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やはり北海道に比べると、関東はだいぶ暖かい。
3月中旬になると少しずつ気温が上がり始めて、換気の度に身を震わせることも少なくなってきた。
いやまだ普通に寒いけどね。ホシノウィルムなんて、トレーナー室の窓に手をかけただけでちょっと嫌そうな顔するし。
で、そんな徐々に暖かくなってきた春先。
俺はトレーナー寮の自室で、とある人間に電話をかけている。
「俺の同僚の話だ。……詳しくは話せないから要約になるけど、いい?」
『構わないよ』
「ありがと」
耳に当てたスマホから、聞きなれた男の声が聞こえる。
俺のそれとは違い、穏やかで柔らかい口調。
人の心を開くことに長けた、専門家の……いや、これはただクセで出ているだけか。
今日ばかりはただ親愛の情が込められた、家族に向けられた温かな声音。
電話の相手は、俺の兄だった。
俺の兄、堀野家の長男は、一言で表せば頭脳派超人だ。
身体能力こそ平均以下だけど、その頭脳と精神性は飛びぬけて優れている。
俺もトレーナーになるためにかなり勉強してきたが、兄の知識量には敵わない。
職務上医学、心理学の方面に強く、その上で俺と同程度にはトレーナーとしての知識も蓄えている。
それなのに頭でっかちにもならず、フィールドワークも怠らない。この辺俺に足りない部分なので、見習っていきたいところだ。
その上、ドの付く聖人。情けは人のためならずを地で行き、困った人がいれば東奔西走。聞き上手で話し上手、いつでも笑顔を絶やさない。
普通こういうのって表面上だけの八方美人だと思うんだけど……。
15年近く同居してた俺が断言する。兄さんは素であの性格だ。だからこそめっちゃ尊敬できるわけなんだが。
さて、そんな兄さんは堀野家の特性には従わず、トレーナー以外の道を選んだ。
『俺はウマ娘を鍛えるんじゃなく、人とウマ娘の両方を治す仕事がしたい』と、医療従事者の道を取ったのだ。
両親はその言葉を聞いた時、兄さんに色々と言っていたが、決意が固いと知ると背中を押して応援していたようだ。
ウチは割と聖人揃いの家族なんだよな。
父はちょっと頑固だけど尊敬できるトレーナーだし、母はマジで子供への理解度が高い。兄は先程言った通りだ。
……例外は俺と妹。俺は堀野家の者にしてはこの通りポンコツだし、妹は10歳くらいの頃から少しやさぐれてしまったから。
その後、夢を抱いてから10年くらいか。
兄は必死に勉強し、当然の帰結として、その夢を叶えた。
今は地方のトレセンで保険医として勤めているらしい。頼れる先生としてそりゃあ大人気だそうな。
……弟としては、その内兄の魅力にウマ娘が掛かって、いわゆる「うまぴょい案件」が起こったりしないか心配なくらいですが。兄さん虚弱だし、押し倒されたら抵抗できないぞ多分。
とにかく、兄さんは精神肉体共に、トレーナーとウマ娘、その両方を支えている。
立派に夢を叶え続けているわけだ。本当に自慢の兄だよ。
で、俺はそんな兄に、割と頻繁に相談を持ち掛けている。
俺が学んできたのはウマ娘の身体とトレーニング方法が主で、精神や医療にはついてはそこまで詳しくない。
生兵法は大怪我の基だ、やはり専門家がいるのなら頼った方がいいよね。
そんなわけで、今日も兄に相談に乗ってもらっていた。
……まぁ、今日のは少しばかり、込み入った話になるわけだが。
話題は勿論、ホシノウィルムについて。……より正確には、彼女の過去について。
ただ、あれは俺を信頼してくれるが故に明かしてくれたものだろう。彼女のためとはいえ、簡単に人に話すべき内容でもない。
