ウィルの海外出立の日が、いよいよ目の前に迫ってきた。
彼女の次走は凱旋門賞のステップレースであり、ウィルにとっては不慣れな海外での調整の成果を試す叩きの場でもある、フランスのG2フォワ賞。
その開催は9月13日……今からおおよそ、2か月後だ。
空気や水や食といった海外の環境、そして何より日本とは全く違う芝に脚を慣らすためには、時間はあるに越したことはない。
極論を言えば、今すぐにでもあちらに渡りたいくらいだ。
それでもまだ俺たちが日本にいるのは、ひとえに宝塚記念の疲労抜きと、日本でできる最終調整のため。
それが終わりつつある今、日本に居座る理由はなくなってきた。
……が。
海外に行く前に、いくつか済ませておくべきことがあった。
とはいえ、向こうの拠点の用意は完了しているし、トレーニングに必要な各種施設の準備もできた。
当然ながらライフラインの確立と、ウィルのおおよその食生活のプランニングも完成、大方の情報収集とその対策も終わっている。
ホシノウィルムのトレーナーとしては、俺は既に準備万端な状態なのだが……。
堀野歩個人としては、少しばかり心残りがある。
いや、心残りというか、ただの個人的なこだわりみたいなものなんだけど。
ウィルの次なる目標である凱旋門賞は、芝における世界最高峰のレース。
これまで、日本のウマ娘に勝てた者が1人たりともいない、前人未到への挑戦だ。
これまでだって熾烈極まるレースは多かったが、凱旋門賞はその極みだ。
ここに出走するのは、大半が既に国際G1を勝ち抜いたウマ娘たちであり、中には4勝5勝を上げる歴史的優駿だって珍しくはない程。
そんなレースにウィルは、本場ではないバ場やアウェーな環境という、決して小さくないハンデを背負って出走するんだ。
これはまさしく、俺とウィルの3年間の鍛錬の結集であり、総決算。
俺たちが作り上げる「ホシノウィルムの走り」の答えを出さねばならない戦いになるだろう。
そんな戦いの直前だからこそ、俺は一度、初心に戻っておきたいと思った。
この日本で言うべきことを言ってすべきことをして、全てを済ませてから、すっきりした頭でフランスの地を踏みたいんだ。
というわけで……。
俺は、お世話になった人たちに、お礼回りをすることにした。
……いや、変な意味じゃなく、本当にお礼を言って回るって意味でね。
* * *
俺がこの生涯で最もお世話になったのは誰かと考えれば、その答えは明白だ。
俺をこの世界に生んでくれて、無力な幼児であった俺を育ててくれて、無償の愛情を注いでくれた母。
そしていつも俺の目標でいてくれて、トレーナーとしてのイロハを徹底的に仕込んでくれた父。
堀野家の、俺の両親である。
とはいえ、九州に住まう両親に直接会いに行く余裕はない。
先日帰省したのはあくまでウィルの精神的休暇のためであり、言ってしまえばあくまでホシノウィルム陣営のためだ。
凱旋門賞を前にして、陣営のためでもない個人的な都合に、丸1日を費やせる程の余裕はない。
なので、少し申し訳ないけど、電話で話すことにした。
「先日ぶりです、父さん」
『ああ。その後、調子はどうだ』
父の声は、相変わらず凛々しいものだった。
そこそこ歳を召されているはずなのに意気軒昂、全くと言っていい程衰えを感じない。
流石は堀野家の現当主、威厳がすさまじいな。
ただ、その声の中には、聞き慣れていなければ気付かない程の、ほんの少しの優しさがあった。
やはり、彼女のことを気にしてくれているのだろう。ありがたいことだ。
「ご心配ありがとうございます。状態は良好です。一昨日も『領域の併用のための特訓です』と、危うくオーバーワークになる直前まで走っていましたよ」
『……聞いたのはお前の調子だったのだが……まぁ、いい。
領域の併用。先日メールで送って来た情報の件か。改めて聞くと、にわかには信じ難い話だな』
父さんは呻るように呟き、一拍空けて「疑っているわけではないぞ」と付け足した。
かつて中央でトレーナーをしていた父さんの担当ウマ娘の中で、領域を会得したウマ娘は2人きり。
内片方はドリームトロフィーに行かず引退してしまったため、夢の舞台にまで上がったウマ娘はただ1人なのだという。
