特にヤツが「仕事の終わり」に到達することは、決して……。
図らずとも、プチ日本ダービーとでも呼ぶべき規模になってしまったブルボンの模擬レースが終わった、その翌日。
俺は今日も今日とて、書類仕事に精を出していた。
担当のトレーニングの様子を見たり、レースやレース場の考察をしたり、他の出走ウマ娘の陣営の調査を行うことに比べて、デスクワークはとても退屈で一辺倒だ。
直接的に担当たちと関わるわけでもないし、正直に言ってあまり好きではないのだが……。
それでも、担当たちの役に立つことだけは間違いない。
誰かが表舞台で華々しく活動するためには、誰かが裏方作業をこなさねばならない。これは世の真理だ。
ミュージシャンやアイドルのライブなんかがわかりやすい例だろう。舞台に上がる人間の何十倍という人間が、彼ら彼女らを支えるために働いている。
それはウマ娘のレースやウイニングライブもまた、例に漏れないわけで。
俺たち契約トレーナーの仕事は、まさしくその裏方作業の取り仕切りといったところ。
俺たちの仕事は、彼女たちが余計なことに煩わされることのないよう、そして世間が彼女たちに夢中になれるよう、そこに差し障る全てを排除すること。
そしてそのための施策こそが、この書類1枚1枚なのである。
故に、どれだけつまらなくとも、退屈であろうとも、書類は淡々と片付けていかねばならないのだ。
……とはいえ、トップレベルのアスリート兼アイドルであるウマ娘たちを支える契約トレーナーは、一般的な裏方とは業務量が違う。違い過ぎる。
具体的に言えば、トレーナーの名家出身で事前に業務の予習をしていた俺でさえ、少し油断すれば押し潰されてしまいかねないくらいには。
殊にその日は、5月も半ば、トゥインクルシリーズはまさにシーズン真っ盛り。
ブルボンが制したクラシックレースの皐月賞や、フラワーが獲ったティアラレースの桜花賞。そしてウィルやテイオーが熾烈な戦いを繰り広げた春シニア三冠、いくつかのダートやマイルのG1レース。
これらの激戦からもたらされる熱を以て、世間は良い意味で彼女たちのレースに浮かされている状態。
それはつまり、現在ウマ娘のグッズやイベントなどの需要が跳ね上がっているということであり……。
トレーナーは普段の業務や次回レースへの対策に加え、その人気に伴って増えるお仕事の依頼を捌くことになる。
2人のG1ウマ娘を抱える俺たちの陣営もまた、多忙を極めていた。
具体的には、1日18時間労働くらいが普通になりつつあった。
昌が業務の途中で事切れるように気絶するレベルの、地獄のデスマーチである。
……担当の前ではなんとか最低限取り繕ってはいるけど、この時期はホント地獄だ。
まぁ、流石に去年のこの頃に比べたらマシだけどね。去年は急増した仕事に頭がてんやわんやになって、無意識にウィルへの配慮が欠けてしまっていたくらいだし。今思うとよく倒れなかったな、俺。
労働基準法などというものは、中央トレセン学園には存在しない。
いや存在はするけど、そんなもんに遵っていては、ウマ娘のトレーナーなんぞできない。
故に、上から命令されたわけではなく、あくまで自由意志によって、俺たちトレーナーはたづなさんの「お願いですから残業はやめてください! お願いですから!」という訴えをスルーしているのである。
いつもごめんなさい、ご迷惑をおかけします、たづなさん。
とはいえ、ここまで忙しくなる陣営はそう多くない。
一般的な陣営は、1日12時間程度の労働時間で事足りるはず……らしい。少なくともたづなさんはそう言っていた。
それなのに、俺たちがこんなにも苦戦している理由は、大きく分けて2つ。
俺や昌が、まだまだトレーナーとして不慣れで、力不足というのが1つ。
そしてもう1つ、こっちが大きいんだけど……。
