大阪杯直後、ホシノウィルム陣営に何が起こっていたか、その真実に迫る。
私の下の兄は、苛烈か温厚かで言えば、極めて温厚な方だと言えるだろう。
そもそも生まれてこの方、兄さんがキレてるところとか、見たことないし。
私が如何に兄さんに辛く当たろうとも、軽く罵倒しようとも、あるいは直球にバ鹿にしようとも、むしろ申し訳なさそうな顔してぺこぺこ謝って来るくらいだ。
一番感情を出したのは……多分、私に前世の記憶の件を打ち明けてくれた時か。
でも、あの時に感じたのは怒りじゃなく、深すぎるくらいの絶望だけだった。
……そう。兄さんは生まれた瞬間から、その根底に暗い絶望を抱えていた。
その暗闇が、怒りだとか悲しみなんていう感情を塗り潰していた部分もあったんだと思う。
表に出て来る感情は、義務感、責任感、そして小さな親愛と……それから、憐憫ばかりで。
そんな、見てるだけでイライラする人間こそが、私の下の兄さんだった。
強いて例外を挙げれば、トレセンに入る一週間前くらいからは、珍しくテンションが高かったことを覚えてるけど……。
幼い頃のことはあまり覚えてないけど、兄さん、少なくとも私の自我が芽生える頃からはずっとトレーナーになるための研鑽を続けてたもんね。
いくら呪われてたとしても人間であることには変わりないわけで、流石にその努力が実を結んで嬉しかった……のかもしれない。
……いや、嬉しかったっていうか、「ようやく誰かを助けられる立場になった」っていう安堵感かな。
兄さん本人が『彼女』のこと、そして初等部の頃の記憶を忘れてしまった今、もはやそれは、妄想する他ないことになってしまったんだけど。
ともかく、兄さんはすごく温厚な人だ。
それは呪いが解けた現在も変わらない。
感情が表に出て来ること自体は増えたけど、長い間続けてきた在り方が癖になったのか、少なくとも激情を周りにまき散らすようなことは今までになかった。
むしろ前まであった緊張感というか束縛感というか、そういうものが消えたことで、以前にも増してのほほんとしているというか……良い意味で肩の力が抜けた感じだった。
いや、もちろん締まるべきところは締まってるんだけどさ。
多分兄さんにとって、多少不愉快なことがあったとしても、それを補って余りある程に……今が、幸せなんだろう。
目に見えない使命感に動かされるわけではなく、自分が育てるウマ娘たちと触れ合えること。そして自分を慕ってくれるウマ娘たちを、のびのびと育成できること。
それは兄さんにとって……前世まで含めればそれこそ数十年ぶりになるだろう、達成感のある日々だっただろうから。
だから兄さんは、感情を荒立たせることなく、幸せに毎日を過ごしていて。
私はそれに、確かに『彼女』の為したことの意味を感じていて。
……けれど、だからこそ。
「ウィルッ!?」
初めて聞いた大声に、思わず、身が竦ませた。
春の中長距離G1レース群、俗に言うところの春シニア三冠。
その1本目にあたる、大阪杯。
迫り来るテイオーさんからなんとか逃げ切り、勝利を収めたホシノウィルムさんだったけど……。
彼女はゴールするや否や、スピードを落として、倒れ込んでしまった。
そして、それを見た兄さんは、大声を上げたのだ。
兄さんは、極めて緻密なデータ主義者だ。
信じ難いことに実在したらしい転生チートを用いた観察による数値と、堀野の家に蓄えられたもはや誰も見向きもしないデータ群の記憶。
これらを用いて、これから何が起こるかの予測を、未来予知にも等しいレベルで行うことができる。
だからこそ兄さんは、データのみで予測できることにめっぽう強いんだ。
……でも、それは、さかしまに言えば。
データで予測できないことに弱い、ってことも意味する。
例えば、領域がその典型例だろう。
ウマ娘たちが引き起こす、私たち人間には観測できない、正体不明の現象。