そしてその子の時代には、ドリームトロフィーリーグですら、領域の併用なんていう現象は発生していなかったらしい。
ウィルも「領域の併用とか、ちょっと普通の発想じゃないですよ。ルドルフ会長、卵をテーブルに叩きつけられるタイプですね」と言っていたし……。
やはりアレは、シンボリルドルフが切り開いた新次元なのだろうな。
そしてだからこそ、トレーナー業を離れた父さんは、領域の併用など想像もしていなかったのだろう。
「昨日、それらについて詳細に纏めた報告書と推察を送りました。そちらもご確認ください」
『了解した。お前の手に入れた情報は、堀野の未来に繋がるだろう』
「いえ。堀野の家に少しでも貢献できれば幸いです」
俺は既に「堀野のトレーナー」を辞めてしまった身ではあるが、名家に生まれた以上、生家に尽くすのは当然の行動と言える。
というか名家としての教育云々を除いても、ただ生んでもらっただけではなく、莫大な資金を使って育ててもらい、これでもかという程にトレーナーとしてのハウツーを学ばせてもらったんだ。
堀野家から受けた恩は計り知れない。受けた恩は返すのが当然だろう。
しかし、俺の言葉を聞いた父さんは少し黙り込んだ。
あれ、何か失言したか。そう思い、少しばかり焦ったのだが……。
遥か彼方から聞こえる父の声は、想定外の言葉を告げて来た。
『今のは、堀野の当主としての言葉だ。俺個人としては、別の言葉を用意している。
堀野に関係なく、俺はトレーナーとして育っていくお前を、そしてそれを通して自分らしさを見つけていくことを、嬉しく思う。
ホシノウィルムさんとの縁を大事にしなさい、歩。きっと彼女は、お前の世界を広げてくれる』
「…………」
俺の父は、極めて真面目な人だ。
堀野の家に生まれ、トレーナーとなるように育てられ、それを忠実に叶えた人物。
彼は親である前にトレーナーであり、人である前にトレーナーなのだ。
どこまでも堀野のトレーナーとして、そして堀野の当主として生きている人だと、そう思っていた。
だからこそ……その父親らしい言葉には、少しばかり面食らってしまった。
勿論、そういった言葉をかけてもらうことは今までにもあった。
だけど、父がそれをトレーナーとしての言葉と同列に語るのは、多分初めてのことだったと思う。
しかも、今は凱旋門賞の直前だ。
あくまでもトレーナーとして励むようにと、そう言われると思っていたのだが……。
「なんというか……珍しいですね、父さんがそのようなことを言うのは」
返答に困り、なんとか絞り出した言葉に、電話の向こうから浅く吐いた息が聞こえた。
『このようなことを今更言うのはあまりにも卑怯かもしれないが、正直に言えば、今となっては後悔し、反省している。
俺はお前に対して、トレーナーの先達としてではなく、父として接する時間を増やすべきであったと』
「父として……ですか」
確かに、俺にとって父は、父親というよりは偉大なる先達という印象が強い。
しかし、そんな父だからこそ目標にできたし、尊敬していたというのもまた事実。
少なくとも大きな背中を見せるという意味で、父は立派に「お父さん」をしていたと思うんだが……。
『昌から時々、最近のお前の様子を聞く。
以前よりずっと前向きに、ホシノウィルムさんのトレーナーとして励んでいるとな』
「昌……」
俺は昔から家族に色々と心配をかけがちだったし、これも要監視対象としての報告みたいなものだと思うんだけど……。
なんだか、いつもの様子を知られると思うと、恥ずかしいな。
思わず後頭部に手を回す俺をよそに、父は話を続ける。
『良い傾向だ。お前は昔から抱え込みすぎるところがあったし、常に緊張を解けていなかった。それがお前の長所でもあったが、同時に最大の欠点でもあった。
故に、ある程度弛緩して業務に向き合えているのなら、それ以上のことはない』
「そう……でしょうか」
自分では、ちょっと気が抜けすぎだと思うところはあるんだが……。
スカイといい昌といい父といい、皆が今の状態を肯定してくれる。
少なくとも外から見れば、今の俺の状態は好ましく見える……ということだろうか。
