4月24日。
ホシノウィルムとメジロマックイーン、そしてトウカイテイオーがぶつかり合った天皇賞(春)の開催日から、2日前のこと。
日本より遥か遠く、直線距離にしておおよそ9500キロメートル。
少なくとも2度海を越えた先にある島国、日本では「イギリス」と呼ばれるその国の首都郊外には、1つのレース場がある。
サンダウンパークレース場。
7月にはクラシック級のウマ娘がシニア級のウマ娘と走ることのできる初のG1レース、エクリプスステークスが行われる、当地のウマ娘のレース場としてはメジャーな場所の1つ。
近代レースの基礎を築いたとされる国だけあり、イギリスでのウマ娘のレースの人気は非常に高い。
日本の中央の1年の総レース数は各種含めて4000弱だが、対してイギリスは15000以上。国内のレース場も60を数え、まさしく国民的スポーツの体を成している。
故にこそ、4月というこの時期にも盛んにレースは行われる。
サンダウンパークレース場もその例に漏れず、平日金曜日の今日もまた、1つのレースが開催される予定になっていた。
とはいえ、このレースは優駿たちの死闘であるグレードレースではなく、オープンレースでも、プレオープンレースですらない。
未勝利戦、条件は右回りの
つまるところ、未だレースに勝ったことのない、当地のレースシリーズへの参加権を持たないウマ娘たちのレースである。
競走ウマ娘のメイクデビューが始まるのは、通例として6月。
そこからおおよそ1年余りの間、ジュニアからクラシック級のウマ娘たちは、初の勝利を求めてメイクデビューや未勝利戦を走ることになる。
グレードレースやオープン、プレオープンレースなどの一般的なレースの出走条件は、既に1度以上レースで勝利を収めていること。
故に、この1年強を通して勝利を収められなかったウマ娘は「シリーズへ参加するだけの実力がない」と見なされ、勝負の舞台に上がることすら許されない。
一応、一部の特殊なレースに出走することや、地方のレースシリーズへの参加は許されるが、少なくとも大幅に動きを制限されることになるだろう。
だがこれは、殊更に理不尽な処置というわけでもない。
ある程度の実力を持つウマ娘であれば……それこそグレードレースに勝てるようなウマ娘であれば、未勝利戦は数回走れば確実に勝ち上がる。
それに勝てないということは、つまるところ素質か努力かセンスか技術かメンタル、あるいはその全てが不足しているということを示しているのだ。
そしてそういう意味で、4月の未勝利戦は注目を集め辛い。
めぼしい強者は粗方勝ち上がってしまい、残すはオープンやプレオープンを主軸に戦うウマ娘ばかり。
中には本格化の遅れや故障からデビューが遅れる優駿も存在するものの、そういったウマ娘たちはどうしても晩成になり、早期の活躍が望み辛い。
故にこそ、その未勝利戦もまた、そこまで多くの注目を集めているわけではなかった。
いつもの未勝利戦、いつもの勝負。
その先に、もしかしたらグレードレースに挑めるようなウマ娘の卵が1人誕生するかもしれない、と。
レース場に集まっていた観客の多くは、あくまでもその程度の期待しか持っていなかったのだ。
* * *
そして今、この未勝利戦の開始を待つ、1人のウマ娘がいる。
控室で体操服を着て、トレーナーと共にレース開始の時を待つ彼女は……。
「見て見てトレーナー! ほら、2日後『
ね、どうなる!? どうなると思う!?」
自らのトレーナーに向けて、スマホの画面を見せつけていた。
そこに表示されているのは当然ながら、これから走るレースの情報……などではなく。
遥か遠い島国で行われる、別シリーズのG1レースだった。
一般論としては、レース前のウマ娘はそのレースに一意専心するもの。
レースは一瞬一瞬が他のウマ娘たちとの駆け引きだ。どこで仕掛け、どこで加速し、どこで差し切るか。常に揺れ動く展開の中でそれを冷静に判断し、選択しなければならない。
故にこそ、本来出走ウマ娘は他の全てを排し、目の前のレースに集中しなければならないのだが……。
そういう意味では、そのウマ娘は全くと言っていい程、目の前のレースに向き合っていなかったと言っていいだろう。
だが、本来その態度を諫めるべき彼女のトレーナーもまた、差し出されたスマホの画面を見て、仕方なさそうに笑うばかりだった。
「……まぁ、君の憧れの彼女が勝つんじゃないか」
「だよねだよね、きっと勝ってくれるよね! 楽しみだなぁ!」
ウマ娘はニマニマと笑い、未来のレースに思いを馳せる。
海の彼方の憧れのウマ娘が、数日後のレースで、如何にカッコ良く勝つか。
どんな破天荒なプランで、どんな凄まじい走りで勝つのか。
今、彼女の興味はそこにしか向かっていないのだった。
「距離の適性で言えば、やっぱりあの子と
「
「
むむむ、と鹿毛の髪をたらして考え込むウマ娘。
しかし彼女はすぐさま、ガバッと顔を上げた。
「ま、でもあの子が勝つに決まってるけどね!」
自分のことではないのに自信満々に、彼女は「あの子」の勝利を確信していた。
その表情を見て、トレーナーは思わず苦笑してしまう。
「……アン、本当に好きだよね、あの子のこと」
「当然でしょ!