アレは多分、ウマ娘の魂が起こしている現象だ。領域が開く前に彼女たちの「色」が煌めくことからして間違いないと思う。
つまり領域というのは、今もスタンドの隅っこからホシノウィルムさんのことを見守っている2人と同じような、不可思議なミステリー現象なのだろう。
そりゃあ科学的には観測できないだろうね。霊感とか霊障とかそっち系のモノは、基本的に科学と相性が悪いし。
これを感じられる人間は、本当にごく一部、変なモノを見てしまう私の同類だけだろう。
これに関してはいくらチート持ちの兄さんといえども例外ではなく、私が時々見るよくわからないモノどもを観測することはできないっぽい。
領域を引き起こす「色」についても……この前話した時、なんとなくうっすら理解しているような感じもしたけど、ハッキリとわかってるような様子じゃなかったし。
つまるところ、当たり前の話だけど、兄さんはウマ娘の全てを理解できているわけじゃないんだ。
領域の解放とか、彼女たちの不可思議な因縁……そして、ホシノウィルムさんの特殊な能力といったものについて、兄さんは確かな予測ができるわけじゃない。
そうして、だからこそ今、兄さんは……。
完全に想定外の、決して認めがたい現実を前にして、絶叫したのだろう。
正直に言うと、めちゃくちゃビビった。
想定外の事態に直面したのは、兄さんだけじゃない。
「まさか兄さんがそんな声を上げるとは思わなかった」という意味であれば、私だってとんでもなく想定外だもの。
だからこそ、私の体は硬直してしまって……。
……けれど、一瞬の後に動き出せたのは、幼少の頃から学んできた護身術のおかげだった。
恐怖とか衝撃っていうのは、どうしても身を竦ませる。
危険を感じ取った脳が、全身に行動の抑制命令を出してしまうからだ。
そういう時にもなお自由に体を動かす方法は、私の知る限り2つ。
そういった鉄火場に、体と頭を慣らしておくか……。
あるいは、そういった状況においても必要な行動を行う、というルーティンを組んでおくこと。
私たち堀野家のやり方は、後者。
何が起こっても、その時に取るべきだと思った行動を取る。
それを「癖」として、体に沁み込ませるのだ。
そして、ホシノウィルムさんが倒れ込んだその時。
兄さんにとっての「取るべき行動」は、周りの観客を突き飛ばしてでも彼女の下に走ることで……。
私にとっての「取るべき行動」は……。
「っ!」
兄さんの襟元を掴み上げ、思いっきり引っ叩くことだった。
断っておくと、私は決して暴力的な女じゃない。
言葉の暴力って意味ならともかく、実際に誰かに手を上げることは滅多にない。そういうのって前時代的だと思うし、避けるに越したことはないと思う。
名家に生まれた責務として護身術を習いこそしたけれど、これは文字通り身を護るための術。積極的攻撃に使うものじゃないし。
事なかれ主義と笑いたければ笑え。荒っぽいことは不幸しか生まないし、ないに越したことはないのだ。
だが同時、技というものは、振るうべき時には振るわなければ意味がない。
それと同じように、肉親への暴力というのもまた、振るうべき時には振るわねばならないんだ。
……いや、これは加害者側が言うべきことじゃないってのはわかってるけど。
それでも、良くないやり方だってわかってても、私にはこうしなきゃいけない義務がある。
具体的に言えば。
腐っても自分と同じ家で育った兄が、少なからず尊敬している兄が、焦りと動揺から間違った対応を取りそうになった時は……。
妹である私こそが、止めなきゃいけないんだろう。
叩かれた頬を赤くして、こっちを……っ、こっちを、血走った目で見て来る兄に向かって。
私は、叫んだ。
「落ち着け、バ鹿兄! 今アンタがすべきことは何!? 感情任せに暴走すること!?