今更な話になるが、担当2人がとんでもない化け物だからだ。
日本における最高峰の栄誉の1つ、クラシック三冠。
距離限界を越えてそれを目指し、今最もそこに近付いているとされる、ミホノブルボン。
これまでただの一度として達成できなかった悲願、凱旋門賞での勝利。
呪われているのかとすら思える程に成し遂げられないそれに、けれどあるいは彼女ならばとまで言われる、ホシノウィルム。
現在のトゥインクルシリーズの中核を担うこの2人を担当に持つ以上、どのトレーナーよりも多くの仕事が舞い込んでくるのは当然な話なのだ。
トークショーやテレビドラマ、ラジオ番組のゲスト出演。
タイアップ商品の展開やURA公式のグッズ販売。
CMの撮影に雑誌コラムの執筆、インタビューとか動画の撮影。
舞い込んでくる仕事は多種多様で数多く、そしてその処理を1つ間違えただけで、下手すれば億単位での損失や賠償が出たりする。
正直、2年前にウィルを担当するまでは、まさか自分がいきなりこんな重責ある立場になるとは思わなかったが……。
気付けばその業務にも慣れて、無心で……というか、半ば無意識的に片付けられるようになってきた。
右手では、書類の束を捲りながら判を付いたりサインを書いたり、あるいは脇にどけて。
左手では、前に置いてある紙媒体に纏めたデータを、オフラインのパソコンにひたすら入力していき。
ついでに、目の前のウィンドウではここ1か月の海外のグレードレースの映像を流し、注目株のウマ娘の分析を行う。
うーん……やっぱり、もっと効率を上げたいところだ。
あと2本くらい腕が欲しいな。海外ウマ娘の分析データを纏めるだけの手が足りない。
あ、それと目も欲しいな。後頭部にあれば、全方面360度の作業が可能。捗りそうでいいね。
あーでも、そうなると流石に思考のリソースが足りない気がするな。脳も欲しいな脳も。というか頭良くなりたい。
……まぁ、流石にそこまで行くと冗談だけど、腕が欲しいのは本当だ。
人の腕とまでは言わなくとも、猫の手でも欲しい。いやもうネズミの手でも、いっそノミでもいい。1万分の1%だけでも効率を上げたい。
……なんて。
そんなことを思っていると、横から昌が声をかけて来る。
「……最近、ますます気持ち悪さが増したよね、兄さんの動き」
「突然のディス。酷くない?」
「そんな動きしながら普通に喋れるところ、マジでキモいと思うよ」
「殊更に異常な動きはしてないと思うんだけどね」
そりゃあ、俺がこれを全部片手で、しかも今のと同じスピードで片付けてるとしたらキモいとは思うけどね。ちょっと人間業じゃないし。
でも俺がやってるのは、あくまで人間なら、頑張れば誰だってできる範囲のことだ。
それを気持ち悪いって言われるのはちょっと心外。欲を言えばすごいって言って褒めて欲しいよね。
「ていうか目の動きがキモい。1秒で何度も右に左に動かして、疲れないの?」
「最初の頃はかなり疲れてたけど、慣れたよ」
「慣らさないでよそんなことに。老眼になるよ?」
「昌もやってれば慣れるよ」
「やらないし慣れないから」
勿体ないなぁと思って、チラリとあっちの方を窺うと……。
昌は、片手で書類を捲り、片手でキーボードを叩いている。
いわゆるシングルタスクの状態だ。
「これはお兄ちゃんとしてというより先輩トレーナーとしてのアドバイスなんだけど、両手でそれぞれ別の作業をやると、効率が倍近くになるよ」
「何当たり前のことを当たり前のように語ってんのよ、そんなこと普通できないから。ちょっとは自分の特異性を理解してほしいんだけど」
「いやいや、昌ならできるって。最初の頃は頭がガンガンして爆発しそうになるかもしれないけど、慣れたら業務効率上がるからさ。ね?」
