私は基本、レースの格とか歴史とか、そういうのはどうでもいい派だ。
レース自体よりも、そこに出て来る出走ウマ娘とか、観に来てくれるファンの方が大事だと思ってる。
勿論、「このレース、アニメゼミで見たところだ!」と盛り上がったりとか、「あの子とあの子と同時に戦える!」とワクワクしたりとか、「オイオイオイ来てくれたファン多いわこのレース」と奮起したりとかすることはある。
けど、良い意味で意識の高い他のウマ娘たちが思ってるように、「このレースに勝つためにこそ走るんだ」とか、「このレースに出るために全てを」みたいな気高い想いは、ぶっちゃけ全くない。
畢竟、強いウマ娘と走れるんならオープンレースでもいいし、微妙な相手と走ることになるんならG1レースでもちょっと……と思ってるまである。
まぁ、栄えあるG1レースでメンツが微妙になることとかそうそうあることじゃないし、そっちの方はあんまり心配してないけども。
いやさぁ……レースの格とか歴史とか、そういうのの価値って、よくわかんないんだよね。
シンボリやメジロみたいな良家で育てばそういう教育を受けるのかもしれないけど、私は中央どころか地方のレースも走れなかった平々凡々なお母さんの娘だし。
子供の頃に見て感動したレースなんかあれば話は別かもしれないけど、その頃には家庭崩壊からお父さんの呪い背負ってよいこらしょだったし。
レースの歴史とか格とかをちゃんと学び始めたのは中等部2年辺りからで、その頃には私バリバリG1連勝してたから、「すごいレースなんだよ」って言われても「まぁ普通に勝てるけども」って感じで全然実感湧かなかったし。
うん。
やっぱりこれ、私の環境が特殊すぎるからだな。
私は悪くない、環境のせいだったんだ……なんて、そんなことは言うつもりはないけども、まぁある程度仕方ない部分もあるってことはご理解いただきたい。
……が、だ。
そんな風にレース自体には思い入れのない私といえど、流石に凱旋門賞となると思うところはある。
未だ日本のウマ娘が勝つことのできていない、世界最高峰の芝のレース。
これに勝つということは、殆ど直接的に「芝における最強のウマ娘」であることの証明になる。
注目度も難易度もこれまででトップクラスどころか、間違いなく頭1つ抜けてダントツの1位。
歩さんも「俺と君の走りの完成形を見せるべき時だ」と言っていたし……。
つまるところ、このレースはラスボスみたいなもの。私の旅路の1つの果てだ。
強者と戦うこととレースを楽しむこと以外にはこれといった目的もなく走っている私だけど、流石にここまで来ると「いよいよだなぁ」という感慨はあるわけで。
トレーニングのクールダウン中、私は座って息を整えながら、空を見上げていた。
「……もう2年半か」
長いようで短い、ほんの瞬き程の間に過ぎて行った時間だったな。
トレセン学園に入ってからの2年半で、ホシノウィルムの生涯は大きくその色合いを変えた。
どうしようもなく色のなかった寒い灰色の世界が、たくさんの星々の輝きに彩られる、燃えるような熱い世界に変わったんだ。
……けれど、あの灰色の世界が、辛く苦しかったあの日々が、無意味であったとは思わない。
あの頑張り続けた毎日があったからこそ、私はトゥインクルシリーズで活躍できる力を手に入れた。
無駄なことなんて何一つない。
辛かった日々も、失敗した経験も、悲しかった失敗も。
その全てが確かな意味を持ち反省に繋がり、今の私を作り上げてるんだ。
で、そういう意味ではやはり、私が一番感謝しなきゃいけないのは……。
私の、今は亡き両親だろうなと思う。
