時代に取り残されたかのように眠る古風な喫茶店。
中に入ると珈琲と煙草の匂いが漂うが不思議と不快感はない。
いや、どこか懐かしい空気すら感じる。
「これで46回目です…」
「なにが?」
カウンターでは2人の客が会話していた。
1人はスーツを着たやせ型の男性で、もう一人は白いTシャツを着た少女だ。男はため息をつきながら語りだす。
「商品を持ち逃げされたんです…」
「また?」
「ええ、また…」
男はからっぱのカップに口をつける。
「今度の客は真面目そうだから、安心してセールスしたのに…。代金をもらいに家に行ったらもぬけの殻ですよ」
「前も言ったでしょ。悪いやつに限って表面作るのうまいって。むしろ善人は疑うべきなの」
「では悪人を信じるべきなのですか?」
「そしたらまたトンずらされるわよ」
「そしてまた僕が泣くことになるんですね」
男のカップに水滴が一つ。それを見て少女はハンカチで男の顔をふく。ありがとうございます、と男は頭を下げた。
「悪人でも善人でもない人を選べばいいじゃない。黒でも白でもない灰色の人間のほうがこの世にはわんさかいるんだから」
「いや…そのような人はあまりうまみがないので嫌です」
「結構わがままね」
「ええ、そうでしょう。僕は玩具を買ってもらうまで床にしがみついて泣いているような子どもでした」
「…なんて迷惑な。もしかして今もやってるの?」
「この歳でしたら僕が世界中の玩具になってしまいます」
少女はクリームソーダをストローでぶくぶくする。それを男は微笑みながら見つめる。
「そういえば彼氏とはうまくやれてますか?」
「……えぇ、特に問題ないわ。ご両親とも打ち解けたし」
「ほぅ…それはなによりです」
その会話をあとに沈黙が続く。そしてしばらくして少女が口を開いた。
「そもそも代金を後払いじゃなくて、先払いにしたらいいじゃない。そしたら商品持ち逃げなんてなくなるわよ」
「えぇ…でもそんなこと今までしたことありませんし…」
「だからこそ、やるのよ」
「いやぁ…もうこの歳で新しいことを始めるのはちょっと…。それにこれは先輩から受け継いだ伝統的なセールス方法ですし」
男は苦い顔で頭をかく。それを見て少女はさらにぶくぶくする。
「あなた何度も騙されたんだから、今度は自分が相手に嘘をつこうと思わないの?」
「…それはセールスマンとしてだめでしょう?」
「だいじょうぶよ。セールスマン関係なく、この世で生きるなら嘘は絶対必要。社会人以前に学校の面接とかで、きっと多くの学生が嘘の自分を演じてアピールしてるんじゃないかしら。それは悪いことではあるけど正しいことよ」
少女はソーダを飲み干すと氷を口に放り投げて、がりがりとかみ砕く。男は苦笑いを浮かべる。
「なら、なおのこと無理です」
「…なぜ?」
「子どものころから嘘を使いこなしている人間相手に私の嘘が通じると思いません。―――あなたのときのように」
「……」
男は机にお金を置くと、鞄を持って立ち上がる。
「上手いこと騙されて、けっきょく魂は頂けませんでしたしね」
「……悪いとは思ってるわよ」
「あなたからすれば悪いとは思っていても正しい嘘だったんでしょう? 嘘をつくほうが幸せになれるなんて人間の世界は不思議だ。嘘は悪いことなのに」
そう言い残すと、男の姿は消えた。
誰もいなくなった喫茶店は、まるで少女以外のすべての時間が止まったようだった。
少女は男が飲んだコーヒーカップを見つめながら、煙草をくわえる。
「次は私のような悪い男じゃなければいいわね」
煙草を吸うその姿は実に様になっていた。