「自分が化け物になったからって妹まで巻き添えにしてくるモンスターか? 私はあくまで一般トレーナーとして生きてくからね」
フラれてしまった。悲しい。
同期とか後輩トレーナーにもおススメしたことあるんだけど、いつも断られちゃうんだよなぁ。
これは特別な技術じゃない。
謂わば、利き腕が左利きなのを右利きに矯正するような……いや、両利きに矯正するようなもの。
時間をかけ、努力を続ければ、誰でも到達し得るものだ。
だから、それをしないっていうのは、大きな損失だと思うんだけど……。
まぁでも、この矯正って腕だけじゃなく頭にも慣れさせる必要があって、そこそこ長めの時間がかかる。
日々トレーナー業に勤しむ皆がやるには、やや厳しいものがあるかもしれないな。
けど、どうしても、勿体ないなぁと思ってしまう。
これを身に着けるのは、最高効率でトレーナー業を行うのには必須だと思うんだけどなぁ。
* * *
さて、そんなこんなで、昌と一緒に仕事を捌いている内……。
ガラガラと音を立てて、トレーナー室の扉が開く。
視線を上げた先にいたのは、俺の担当ウマ娘の1人、ミホノブルボン。
ちらと時計を見ると、短針はまだ頂点を過ぎたばかり。
午前中の授業が終わってそう間もなく、まだトレーニング前の集合には早すぎる時間帯だ。
とはいえ、ウマ娘が暇な時に契約トレーナーのトレーナー室に入り浸るのは珍しい話じゃないんだけどね。ウィルなんか、2日に1日はここでスマホを触ったり俺や晶と雑談したりしてるし。
ただ、一方でブルボンは、暇な時にもトレーナー室に近寄ることが少なく、頻度としては2週間に1日くらい。いや、最近はやや増えて、1週間に1日くらいになったかな。
とにかく、ブルボンがこんなに早くトレーナー室を訪れるのは、ちょっとばかり珍しいことだ。
俺はパチパチと目を瞬かせながら、ひとまずブルボンに挨拶を投げかける。
「こんにちは、ミホノブルボン。ずいぶん早いが、昼食はきちんと取ったか?」
「こんにちは、マスター。食事は、エネルギーバーとゼリーを少々」
「今更指摘するまでもないが、時間がある時はきちんと栄養のある食事を摂ったほうが良いぞ」
「はい。ただし、本日は一件、マスターへ相談するべきタスクが存在し、そのために時間を惜しんだ形となります」
「相談か」
これまた珍しい。
ブルボンは、クラシック三冠以外にはあまり興味を持たない子だ。
そして同時、すごく物分かりが良い……というか、俺というトレーナーの判断に全幅の信頼を置いてくれているウマ娘でもある。
故に、主にトレーニングの方針や効果、レースのことについて質問をすることはあっても、説明すればきちんと飲み込んでくれるし……。
そもそもそういった質問をすること自体、自我が希薄気味な彼女にはだいぶ稀なことだったりするんだ。
「ちょっと待ってくれ」
俺はひとまず、書類を捲っていた手を止め、それらをデスクの端に寄せ……ようとしたんだけど、既にデスクはパンパンだったので、ひとまず彼女の顔が見えるように山の上に山を重ねる。
晶の方も、ブルボンに同席の可否について確認を取り、仕事の手を止めて静聴構えだ。
相談を受ける準備は完了。
さっそく用件を伺おう。
「よし、それでは聞こうか。相談とは?」
聞くと、ブルボンは声を詰まらせたような一拍を空けて、答える。
「私はライスさんに……菊花賞に、勝てるでしょうか」
……あぁ、なるほど。
これは俺の察しが悪かったかな。
「昨日の模擬レースか」
「……はい」
昨日俺たちが開催した模擬レースは、2400メートルという、日本ダービーに近い条件だった。
けれど、そこでミホノブルボンは、ライスシャワーに半バ身差しか付けられなかったんだ。
ミホノブルボンが血統的に短距離・マイル向きであるのに対して、ライスシャワーは中・長距離向き。