『……これが、ちょうど良い機会か。1つ、謝罪をさせてくれ』
「謝罪、ですか?」
父が俺に謝ることなどあっただろうか。
もしかして、堀野のトレーナーの件かな。
いつだったか、堀野のトレーナーの理念を押し付け過ぎたと、そう言われたのを思い出す。
だが、その件に関しては、謝罪されることじゃない。
そもそも誰が何と言おうと、堀野のトレーナーは俺が俺自身で選んだ道だ……。
……とは、もう威張って言えないが。
なにせ俺、その道を途中で投げ出してしまったわけで。
しかし、これに関して俺に後悔はない。
堀野のトレーナーという道は、確かに多少苛烈なものだったかもしれないが、そもそも俺がウマ娘のレースが好きだったからこそ目指したもの。
そしてそれを途中で投げ出したのは、ホシノウィルムというウマ娘に惚れこんでしまい、より彼女のトレーナーとして専心するために必要だったことだ。
そこに多少の誘導はあれど、俺にはいつだって、自分で道を選ぶ自由があった。
だからこそ、誰かに謝られる筋合いはないんだ。
……と、そんなことを思っていたが。
父が言ってきたのは、全く別のことだった。
『昔、お前は言ったことがあったな。「自分には前世の記憶があるのだ」と』
「!」
その苦々しい記憶は、俺の記憶の中にも残っている。
今生で初めて、自分が転生者であると明かそうとした時。
当時最も信頼していた父と兄に対し、俺はそれを告げて……。
結局、信じてはもらえなかった。
冷静に考えればわかりそうなものだ。
自分の世界に全くないものを、人は心の底から信じることはできない。昌だって、あくまでも「信じ難いけどそうとしか思えない」という状態なんだ。
どれだけ親しい相手であろうとも、生中には俺の記憶の件を明かしてはいけない。
それは学びとなり教訓となり、俺の中にしかと刻まれた。
俺の成長の糧となった過去の一件を、父は微かに後ろめたそうな感情を秘めて語る。
『あの時、俺は……お前の言葉を信じるべきだったと思う。
それが嘘であれ真であれ、俺は父親としてその言葉を正しいと信じ、十分な対話の上でお前の見ている世界を知るべきだった。
そうすればお前は、もっと早く……』
「早く?」
『……いや、覆水盆に返らず、詮無き事だ。
今更謝ろうと、お前の時間が返るわけでもなく、何かを返してやれるわけではないが……俺は父親として、子との付き合い方を誤った。
故に、謝る必要がある。すまなかった、歩』
その謝罪に対して、俺は何を返すべきかわからなかった。
そもそも、俺の中で父は……なんというか、完全超人のようなイメージがあったんだよな。
中央のトレーナーとして分家の誰も文句を付けようがない優秀な成績を残し、本家に戻ってからも家の発展に貢献し、手のかかる3人の子供を育て切った。
これ以上尊敬できる男性は、そうそういまい。
だからこそ、ここまできちんとした父の謝罪は、俺にとって少なからず衝撃的で……。
同時に、自分が間違っていたと内省すれば、相手が誰であろうと素直に頭を下げられる潔さは、間違いなく俺の知る父のものだった。
「謝る必要は……」
ありません……と言いかけて、これは違うかと思い直す。
俺自身がどう思おうと、相手は謝りたいと思ってるんだ。
ならばそこは素直に受け取ることこそ、誠実と言うべきだろう。
……相手が実の父だと考えると、少々不遜な物言いになってしまうかもしれないが、それでも。
「いえ、謝罪を受けます。俺は気にしていませんので、以後は父さんもお気になさらぬよう」
『気遣いに感謝する』
仲直りと呼ぶにはあまりに淡々として、まるで予定調和のように事は済んだ。
まぁ、そもそも仲たがいすらしてはいなかったのだが……。
それでも。
『……凱旋門賞が終わり、ある程度落ち着いたら、ゆっくり話をしよう。
俺は今からでも、お前のことをもっと知りたい。お前がトレーナーとして見た景色を、知った知識を……あるいは、お前の前世のことを、聞かせてくれ』
「はい。その時は、是非とも」
それでも、あるいはこれは、長く続いた親子の諍いの終わりだったかもしれない。
* * *