なので、可能な限り彼女から話題を離し、架空の人物の物語として、オブラートに包んで話さなきゃいけない。
そんなわけで、同僚には犠牲になってもらった。
「彼は少しばかり、特殊な家庭環境だったらしい。
それで聞きたいんだけど。親が子を愛さない……いや、自分の配偶者への愛が大きすぎて、子に向けることがない。これは状況としてあり得るかな」
『……稀ではあるが、あり得るね。
人間は本能的に、我が子を愛する傾向にある。
けれど、例えば望まない子供だから憎んでしまったり、あるいは親の自己愛が強すぎて自分の方が優先度が高くなったり、もしくは君の言った通り、自分の妻や夫への愛が強すぎる場合、例外になり得る。
親は子を守る、というのは絶対じゃないんだ。あくまで傾向に過ぎない』
返ってきた答えに、やはり、と納得がいく。
……あの時。
綺麗な墓地で、ホシノウィルムがぽつぽつと語った、彼女の過去。
俺はそこに、強烈な違和感を感じた。
前半は、おかしくなかった。……いや、そこで起こったおかしなことを、彼女の視線を通して正しく語っていたと思う。
けれど後半。父親の死……いや、その少し前、父親が明るくなったという話。
そこから先は、どうにも要領を得なかった。
レースに勝つたび頭を撫でてくれた。
勝てば勝つだけ、愛情を分けてもらえる。
だから、勝たなきゃいけない。
意味が通じてない。……その中に通っているべき芯、語るべき行間が欠けている。
嘘をついていたわけじゃない。彼女は恐らく、自分の本音を話してくれていた。
……単純な話。
ただ彼女は、その現実を未だに認められないのだろう。
レースに勝つたび頭を撫でてくれた。……じゃあ、負けたら撫でてもらえない?
勝てば勝つだけ、愛情を分けてもらえる。……負ければ、愛をもらえないということ?
だから、勝たなきゃいけない。……それは、何故?
何故その強迫観念を持っている? 何故そこまで敗北を怖がる?
考えられる可能性は、1つ。
……敗北を喫し、あるいは勝利を放棄して、何かしらが起こったことがあるのではないか?
頭を撫でてもらえず、愛を貰えなかった。貰えなくなった。
彼女の言葉を借りれば、父が再び暗くなった、のか。
「……次の質問。仮に愛していた妻と死に別れ、子に対して無関心になったとして。
その後、子供が成功を収めると、急に褒めたたえるようになった。
この時、父親にはどんな心理が働いてるのかな」
『それは……うん、その情報だけで推察すれば、だけど。
その父親は、子供を愛していない。
ただ、いなくなった配偶者の片鱗、その人が生み出したもの、遺したもの、あるいはその能力か何か。
それらを通して、いなくなった配偶者を愛していると見るべきだろう。いわゆる代償行為だね』
想像する。シミュレートする。その人生と感情を脳に落とし込む。
自分に最愛の妻がいたとする。
その人は病弱で、少し油断すれば簡単に天に召されてしまいそうな儚さを持っていた。
けれど自分はその人に確かな愛情を抱いており、それこそ何百万という金銭を注いで彼女を支えることも厭わない程。
その妻との間に、愛の結晶が生まれた。
その子は最愛の人と違い、明らかなギフテッド。病弱な彼女から生まれた、天賦の才を持つ突然変異体。
……最愛の人は、その子を憎むようになった。
最愛の人が死ぬ。
絶望。恐怖。失意。
……その時、我が子に何を思う?
その後、子供が天賦の才を証明した。
それを評価した。頭を撫でた。慰めた。
代償行為。その子の何かを通して、いなくなった配偶者を愛している。
何を通して?
