「お仕事は楽しいなぁ」
時は2月、まだまだ肌寒さが続く昼下がり。
担当ウマ娘たちがトレーニングに出向き、俺と昌の2人のみが詰めるトレーナー室に、呟いた言葉が寂しく響いた。
何か反応してもらえるかな、と思ったけど……。
昌はちらっと俺の方を見たものの、すぐに手元の書類の方に視線を戻してしまった。
「……いや、無視されるのはちょっと悲しい」
「こんなクソ忙しい中で気狂いの言葉に反応なんてしてられないから」
「昌は今日もキレッキレだねぇ」
まぁ実際、こんな雑談する暇すら惜しいくらいに、今は忙しいんだけども。
先日のURA賞発表会以来、俺たちの仕事はまた一段と増えた。
……いや、仕事が増えたっていうか、アポ取りとか確認が必要な書類、ウィルへの仕事の依頼が増えた、と言うべきか。
何かの宣伝依頼や取材っていうのは、その瞬間に話題性のある子に集中する傾向にある。
そういう意味では、つい先日、高らかに凱旋門賞への挑戦を宣言したホシノウィルム程に話題性のある存在もいないだろうからなぁ。
* * *
G1、凱旋門賞。
フランスの首都パリ、セーヌ川沿いのロンシャンレース場で行われる、芝2400メートルのレースだ。
この世界において、ウマ娘によるレースは世界中で親しまれる最大のエンターテインメント。
これは日本の中だけに限った話ではない。様々な国で様々な条件の、そして様々なウマ娘たちの参加する、たくさんのレースが行われているんだ。
それら数多くのレースの中でも、海外出身のウマ娘も受け入れて行われるレースは国際競走と呼ばれる。
実のところ、日本においても主要なG1レースはこの国際競走だったりする。勿論、毎度海外のウマ娘たちが出走しに来るわけじゃないから、国内での戦いになることも多いんだけどね。
で、その国際競走の最たるものが、去年ウィルやマックイーン、そして海外のウマ娘であるウィッチイブニングたちが走った秋のジャパンカップというわけだ。まさしく海外との決戦といったところ。
で、そんな国際レースは、当然ながら日本だけで行われるわけではなく……。
日本のウマ娘が海外遠征をすることも、珍しい話ではないわけだ。
そうして、日本のウマ娘たちが出走する、海外の国際レース。
その中でも殊に注目されるのは、やはり国際グレードにおけるトップ層、国際G1。
凱旋門賞もまた、この内の1つ。フランスで開催される国際G1レースなわけだ。
……と。
ここまでの情報だけだったら、あくまでただのG1レースの1つ、ウィルがこれまでに打ち破って来たレースと変わらないわけだけど……。
凱旋門賞は、あらゆる意味で今までのレースとは異なるものになる。
何故ならこれは、芝の世界最強決定戦と呼ばれる程の、最高峰の格を持つレースであり……。
同時に、日本のウマ娘ファンや関連者、そしてURAにとっての、最大の夢だからだ。
日本のウマ娘は、これまでに一度として、凱旋門賞に勝ったことがない。
海外のレースである時点でハードルが高く、挑んだこと自体がそこまで多くないというのもあるが……それでも、4度。
4度に渡って、日本でも最強格のウマ娘たちが、このレースに散ったのだ。
1人目は、数多の海外含む重賞レースを制し、更には天皇賞(春)を勝ち獲ったシンボリのウマ娘。
最終戦績43戦17勝、息の長い活動と残してきた戦績から「老兵」や「不死鳥」などと呼ばれた黒鹿毛の子だ。
当時はURA賞、最優秀シニア級ウマ娘にも選ばれ、更には顕彰ウマ娘という名誉も受けた。歴史に残る名バと言っていいだろう。
……だが、シニア級3年目に出走した凱旋門賞では、11着にも入れず敗北。日本が狭い井戸の中であることを、誰もが知る結果となった。
2人目は、その冠名で初めて天皇賞を勝ち獲り、家に栄華をもたらしたメジロのウマ娘。
美しい黒鹿毛をたなびかせる苛烈なウマ娘であった彼女は、天皇賞(春)と宝塚記念を制し、最優秀シニア級ウマ娘に選抜された。