「
「そういう問題じゃないのー! 強者の証なの! カッコ良いでしょ!!」
ぷんすこと怒りを見せるウマ娘に、彼は「そうかもね」と答えながら、思う。
彼女のことを知らない人間は、今はこんなに表情豊かなウマ娘が、まさか1年前は殆ど感情を表に出さない静かなウマ娘だったとは思わないだろうな、と。
* * *
彼が担当しているウマ娘は、歯に衣着せずに言えば、かなりの変わり者だ。
熱しにくく冷めにくいとでも言おうか。何かに興味を持つことが少なく、しかし一度興味を持つとそこに熱中してしまうタイプ。
とはいえ、彼がそうだと理解したのは、つい半年ほど前のことなのだが。
出会った頃の彼女は、競走ウマ娘にしては多少珍しく、走りへのモチベーションが低い子だった。
非常に良い血統を持つが故に競走ウマ娘としての未来を期待され、その期待に流されるようにしてトレセンに入り、だからと言ってレースに本気になることもできず、なんとなく走っていた……そんなウマ娘。
彼が選抜レースを見てスカウトした時も、殆ど表情を動かさず「ふーん……じゃあよろしく」と、極めて興味なさげに了承された程だった。
故に彼は、まずは彼女にレースへの興味を持ってもらうことを目指していたのだが……。
去年の9月頃だろうか。
1つの出会いが、彼女を大きく変えた。
『見て、見て見て見てトレーナー! これ、これすごくない!?』
今までにない程興奮した様子で彼女が見せて来たスマホには、レースの映像が映っていた。
どうやら数か月前に投稿された動画のようだが、それは自分たちの主戦場である西欧のものではなく……遥か彼方、日本のものらしかった。
本音を言えば、他の国のレースより前に
そう思ったトレーナーは、しかし実際にその動画を見て、深く納得することになる。
大きくバ群を引き離して大逃げし、爆発的な末脚で上がって来たウマ娘にかわされ、しかしそれを再び差し返して勝つ……。
画面の中の鹿毛のウマ娘は、とてもではないがG1レースのものとは思い難い、とんでもなく強い勝ち方を見せた。
確かに、感動に値する……というか、もはや呆れる他ないもの。
それこそ、数年前に西欧を荒らして行った異次元の逃げウマ娘にも並ぶ、力強すぎる走りだ。
と、それはともかく。
彼にとって今何より大事なことは、このレースそのものではなく……。
『ねぇねぇ、この子、なんて名前なの!? この文字読めないんだよ、トレーナーならわかる!?』
彼の担当ウマ娘が、その瞳を輝かせていること。
出会って以来初めて、レースや競走ウマ娘に、強い関心を持っていることだ。
だから彼は、手早くそれを調べ、彼女に伝えた。
セミロングに伸ばした鹿毛、一房だけ垂れた黒鹿毛。
小柄で、青白い光彩の瞳を持つ、大逃げのウマ娘。
何度か実況でも呼ばれていたその名は……。
『ホシノウィルム! なんだかカッコ良さそうな名前! どんな意味なの?』
『えぇと……多分、「
『ドラゴン! うん、確かにあの強すぎる勝ち方、人では勝ちようのないドラゴンって感じ!』
確かに、と彼女のトレーナーは頷いた。
確かに、映像の彼女は強い。
……いや、あまりにも強すぎる、と言うべきか。
クラシック級の5月のものとは思えない、途轍もない走りだ。
それこそ、これを見ただけで自身の才能の欠如を悟り、心を折られてしまうウマ娘が出てしまいかねない程に。
故に、彼は少しばかり、自身の担当ウマ娘のことを心配していたが……。
そんな杞憂をよそに、彼女は楽しそうにきゃーきゃーと黄色い声を漏らし、ホシノウィルムの公式レースの映像をひとしきり見た後。
その瞳を爛々と輝かせ、言ったのだった。
『ね、トレーナー! 私、この子と戦いたい!』
……それが。
彼と彼女の、不遜とも言える程高い目標が定まった瞬間だった。
* * *