思わぬ方向に話が流れてしまったので、そろそろ本題に戻す。
これまでに自分を育ててくれたこと、トレーナーという指標を示してくれたこと、その手本を見せてくれたことに、俺は改めて感謝を伝える。
それに対し父さんは、少しばかり黙り込んだ後、「……こちらこそ、お前には多くのことを教えられた。ありがとう」と言ってくれた。
何かを教えたような覚えはないものの、往々にして人は無自覚に相手に影響を与えるもの。
少しでも父さんに何かを与えられたのなら、それ以上のことはない。
そして今は母が不在らしいので、申し訳ないけど父の方から伝言してもらうことにしたんだが……。
『伝言自体は問題ないが……同じように、お前が今日頃電話をかけてくるだろうと、母さんから伝言を預かっている。
「ホシノウィルムさんとのフランス旅行、楽しんでね。ただし羽目を外しすぎないように」とのことだ』
むしろ逆に、お言葉をいただいてしまった。
……母さん、遠征のことを旅行か何かと勘違いしてないだろうか。
さて、それから少しだけ雑談をし、最後に「凱旋門賞、ホシノウィルムさんと共に、満足のいくレースをしてこい」と鼓舞されて、父さんとの電話は終わった。
……うん、こう言ってはなんだが、出だしはいい感じだ。
きちんとこちらからの感謝を伝え、知らず喉に刺さっていた小骨も取れた。
この調子でお世話になった皆に感謝を伝え、日本に残す悔いをなくしていこう。
次にお世話になったのは……こういうのはあまり順位を付けるべきものでもないだろうけど、強いて言えばやはりウィルだろう。
俺の人生にとって最大の転換点になった、そして最も多くのことを学ばせてくれたウマ娘。
感謝を伝えるというのなら、やはり彼女を外すわけにはいかないが……。
結論から言うと、ウィルはパスすることにした。
理由は単純明白で、そんなもんはフラグでしかないからだ。
考えてもみてほしい。
一大決戦を前に仲間が「ずっと言えなかったけど、これまでありがとう。これからもよろしく」とか言い出したら、それはラスボス前なのか敗北フラグなのかどちらかだ。
そして俺もウィルも、まだまだ走りを止めるつもりはなく、凱旋門賞はあくまで通過点にすぎない。
故にここで仰々しく想いを伝えるのは、あまりにも不吉極まる行為だ。
勝負は時の運なところもあるし、迂闊なことをして三女神の不興を買いたくはない。
で、ウィルをパスするとなると、次に食い込んでくるのは兄さんや昌、そしてブルボンだろう。
ずっと迷惑かけたりお世話になったり、改めてウマ娘の素晴らしさを教えてくれたりした3人には、感謝せざるを得ない。
なので、兄さんには誠意を込めて、直接会える2人にはしっかりと頭を下げて、謝意を告げた。
……告げた、のだが。
『気にしなくていいよ。歩が前を向けたなら、それが一番のお返しみたいなものだから』
「そういうのいいから。あ、いややっぱよくない。感謝の気持ちがあるなら仕事手伝って。私今週末は休み入れたいから」
「私はマスターに救助された側。感謝される謂れはないと推測します」
それぞれ、割とサラッと受け流されてしまった。
いや、毎度父とのそれのようにしっとりしたかったわけではないんだけど、なんというか……。
思い切って頭を下げたのを軽く流されると、なんだか恥ずかしいんだよな。
やっぱり今度から、謝意を向けられたら素直に受け取るようにしよう。
人の振り見てではないけど、やはりふとした瞬間にこそ学びはあるものだ。
* * *
さて、担当ウマ娘や肉親の次は……。
やはり、このトレセン学園を経営する理事長である、秋川やよい理事長だろう。
秋川理事長には、陰ながらだいぶお世話になった。
そもそも俺が3年前、例外的にサブトレーナーや教官を経由せず専属トレーナーになれたのは、秋川理事長がそれを認めてくれたおかげだ。
ひいてはその年にトレセン学園に入学していたウィルに出会えたことも、彼女と契約することができたのも、全ては理事長のおかげである。
……冷静に考えると、とんでもない大恩人だな。俺にとってもウィルにとっても。
というか、今のウィルの活躍やトゥインクルシリーズの勃興を考えると、全体的に陰のMVPでは?