私をこの世界に生まれ変わらせてくれた、お父さんとお母さん。
まぁその後、色々すれ違いがあったのはアレだけど……それでもやっぱり、私をこの世界に生んでくれたのは、これ以上ないくらい感謝してる。
ただその上で、1つ、悲しいのは……。
2人の形見が、殆ど残ってはいないことだ。
家財も家も、全部売ってしまった。
その理由としては、お金が足りなかった、っていうのもあるけど……無意識の行動ではあったけど、私はあの日々を思い出すものを視界に入れたくなかったんだと思う。
だからこそ、2人の残した細々としたものも、全部捨てるか売るかしてしまったんだ。
残ったものは、ただ1つ。
自分の耳を……当然ながら顔の横ではなく、上に付いているウマ耳を触る。
ムニムニかつふさふさで触り心地の良い感触だ。
しかし、触っている中で、他とは違う固い感触に差し当たる。
薄灰色を基調とした、金属製の……ちょっと複雑で正直よく分からない形状をした、両耳の耳飾り。
かつてはお母さんの使っていた、そしてついぞターフの上では見られることのなかったものだ。
まだ私が赤ん坊の頃……お母さんの心が擦り減る前、彼女はこれを私にくれた。
「私には必要ないものだから、いつかあなたが、これを使えますように」って、夢と希望を込めて。
だから私はずっと、これを付けたまま中央で走ってきた。
私の走りでお母さんの未練が晴らせるのなら、それ以上のことはない。
誰かの夢を背に乗せて走るのも、ウマ娘の役目だからね。
「……お父さんとお母さん、どこかから見てくれてるかなぁ」
やや赤みを増してきた空に、ぼんやりそんなことを思う。
魂とか輪廻転生とかって、普通の人にとってはただのオカルトなんだろうけど……。
こと実際に転生してこの世界に流れ着いた私にとっては、決して否定できないものなんだよね。
死んでしまった後、両親はこの世界に生まれ変わったかもしれないし、私と同じようにどこかの世界に既に転生してしまっているかもしれない。
けれど、願わくば……。
いや、正直、これは願うべきものではないのかもしれないけど。
お父さんとお母さんが、どこかの世界に転生する前に、私の走りを見てくれてればなって思う。
2人は最後まで、私を恨んで逝ってしまった。
だから今更、私の走りなんて見たくはないかもしれないけど……。
2人がこの世界にいた証、この世界に生んだ私が、確かに結果を残してるって知って欲しい。
2人の生涯が決して無意味じゃなかったって、そう思って欲しい。
……まぁ、こんなのはただのエゴでしかないんだけどさ。
慰めになるかなんてわからないし、むしろ逆に腹立たしいかもしれないし、そもそも生まれ変わったかも、この世界にいるかもわからないんだけど……。
それでも。
「……見てくれてるといいな」
そう思ってしまう私は、やっぱり自己中心的なのかもしれないね。
……さて、と。
そろそろ休憩も終わりでいいだろう。
歩さんのスケジュールだと、あと5分くらい休む予定だけど、そろそろ体と心に溜まる熱に耐えられなくなってきた。
ウマ娘っていうのは、走るためにできている。
であれば今は、とにかく走るのみだ。
私は今や、とんでもなくたくさんの夢を背負っている。
止まるわけにはいかないのである。
……いやまぁ、ぶっちゃけただただ走りまくりたいだけなんだけどさ。
「よいしょっと!」
声を上げて立ち上がり、私はターフへ向かおうとして……。
「……ん?」
ふと、温かい手に、優しく背中を押された気がした。
振り返っても、そこには誰もいない。
気のせい……だったのかな?