……才能、か。
亡き妻が遺した、フィジカルギフテッド。
ホシノウィルムの父親は、彼女を愛した。
彼女の、才能だけを。
それを通して、ホシノウィルムではなく、それを生み出した今は亡き妻を愛していたのか。
「……なるほど、掴めた。兄さん、ありがとう」
『少しでも君の力になれたら嬉しいよ。
……あ、それより、ちゃんとご飯食べてる? 君は昔から何かに熱中しちゃうと寝食忘れちゃう悪癖があったけど、最近は改善したかな? 駄目だよ、ちゃんと食べないと身体的にも精神的にも追い詰められるんだから。担当ウマ娘を支えるためにも、まずは自分の健康を気遣わないと。君のことだから運動はしっかりしてると思うんだけど、それだって適切以上に行うのは体の負担になる。体調の保全のためにも食事と運動、睡眠はバランス良く取らないと。あ、睡眠は取ってるかな? 君昔勉強し過ぎて一日3時間しか寝てなかったことあっただろ、あれは本当に体に良くないよ。ちゃんと一日6時間、できれば7時間半の睡眠を取って、休日には9時間くらいしっかりと眠ること。いい? 最近論文が上がってたんだけど、君がしてた分割睡眠に関してなんだけどさ、あれってあん』
通話切った。
「変わらないのはそっちなんだよなぁ……」
俺の兄は、基本的には完全超人。
ウマ娘の体についての知識量は俺と同じかそれ以上で、その他に関しては圧倒的に兄の方が上。
身体的にはそこまで強くなかったけど、精神的には頑健かつ柔軟。顔もイケメンで死ぬほどモテる。
……そんな人なのに、俺が絡む時はポンコツというか、残念な過保護お兄ちゃんになっちゃうんだよなぁ。
なんかよくわかんないけど、すごい気に入られてるんだよね。兄特有の博愛主義よりもなお深い親愛を向けてくる。
ただ、マジでその理由がわからんのよな。そんな大したことした覚えないし。
あれか? 3歳くらいの時に庭で花冠作ったヤツか?
それまで死ぬほど世話になったから、せめてもの恩返しとして5時間くらいかけて作ったんだけど。あれ以降だよな、妙に世話を焼いて来るようになったの。
でも、その程度であんな気に入られないよな……? マジで何なの……怖……。
と、兄のことは一旦さておいて。
今はホシノウィルムが最優先だ。
「……これで、はっきりしたな」
何故ホシノウィルムは、敗北を恐れるのか。
彼女の「冷」の表情は、どこから来ているのか。
父に愛されなかった。
……いいや、一度は与えられた、念願の愛がもらえなくなったからだ。
彼女がレースに敗北したのか、それとも出走を放棄したのかはわからない。
とにかく、レースで勝って才能を証明するという行為が途切れた瞬間、愛の供給は絶たれた。
故に彼女は、愛されるために、レースに勝たなくてはいけなくなったんだ。
定期的に勝つことで、父に愛される……自分が愛されるに足る存在であると、証明しなくてはならなかった。
そうして、パブロフの犬のような条件付けが行われたのだろう。
レースに勝てば、愛を貰える。これを何度も何度も繰り返して……。
餌を貰えなくても、ベルが鳴れば食事を取るべく涎が垂れるように……愛が貰えなくても、レースに勝てるよう努力するようになった。
それが彼女の、あの必死さの理由だ。
愛されるだけの価値があるという証明。
……愛を求めた、自己の存在証明。
「『命がけ』。命を懸けて、愛されることを望む、か。
命を差し上げるという言葉も、そういう……」
あり得る話だ。
確たる証拠はないが、状況証拠はそれこそが彼女の精神的欠陥であることを示している。
素質と、努力。
当然の話だが、その両面が揃えば、ウマ娘は成長する。
だが多くの場合、素質を持った者は努力を怠る。
何故ならその素質を以てすれば、大して努力することもなく勝ててしまうからだ。
逆に、素質を一切持たない者は、勝つために極限の努力をする必要がある。
二律背反とは言わないが、これらが同時に成り立つことは少ないんだ。
そう考えれば、ホシノウィルムが強いのは当然だ。
その有り余る素質と、「命がけ」で続けた努力。
そのどちらも、彼女に勝てる者など、どこにもいない。
問題は、彼女がそうして自己を証明したところで、今はもう……何の意味も持たないことだろうが。
彼女の世界には救いがない。
愛してくれるはずだった親は、彼女を拒絶し、あるいは評価するだけ。周りにいた人間は、異端な彼女を排斥するばかり。
ようやくもらえたはずの愛も、他に向けられた偽物で。
中途半端に条件付けだけして、それを与えていた者も消えた。
救いがない。どうしようもない。徹頭徹尾、彼女には理解者がいない。
だから。
『いいか、G1で勝てとは言わん。重賞で勝てとも言わん。
お前はただ、ウマ娘に寄り添う人間であれ。