更にその上、先日のルドルフとの模擬レースなんか良い例だけど、理事長はウマ娘のためとあらば結構無茶をしてくれる。
とても採算なんて合わないだろうに、ただの模擬レースをあそこまで盛り上げてくれたんだ。
学園の利潤を考えなければならない理事としては失格かもしれないが、トレセン学園のトップとしては、秋川理事長は間違いなく適切な人材だろう。
……時々思うんだけど、彼女は理事長じゃなく校長の方が向いているのではあるまいか。
そして当然ながら、俺もウィルも、秋川理事長には死ぬ程お世話になっている。
引き合わせてくれた上に色々助けてくれるとか、感謝してもしたりない程の大恩人だ。
日本を出て凱旋門賞に挑む前に、やはりあの人には一度しっかりお礼を言わねばなるまい。
そんなわけで、たづなさんを通してアポを取り、俺は秋川理事長に面会した。
「歓迎ッ! 久しぶりだな、堀野歩トレーナー!」
「お久しぶりです、秋川理事長」
そう言葉を交わし、俺は対面に座った理事長に目を向ける。
……しかし、改めて見ると、その小柄さに驚くな。
俺の胸あたりまでしかない、まるで少女のような体格。
というか本当に少女と呼んでいい年齢なんだが……。
それでいて、組織の長として不足ない以上の働きをしているのだから、それを初めて見た時のインパクトは結構すごいものがある。
しかし、どれだけ見た目や実年齢が幼かろうと、彼女は俺たちトレセン学園トレーナーにとって欠かすことのできない大事な存在だ。
1年でもこのトレセンで働いていれば、とても舐めるだなんて発想は残らない。だって下手したら俺たち以上に働いてるし。
しかし、彼女は疲労など欠片も見せることなく、むしろ俺に向けて豪快に笑いかけて来る。
「うむ、ホシノウィルム共々好調なようで重畳ッ! 私たちトレセン学園は君たちの挑戦を全身全霊で応援するぞ!」
「ありがとうございます。いつもわがままを聞いてもらって、本当に助かります」
「構わない、全てはウマ娘の明るい未来のためだ!
ホシノウィルムは今や、日本中のウマ娘たちに夢を届ける存在。そして同時、我が校の在校生の1人でもある。
必定ッ! 我々が彼女の背を押すのは当然のことだ!」
彼女は笑ってそう言い、いつの間にかその手に握っていた扇子を開く。
……まぁ、その後ろに立つ秘書のたづなさんは、「また理事長の悪い癖が……」と言わんばかりに頭を抱えているので、やはりかなり無理をしてくれたようだが。
「それで、堀野歩トレーナー。何か話があるとのことだったが、何の用だ?」
「海外遠征の前に、お世話になった方にあいさつ回りと感謝を、と。
改めて、4年間お世話になりました。これからも、ホシノウィルムと共にお世話になります。どうぞよろしくお願いします」
そう言って頭を下げると、「うむ、堀野歩トレーナーらしい律儀さだ!」という声が聞こえる。
どうやらひとまず不興を買うことはなかったようだ。
顔を上げた時に見えたのは、笑顔の秋川理事長だった。
「場合によっては嫌味に映ることもあるだろうが、私は君のそういうところが好きだぞ!
