気持ちも呑みこんでくれるならそれでも良いかな、と目を閉じようとして、

 

 

「こんな時間に、こんなところで何をしている不良娘」

 

 

 闇を引き裂くような声がした。

 

 驚いて顔を上げると、いきなり明かりを向けられた。手持ちの懐中電灯の光らしいそれをまぶしく思いながらも、光源の正面から顔を反らして見た先によく知った顔があった。

 

 織斑千冬だ。

 

 千冬はいつもの厳しい表情を一層強めており、その理由が何の届けも出さずに遅くまでこんなところで蹲っている自分にあると気付く。

 

「す、すいません千冬さ……いえ、織斑先生」

 

 とりあえず謝罪の言葉を言えたことに安堵していると、千冬は大きく息を吐いた。同時に場の空気が弛緩していくのを感じる。

 

 やれやれ、と言いながら箒の近くの席に千冬は腰を下ろすと、手の中の懐中電灯の明かりを消した。一瞬で闇が戻ってくる。

 

 その闇の中から缶のプルタブを開けるような音と同時に、プシュ、と空気が漏れるような音がして、続いて勢いよく液体を飲み干す音がし、最後に『ぷはー!』とひどく親父くさい声が聞こえて、箒の鼻先まで酒精の匂いが漂ってきた。

 

「あ、あの……織斑先生?」

「千冬さんでいい。もう飲んだから今日の仕事は終わりだ」

 

 目が闇になれてきて箒が千冬のほうを見ると、片手には銀色の缶があった。何ですかそれ、と聞くと『炭酸入りの麦ジュースだ』と答えた。そのときに見た表情は困った人間を見るようなものと、優しげな笑みがない交ぜになったようなもので、それが何を意味しているのかわからず箒は戸惑った。

 

 どうしたものかと考えて、そこであることを思い出して箒は口を開けた。

 

「あの……千冬さん」

「何だ?」

「その、お久しぶりです」

 

 言った後、千冬は呆けたような顔した。昔も見たことが無かったようなその表情に箒が驚いていると、千冬は唐突に顔を伏せて、肩を揺らし始めた。

 

 笑いをこらえている、と気付いたのは千冬がいよいよ堪え切れなくなって顔を上げて大笑いし始めてからだった。

 

 初めはおろおろしていた箒だったが、いつまでも止まない千冬の笑い声に段々と何で自分がこんな思いをしなくてはならないのか、と考え始めて不貞腐れた。

 

「お? 何だ怒ったのか?」

「怒っていません」

「怒っているだろう、それは」

「怒っていません!」

 

 言ってから『どう考えても怒っているよな』と思い、箒は先ほどは違う理由で顔を伏せた。久しく感じたことの無かった脱力感が身体を包んでいく。

 

 対して、千冬は相変わらず『くくく、すまんすまん』とどう考えても謝罪していない意地の悪い笑い声を漏らしながらも、どこから出したのかもう一本の缶を取り出して躊躇いなく開けた。

 

 またも液体を飲み干す音がして、空気中を漂う酒精の匂いが増した。

 

「しかしなあ、お前も悪いんだぞ篠ノ之箒。今さら『お久しぶりです』などと。そこは笑うしかないだろう」

「……言うタイミングを逃していただけです。別に千冬さんを笑わせようと思ったわけではありませんから」

 

 何故かフルネームで呼ばれたことに戸惑いながらも反論する。 

 

「ふむ、そうか。ところで箒、こっちを向け」

「はい?」

 

 言われて顔を動かすと、いつのまに至近距離で突き出されていた千冬の人差し指が左の頬に触れた。きょとん、としていると千冬は『馬鹿め、引っかかったな』と言ってまたも愉快そうに笑い始めた。

 

――――あ、駄目だこの人。酔っ払いだ。

 

 箒は心底思った。そうして昔を思い出して、こんな人だったかな、と思った。

 

 かつて道場に出入りしていた千冬に対して幼い箒が抱いたイメージは『怖い人』だった。それは幽霊が怖いとか、そういうのとは違っていて、いつも張りつめた空気を纏っていた千冬は当時の箒にとって近寄りがたい感じがしていて、上手く言えないがそういう向きの怖さがあった。きっと当時の千冬と会ったことある同年代の人間ならば同意してくれるのではないだろうか。

 

 それが今では自己申告で『仕事終了』とのたまったうえに、コレである。

 