……しかし、欧州に出征した彼女は、恐らく脚をバ場に合わせきれなかったか、19人立ての内で18着と大敗。
3人目は、日本のダービーを制して海外で戦った「唯我独尊の開拓者」の異名を持つシンボリのウマ娘……いや、シリウスシンボリ。
トゥインクルシリーズ登録までに色々と問題が発生したりした彼女だが、実際に走り出すとクラシック級の夏までに6戦4勝、見事にダービーを制した。
そして、幼馴染でもあるシンボリルドルフと共に海外へ渡る予定だったが、彼女の脚部不安の発生により単身遠征へ向かい……。
……しかし、彼女の気性の荒さや状況の悪さもあり、14戦0勝。レースの展開自体は好走なのだが、なかなか勝ちきれず、凱旋門賞では14着に終わった。
そして4人目が、黄金世代の一角、世界最強と謳われたターフの怪鳥、エルコンドルパサー。
たった1度、異次元の逃亡者サイレンススズカに後塵を拝したことを除けば、日本の中で誰かに遅れをとることなくNHKマイルカップやジャパンカップを制し、国内最強を証明した。
翌年、タイキシャトルの欧州遠征の波に押されるように海外遠征を決定。万全に万全を期すため、半年もの期間ヨーロッパに滞在し、現地の条件に体を慣らした上で凱旋門賞へ挑んだ。
……しかし、運命はそれを嘲笑う。
当日までに雨が続き、バ場の状況は観測史上最悪に。ただでさえ海外の重い芝がぬかるみ、どうしようもない程彼女の脚を引きずり、重バ場を得意とするモンジューにほんの半バ身差し切られたのだ。
3人目までは、10着以内に入ることすらできなかった。
世界最強と言われたエルコンドルパサーでさえも、入念な準備と研鑽を重ね、欧州の芝にも十分すぎる程に慣らして……それでも、惜敗の2着。
日本と世界の間には、未だ埋めがたい差がある。
凱旋門賞での連続する敗戦は、どうしようもない程にこれを証明してしまっているのだ。
……更に言えば、凱旋門賞に「挑もうとした」強者は、この4人だけではない。
史上初めて無敗三冠を、そして七冠を成し遂げた「永遠なる皇帝」、シンボリルドルフ。
日本史上最強と名高い彼女も、秋のヨーロッパを目指して海外遠征に出て……そして、断念せざるを得なかった。
シリウスシンボリとの海外出征に失敗した翌年、奇跡の復活を果たした彼女は再び海外を目指し……。
しかし、アメリカでのレース中、その脚に故障が発生したんだ。
勝利より、たった3度の敗北を語りたくなるウマ娘、シンボリルドルフ。彼女の最後の敗因は、海外に出て最初のレースで患った、その左足の故障だった。
故に……この国の多くのウマ娘のファンが、凱旋門賞での勝利を待ち望み、そして同時に恐れている。
数多の失敗、数多の敗北を超え、それでも日本のウマ娘に世界最強の名を手にしてほしい。
そして同時、シンボリルドルフのように海外へ挑戦することで故障が発生し、トゥインクルシリーズを引退する、などという事態になってほしくはない、と。
その上で……。
シンボリルドルフと同じく、というか彼女とたった2人きり、無敗の三冠を成し遂げたホシノウィルム。
彼女が海外遠征を、それも凱旋門賞への挑戦を申し出たのだ。
そりゃあ、とんでもない数の期待と心配が寄せられるのは道理であり……。
それだけ俺と昌にかかる負担が増えるのも、また道理だったわけだ。
* * *
ぷるる、と鳴り始めた内線電話を、昌が手慣れた手つきで取る。
あれはトレセン学園の事務室に繋がる回線だ。良かった、今度はトレセンを通した正規の依頼だな。
最近は非正規の依頼が増えて、昌がイライラしてたからね。いい加減、俺や昌のスマホの番号を特定して直接かけてくるのやめてほしいなぁ。どうせ非正規の依頼を引き受けるわけがないんだし、あっちもこっちも不愉快に終わるのが確定してるのに。
「はい、もしもし、堀野です……あぁ、はい、またその件。以前お断りしたんですけど……え、先方が条件を変えて来た?