そして同時、彼女を導く灯であれ。
それが堀野家の、理想とするトレーナーである』
俺が、堀野のトレーナーがすべきことは決まっている。
最初から、最後まで……決まっているんだ。
冷たい渇望の世界を切り開き、父親によって条件づけられた呪縛を解いて。
心の中に宿る熱を。ウマ娘が得るべき悦楽を、彼女の中に取り戻す。
そして……。
自分の意思で、走りたいと思わせて。
思わず笑顔が溢れるくらいに、レースを楽しませること。
それが、ホシノウィルムの育成の、最終目標だ。
そのためには。
周りにいる人間やウマ娘が、彼女と親しく接し、彼女に愛情を注ぐこと。勝てなくたって自分には価値がある、ここにいていいんだと思わせること。
そして同時に……「最高のレース」をさせること。レース中の凍り付いた彼女が、心の底から勝利を願う程の、熱いレースを用意すること。
「……やはり、あの子しかいない」
宝塚記念、というレースがある。
その年の最強決定戦とも言われる、年末に開催される有馬記念。
それに対し、上半期の最強決定戦と言われるのが宝塚記念だ。
前世のアプリでは、夏合宿前にスキルポイントを稼げる美味しいレースという認識だったが……。
この世界における宝塚記念は、そんな甘いものじゃない。
クラシックとシニアの合同G1レース。
クラシック級のウマ娘が参加できる、初めてシニア級と戦えるG1中距離レースだ。
力自慢のウマ娘は、クラシック級でこのレースに挑み……。
例外なく、散る。
宝塚記念で、クラシック級のウマ娘が勝利した記録は、残っていない。
何故かと言えば、そんなのは簡単だ。
ウマ娘は本来、本格化してからステータスが大きく伸びるようになる。
クラシック級のウマ娘が宝塚記念に出ようと考えれば、最速で本格化したとしても、そこまで1年半しかない。
一方シニア級は、2年半という長い時間をトレーニングに使える。
時間にして、2倍弱。体を育てる時間が、そんなにも違う。
ゲームで言えば、レベル50でレベル100の敵たちに挑むようなものだ。
しかも10人以上によるバトルロイヤル。勝てる方が不自然というものだろう。
「しかし、そこしか予定が合わないと言われてしまえば、仕方がない」
この世代において飛び抜けた実力を持つホシノウィルムは、クラシック級のウマ娘と戦っても、最高のレースを得られないかもしれない。
望みがあるとすれば、トウカイテイオーとナイスネイチャ。
けれど、トウカイテイオーの覚醒は確実性に欠けるし……。
ナイスネイチャと戦うのは菊花賞で、事故でも起こして出走回避されたらどうしようもない。
故に、格上に挑むしかない。
ホシノウィルムは、今までその圧倒的なステータスで堅実な勝利を収めてきた。
しかし、今回ばかりはそうもいかない。宝塚記念に出るなら、むしろステータス的には不利な戦いになるだろう。
有利なのは恐らくスタミナと根性くらいで、他は優駿たちに比べれば見劣りを避けられないはず。
現状、ネームドの内宝塚記念に出る意思を見せているのは、マックイーンとライアン。
どちらもこの上なく有力なウマ娘だ。
殊にマックイーンは天皇賞を走る生粋のステイヤー。作戦こそ違うが、ホシノウィルムの上位互換と言っても差し支えない。
……そして、そこに、彼女が来る。
俺の知る、最高で最強のウマ娘が。
ホシノウィルムの勝率は……低い。どれだけ多く見ても、5%くらいか。
しかし、たとえそれで負けるとしても、俺は彼女に、その世界を見せる責任がある。
そして、どんなに不利な戦いになるとしても、自分の担当ウマ娘の勝利を信じるのがトレーナーの仕事だ。
……まったく。
無理なレースを押し付けて、その上勝手に信じるとは、とんでもない大悪党。
トレーナーとは……いや、俺は、本当にエゴイスティックなクソ野郎だ。
* * *
さて、3月は中旬を過ぎた。
今日はついに、ホシノウィルムの待ち望んだ模擬レースの日である。
……しかし、おかしいなぁ。
どうせこの時期に模擬レースなんか開いても10人も集まらない予定だったのに、気付けば出走人数18人。どうしてこうなった。
いや、理由はわかりきってるんだけどね。ホシノウィルム、色んな意味で有名になりすぎたからなぁ……。
しかも本人にはイマイチその自覚がないのが本当に厄介だ。
インタビューや取材のたびに、頼むから不用意な発言はしないでくれと横でお祈りしてる。大体叶わないけど。
「や、堀野君」
「あぁ……ネイチャの調子はどうだ」
それぞれのウマ娘たちがスタートラインに並ぶ中、俺は歩み寄ってきた同期のトレーナーと言葉を交わす。
……やつれてるな。こりゃ結構無茶してるっぽい。目もしぱしぱしてるし、徹夜明けか?