 6年という時間はあの怖い千冬さえも変えるのか、と箒は思った。

 

「おい、何か失礼なことを考えているだろう?」

「そ、そんなことはありません!」

 

 ふん、と鼻をならす音がした。怒られるのではないか、と箒はびくついた。

 

「一夏とオルコットが一緒に訓練していたのがそんなにショックか?」

「……え?」

 

 突然の指摘に驚き、しかし落ち着いてみるとそれが図星であることに諦めて、箒は小さく『はい』と返した。

 

「わかりやすいんだよお前は」

「……そうでしょうか?」

「そうだとも。まったく、授業中も気もそぞろにして、あれで気付かないわけがあるか。教卓というのはお前ら生徒のことが実によく見えるんだぞ」

「す、すいません」

 

 慌てて謝罪した後、すん、と鼻をならした。これでは泣いていたみたいじゃないか、と思って慌てて誤魔化すように咳払いをしたが、

 

「おまけにこんなところで一人で泣いていたときたものだ」

 

 容赦ないなぁ! と箒は頭を抱えた。こちらの思惑など気付いたうえで踏み込んでくるのは、あの弟(いちか)にしてこの姉(ちふゆ)ありという感じだった。

 

「まあ許してやれ。あいつもお前のことを気にかけていないわけじゃない」

「そうですか?」

「そうだとも。いいか? あいつは学園に来る日にモノレールの駅でな……」

 

 そうして聞いた話に箒は顔が赤くなっていくのを感じた。

 

 モノレールの駅。自分の姿をみて駆け寄った一夏の話は、箒の頬をだらしなく『にへぇ』と言った感じに緩ませた。

 

 しかしニヨニヨと笑っている千冬の視線に気づき慌てて表情を戻した。

 

「そういうわけでな。それにまあ、あいつが結果を得るために最も効果的な道を選ぶのは、多分私のせいだ」

「え、千冬さんのですか?」

 

 うむ、と千冬は頷いた。厳かなようでいて、しかし緊張感のかけらもないその様子に『大丈夫かこれ』と思うが箒は黙って続きを聞こうとした。

 

 しかし、

 

「……」

「……」

「……」

「……あの、千冬さん」

 

 続く沈黙に耐えられず、箒は声をかけた。

 

「何だ?」

「話の続きは?」

 

 箒の言葉に千冬は少し沈黙し、しかし先を促す箒の視線に耐えきれなくなった。

 

「……まあ色々と細かいところは省くがな。ようはあいつは私に苦労をかけまいと、早く給料をもらうようになって一人前になりたい、とそういうことらしい」

「はあ……」

 

 少し恥ずかしそうに言っているあたり、先ほどまでの沈黙は照れていたのだろうか。怖くて確かめられないが。

 

「しかし苦労というのなら普段の行動を改めたほうが……」

「……それは言うな。あれはもう改まらん。あいつは変なところが変な方向にずれているんだ」

 

 私もどれだけ苦労したか、という言葉はひどく実感がこもっていて、箒は乾いた笑い声を出す。

 

「まあただあんな変な奴だから、四六時中効率よくやろうというわけではない。だからまあ、そこは大目に見てやれ」

「は、はい。でも効率重視というのなら、それこそ千冬さんが一夏に教えれば……」

「馬鹿者。私は教師だぞ。生徒一人を特別扱いするような真似ができるか。それが実の弟というのならばなおさらだ。それに私は忙しいんだ」

「そ、そうですね」

 

 頷いた。しかし、

 

「納得がいかないか?」

「い、いえ……そうではなく」

 

 納得がいかないというのとは少し違った。千冬の言葉は理解できた。6年前から一夏にとって千冬がどれだけ大事な家族なのかもわかっている。

 

 もし納得のいかないところがあるというのなら、それは自分がこのまま大人しくしていなければならないのだろうか、というところであって、

 

「別に大人しくしている必要はあるまい」

「千冬さんはひょっとしてエスパーか何かですか?」

 

 考えていることをずばり言い当てられて動揺する箒に、千冬は『エスパーとは今日この頃では聞かない単語だな』と呟き、

 

「あいつらと一緒に訓練をしてもいいだろう。別に絶対に変えられない取り決めということではないんだ。訓練が駄目でもまあ、茶でも差し入れるとかな。あとはまあ――――」

 

 と一息入れて、

 