……はい……はい。承りました、メインのトレーナーと相談した上ですぐお返事します。はい、ありがとうございました。失礼します」
ため息を吐いて受話器を置き、手元のメモにペンを走らせる昌に声をかける。
「何だって?」
「また月刊ミドル。独占インタビューさせろって」
「あー……そういえば、条件が変わったって言ってたけど」
そう訊くと、昌は指を4本立てた。
……なるほど、1回のインタビューで払うにしてはかなりの好条件だ。
まぁ、受けないんだけどさ。
「拒否しよう。悪いけど、丁重にお断りしてくれる?」
「……今更なんだけど、なんでここの取材受けないの? 条件としてはかなり良いと思うし、あっちも誠意は見せて来てると思うんだけど」
「あぁ、昌は知らなかったよね。あそこ、弥生賞の前にウィルをこき下ろした記事出してたんだよ。それだけなら意見の自由って受け入れられるんだけど、皐月賞でウィルが大勝するや否や急に手の平返して持ち上げだしてね。
戦績で簡単に手の平を返すようなメディアと付き合ったら、もしもウィルが負けた時になんて言い出すかわかんない。短期的な実利よりウマ娘の心を優先する方針だからね、堀野……じゃなくて、ウチは」
「なるほど」
メディアにも良し悪し、というか特徴がある。
例えば、裏取りを欠かさず正しい情報を記載することに定評のあるところもあれば、逆に真偽問わずセンセーショナルな記事を載せるところもある。
記者個人の考えで、その記事に載せられる情報が好意的に解釈されることも、あるいは嫌意的に解釈されることもある。
そういった違いは、どれが良い悪いではなく、どう使うかなんだけど……。
俺としては、やはり担当の子たちの心労になるような選択肢は取りたくはない、というのが本音だ。
まぁ、必要であれば情報操作の1つや2つは行うが……今のところ、月刊ミドルに恩を売る必要性は欠片たりとも存在しない。
そんなわけで却下だ却下、一昨日お越しください。
「そうやって、裏からウマ娘の心とブランドイメージを守るのも、俺たちトレーナーの仕事だよ。将来独立した時のために覚えておいて」
「……ん。参考にする」
昌は珍しく素直に俺の話を聞いてくれた後、再び受話器を取って、トレセン事務室の方に話を通し始めてくれた。
ちゃんと丁寧に断ってくれてるみたいで安心安心。流石昌、この3か月くらいでだいぶ仕事にも慣れて来てるね。
うーん、しかし。
本当はこういう渉外も俺がやるべきなんだろうけど……今は手が空いてないからなぁ。
「……はぁ」
俺は改めて、手元の資料や紙束などの山に目を落とす。処理しなきゃいけない仕事は無限に増えていく。頑張って片付けなければ。
えぇと、ウィルのグッズの認可……アウトだ。
よく見たら契約書にとんでもない落とし穴があって、この企画が頓挫したら何故かこっちが違約金を払うことになってる。詐欺とは言えないまでも、悪質なヤツだ。
あるいはわざとポシャらせて金を巻き上げて来る詐欺の可能性もあるか。たづなさんに報告してこの企業はシャットアウトしてもらおうかな。どうせ次には名前変わってそうだけど。
次、ブルボンの分の蹄鉄を発注してる会社からの、値上げのお知らせ。
……うん、これはいい。彼女たちはトップアスリート、使うものも一流であるべきだ。多少値を上げても、品質さえ落ちなければ問題ない。
これはブルボンへのトークショーの依頼……これは駄目かな。
一応カレンダーアプリを開いて見てみるけど、やっぱりこの辺は俺がトレーナー学会の発表関係で忙しくて日程が空かない。
というか無茶して空ける程、この依頼の優先度が高くないと言うべきだろうか。申し訳ないがお断りの連絡を入れなければ。
今度は……URAからの感謝の連絡。公式なものじゃなく、非公式で割と私信に近いヤツだ。