持ってきていた缶コーヒーを放ると、彼は「ありがとう」と笑い、すぐに栓を開けた。
「ネイチャは絶好調だよ。今日のためにしっかりと仕上げてきた」
「……まったく、非公式だぞ。公式レースか何かだと勘違いしていないか」
「ホシノウィルムが出走するなら、そこがネイチャにとっての主戦場なのさ」
恐ろしいことに、ネイチャ陣営はホシノウィルムを徹底マークしている。
この世代で、少なくともクラシック三冠を目標にした場合、恐れるべきは1人だけ。
天賦の才を以てターフを駆ける若い優駿、トウカイテイオーただ1人。
……であったのは、昔の話。
その素質が最高のものでなくとも勝てる。レースに絶対はない……。
それを証明するかのように現れた、世代3つ目の星。
ナイスネイチャは、今では立派にホシノウィルムのライバルとなっている。
そんなウマ娘にここまでマークを食らうのは、ちょっとばかり怖いな。
……ま、今日のレースに限っては、そこまで問題にもならないが。
「ホシノウィルムの方はどう?」
「そちらと同じく絶好調。いつも通りの泰然自若と言ったところだ」
「なるほど、お互い良いレースができそうだ」
というか、ホシノウィルムはレースで調子を落とすことがない。
この前の弥生賞でわかったことだ。
彼女はレース前に好調の状態でも、いざ出走する直前になると絶好調に変化する。
恐らくこれも、コンディション「命がけ」の効果だろう。
余計な思考や精神的な変化を切り捨て、レースに集中する。自分の全てをそこに注ぐ。
結果として、自分を不調に追いやっていた原因がなくなり、絶好調になる。
テイオーとネイチャとの模擬レースでも、そうやって調子を持ち直したんだろうな。
これを知れたのはかなり大きい。
仮にレース直前に絶不調にまで落ちてもなんとかなるってのは、俺の精神衛生に優しい事実だ。
流石に怪我とか身体方面の不調は防げないだろうが、そこは俺がカバーするので問題ないし。
「今日のレースの展開、どうなると思う?」
「ホシノウィルムとナイスネイチャに注目と言ったところだな。
周りがその2人に対してどのように対応できるか、そして2人がどこまで周りを引き離せるか。
これが今回の模擬レースの要点になる」
「……ホシノウィルムは、ツインターボを気にしていたようだったけど。やはり同じ大逃げウマ娘だからかな?」
「あぁ……そうだな」
ツインターボ。
輝くような長い青髪に綺麗なオッドアイ、そして幼げな性格と喋り方が特徴的なウマ娘だ。
ネームドではあったけど、俺がやっていた時代には育成ウマ娘として実装されなかった。あれから実装されたんだろうか。
……あぁ、でも大逃げは実装されてるし、多分ターボも来てるだろう。結構人気あるキャラだったし、実装されないわけないか。
さて、ウマ娘としてのツインターボの最大の特徴は、その圧倒的な逃げ脚だろう。
本格化が遅れてしまったために出遅れたが、3月頭にようやくメイクデビューを迎え、この時期まで残ったレース勘のあるメンツを相手に、初めての公式レースで3バ身差の1着。
最初からハナに立ち、ひたすらそのリードを守り続ける大逃げを見せつけた。
……世間的には、ホシノウィルムの栄光にあやかろうとしてるだとか、戦術を真似ているだとか、クソくだらん妄言も流れているが、勿論そんなことはない。
ツインターボといえば大逃げウマ娘。彼女は自身のウマソウルに向き合って、立派にデビューを飾ったのだ。
……と、ここまでは良いんだけど。
正直なところ、彼女のステータスに、ホシノウィルムやネイチャの勝負に割って入るだけのものはない。
デビュー直後でスピード300強というのはかなり高いが、スタミナがあんまり育っていないのが致命的。それと賢さが初期値なので、出遅れと掛かりが怖すぎる。