まぁ、もう少し余裕を持ってもいいとは思うがな!」
「そんなに余裕がなさそうに見えるでしょうか」
「4年前に比べればずっとマシにはなったぞ!」
それはつまり、今もちょっと見苦しく見えるという意味では……?
喜んでいいのか、反省すべきなのかすらわからないな。
思わず微妙な顔をしてしまう俺に対して、理事長はふと、その表情を真面目なものに変えた。
「……堀野歩トレーナー。4年前のトレーナー資格試験の面接の際、私が君に聞いたことを覚えているか」
「はい」
4年前、「ここまで必死に鍛錬を積んだのだから絶対に受からねば」と、乾坤一擲の覚悟で臨んだトレーナー資格試験。
その最後の面接で、秋川理事長は俺にこう尋ねて来た。
「ウマ娘のトレーナーをするにあたり、最も重要なことは何か……ですよね」
「その通り! それに対して君は、こう答えた。
自分を殺すこと。そして、全てを以てウマ娘のことを支えることだ、と」
ああ、そうだ。そう言った。
当時の俺は、堀野のトレーナーとして、そうすべきだと心から信じていた。
自分を持たず、担当のために全てを捧げるべきだ。
そこに感情を挟むべきではない。自らの欲望を持つべきではない。
己の全てを犠牲にしてでも、彼女を、彼女たちを支えるべきだと。
もはや懐かしくすら思える、その信条。
あるいは、あれを貫いていれば、俺には別の未来があったのだろうか。
……まぁ、たとえあったとしても、それが明るいものであるとは限らない。
俺としては、あの日選び取った未来こそが最善であったはずだと、そう信じるしかないわけだが。
遠い過去を思い出して懐かしんでいると、秋川理事長が静かに尋ねて来る。
「今でも、答えは変わらないか?」
躊躇わず、首を横に振る。
俺は堀野のトレーナーとしての道を、理想を、捨て去った。
これまでの人生で培ってきたものを捨ててでも、俺自身が支えたいと思える、ただ1人の競走ウマ娘を見つけたから。
「……ウィルは、よく俺に言います。
きっと競走ウマ娘にとって一番大事なのは、走ることを楽しむこと、誰かとのレースを好きになることだと思います、と。
俺も、今は同意見です」
前世で読んだ何かの本では、「自分を救えないようなヤツには誰かを救うことはできない」とあった。
正直、それを読んだ時には、あまりよく意味を理解できなかったんだが……今なら、それもわかる。
「ウマ娘にとって、走ることを好きになるのが最も大事であるように……。
トレーナーにとって最も大事なのは、まずウマ娘を好きになること。
自らの担当を、その走りを、誰よりも好きになることこそ、トレーナー業を行うにおいて最も重要なことだと、今はそう思います」
俺の内心をそのまま吐露するような言葉に、秋川理事長はまぶたを閉じた。
彼女から何かの言葉が発されることはなく、俺も何かを言うこともなく……。
そうして、気まずい沈黙の時間が流れる。
……え、何かマズいことを言ってしまっただろうか。
ちょっと不安に思い始めた、その時。
プルプルと、秋川理事長の体が震え始め……。
「感ッ、動ッ!!」
……彼女の帽子に乗っていた猫ちゃんが思わず跳び上がる程の、大声で叫んだ。
というか、なんなら俺やたづなさんもビクリと跳び上がりかけた。
驚愕に固まる俺たちの前で、彼女は「感動」と書かれた新たな扇子を広げる。
俺に向けられたその目は眩い程の熱に満ち溢れていた。
「堀野歩トレーナー、私は嬉しい! 嬉しいぞ!!」
「な、何がでしょう」
隠し難い困惑と共に尋ねると、理事長は「うむ」と腕を組む。
「君がトレーナーとして優秀であることは、資格試験の結果と新人研修での成績が示していた。
君は間違いなく、数年に一度、あるいは数十年に一度の逸材だ。
だからこそ、教官やサブトレーナーを経てゆっくりと育てるべきだと、たづなはそう言っていたが……」
あ、そうだったんだ。
ちらりとたづなさんの方を見ると、何とも言い難い表情で頷かれる。
まぁ実際のところ、俺を除く全てのトレーナーはそれらの経験を糧にトレーナー業を行うわけで、それがより妥当な判断だとは思うが……。
しかし、恐らくは当時も全く同じ動きをしたのだろう。
秋川理事長は、激しく首を振った。
「だが! だが、だ! 私は一秒でも早く、君に思い出してほしかったのだ!」
「ええと、何を……」
「ウマ娘への、愛だ!!」
ビシッと扇子をこちらに突き付け、理事長はその目を見開く。
「言葉を交わす中で、君の中からは確かなウマ娘への愛を感じた!