* * *
ふと過去を想ってややセンチメンタルになってしまったけど、そもそもこういうのはちょっと私のキャラじゃない。
どちらかと言えば、そういうシリアスは歩さんの担当な気がする。
私はこれからのレースとか歩さんとの未来を考えて、競走ウマ娘らしく遮二無二走っていればいいのだ。
さて、それでは改めて未来の……私の最終目標であるレースのことを考えよう。
凱旋門賞は、これまで以上に熾烈極まるレース。
レースそのものに集中し切らなければ、とても勝つことはできないだろう。
日本にいる今、私にできるのは、全ての未練を断っておくことだ。
そんなわけで私は、トレーニングの合間を縫って、友人や先輩、後輩ちゃんに会いに行くことにした。
まず、私の最大の友達であるネイチャや、最強のライバルたるテイオーは……。
……まぁ、日常的にご飯とか一緒に食べてるし、パスで。
改めて挨拶とか恥ずかしいしね。ま、最悪行く当日とか前日とかでいいでしょ。
ならばと、マックイーン先輩に会いたいところだったんだけど……。
どうやら彼女はメジロ家の用事で、ここ1か月程トレセンを離れているとのこと。
とはいえ、メジロの施設でトレーニングはできるし、秋からはちゃんとレースに出てくれるらしい。そこは安心だ。
なのでLANEで、これまで競ってくれた感謝と秋の天皇賞の健闘を祈るメッセージを送った。
返信は……なかなか来ない。ちょっと忙しくしてるのかな。
さて、お次は後輩ちゃんだ。
勿論一番に会いに行ったのは、同陣営の後輩たるブルボンちゃん。
真面目な彼女は今日も今日とて、菊花賞に向けて距離限界を延ばすために必死に走り込んでいた。
彼女のことだから、こう言うと多分「むしろ私が」って言うと思うけど……。
思えば、彼女にはすごくお世話になった。
何度も併走に協力してもらって、数日前に領域の展開実験もさせてもらったもんね。
そんな彼女に何のお返しができるかと考えたけど……。
結局のところ、私にはただ走ることしかない。
なので丸一日使って、ブルボンちゃんのトレーニングプランに合わせて併走したり、私にできる限りのアドバイスをしておいた。
……とは言っても、歩さんの監督下にあるブルボンちゃんに、アドバイスなんて必要ないかもしれないけどね。
たった1人の同門の後輩ちゃんだ、本当はもっと協力した方がいいのかもしれないけど……。
彼女はもう自分の走りを見つけ、2本の足で立っているんだ。
ミホノブルボンはもう、一人前の競走ウマ娘。
私の手出しなんてなくとも、どこまでも駆けて行けるだろう。
……きっと私が気にすべきは、まだそこまで行けてない後輩ちゃんたちである。
* * *
さて、その次の日。
私が向かったのは、ソウリちゃんのところだった。
私が特に親しい後輩ちゃんの1人である彼女は、今年の5月から、1月に1本の頻度で公式レースに出走してる。
つい先日なんて、初めての出走となった重賞レースで見事に勝利を収め、ついに重賞ウマ娘の仲間入りを果たした。
けど、そのレースを見ていた限り……。
彼女はブルボンちゃんと違って、未だ自分らしい走りを見出せているわけじゃないようだ。
まぁ、当然と言えば当然だろうか。
自分の世界を掴めるのは、トップ層のウマ娘とバチバチに競えるほんの一握りのウマ娘だけであり、つまるところG1に出走するような子たちだけだものね。
彼女が走ったのはあくまでG3、重賞の中では最下級のレース。
G1級の化け物ウマ娘が乱入してくるようなこともなく、そのレベルはやっぱりG1に比べるとかなり低かった。
彼女はまだG2とかG1の、あのヒリヒリとした雰囲気を感じていない。
理論も理屈もぶっ飛ばして、最強のウマ娘が迫って来る感覚も、味わっていないんだ。
そして正直、今の彼女がそこまでの力を持ってるかと言えば、微妙なところ。
……というか、こんなことを言うのはなんだけど、持ってないだろう。
彼女はここ数か月、かなり急激に力を付けている。
去年のネイチャと同じ、いわゆる夏の上がりウマ娘というヤツだろう。
いや、夏って言うにはちょっと時期が早いか。春の上がりウマ娘、っていうのが正確かな?