違うでしょ!! 冷静沈着に状況に対処する、じゃないの!?」
……マズいな、ちょっと注目されてる。
隣にいたミホノブルボンさんもそうだけど、周りにいる観客たちが……倒れたホシノウィルムさんに啞然としてた人たちが、何事かとこっちを見てる。
私はまだ新人だからともかく、もはやかなりの知名度を持ってる兄さんに、変な風評が付くのは好ましくないんだけど……。
……むしろ、今の兄さんには、その環境が良かったのかもしれない。
「っ!」
私の声と観客の目線にようやく熱が冷めたのか、兄さんははっとしたような表情を浮かべる。
そして数秒目をつぶって深呼吸した後、しっかりとネクタイを締め直して、こっちを見てくる。
「……ごめん、助かった、昌」
その目は……数秒前に見たものとは別物で、いつもの兄さんのものだった。
「ん。さっさと彼女のところに行って来て」
「了解」
そう言って兄さんは、観客たちの間を縫ってターフの方へ向かう。
……あの様子なら、取り敢えず大丈夫かな。
ちらと見たターフの上では、ホシノウィルムさんが四つん這いのまま。
全身が小さく震えてるけど……脚が特別震えてるわけじゃない。まだ希望はあるはずだ。
とにかく、今は少しでも、彼女のサブトレーナーとしてすべきことをしなければ。
私は振り向き、いつも通り落ち着いて……いるように見えて、どこか落ち着かない様子のミホノブルボンさんに声をかけた。
「ごめんなさい、お見苦しいところをお見せして。……それで、早速で申し訳ないんだけど、ホシノウィルムさんのために医務室に場所を取ってもらいに行きます。ミホノブルボンさん、手伝ってもらえますか?」
「……了解しました」
* * *
……と。
そんな感じで、私たちは割とシリアスな一幕を送っていたんだけど。
医務室に緊急移送された本人は……。
「それで、テイオーがズバァッ!! ってすっごい走って来て! こりゃ負けられないぞって思って、こうなったらやってやる! ってアニ……思考力増加を早めに使ってですね! いや確かにちょっと早すぎたっていうかハロン棒まではもうちょっと距離があったんですけど、これを覚えて早1年、そろそろ成長とかしてもしかしたら制限時間伸びてるかなって思って!」
この様子である。
私は思わず、眉を揉んだ。
……こう、なんというか、温度差がすごい。
私のトレーナーバッジとミホノブルボンさんのよく知れた顔でなんとか医務室の一角を借り受けて、待機すること数分。
兄さんにお姫様抱っこされて、医務室に運ばれてきたホシノウィルムさん。
彼女は素人目で見ても、かなり苦しそうにしていた。実際、10分くらいはベッドの上でじっとしてたんだけど……。
時間が経つにつれて少しずつ楽になってきたらしく、彼女はその内、私たちに向けて自主的に状況を説明し出した。
以下、要約。
大阪杯終盤、このままではトウカイテイオーさんに負けると思い、ホシノウィルムさんは「思考力増加能力」を30秒という制限時間を超過して使用した。
それは5秒という短い時間ではあったけど、それでもどうやら彼女の脳に強い負荷を与えたらしい。
ズキリという頭痛を皮切りにして、彼女は「頭の中がぐっちゃぐちゃになっていく」感覚を味わった。
なんとかトウカイテイオーさんに勝とうとゴールまでは耐えきって、直後に能力をオフ。
しかし時既に遅く、体が痺れてまともに立つことすらできなくなり、また思考もまともに利かなくなってしまった……と。
どうやら、以上が事の顛末だったらしい。
で、それを話し終わるくらいには、ホシノウィルムさんもだいぶ元気……というか、思考力? が戻って来たらしく。
ベッドで上体を起こして、「そんなことよりですね!」と今日のレースの楽しさについて語り始めてしまった、というわけだった。
……普段であれば。
私も兄さんもミホノブルボンさんも、楽し気にレースを語る彼女を、微笑ましく見守っただろう。
ホシノウィルムさんは、年齢にはそぐわない程冷静で理知的なところもあれば、逆に年齢にはそぐわない程幼げでいたいけなところがある、不思議なウマ娘だ。
殊にレースの前後は、彼女の幼さ……というか、目の前のことに盲目的に没頭してしまうところが出る。
私たちは、あくまで個人的にはだけど、彼女のそういうところが嫌いではないんだ。
いつもクールな──あぁいや、兄さんの前ではそれはもうお砂糖ドロドロの頭お花畑な思春期ガールになっちゃうけど、兄さんのいない場所ではクールな──ホシノウィルムさんが、そういう部分を見せてくれるというのは、信頼を感じるし。
……だけど。
今この場で、そういった弁を振るうのは……ちょっとアレだったかもしれない。