あとはスキルなんだけど、「大逃げ」と「先駆け」、「空回り」だけだ。空回りは初めて見たけど、多分デバフスキルなんだろうなぁ……。
というわけで。
ツインターボは、その素質はともかく、現状脅威になるものを持っていない。本格化が遅れるってのは本当に怖いものだね。
いや、ある意味でホシノウィルムにのみ脅威になるかもしれないけど、その対策もバッチリ済ませてるし。
よって、ツインターボがレース全体に大きな影響を与えることはないだろう。
……まぁ、そんなウマ娘に対して、ホシノウィルムはかなり動転してたけどね。
そりゃあもう、表情こそ動かさないけど、ネイチャと話しながらもそわそわと周りを見回し、ターボが走り寄ってきたら少し目を見開いて硬直、それから何かを話している間もカチコチになっていた。
僅かな変化ではあるけど、1年以上彼女と付き合ってきた俺には手に取るようにわかる。
めっちゃ緊張している。あのホシノウィルムが。何だかんだレースには絶対的な自信を持つ彼女が。
正直結構びっくりしたけど、トウカイテイオーの時ほどネガティブな反応ではないから一安心だ。
……しかし結局、何が彼女の反応を分けるかはわからないままなんだよなぁ。
多分彼女本人の精神性とかじゃなく、ウマ娘としての運命とかそっち寄りなんじゃないかと思うんだけど。
「ツインターボがこのレースを取ることは、ないだろう。
ただ、彼女の大逃げで全体的なペースが上がる可能性は高い。他のウマ娘がどこまで対応できるかが、勝負の分け目になると思う」
「うん、僕も大体は同意見だ。ちなみに、1着と2着の予想も訊いていい?」
「1着はホシノウィルム。2着は8……いや、9割でナイスネイチャ」
「ふふ、それはどうかな。今回こそ、ネイチャが勝利を頂くよ」
……うん。
やはりコイツは、良いトレーナーだ。
今回に限っては、ネイチャに勝ち目は殆どない。何故なら、状況が悪いからだ。
ネイチャがホシノウィルムに勝利する条件は、前回と変わらない。ホシノウィルムを暴走させ、垂れさせること。
だが、前回いたトウカイテイオーのような、ホシノウィルムを追い詰めることのできるウマ娘が、今回は参加していない。
ネイチャが銃という飛び道具を使えたとしても、ホシノウィルムにまで届く弾丸がないのだ。
せめてホープフルステークスで彼女に迫ったパンパグランデでもいれば話も違うんだが……。
あと他だと、葉牡丹で2着だったスイートキャビンとか、弥生賞で大接戦を演じた2着から4着までの子たちとかいればなぁ……。
実際には、残念ながら皆皐月賞へ出走登録してるし、今回のレースには不参加だ。
この場には、ネイチャがホシノウィルムへ詰め寄るために必要なものが、どうしても足りていない。
更に、今回は昨日降った雨の影響で、バ場状態が重バ場。
ステータス上パワーに欠けるネイチャには厳しい環境と言える。
前世のアプリと違い、この世界では当然、走る際に泥が飛んだりもする。差しであるネイチャは、前のバ群に進路をふさがれるだけでなく、最悪無意識に妨害される可能性まであるわけだ。
だから、前回にも増して、ネイチャには勝ち目がない。
それでもなお、やけくそでも何でもなく、ネイチャならひっくり返せると心の底から信じている。
……本当、良いトレーナーだ。
だからこそ、俺は、全力で応えるべきだろう。
「勝つのはホシノウィルムだ。これは、決して揺るがない」
「……ふふ、挑ませてもらうさ」
そうして、俺たちが見守る中で、ウマ娘たちが走り出した。
綺麗にスタートしハナを切ったのは、やはりホシノウィルム。
続いて良いスタートを切ったのはネイチャで、他のウマ娘たちがそれぞれ追う形。