ただ、それでも届き得ない高みというものは存在するわけで。
今の彼女は、「運次第ではG2に勝てるかもしれないウマ娘」といったところ。
まだブルボンちゃんやライスちゃんと競えるって程ではないかな。
歩さんの要警戒リストの中でも、彼女の名前は8ページ目にしか載っていなかった。現状では菊花賞への出走できるかも微妙、という感じだったし。
……応援すると言った手前、そんな状態の彼女を放置して海外に行くのは、あまりに義にもとる。
そんなわけで、ちょこっとテコ入れすることにした。
「せっ、先輩と模擬レース、ですか……?」
「うん。やろっか」
さて、みんな大好きパワーレベリングのお時間です。
ブルボンちゃんの時もそうだったけども、私にできることといえば走ることくらいだ。
彼女に強者とのレース経験が足りないというのなら、させてあげればいい。
このトゥインクル現役最強の私が、しっかりと稽古を付けましょうとも。
「大丈夫、流石に本気じゃ走らないよ。クラシック級の子くらいのペースで行くから……私のことをブルボンちゃんだと思って、君自身の逃げを試してみな」
「私自身の……逃げ」
「何かやりたいことがあるんでしょ? 見てればわかったよ」
直近の3つのレース、ソウリちゃんは何かを試しているようだった。
ただ、結局それは形にはなっていないっぽい。
……少なくとも、ブルボンちゃんやライスちゃんを直接的に打倒できる程ではないかな。
「G1レースは、私が言うのもなんだけど、かなり修羅の世界だ。
とんでもない衆人環視の中、不可避的に高まる緊張、ライバルの強烈な威圧感。今ソウリちゃんが走ってるレースより、もっともっと本領を発揮しにくくなる。
しっかり技術を身に着けておかないと、本番じゃ何もできず負けちゃうだけだ。
だから……私相手に試し打ちしておきなよ。多分、ブルボンちゃんの逃げのペースを再現できるのって、日本でも私くらいだし」
ま、流石に完全再現は無理だけどね。
ブルボンちゃんの逃げの特異性は、何と言っても極めて精確な体内時計による一定速度での滑走だ。
漏れ出す「アニメ転生」によって多少思考力が増加しているとはいえ、私には彼女程精確な体内時計はない。あの機械みたいな速度維持は無理だ。
それでも、私も転生チートウマ娘。
いつも一緒に走ってるブルボンちゃんのペースは覚えてるし、それに合わせたペースで走って疑似再現することくらいはできる。
……そうして、多分彼女が一番望んでるであろうことも、見せてあげられる。
「勿論、領域も味わわせてあげるよ。
早く自分の走りを見つけられるよう、お手本になってあげる」
「! ……なるほど、わかりました。それじゃ、よろしくお願いします!」
ガバッと頭を下げて来たソウリちゃんと、それから何時間か走ったり、領域について話したりした。
その感触としては……。
……うん、思ってたより悪くない、かな。
ソウリちゃんの走りからは、明確に「やりたいこと」が感じられた。
菊花賞に勝つために、ブルボンちゃんに勝つために、どうすればいいか。どうしたいのか。
それがよく考えられた走り、よく練られたプランだったように思う。
そして何より、彼女はウマ娘にとって必要なことを、よくわかってた。
何度目かのレースを終え、へとへとになって両膝に手を付いたソウリちゃんは、それでもなお私の方を見上げて、笑ってたんだ。
これなら……あるいは、万が一もあり得るかもね。
* * *
さて、私にはもう1人、様子を見ておきたい後輩ちゃんがいる。
そして正直、私はソウリちゃん以上に、彼女のことを心配していた。
実力に関して言えば、彼女は素晴らしいものを持ってる。心配の必要なんて全くない。
菊花賞におけるド本命は勿論ブルボンちゃんだけど、対抗バはほぼ間違いなく彼女だろう。