ウィルの凱旋門賞への挑戦は、URAにせっつかれたという側面もあったからな。その辺りの事情を汲んだことへの感謝が綴られている。
……あ、それから最大限に体調に気を付けてほしいとも書いてあった。完全にルドルフの件がトラウマになってるなぁ、これ。
これは取り敢えず仕舞っておこう。返事の必要とかもないだろうし。
次は……ウィルとブルボンへのファンレターが数十枚。相変わらずすごい量だ。
公式にされているわけではないが、ウマ娘へのファンレターは、学園に入る時に危険物が入ってないかなどをチェックされ、次に担当トレーナーが中身の検閲を行った上でウマ娘本人に届く。
勿論、筆者の秘密を覗くのはマナー違反だから、しっかり中身を読むわけじゃない。基本的には悪意がなければ問題なくウマ娘の元に届くことになる。
今回は……2つだけ駄目なヤツがあったが、他は問題なし。片方は内容がヤバくて、もう片方はいくつか体液が付着していた。本当にやめてほしいよこういうの。後でシュレッダーにかけに行かなければ。
で、次がウィルの……コラボ商品? いやこれ全然ウィル側に利益出ないじゃん。却下だ却下、彼女の青春の1秒1秒はこんなに安くない。提案にすら値しないよ。
はぁ……。最近、変な依頼増えたなぁ。
まぁウィルやブルボンが、それぞれ活躍したり話題を沸かせた結果と考えると、嬉しくもあり悲しくもありといったところ……。
「兄さん、事務室から日程調整してほしいって。再来週のホシノウィルムさんのアレ」
「え、なんで?」
「なんか先方のシステムエンジニアと連絡が取れないとか。その次の週にしてほしいって」
「……マジ?」
「マジ」
え? そうなるとちょっと前に処理したヤツがひっくり返るんだけど?
許可の判押しちゃったよ? え、先方にも連絡しなきゃだよ? あ、一昨日やったヤツも撤回か? というかトレーニングスケジュールも全部組み直しだよ?
「…………お仕事、楽しいなぁ」
俺、ウィルやブルボンのトレーニングを見に行ける余裕のある生活に戻りたいなって、そう思います。
と、そんなことを祈っていたら、その機会は思いの外早く訪れた。
「兄さん」
「何?」
キーボードを叩きながら上を見ると、昌も何かの書類を仕分けながらこっちに話しかけてきていた。
あっちから話を始めるのはちょっと珍しいかな、と思いながら問い返すと、彼女はちらりと視線を向けて言ってくる。
「疲れてるっぽいし、2、30分くらい担当の子たちのこと見て来たら。気分転換に」
……うわ、それ、すごい甘美な誘惑。
「いや、仕事が……」
「メンタルボコボコの状態でやってたら能率下がるでしょ」
「それを言うなら昌も」
「私は昨日1人お休みもらったから平気。兄さんは……もうしばらく仕事のことしか考えてないでしょ」
……言われてみれば、ここ数日はずっと仕事してた気がするな。
いやでも、昔はこれくらいなら、能率落とさずにこなせてたんだけどなぁ。
やっぱり気が緩んで……いや、これ、もしかして老いだろうか。齢20と少しでもう老いを感じ始めるとは……うぅ、辛い。
「……なんかろくなこと考えてなさそうだけど、とにかく行ってきて。兄さんの死んだ魚みたいな目には慣れてるけど、今の兄さんは前とは違う意味でちょっと嫌」
「辛辣ぅ」
こんな言い方だけど、昌が俺の体調を気遣ってくれているのは間違いない。
……うん、正直、ちょっとネガティブになってきてるってのは自覚できてる。ここは彼女の好意に甘えてもいいかな。
「ごめん、じゃあちょっとミホノブルボンのこと見て来る」
「ん。判断できないことがあったら保留しとくから」
「ごめんね。今度はこっちが時間作るから、しばらくお願い、昌」
「……うん。ちゃんと疲れ取って来てね」
優しい妹を持つと、こういう時に頼れるなぁ。今度何かプレゼント……お菓子の詰め合わせでも贈ろう。
俺はバキバキ言う体を動かしながら、トレーナー室のドアに向かった。