しかし同時、その想いは君に忘れられかけ、どうしようもなく曇ってしまっていた……!
故に! 君に本当の意味で一流のトレーナーとなってもらうべく、早期にウマ娘の専属担当を許したのだ!
そして君は、愛する担当ウマ娘と二人三脚で走る中で、確かにその気持ちを取り戻した! これに感動せずして何に感動するというのかッ!!」
……そうか。
以前聞いた時は、「君のように優秀な者を遊ばせておく余裕は学園にない」と言われたが……。
あれは、表向きの理由。
俺がホシノウィルムの走りに惚れて思い出した、この気持ち。
これを思い出させるために、秋川理事長はわざわざ、特例を……。
彼女から向けられていた親心のような想いに、俺は思わずジンとしてしまっていたのが……。
次の瞬間、秋川理事長はしゅんと小さくなってしまった。
「……ただ、経験不足による業務効率の想像以上の悪化や、ホシノウィルムという逸材と共になったことでこなさねばならない業務量がすごいことになってしまったのは、私からしても予想外ではあったのだが。
一度許した以上、今更決定を覆すこともできず、精々たづなに君を手助けさせることくらいしかできなかった。
君の為を思ったつもりが、結果として君のことを酷く痛めつける結果になってしまった。そこに関しては、本当にすまなかった……」
やっぱりあの量は予想外だったんだ……。
実際のところ、ウィルがダービーを走ってた頃の俺の業務状況は、今思うと「よく死ななかったな俺」という感じだった。
獅子は我が子を千尋の谷に落とすと言うが、本当にそんな高さから落としちゃったら普通に死ぬ。
鍛えるにしても、ちょっとばかりオーバーワークだったなぁと思わないでもない。
彼女の背後に立っていたたづなさんも、頬に手を当ててため息を吐た。
「すみません、堀野歩トレーナー。理事長の思い付きであんなことになってしまって……。
私は止めたんですが、どうしてもこれが必要なのだと聞いてもらえず」
「謝罪ッ! そこに関しては完全に私の責任だ! 申し開きのしようもない!」
ぐっと頭を下げる理事長に、しかし俺は首を振り、笑って応えた。
「謝罪を受けます。そして、私は気にしていません。
確かに苦しい時期も、辛いこともあったことは事実です。けれど、理事長のその判断のおかげで、私はウィルに……愛バに、巡り会うことができた。
だから、これこそが最善の『今』であると思いますし、むしろ理事長には感謝しています。
私に専属担当を許していただいて、そして陰ながら支えていただいて、ありがとうございました」
「ありがとう、そう言ってくれると本当に救われる」
理事長はそう言って1つ頷き、ガタッと立ち上がって、その手に持つ扇子をこちらに突き付けた。
「……よし! 改めて、堀野歩トレーナー! トレセン学園理事長として君に1つ、指令を下す!」
そう言って、彼女はいたずらっぽく笑い、扇子を開く。
「凱旋門賞に出走し、君の愛バたるホシノウィルムと共に、最高のレースをしてくること!!
よろしく頼んだぞ!!」
その扇子には、「激励」という文字が並んでいた。
こういう伏線回収みたいな小骨取り回、やってて一番楽しい。
次回は1週間以内。ホシノウィルム視点で、育てたが故にの話。
(追記)
誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!