歩さん曰く、私やマックイーン先輩に次ぐと言っていい生粋のステイヤー。淀の坂と3000メートルという距離は彼女に大きく味方するはずだ。
だから、ソウリちゃんにしてたような実力的な意味では、私は彼女を心配してない。
ライスちゃんを心配してるのは、全く別の意味だった。
「とはいえ、こっちはどうするかなぁ……」
「ありがた迷惑」とか「余計なお節介」って言葉もある。
ライスちゃんに関しては、ここで関わっておくべきか、そして関わるならどういう温度感でいくか、なかなかに悩ましいところだ。
今のライスちゃんは、良くも悪くもすごく張り詰めてる。
皐月賞の前後からその気配はあったものの、ブルボンちゃんが領域を開いた日本ダービー以降はその気配が顕著に漏れ出した。
彼女が私に連絡を取って来ることも、かなり減ってしまった。
当然そうなれば、夜間一緒に自主トレすることも殆どなくなるわけで。
お話しする相手もなく寒々しい──あくまで比喩で、むしろ最近は暑いくらいなんだけど──夜道を走るのは、なかなかに寂しいものである。
一応LANEで「最近どう?」って聞くと、かなり遅れて「すみません、自主トレに熱中しちゃってて……」とか返信は返って来てるし、嫌われたわけじゃないとは思うんだけど……。
察するにライスちゃん、前世アニメでも見た極限集中モードに入っちゃったんだろうな。
今でも覚えてる、前世アニメでの、春の天皇賞前のライスちゃん。
瞳から青い炎を漏らし、黒く禍々しいオーラを纏って、いつもの彼女とは似ても似つかない鋭い視線で月下のグラウンドを走っている、その姿。
アレは、私が前世アニメの中でもトップクラスに好きなシーンの1つだ。
春の天皇賞に向けて、マックイーン先輩も間違いなく本気で臨んではいたんだけど、ライスちゃんの取り組み方は……なんというか、鬼気迫っていた。
その本気度の違いとでもいうべきものが、天皇賞(春)の残酷な差を生んだのだ。
前回の合同トレーニングの時のライスちゃんは、そんな恐ろしい気配をちょっとずつ纏いつつあったように思う。
それこそ……この私さえ、ゾクッと背筋を震わせ、口端を上げてしまう程の、冷たい威圧感。
今のライスちゃんは、ブルボンちゃん打倒と菊花賞勝利のために、精神を集中している。
どこまでも、自分を研ぎ澄ませているんだ。
今のライスちゃんは、子供の頃の私に近い。
自分の全てを賭けて、その命さえも懸けて走る、決死の姿勢。
あるいはそれこそが、前世アニメでも取り上げられた通り、ライスシャワーというウマ娘の本気の姿なのかもしれない。
「うーん……」
私的には、ウマ娘は走るのを楽しまなきゃいけないと思う。
けど、それはあくまでホシノウィルムのスタンスに過ぎない。
必ずしも全てのウマ娘が走るのを楽しめば速くなるかと言えばそういうわけでもなく、ライスちゃんのようにギリギリに研ぎ澄まされてこそ力を発揮できる子もいる。
となれば、私が変に絡んでその鋭さを鈍らせるのは違うかもしれない。
……しかし。
私は、その苦しさを知っている。
勝たなきゃいけない理由があるから、命懸けで走るのは耐えられる。
けれど、あくまで耐えられるってだけで、脚は痛いし心は寒い。
今となっては、もう一度体験したいとはあんまり思えない体験だ。
ライスちゃんが勝つために必要だと言うのなら、その決死の努力を無為にすべきではないと思う。
しかし、その寒々しい苦しさは、なんとか緩和してあげたい。
とあらば、私がすべきは……よし。
その道に、私も寄り添うことか。
私の中には、切り替えられるモード的なものがある。
言うならば二重人格的なアレだ。実際には三重だけど。
1つが、レースの熱さに浮かされて積極的に押し込む「熱い」モード。
1つが、フラットで柔軟性高めの通常時、「温かい」モード。