「お前が代表候補生の小娘共と肩を並べられるぐらい強くなって、一夏に頼られるという道もあるかもな」

「は?」

 

 それを聞いて、いやいや、と首を振り、箒は千冬の顔を見た。箒の表情を見た千冬は一瞬怪訝そうな顔をしてその後に苦笑する。

 

「おい、何をワクワクが止まらんというような顔をしている」

「……そ、そんな顔は」

「している」

「……」

「認めろ」

「はい」

 

 うむむ、と呻いていると、いきなり頭に手を置かれて思い切り髪をくしゃくしゃにされた。

 

 わ、と驚くと、目の前には酒精の気配の欠片もない不敵な笑みの千冬がいた。

 

 あ、これマズイんじゃね? と箒は思ったが時すでに遅く、

 

「立て」

「……はい」

 

 立った。

 

「そういうことでいいんだな?」

「え? いえ、ちょっと考える時間が欲しいかもしれません」

「では行くぞ」

「え?」

 

 驚く間も無く手を惹かれた。そんなに強く握られているわけでもないのに抵抗ができない。

 

「轡木先生に大丈夫だと言った手前、大丈夫じゃないと困るんだよ」

「く、轡木先生とは学園の学園長のことですか?」

「その旦那だ」

 

 旦那、と言われても箒にはその顔が思い浮かばない。その間も千冬はずんずん進む。

 

「しばらく夕食の時間が遅くなるかもしれないが、そこはきちんと届けを出せば問題ない」

「は、はい」

 

 頷く。

 

「初代ブリュンヒルデの個人レッスンだ。喜べ。具体的には血反吐を吐くぐらい喜べ」

「ええ!?」

 

 驚き声を上げる。そしてこれはマズイという本格的な実感が箒の肌の表面にジワリと汗をにじませた。

 

「ち、千冬さんはお忙しいんでしょう? それに生徒一人を特別扱いできないと言っていましたし」

「生徒のメンタルケアは教師の立派な仕事だ」

 

 一刀両断だった。

 

 目に見えるのは暗い客席の間を迷いなく進む千冬の背中だけだった。だが、一瞬こちらに見せた横顔――――その口元が獰猛な笑みを作っていて……。

 

「い、いちか……!」

 

 助けて、という言葉を口には出せなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 初日の夜は色々なところを奔走していて寮の自室で眠れなかった。故に一夏は二日目の夜にして初めて寮の自室に入る。

 

 それにしても、と一夏は思う。

 

 確か相部屋ということだったが大丈夫なのだろうか。どう考えても一般的に考えてもマズイのではないだろうか、と思った。

 

 しかし一夏が部屋に入ると、そこには誰もいなかった。

 

 はて、と一夏は思う。よく見ると部屋の奥に二つ並ぶベッドがあり、窓際のベッド脇には私物と思しき鞄があった。やはり相部屋らしい。しかし訓練後ということもあり大分遅い時間である。姿が見えないとはどういうことだろうか。

 

 気になった一夏は携帯端末を取り出し、担任兼寮長である実姉へと連絡した。しかし繋がらない。

 

 では、とSHRの時間に配布された緊急時の学園関係者の連絡リストにある副担任・山田真耶に電話をかける。

 

 電話に出た真耶は一瞬こちらが誰かわからなかったようで、一夏だと理解した後に『と、とうとう先生の個人情報まで把握されてる!?』とわけのわからないことをのたまっていたが、とりあえず訓練で疲れていた一夏は連絡リストのことを話して、自分の部屋番号を伝えると同居人の不在を伝えた。

 

 若干の間が空き、続く真耶の答えは『織斑先生の許可が出ています』ということ。

 

 なるほど、と一夏は頷く。

 

 この同居人が誰かは知らないが、実姉と一緒にいるのならば間違いはない。

 

 一夏は礼を言って電話を切ると、疲れた身体を手前のベッドに投げだした。

 

 電話を切る直前、電話口で真耶が『あれ? というかこの部屋番号って……』と言っていたようだったが聞き取れなかった。

 

 

 

 

 

 翌日、授業を受けていた一夏は目の下に隈を作り、妙に憔悴した様子の箒を見て首を傾げた。

 

 

 

 

 

 クラス代表決定戦まであと四日。

 

 

 

 

 




その後、箒の行方を知る者は誰もいなかった(嘘)

次が試合です。多分。どうすんだこれ。

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