……一方、ツインターボは。
「……うーん、見事に出遅れたね」
「ああ。外枠で良かったな。少なくともバ群に囲まれて前に出られないことはない」
最後方の追込ウマ娘たちに交じる、逃げウマ娘。
前世アプリ……シニアまで無敗……URA決勝で超出遅れ……うっトラウマが……。
……しかし、URA決勝。懐かしい響きだ。
いや懐かしいって程でもないわ。2か月前に聞いた言葉だし。
目覚まし時計のないこの世界でも、URAファイナルズは開催されている。
「どのウマ娘にも平等に機会が与えられるレース」という初志は貫徹され、今でも芝ダート問わずあらゆる距離のレースが用意されるという、とんでもない規模の催しである。
開催時期は1月から3月の間。参加条件はトゥインクルシリーズのシニア2年目であることで、他には一切なし。
自分が最も得意なレースに参加し、腕自慢……いや、脚自慢の同期と走るわけだ。
流石にクラシック三冠程ではないけど、こちらも結構人気がある。
ちょうどウマ娘の本格化が終わる頃に開催されるので、その距離やバ場の条件における世代最強を決める……みたいな趣旨になっているみたい。
俺も今年の1月、ホシノウィルムを連れて長距離のヤツを見に行った。ネームドこそいなかったが、それでも激アツレースで思わず興奮してしまったなぁ。
……と、その話は後にしよう。今は模擬レースだ。
「先頭との距離からして、勝利は不可能だろうが……」
ターボは大幅に出遅れたというのに気にする様子もなく、如何にも楽しそうな表情で、何かを叫んで駆けだす。
……あ、加速が速い。先駆けだこれ。
「……掛かっているね。いや、大逃げウマ娘としてはこれが適切なのかな」
「さて。ホシノウィルムは単純な大逃げというわけでもないから、あるいはあれこそが大逃げなのかもしれないな。
……かと言って、序盤に最後尾から全力疾走はどうかと思うが」
ツインターボの思考は、非常に単純だ。
全力で走って、全力で勝つ、ただそれだけ。
故に出遅れようが何だろうが関係ない。序盤から、ひたすらに全力で前を目指す。
そしてその走り方こそが、ある意味ホシノウィルムにとって最も脅威になる……はずだった。
差が縮む。差しウマ娘たちを追い抜き、先行ウマ娘たちを追い抜き、ついには逃げウマ娘たちも越えて、ホシノウィルムの背中が見える。
残り1200メートル。このままのペースが保てれば、ホシノウィルムを差し切ることはできるだろうが……。
まぁ、そんな無茶苦茶なことは起こせない。
ホシノウィルムの後方8バ身程にまで迫った後、ターボの足取りが乱れる。
表情からしてへろへろだし、スタミナが切れたな。
闘争本能こそ折れていないが、これ以上前には行けないだろう。
「出遅れがなければ、ホシノウィルムとの先頭争いでスタミナを削られていたかもしれないが」
「ま、前回はかなりネイチャに有利だったからね。こういうこともあるさ」
「レースに絶対はない、か……。ホシノウィルムにこれが起こったらと思うと背筋が凍る」
ターボはそのままバ群に沈み、大番狂わせの可能性は途絶えた。
いよいよホシノウィルムの、いつものレースが始まる。
結果。
1着はホシノウィルム、2着にはやはりナイスネイチャ。着差は前回より開いて9バ身差。
……やるな、ナイスネイチャ。これだけ不利な状態でなお、大差を取らせないとは。
これはいよいよ、テイオーと同レベルで警戒する必要があるぞ。
ちなみに、ターボは14着。
あれだけの出遅れから始まったことを考えれば、かなり健闘した方だろう。
「今回は負けたけど、改善点は色々見えた。やっぱり、もっと瞬間的な脚力が必要か」
「今回のようなバ場状態では肝要になるな。ただ、根本的なスタミナも不足しているように感じた」