* * *
さっき昌に上から目線で語った通り、トレーナーの仕事とは、何も担当ウマ娘のトレーニングスケジュールの立案だけではない。
この辺世間からは勘違いされがちなんだけど、実はそれと同じくらいに書類の確認や整理処理、渉外に調べものなどを強いられるんだ。
ぶっちゃけ、トレーナーという言葉はこの職業の本質を指してない。
俺たちの仕事を正しく表現するとしたら、どちらかと言えばマネージャーとかプロデューサーの方が近いだろう。
トレーニングを付けるだけではなく、担当ウマ娘とコミュニケーションを図り、その想いを汲み取り、URAの営利性や世間の在り方とすり合わせながらそれを実現できる方向性を探り、雑務や渉外をこなしながら総合的に彼女たちを支える……。
……いや、これもうマネージャーとかプロデューサーですらなくない? もはや親以上に彼女たちを支えてない? と思わないでもないが。
プロのアスリートであり、他のことに気を割いてはいられない競走ウマ娘たちを支えるとなれば、これくらいのことはしなきゃいけないわけだ。
で、それら業務の内には、ウマ娘の心や名誉、あとブランドイメージを守るとか、定期的にトレーニングの様子を窺うことも含まれるわけで……。
つまるところ、俺が担当の様子を見に行くのも、また立派なお仕事の1つ。
なのに、なんで書類仕事と違って、こんなに心躍るんだろうな。
やっぱりアレか、俺がウマ娘の走る姿が好きだったからだろうか。
いや、単に彼女たちの育成に関係しない書類仕事が、単調で面白みがないからって可能性もあるが……今は、それは置いておこう。
もはや語る必要もないだろうが、俺には2人のウマ娘がいる。ホシノウィルムとミホノブルボンだ。
両者ともに逃げを得意とし、というかほぼ逃げしかしないが、そうして脚質を読まれやすい状況にあってなお、レースでは他を圧倒して寄せ付けない程の抜群の素質の持ち主たち。
おおよそレースとなると敵なしの2人なのだが、忘れてはいけないのが、この子たちはまだ中等部の普通の女の子でもあるってこと。
この年頃、思春期の女の子というのは、とかく暴走しがちだ。大人である俺や昌がきちんと見ていなければ、おかしな方向に行ってしまう可能性もある。
……いや、彼女たちが普通の思春期の女の子かと言うと……うん、難しいところもあるんだけども。
年齢以上の精神力や思考能力を見せることのあるウィル、意思が薄弱で思春期に入っているか怪しいブルボンと、その方向性は逆ではあれど、彼女たちは一般的なウマ娘からはズレているところがある。
最近のウィルは比較的健全に近づいてきているが、やはりたまに、どことなく精神的に成熟しているところが見え隠れするしな。
ウィルは自分の欲望を我慢したり、理屈で物事を呑み込める賢い子だし、ブルボンの方は合理的な理由があれば基本的に言うことに従ってくれる。
そういう意味では、他のウマ娘たちと比べて、あまり手のかからない子たちだと言えるだろう。
まぁその分、彼女たちの残すとんでもない戦績のおかげで、俺たちが忙しいのは変わらないんだが……。
で、そんなブルボンのトレーニングを見に行ったんだけど……。
彼女はやはり無表情で、真面目に取り組んでいた。
今日の彼女のトレーニングはジムでのランニングマシーンの使用によるミドルペースの長時間維持。
きちんと矯正された綺麗なフォームで走っていた彼女は、遠くから歩いて来る俺を認識するとマシーンを降り、ペコリと頭を下げて来た。
「マスター……お疲れ様、です」
「お疲れ様、ブルボン。少し様子を見に来た。調子はどうだ」
「コンディション、イエロー。僅かながら、疲労を検知しています。しかし、まだ問題なくトレーニングを続行することが可能であると考えます。