クラシック三冠レースは進行する程に距離が伸び、ブルボンにとっては不利に、そしてライスにとっては有利になっていく。
それなのに、2400メートルという日本ダービーと同等の条件でなお、わずかな差までに追い詰められたんだ。
それに対して、彼女は……。
あぁ、今、彼女の瞳の奥には仄かな感情が窺えた。
この調子では、菊花賞で逃げきれなくなるかもしれないという、不安。
もっと急速に力をつけなければならないという、焦り。
迫ってくる追っ手、そして詰まる実力差への、恐怖。
……そして僅かながら、自分の走りを破られた、怒りも。
それはなんともミホノブルボンらしくない……そして、競走ウマ娘らしい感情だ。
「…………」
気付けば最近の彼女は、だいぶ競走ウマ娘らしくなってきた気がする。
いや、元が競走ウマ娘らしくなかったかと言えばそうじゃない。
あれはあれで、ミホノブルボンという1人のウマ娘らしくはあったのだが……。
皐月賞以来、というかレースの中でライスシャワーの気配を感じ取って以来、彼女の中には小さく熱いものが宿ったように思う。
まさしく、ホシノウィルムがその心に煌々と燃やす炎、その種火とでも言うべきものが。
競走ウマ娘として、彼女は少しだけ変わった。
あぁ、きっとこれは、良いことだ。
しかし、彼女の成長は喜ばしいとして……。
「ふむ」
その疑問には、何と答えたものかな。
いつもなら、彼女に彼女自身や菊花賞の分析データを見せながら、これがこうだからこうなって勝てる、と丁寧に説明するところだが……。
今の彼女は、ミホノブルボンにしては珍しいことに、思考を感情に支配されている。
理論も理屈も、本当の意味で彼女を納得させることはできないだろう。
で、あれば……行動あるのみか。
「わかった。それならば……」
俺は頷き、少しだけ書類を整理して立ち上がる。
「君が、自分はどんなレースにも勝てると信じられるよう、彼女に力を借りよう」
そうして、ポケットからスマホを取り出し、彼女にメッセージを送った。
* * *
「ふぅ、突然呼ばれたので何事かと思いました」
招集をかけたウィルは、昼食を切り上げてまで駆けつけてくれた。
こちらとしては「トレーニング開始より少し前に来てくれ」としか言ってなかったんだけど、偶然にも近くにオグリキャップがいたらしく、ハイパーメガ盛り大満足デラックスプレートを平らげてなお物足りなそうだった彼女に、残った食事を譲って来たのだという。
「そんなに急ぐわけではない……というか、言った通り、トレーニング開始の5分前までに来てくれればよかったんだがな」
「まったく、私と歩さんの仲じゃないですか。困った時はお互い様、そういうの言いっこなしですよ?」
そう言う彼女の表情は、なんというか……頼れるイケメン彼氏、とでも言うべきものだった。
この子、時々こういうスパダリみたいなトコ見せるんだよなぁ。
悔しいけど、ちょっとキュンとしてしまう。
「……時々、君がすごく頼りに思えるよ」
「時々ですか?」
「ふ。いつも、かもな」
まぁ、頭を撫でられてえへえへ言ってるところを見ると、やっぱり子供だなぁと思うのだが……。
それはともかく、今はブルボンのことだ。
「──ということで、頼めるかな」
「なるほど……」
俺がお願いしたいことを説明すると、彼女はちょっと悩むように顎に手を当てた。
「難しいか?」
「いえ、多分できる……と思います。走ってる時に威圧感を抑えるとかやったことないので、上手くできるかは微妙ですが」
「すまん、君からすると不愉快なことかもしれないが」
「確かに、気持ちの良いことではないかもですが……まぁ、歩さんとブルボンちゃんのためです。担当ウマ娘として、先輩として、一肌脱ぎましょうとも」