トレーナーが一昔前の、自分と彼女のターニングポイントとなった事件に思いを馳せていると……。
いよいよ彼女に、お呼びの声がかかった。
「あ、もうレースか。それじゃ行ってくるね」
極めて軽くそう言ってピッと手を挙げるウマ娘に、トレーナーもまた軽く頷いて応える。
「うん。勝ってきな」
そこには、この2人の間だけの信頼感があった。
トレーナーは、自分の担当ウマ娘ならば、当然のようにこのレースに勝つことができるのだと。
ウマ娘は、トレーナーの指導を受けた自分が、まさかこのレースで負けるはずがないのだと。
それを感じ取り、ウマ娘はニコリと笑う。
「当然! あの
* * *
そうして、この日。
新たに1人のウマ娘が、勝負の舞台に足を踏み入れた。
そのウマ娘の体格は比較的小柄で、左耳に連結した白いティアラ型の耳飾りを付けている。
少しクセの付いた金髪の上に、一筋の流星。
視線をもう少し下にやれば、初の公式レースで10ハロンという長い距離を走ってなお、余裕綽々と輝く黄金の瞳の光が見えるだろう。
王道の先行抜け出しの策を図り、見事に好走。
稍重になったバ場など気にも留めず、最終コーナーで大外から一気に1着に躍り出、その後は影も踏ませぬ綺麗な独走。
9番人気という評価も跳ね除け、2着との間に2バ身半もの着差を付けて、その血統の強さと自身の才気を示した。
その名が示す通りの「わかりやすく」強い勝ち方に観客は驚嘆し、遅く現れた期待の新星を喜んで受け入れた。
遅咲きの花ではあったが、それでも期待できるウマ娘が出て来た。
この子ならグレードレース、あるいはG1レースすらも目指せるかもしれない、と。
……しかし。
今回のレースで新たにできた彼女のファンたちは、ウイニングライブ後に彼女の語った言葉を聞いて、絶句することになる。
『私の目標は……今年の凱旋門賞に出て、日本から来る
確実に出走するためにも、取り敢えず2週間後のオークストライアルに勝って、オークスに勝って、そこから月1でG1レースに勝っていきます! そんなわけで、応援よろしくー!!』
デビューしてから2か月でG1レースであるオークスに勝ち、そこからG1を制覇していく……。
そうして、デビューした年に凱旋門賞に出走し、勝利する。
言うまでもなく、すさまじいまでの
多くのファンは、それを幼さの残る夢であると認識し、あるいは無理難題だと肩をすくめた。
これが去年の6月であればまだ話が違ったかもしれないが、4月にようやく上がって来たのでは、到底間に合うものではない。
それでも、その叶わない夢を応援することが、今日良いレースを見せてもらったお礼……あるいは、ファンの役目なのかもしれない、と。
彼女の言葉を心の底から信じていたのは、ただ1人。
「よし……俺も、期待に応えないとな」
舞台袖から彼女を見つめる、トレーナーだけだった。
クラシック級4月にデビューして月1ペースでG1制覇していってそのまま凱旋門賞に勝つ……というのは、この世界では非常に困難です。困難というかもう不可能に近いヤツ。
日本のレースで例えると「クラシック級2月にデビュー、ステップレースから桜花賞→NHKマイルカップ→オークス→安田記念→(時期的に在り得ませんが1か月後に開催されるとして)つよつよメンツのジャパンカップに勝利」くらいの難易度と思ってください。
ぶっちゃけウィルのローテより過酷かもしれません。
もし本当にこれをこなして来るというのなら……ウィルにとっても、恐るべきライバルとなるでしょう。
勿論、こなすことができれば、ですが。
次回は3、4日後。トレーナー視点で、悔しさと友人の話。
(雑記)
わかってはいたんですけどイクイノックスつっよい……。
秋古馬三冠、期待してます。
(追記)
誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!