なにせ、私の横にいる兄さんから、ちょっとばかりチクチクした雰囲気が漏れ出てるし。
「それでですね! やっぱり終盤もすごかったんですけど、中盤以降ガンガン前に出て来るテイオーの威圧感ったらもう……」
「ウィル」
「あ、はい」
それは、静かな呼び声だった。
でも同時、今まで聞いた兄さんの声の中で、一番威圧感のあるものだった。
……あー、すごい。
兄さん、未だかつて見たことないキレ方してる。
「レース前に、言ったはずだ。君が領域を開き切れず、最終直線に入った時点で5バ身以内に迫られたら、それはもう敗北のパターンだと。そうなれば、俺と君の敗北だ、と」
「あ、いや、そうなんですけど……でも、勝ちたくてですね?」
「それは理解する。君もウマ娘として、勝ちたい気持ちはあるだろうな。
……それで、君の気持ちのままに走った結果、レースの後、どうなった」
「どうなったって……さっき言った通りレース後に倒れ込んで」
「その後は?」
「その後? ……えっと、すみません、正直言うとちょっとまだ、記憶とか意識が曖昧で」
ホシノウィルムさんは、少し考え込むように首を傾げた。
あ、良かった、記憶が混濁してたのか。
いや、それを良かったって言うのはちょっとアレだけど、兄さんとかファンの人たちの想いとか考えずにはしゃぐような子じゃないはずって思ってたからね。
彼女はまだ中等部3年生。本来は、それくらい自分勝手でも許される歳ではあるんだけど……。
それでもこの子、一応プロのアスリート兼アイドルだからね。
自分が楽しむのも勿論大事だけど、同時にファンのこととか……ついで程度に、私たちのことも考えてもらわなくちゃならない。
……うん、酷なことを強いてるっていう自覚はある。
私が中学生の頃なんて、身内の権力争いモドキとか家族とのぎくしゃくとか自分のことで精一杯で、とてもじゃないけど他人のことなんて気にしてられなかったのに。
自分にできなかったことを子供に求めるなんて、大人の傲慢だ。本当はすべきじゃないんだろうけど。
なんて。
私がそんなことを考えている前で、ホシノウィルムさんは「あ」と口を開いた後、すさまじく引きつった表情を浮かべた。
「……あ、あの、歩さん。色々と言いたいことはあるんですけど……ひとまず、あの件に関してはちょっと記憶の中から消してもらえると……」
……あぁ、うん。
あの件って言うと、その、乙女の尊厳を吐き出しちゃった件かな。確かに、恋する乙女としてアレは……うん、ちょっと痛手だったかもしれない。
いやまぁ、ウチの兄は真剣に走った末のアレ程度で、ホシノウィルムさんに嫌なイメージを持ったりはしないだろうけど……本人としてはそりゃあ気になるよね。
でもね、今はそこが本題じゃないんだ、ホシノウィルムさん。
「ホシノウィルム」
兄さんは、一層増す威圧感と共に、彼女の名を呼ぶ。
多分それで、ようやくホシノウィルムさんは兄さんの激情に気付いたんだろう。
「あ、あれ? え、あの……もしかして、その、怒ってたり、します?」
「ホシノウィルム」
「はっ、はい!」
いや、横からの威圧感エグいってホントに。
今まで護身術の訓練として実戦形式やった時でさえ、ここまでの威圧感はなかったぞ。もしかして本気度の違いみたいなヤツ? 相手の骨を折る気でやる訓練より殺意が高いとか、正直怖いんだけど?
とはいえ、今更私に止められる話じゃないし、下手に茶々を入れて兄さんを刺激すべきじゃないだろう。
私は努めて無表情を保って、兄さんとホシノウィルムさんの話の行方を見守った。
「君の勝利に拘る気持ち自体は、決して否定すべきものではないと思う。
だがな、ホシノウィルム。君が無理をして……骨折するなり、脳を患うなりすれば、君を応援していた人たちの想いはどうなる?」
「あ……えと」
「その上で……言ったはずだ。今回は敗北するパターンだ、と。
今回は、俺の情報戦と調整の負けであり、君の地力と運の負けだった。俺たちとテイオーたちでは、後者の方が上回った。今回の大阪杯は実質的な敗北、それが真実だ。
勿論、俺が君に敗因を作ったのは申し訳なく思うが……」
「そんなっ!? 歩さんは、あれだけ私のことを考えて……」
「関係ない。俺は君に対して、完全な策を用意できなかった。それだけが真実だ。
そして同時……こう言うのはなんだが、君はそうして俺に足を引っ張られた上で、テイオーの猛追を跳ね除け5バ身後方まで近付けさせない程の実力はなかった」
「……それは、確かに、そうですけど」
「その結果、君はレースの熱に浮かされすぎて、無理をした。自分の脚や脳の寿命を縮めかねない……そんな方法を取ってしまった」