胸に拳を当ててドヤ顔するウィル。
うん、今回は頼らせてもらおう。
ブルボンに「熱」の扱い方の感覚を知ってもらうには、それが最短の道であるはずだ。
……ちょっとだけ、ズルいやり方かもしれないけどね。
* * *
幸運にも、その日は芝のコースの一部を予約していたので、場所自体は自由に使うことができた。
そんなわけで俺は早速、ジャージに着替えた2人を連れて、グラウンドに出る。
バイザーに挟んできたプリントで直近1週間のデータをおさらいしながら、俺は彼女たちに……というかブルボンに語りかけた。
「さて、ミホノブルボン。今日はウィルと併走をしてもらう」
「それが、菊花賞に勝つためのプラン……ということでしょうか」
「そうなるな。併走とは言うが、実質的には模擬レースだと思って、全力で走ること」
「ミッション、了解しました」
コクリと頷いたブルボンに、横を歩くウィルが、ちょっと心配気に話しかける。
「ブルボンちゃんにとっては2日連続の模擬レースになるけど。負担とかは大丈夫そう?」
「はい。むしろ今は、より重いトレーニングを積むことを望みます」
「そっか。ま、歩さんがストップかけないってことは、ひとまず大丈夫そうかな」
「あぁ、問題はない」
「アプリ転生」で覗けるブルボンの体力は、まだまだ残っている状態。失敗率はゼロだ。
昨日走ったのも公式レースではなく、あくまで練習の模擬レース。脚の寿命的な意味でも、まだ余裕はある計算だった。
……そして何より、ウマ娘の状態は、何も脚の健康だけじゃない。
彼女の精神的な動揺の解消も、後悔なくレースを走ってもらうには大事なファクターだからな。
細々とした注意事項を話しながら歩いていると、グラウンドの借りた地区に辿り着いた。
「それでは、それぞれ位置に就け。
条件は昨日と同じ、左回りの2400メートルだ」
俺の担当2人は、それぞれスタートラインで、開始の瞬間に備える。
その姿勢は似通ったもの。……いや、それも当然か。なにせどちらも、俺が教え込んだわけだし。
ただ、姿勢が近いとは言っても、その練度は大きく異なる。
トゥインクルシリーズで鍛錬を積みながら走った年数はウィルの方が1年長く、特殊に変化したスキルである「三歩飛翔」もあって、彼女の方がより鋭いスタートダッシュを切ることができる……。
……はず、なのだが。
今回は、ウィルには別の走りをお願いしたからな。
ブルボンの想定通りの、「追う」展開にはならないはずだ。
俺がフラッグを振り下ろすと同時、2人のウマ娘は駆け出す。
勿論先んじて先頭を取ったのは、ホシノウィルムではなく、ミホノブルボンだった。
「……?」
一瞬だけ怪訝気な表情を浮かべはしたものの、すぐさまその感情を押し殺したブルボンは、自身の最適なペースまで加速する。
それに対して、わざと出遅れたウィルは、いつもの彼女とは違う走り方を取った。
ブルボンから後方、5バ身。
まっとうなウマ娘であれば、その存在を感知すらできないくらいの場所を、彼女のペースに併せて走る。
脚質で区分すれば、先行……いいや、差しくらいのポジションだ。
まぁ、アレは主にバ群との関係性で区別されるものなので、2人きりのレースではあまり意味のないものなんだが……それはともかく。
大逃げではなく、逃げでもなく、先行ですらなく、差しのポジション。
俺が一番最初に見たウィルのそれに近い走りだ。
勿論、ウィルは脚質適性からして、この走りには適していない。
彼女にとってこの走りは、あまり気持ちの良いものにはならないかもしれないが……。
これにはちゃんとした意味があるんだ。
今日ばかりは先輩として、ちょっとだけ我慢してもらおうか。
結局のところ、先日のレースでブルボンが敗北しかけた原因は、大きく分けて2つ。