そうして1つが、かつて培ったレースへ極限集中する姿勢の残滓、「寒い」モード。
かつてはレースの気配を感じれば自動的に切り替わっていたこのモードも、今や自在に切り替え可能。
とは言っても、公式レースやこの前のルドルフ先輩との模擬レースくらい本気を出す時じゃないと、わざわざ切り替えたりはしない。
そんなことしなくったって、ホシノウィルムは勝てるからね。
……だから、ってわけじゃないけど。
私の「寒い」モードの姿を見せた後輩は、多分彼女が初めてだと思う。
「ホシノウィルムはその時に応じて雰囲気を変えるウマ娘だ」ってよく言われる。
実際、それは間違ってない。
ファンの前では、ファン向けの顔を。
ライバルの前では、ライバルの顔を。
後輩ちゃんの前では、後輩ちゃん向けの顔を。
レースの前には、レースの顔を。
そして、トレーナーの前でだけは、本当の「私」の顔を。
それぞれの仮面……というか、それぞれの表情を使い分けるのが私の処世術だから。
だからこそ、私は後輩ちゃんにその顔を見せたことはなかった。
……というか、この「寒い」表情を誰かに見せること自体、だいぶ久しぶりな気がするけど。
「お姉、さ……ま……?」
ライスちゃんは、僅かにたじろいだようだった。
事前に打ち合わせたわけでもないのに、自主トレしてたところに私が現れたことに……ではなく。
本気の私の、今まで見たことのない雰囲気に。
……酷く冷たく、相手に興味もなく、ただ競い合いを制すること、相手を下しレースに勝つことだけを目的とした、この仮面。
最近のライスちゃんの雰囲気を、更に鋭く冷たくしたようなソレに。
私はそんな彼女に対し、ゆっくりと口を開く。
「久しぶり、ライスちゃん」
温かく、あるいは熱くぶつかり合うことが後輩ちゃんのためになるなら、そうしよう。
けれど、ライスちゃんの場合は、むしろそれが脚を引っ張ることに繋がってしまうかもしれない。
ライスシャワーというウマ娘は、本質的に熱されることを望んではいない。
誤解を恐れず言えば、彼女にライバルは必要ないんだ。
ただ遥か遠くにある、目的地、目標、背中……あるいは、夢。
それが、ただ1つあればいい。
それなら、私の役割は1つだろう。
ライスちゃんが辿り着くべき先を……命懸けで走った、先達として。
「……それじゃ、走ろうか」
「え、っと……」
戸惑うライスちゃんに、私は笑う。
いつも意識的に浮かべている明るいものじゃなく……。
冷たく酷薄な光を放つ、冬の夜の青い星のような笑顔で。
「もらってばかりじゃなんだから、菊花賞前の最後のプレゼント。
今までみたいなぬるい温度で馴れ合うんじゃなく、痛いくらいの冷たさで……ホシノウィルムが、本気で相手をしてあげる」
決してその手の届かぬ、遥か彼方の空の
それを与えることこそが、きっとライスちゃんにとって最高の発破材になるはずだ。
ライスちゃんの瞳がきゅっと細まる。
そして、気のせいか……チラリと、その目に見覚えのある青色の炎が走った。
「……よろしく、お願いします」
さて、軽く揉んで……いや、本気で叩き潰してあげよう。
より高みを知り、より強きを知り、どこまでも……きっといつか、私の背中に迫るまで、強くなってくれるように。
……あぁ、先日のルドルフ先輩も、こんな気持ちだったんだろうね。
支え方も寄り添い方も人(ウマ)それぞれ。
さて、2人の心残りの消化も終わり、いよいよ舞台はフランスへ。
……と、その前にちょっと、日本に残す2人の別視点をば。
次回は一週間以内。サブトレーナー視点で、趣味の話。
(追記)
誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!
今回は過去一レベルで誤字が酷かったです……。ちょっと集中力に欠けてました。反省。