また、トレーニングの結果は、昨日に比べて平均プラスコンマ9秒。半月を通して目標値を僅かに上回っています」
「うん、報告ありがとう。」
「マスターのプランあってこそです。こちらこそ、ありがとうございます」
改めて、ペコリと頭を下げてくるブルボン。本当に真面目で良い子だな。
彼女が自己申告してきた内容、特に体力の部分は……うん、かなり正確だ。
俺の「アプリ転生」で見ても、彼女の体力減少はそこそこといったところ。トレーニングは問題なく継続できるだろう。
この辺りを客観的に見ることができるのも、ブルボンが手のかからない要因の1つだな。
一方でトレーニングの結果に関しては、「アプリ転生」で見ることができるわけではないが、こちらも定期的に取っている数字を見るに正しいはずだ。驚いたことに、コンマ単位まで合ってる。
……時々、彼女は体内に計器か何か持ってるんじゃないかって思う。なんでそこまで正確に測れるの? ミドルペース、つまりレースでのペースで走りながらだよ?
流石にウィルでもそこまでは……あぁいや、できそうだなあの子なら。思考力増加とかいう能力まで持ってるし……。
……さて。
ブルボンはこのように、理論と数字で物を考える、非常に手のかからないウマ娘だ。
とはいえ、完全に安全というわけではないのが難しいところで……。
「マスター、クラシック三冠に向かったフローチャートは万全でしょうか」
「うむ、問題ない。ステータスの面で言えば、計画と実態の誤差は数字にして5%以内、修正可能なラインを維持している」
「私の適性については」
「そこに関しては何とも言えないというのが実情だ。ただ、客観的なデータの上では、君の中距離以上の走りの技術は確実に向上していっている。焦る必要はない」
「了解しました」
基本的に理論と数字で全てを納得してくれる彼女だが、クラシック三冠への拘りだけは非常に強い。
どれだけ説かれても前のトレーナーの「スプリンター、マイラー路線で戦う」という話を吞まなかったように、彼女にとってそれはあらゆる理屈や正論を超えた、絶対的な価値。
一時期のウィルの敗北への忌避のように、呪いにまでなっている様子はないが、執着……いや、固執と言えるレベルのものだろう。
ただ、ブルボンの三冠への拘りは、かつてのウィルのそれとは違い、その身や心を削るものではない。
むしろ、彼女が前を向いて努力するための良いモチベーションになっている。
悪い方向に転ばないよう様子見は必要だろうが、今のところ手を出す必要はないだろう、というのが俺の考えだった。
まぁ、人間……いや、彼女の場合はウマ娘か。ウマ娘なら、拘りの1つでも持っていた方が良いだろうとも思うしね。
例えばウィルなら、走り……というか、誰かとの激しいレースを楽しむことに拘っている。これは執着というよりは嗜好だろうが、拘りであることには変わりはないだろう。
例えば昌なら……うーん、自分の心に素直なことだろうか。あの子、その辺りを繕うことはあっても、嘘を吐くようなことは滅多にないしな。
例えば俺なら…………え、思えば俺の拘りって何だろう。強いて言えば、彼女たちを幸せな未来に導ければ何よりだとは思うんだけど、それはトレーナーとして当然のことだしな……。
まぁいいや。
とにかく、ブルボンだってモチベーションになる拘りの1つや2つ、持っても問題はないだろう。
特にクラシック三冠となれば、最終的な目標としてもわかりやすいし、トレーナー的な観点からしても心理的に掴みやすいからね。
ウィルなんて、「やだやだ自主トレしたい模擬レースしたいモード」になると、あんま言うこと聞いてくれなくなるからな……。
この前なんか休んでもらうために1日一緒にお出かけを強いられたりしたし。いや、それ自体は充実した時間だったから良いんだけどさ。
そんな1人目の担当ウマ娘に対して、三冠を獲るためだと言えば素直に言うことを聞いてくれるブルボンは、かなり付き合いやすい部類だと言えるだろう。