ライスシャワーと、ソウリクロスだ。
ライスが末脚で追い詰めて来るのは、ある意味では仕方のないことだ。
強いウマ娘は誰だってライバルに追いかけられるもので、ライバルというものは一度火が点いてしまうととんでもない伸び方をしてくる。ソースはネイチャとテイオー。
俺たち追われる側にできるのは、全力で彼女たちの追跡から逃げ続けること。
何度迫られ、負けかけ、あるいは本当に負けてしまったとしても……それでも逃げ続け、逃げ切る。
そのために、トレーニングを積み上げ続けることだけだ。
容易くは解決できないもう一方の問題に対して、比較的解決しやすいのは、ソウリクロスの存在の方。
彼女の存在……というより、ブルボンを掛からせる逃げウマ娘の存在は、彼女の走りを大きく乱してしまう。
だからこそ、可能な限り掛からないようにウィルの存在感に慣らしていたわけだが……。
その「慣れ」にも、限度というものはある。
土台、ブルボンの掛かり癖は、そう簡単に解消できるものじゃない。
ブルボンが本気の……つまり公式レースのウィルと走れるのは、どう足掻いても菊花賞の後になってしまうし。
併走や模擬レースのウィルの存在感に慣れた程度では、クラシック級の本気のウマ娘にも揺さぶられてしまう。
……まぁ、これはあくまでも、想定内のことではあるのだが。
元々、ウィルの存在感に慣らすのは、あくまでも一時しのぎの策に過ぎなかった。
本質的に、ブルボンの掛かり癖によるデメリットを解消する方法は、たった1つしかない。
問題は、その感覚を、ミホノブルボンが掴むことができるかどうか。
俺が見守る先で、2人の併走はいよいよ最終コーナーに入る。
状況は変わらず、ミホノブルボンのペースを基準とした走りに、5バ身空けてウィルが追う形。
しかしここで、その形勢が崩れる。
「さて……ここから」
最終コーナー。
そこからウィルは、渾身の力で加速した。
クラシック級とシニア級の間には、1年という長い長いトレーニング期間のギャップがある。
故に、ミホノブルボンとホシノウィルムの標準的なペースには、大きな差があり……。
ここまでブルボンのペースに併せていたウィルは、結果的に足を溜めていた形になる。
多少の不慣れはあれど、国内シニア級でもトップクラスの競走ウマ娘たるウィルの追い上げは、ブルボンとの差を簡単に埋めるだけの圧倒的な速度を叩き出す。
5バ身空いていたはずの差は、そう間もなく3バ身2バ身と縮まり、すぐさま1バ身へ。
爆発的に膨らんだ存在感に、追い上げて来る脅威に、あるいは狩られるという実感に。
ブルボンは、果たして、どう反応するか……。
掴んでくれれば、それで良し。
仮に掴めなくとも、最悪……。
……いいや、ここは信じるべきだろうな。
俺の担当の、驚異的なまでの学習能力を。
そうして、その瞬間。
「……良し」
カチリと、スイッチが切り替わるように。
あるいは、彼女の中の火種が、一気に燃え上がるように。
彼女の走りが、明確に、変わった。
担当の感覚を破壊した挙句、今度は出来レースで無理やり心に着火マンするトレーナーがいるらしい。とんだ悪徳野郎だな!
まぁ勝てば官軍負ければ賊軍って言うしね……。
ブルボン強化フラグもピコーンしたということで、次回からはちょっと時間が飛んで日本ダービーに入ります。
……本当はこの辺りでブルボンのつよつよお尻について言及したいんですけど、一歩間違うとイメージを著しく損なう表現になりかねないのが怖すぎる。許して……。
次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、日本ダービー前編。
(追記)
誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!