「……っ!」
「俺の不徳の致すところだ。君を万全な状態に仕上げられなかった。君に完璧な作戦を与えられなかった。
だから君の取った判断、その責任の一部は俺の負うべきものでもある。
そんな俺の言えたことではないが……俺はパートナーとして、君に、そんなリスクのある判断を取って欲しくはなかったよ」
…………いや、エグい。
あまりにもエグすぎる……。
相手に理解を示した後、最悪のケースを想定、現実を突きつけ、自分も悪かったと謝罪、しかし相手の同情は拒絶し、自分と半同一化した相手の非難、そして本題である相手の選択の否定、再び自分も悪かったとケアして、ここまで理屈攻めしてきたくせに最後の最後で感情論。
良くも悪くも、流石は堀野で誰より必死に学んだ兄の交渉術って感じだ。
……しかし、こうも理知的に相手の心を追い詰める弁舌、担当ウマ娘に向けるかね、フツー。
いやまぁ、今後こういう無理な選択を取ってほしくないって気持ち、そのために一度強く言う必要があるって意図はわかるけどね。
実際、ホシノウィルムさんの取った選択は、多くの人は望まない、あまりにもリスクの高すぎるものだっただろう。
「思考力増加能力」は非常に強力だが、使い過ぎれば強い頭痛が走り、その内まともに走れなくなる、ってことは既に検証が済んでいた。
結果的には無事に済んだけど、もしもレースでトップスピードに乗っている間にその「走れなくなる」状態になってしまえば、彼女はまともに受け身も取れない状態で、70キロという速度で投げ出されてしまっていたかもしれない。
彼女はそのリスクのある選択を、制限時間が伸びているかもしれないという希望的観測と、トウカイテイオーに勝ちたいという一時的な欲望を元に、取ってしまったのだ。
トレーナーとしても、保護者としても、その選択は決して褒められたものではないだろう。
……殊にそれが、担当の勝利ではなく、担当が健全に走り続けることを第一に考えているだろう、兄さんからすれば、尚更に。
それについてきちんと話し、本人に自覚を持たせるのも、あるいはトレーナーの仕事なのかもしれない。
それにしてもやっぱり、ここまで心を抉る必要はあったのかなぁと思うけど……。
……あぁいや、つまるところ、そういうことか。
あの場で完全に焦りとか恐怖とか怒りを抑え込んだものと思ってたけど、そうじゃなくて。
兄さんは今も、ホシノウィルムさんに怒っているんだ。
だからこそ、ちょっとだけ、八つ当たりしちゃってる……の、かも。
大人としては、ちょっとアレな態度かもしれないけど……。
兄さん、幼少の頃の経験を考えれば、精神的な成長は小学生の時点から止まっちゃってたかもしれないんだ。これくらいは許してあげるべきかもしれない。
思えばこの2人、似た者同士でもあるんだな。
年齢にそぐわない程賢いところもあれば、逆に幼いところもある。
その特徴は、ある意味では兄さんにも当てはまるんだ。
要するにコレ、思わずやりすぎちゃった子供と、それに納得できない子供だ。
そんな2人に、思わず私は苦笑しかけてしまったんだけど……。
「ごっ……ごめん、なさい」
そう言ったホシノウィルムさんは、唇を結んで俯いた。
多分ホシノウィルムさんにとっては、兄さんから強い怒気をぶつけられるのは、相当に堪えることだったんだろう。
熱していた思考は冷や水をかけられるように冷静になり、そうして初めて自分がしたことを振り返った。
新たなる無敗三冠ウマ娘、ホシノウィルム。
彼女は今、世間から最も多く注目されている存在だ。
彼女は今回の大阪杯の勝利によってG1レースを7勝し、ついにシンボリルドルフに並んでこの世界で最も高い頂に辿り着いた。
それはつまり……次走である天皇賞(春)に勝ってしまえば、ついに史上唯一無二の戦績を手に入れる、という意味でもある。
更に、今秋には世界最高峰のG1レースである凱旋門賞にも挑戦するし、夢の舞台でスペシャルウィークへリベンジすることを多くのファンが待っている。
そんな彼女に、脳の障害なり、脚の故障が発生して、競走能力が失われてしまえば……。
多くのファンが……そして誰よりも兄さんが絶望することは、想像に難くない。
勿論、その上でも走ると言うのなら、それを止める手立ては、私たちにはない。
競走ウマ娘の中には、そうやって一瞬の輝きのために全てを投じるような子もいる。
それが本人の望みであれば、私たちトレーナーは、それに殉じなければならない。
……いや、これはトレーナーではなく、「堀野のトレーナー」の思考になるかもしれないけど。
でも、ホシノウィルムさんは、きっとそれを望んでいたわけじゃない。