……まぁ、それは同時、俺が判断を間違えたら彼女は失敗してしまうっていう意味でもあるけどね。
「アプリ転生」や堀野の膨大なデータがあるとはいえ、そこに関しては重々気を付けなければ。前世のアプリとは違ってたった1度きりの人生、失敗は許されないんだから。
とはいえ、気を引き締め直してすぐに慢心するような感じになってしまうが……。
ブルボンにも言った通り、彼女のステータスの伸びは計画の誤差範囲内で進んでいる。ウィル程ではないにせよ、世代の中では頭1つ……いや、2つ抜けている。
定期的にトレーニングを共にする、彼女の夢の最大の障害足りうるライスシャワーに比べてもなお、僅かに劣ったスタミナを除けば全てが上回っている。
三冠達成への道筋は、今のところ順調だと言っていいだろう。
……不安要素があるとすれば、俺の目と知識でも完全には管理しきれない適性面、そして彼女の持つ掛かり癖だろうな。
適性に関しては、今のところ「アプリ転生」の表記上は『中距離:B』から変わっていないものの、彼女のペース管理は上手くなってきているし、少なくとも皐月賞と日本ダービーに関しては問題ないとは思うが……。
問題はやはり、年末の朝日杯でも彼女を苦しめた掛かり癖だな。
これは、彼女の持って生まれた気性だ。簡単に覆せるものじゃないし、それが本番で起こってしまえば、彼女の強みである一定ペースでのサイボーグじみた走りはできなくなってしまうだろう。
今はウィルや、ブルボンの同級生であるソウリクロスと走らせ、自分の周りでウマ娘が走っている感覚に慣れさせようとしているが……果たしてこれがどこまで有効に働くかは不透明だ。
これまでの歴史から考えれば、効果がないわけではないはずだが……これまでの歴史上で正しかったことが、彼女にとっても正しいとは限らないからなぁ。
とはいえ、これらの不安を彼女に感じさせる必要はない。……少なくとも、今のところは。
「よし、ブルボン、トレーニング再開。ここで見ているから、しっかりと励むように」
「了解。残り22分、ミホノブルボン、奮起します」
胸に手を当ててそう応えると、ブルボンはランニングマシーンに乗り、走り出した。
* * *
それからブルボンが休憩時間に入るまで、俺は彼女のトレーニングの調子を眺めていた。
彼女は基本的に無表情だったが、流石に疲労を感じないわけではないんだろう、僅かに唇を強く結んでいるようだった。
それでもなお、殆ど表情に出ないっていうのがなかなかすごい気もするけどね。
……しかし、こうして頑張る彼女の姿を見ていると、こう、何かご褒美とかあげたくなるな。
「ブルボン、いつも頑張ってるし、今度久々に皆で外食にでも行こうか」
「! ……はい、了解しました」
休憩のためにベンチに座ったブルボンにそう言うと、彼女はほんの少しだけ尻尾をピンと立て、すぐに平常に戻して頷いた。
忘れがちだけど、彼女はこう見えてもサイボーグでも何でもない、美味しいものをたくさん食べられることを喜ぶくらいには普通の女の子なんだよな。
勿論クラシック三冠程にはならないにしても、こういうご褒美が、日々を頑張る小さなモチベーションになればいいなと思う。
……しかし、どうか食べ放題で勘弁してはくれまいか。
普段はトレーナー業務以外ではほとんど使わないとはいえ、流石に俺のお財布にも上限があるからさ。
日常回って久々に書くと書き方忘れますね。なんか纏まりのない話になっちゃってちょっと反省です。
次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、戦争と実弾準備のお話。
(追記)
誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!