「そうだね、ありがとう。……今度こそは勝つよ」
負けても禍根を残さず、不敵な笑顔を浮かべた友人と別れ、それぞれの担当ウマ娘の元へ向かう。
ホシノウィルムは……うん、いつも通りに肩を上下させている。もう少し落ち着いたら、勝手にストレッチを始めるだろう。
少し遠くから声をかけながら駆け寄り、いつも通りに冷感タオルを渡す。
「お疲れ様、ホシノウィルム」
「トレーナー」
「今日のレースは楽しかったか?」
「……いえ、楽しいとは」
「そうか」
……ま、そりゃそうだな。
彼女の心の氷は、少しずつ溶けてきている。
ただ、それはあくまで日常生活の中でのもの。
レース中に彼女の心を閉ざすのは、より冷たく大きな氷だ。
父親により条件づけられたそれは、そう簡単に溶けるものじゃない。
たとえレースが終わった後に「楽しかった」ような感覚を覚えても……。
レース中に「楽しい」と感じることがないんだ。
故に、終わった直後に「楽しかったか」と聞かれれば、レース中を思い返して、「楽しくはなかった」という返答になる。
自分の感覚を裏切っているわけではない。ただ「楽しくなかったのに楽しかったと感じた」という矛盾から、それを楽しさだと思えないんだ。
だが、その大きな氷もいつか必ず……俺が溶かす。溶かしてみせる。
「ツインターボを気にしているようだったが、どうだった」
「デュアルジェット師匠……途中でようやく後ろに来たようでしたが、何かあったのですか?」
「デュアルジェット師匠? ……ツインターボは盛大に出遅れていた。追込ウマ娘たちより更に後方からのスタートだったよ。よくも諦めず走れたものだ」
「師匠の最高の特徴は、諦めないところ、ですからね……。そんな後方から、あそこまで上がってくるなんて……流石は私の、師匠です……!」
ツインターボが出遅れてまともに走れなかったことを残念がるかな、と思って訊いたんだけど……。
え、何、有識者? 君彼女と面識なかったよね? なんかオタクみたいになってない?
「それと、今回もネイチャちゃんがすごかったです。途中で9バ身くらいまで詰められた後、しっかりと付いて来てですね……。やはり彼女はすごいです」
……ま、いいや。
目の前の少女の、キラキラとした瞳。
それに比べれば、全てがどうでもいいことだ。
うん、この調子だ。
この調子で、ホシノウィルムがレースを楽しめるように、俺は手を尽くそう。
……いや、違うか。
これは勝負だったな。
負けないぞ、ホシノウィルム。
君には必ず、レースを楽しんでもらう。
* * *
ちなみに後日、こういう矢文が届いた。
『決当! 青葉賞で決着を付けるよ! ターボ』
……決当じゃなくて決闘だね。
あとホシノウィルムは皐月賞に出るから、青葉賞に出る余裕はないんだよ。
ごめんね、ターボ……。
模擬レース開始前の時点で、ネイチャはターボと何回か話したことがある程度。
ホシノウィルムとターボは初対面です。
模擬レース前にあったやり取り(ターボ合流前)
「ウィル、めっちゃそわそわしてんじゃん。そんなにターボのこと気になるの?」
「当然です、師匠ですから」
「!?」
「師匠はある意味、私がレースを始めるきっかけ……憧れでしたし」
「!?」
「師匠程輝くウマ娘なんてそういません。
それこそネイチャとテイオーちゃんくらいでしょう」
「!?!?」
ターボ合流後の会話は、ご想像にお任せします。
次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、皐月賞前夜の話。
(追記)
誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!