兄さんがホシノウィルムさんに、何よりも無事に帰還することを望む人ならば……。
ホシノウィルムさんは兄さんに、何よりも幸せに救われることを望んでくれる子だから。
「わ、私……歩さんと、勝ちたいって、思って。テイオーに負けたくないって……。
違うんです、私、歩さんを悲しませたかったわけじゃなくて、勝って、一緒に喜びたくて……」
ホシノウィルムさんは、その目を潤ませて、取り繕うように、縋りつくように言って……。
兄さんはその表情を見て、一瞬たじろいだように止まった後、その言葉に、頭を撫でることで応えた。
「……すまん、俺も冷静じゃなかった。君のことを責めたかったわけじゃなかったんだ。
君が頑張ってくれたことは、その意思自体は、とても嬉しい。でも……それで君を喪うことになれば、俺は多分、めちゃくちゃにへこむ。
だから……」
その柔らかそうな髪を撫でていた手が、ゆっくりと滑って、彼女の頬に流れた涙を拭った。
「だから、俺のエゴになって悪いと思うけど、どうか無理はしないでくれ。
俺だって君と勝ちたいが……今日勝って終わるよりも、明日も明後日も勝ち続ける道を選びたいんだ」
それはまるで、あの日本ダービーのトウカイテイオーのように。
そこで全てを使い切るのではなく、この
それはきっと、ウマ娘によっては、決して受け入れがたい方針だっただろうけど……。
「はい! 私も歩さんと、もっと走っていたい、です!」
そう言って、ホシノウィルムさんは、涙を流しながら兄さんに抱き着いた。
* * *
ホシノウィルムさんの方向性を再確認した後。
彼女が本当に大丈夫なのか、多少(兄さん基準)の医療の知識を持つ兄さんが軽く診察して。
取り敢えず無事であることを確認して、改めてこれをどう処理するか皆で頭を悩ませて。
ホシノウィルムさんが「ファンの皆さんを安心させるために、ウイニングライブだけはどうしても出たい」と主張したから、軽く動いて眩暈や頭痛がしないか確認して。
ひとまず脳震盪か何かを起こしたということにして、ウマッターからファンの方々に報道して。
ライブ直前までしっかりと安静にしてもらいながら、私とミホノブルボンさんは外して、兄さんと2人きりで話してもらって。
ホシノウィルムさんはバッチリとライブ曲を踊り切った後、アピールでファンの方々に感謝すると同時、心配をかけたことを謝罪もして。
それからすぐ、近くのウマ娘専門病院に直行。
数時間の精密検査の果てに、脚にも頭にもなんら異常がないことを確認して、その日は終わった。
一応今後経過観察していく予定だけど、ひとまず悲観するような状況ではないようだ。
……はぁ、本当に良かった。正直、トレーナー免許試験の合否確認の時よりずっと肝が冷えたよ。
で。
大阪杯は阪神レース場で行われる。当然、中央のトレセン学園までは相当距離があるわけだ。
こうして精密検査などに時間を使えば、とてもじゃないが日帰りはできず、ホテルを取ることになった。
そうして、本日の女子部屋となった、かなりお高めの部屋で。
私とミホノブルボンさんの見守る前で、不可能を覆す灰の龍、無敗の三冠ウマ娘、あるいは七冠ウマ娘たるホシノウィルムさんは……。
「今日は本当にご迷惑おかけしました……」
見事な土下座を敢行していた。
「ちょっと、顔を上げてくださいホシノウィルムさん! もうそれは決着の付いた話ですし、そこまでしなくとも結構ですから!」
「そうです、ウィルム先輩。謝ることなどありません、どうか顔を上げてください」
そんな感じで、しっかりと謝罪を済ませてきたウィルムさんと共に……。
私とミホノブルボンさんは、夜が更けるまで、色々お話をして過ごしたのだった。
いやまぁ色々っていうか、主にホシノウィルムさんの恋バナとか、ミホノブルボンさんの走りについてばかりだったけども。
ちなみに女子会が行われている頃、堀野君は「なんで俺はあんな言い方を……そもそも勝ちたいと望むことに罪はないし……あんなに平静を欠くなんて、トレーナー失格じゃないか……」と落ち込んでいる模様。
競走ウマ娘としての在り方って十人十色というか、一瞬の煌めきに賭けたい子もいれば、逆に息長く走りたい子もいると思います。
そんな中で、改めて明確になった2人の方針は「安全第一、無理は厳禁」。
……まぁ、堀野君はウィルにあまあまなので、許容できる範囲では許容するでしょうが。
次回は3、4日後。別視点で、誇りと在り方の話。
今回の別視点は次回で終了。登場人物が増えると書かなきゃいけないことが増えて大変ですね……。
(追記)
誤字報告をいただき、わざとでないものは訂正させていただきました。ありがとうございました!