ホシノウィルムと俺の、海外出立の日が来た。
朝早くに寮に迎えに行き、「むぅ……んあ!」と言葉にならない呻きと共に抵抗してくるウィルからタオルケットを巻き上げ。
寒さからか縮こまる布団の中から運び出し。
ほぼ無意識状態の彼女を無理やり背負って運搬。
えっちらおっちら車に詰め込んで、昌の運転で空港へ出発した。
「……兄さん、さっきのすっごい犯罪的な絵面だったよ。誘拐かと思った」
「俺はトレーナーを執行しただけなんだが?」
空港に着く頃にはウィルも意識を取り戻し、可愛らしく耳をピコピコさせていた。
落ち着かない、不安を感じている……しかし同時、尻尾もフリフリさせているところからして、これからを楽しみにしている、というところだろうか。
「ふー……私、何気に日本を出るのは超久しぶりです」
「……ん? 君、確かこれまで日本を出たことなかったのでは?」
「あ、あー! いや、そうでしたねぇ。長距離の移動が久々、でした」
「ついこの前も阪神まで移動したが」
「飛行機で、です! 春に北海道行ったぶりじゃないですか!」
わたわたと慌てて言い繕うウィル。
すごく、そりゃあもうビックリするくらいに怪しい。
……いや、もうこれ、転生者なことほぼ確定じゃない?
この子今、絶対「前世まで含めて久々」って意味で言ったでしょ。
俺の中ではもう、ウィルが転生者であるという仮説、ほぼ確定に近付いてきてるんだけど?
とはいえ……うん。
今、それを指摘する必要はないだろう。
彼女の抱える秘密、彼女の保持する記憶。
それは無理に聞き出すものじゃない。彼女が言いたいと思った時に言えばいいのだ。
それに、彼女が転生者だったとしても、別に何も変わらない。
そうした長い記憶が俺の担当ウマ娘であるホシノウィルムを作り上げてくれたのだとすれば、それは喜ぶべきでありこそすれ、否定すべきことではないしな。
さて、空港で多くのファンに見つめられながらしばらく待ち、いよいよ出立の時が来て。
それまでずっと隠れていた、秋川理事長やたづなさん、同期や知り合いのトレーナー、そしてテイオーやネイチャ、ターボに、ウィルを慕う後輩たちという一団がばっと出て来て、「ホシノウィルム必勝!」と書かれた横断幕と共に見送りをしてくれたりもして。
それに一度は笑顔を返したウィルが、しかし機内に向かう中で、数年前北海道を後にした時のことを思い出したのか、「……えへへ。今回は、いっぱい見送ってもらっちゃいました」と流した嬉し涙を拭いたりもして。
同時に俺も、ここまで多くの人に、こんなにも応援してもらえているんだと、少なからず感じ入る気持ちと共に改めて気合を入れ直し。
そうして、俺とウィルを乗せた飛行機は、静かに日本を後にした。
* * *
……さて。
如何にもラスボス前の最後の会話みたいな感動的な一幕が終わり、俺たちは前向きな気持ちで機内に乗り込んだわけだが……。
時に、日本からフランスへ飛ぶのにかかる時間はどれ程かご存知だろうか。
答えは……12から13時間。
おおよそ半日余りである。
部屋に入ってすぐ、窓辺へと駆け寄ってキラキラとした目で外の景色を眺めていたウィルだったが、どこまでも広がる悠久の空と未来への展望が彼女の興味を惹き付けられたのは、おおよそ20分程。
雲を越え、高度が安定してからしばらくすると、ウィルはちょっと不満げな顔を浮かべた。
「飽きました、暇です」
そのなんとも情けない表情とへにょりと垂れた耳に、思わず苦笑を漏らす。
相変わらず、なんとも締まらない子だ。……そういうところ、こちらも気を張らなくて済むので、俺は好きなんだが。
「ま、想定通りだな。空って舞い上がってからしばらくすると、代わり映えなくなるから。
色々と暇潰しの道具はあるが……まずは話でもしてるか?」
「します!」
ベッドの上で軽く跳び上がり、彼女は俺の座る椅子の傍まで這って来る。
さて、何の話をしようかと頭を回したが……。
俺が何かを口にする前に、ウィルの方から話題を出して来た。
「いやしかし改めて、最近の飛行機ってすごいですね! これもうホテルですよ!」
そう言って、ウィルは自分の乗るベッドを軽く叩いた。
確かに、一般的に言う「飛行機」のイメージからは離れるかもしれないな。
ウィルが現在だらけている、3人までなら横になれそうな広いベッド。
その傍に添えられた、体に負担のかからない2つの椅子。
俺もウィルも殆ど見ていないが、大型のモニターには今朝のニュース映像が流れている。
流石にバスルームの類はないし、スペースもそこまで広くはないが、下手なホテルよりは寛げる空間と言えるだろう。
「ツテがないと使うの難しいスイートルームだからな、この部屋。最近は一般利用も始まったらしいけど」
「へ~、やっぱり名家出身ってそういう時に強いんですね……。あ、ちなみにここ、いくらくらいしたんですか?」
「往復500くらい?」
「ごひゃく!? ……って驚いておいてなんですが、最近金銭感覚がぶっ壊れちゃってあんまり高額にも思えなくなってきたのが怖いですね……」
まぁ、500万くらい、彼女なら割と簡単に稼げてしまうからな。
その年収から考えると、走りに関わる消耗品以外は普段からかなり質素な生活を送ってるわけだし、週末のお楽しみ……というのは少し厳しいにしても、半年に一度のお楽しみに使うくらいならそこまで問題もないだろう。
まぁ、今回に関しては俺が全額出してるけども。
殊に今回は一生に一度かもしれない、凱旋門賞への挑戦なのだ。
狭いシートの上で堅苦しい思いをするより、ある程度伸び伸びと体を動かせる状態で臨むべきだろう。
海外遠征では、その途上のストレスの軽減も大事な要素だしな。
「そんなスイートルームとはいえ、ここは空の上に浮かぶ精密機器の中だ。君が全力ではしゃいだりすれば航行に支障が出る可能性がないでもない、体を動かすのはストレッチ程度にしてくれよ?」
「流石にそこまで常識ないことないですよ私も。……まぁ? 勿論? 歩さんが構ってくれれば、の話なんですが!」
「それなら問題ないな。12時間は案外短いぞ」
* * *
2年前、ウィルと付き合い始めた頃。
俺は、彼女と何を話せばいいか全くわからなかった。
勿論走りやレースのことならいくらでも話せるのだが……まぁ、ハッキリ言ってしまうと、俺とウィルの間にはそれしかなかったからな。
当時はとにかくレースに負けたくないウィルと、堀野のトレーナーたらんと必死な俺で、両者共に歩み寄るだけの余裕が欠けていたと思う。
……今更ではあるが、大人としてその余裕のなさはどうなんだ、過去の俺。穴があったら入りたい。
が、これが1年前になると、お互いだいぶ緩和したと思う。
ウィルは宝塚記念にてその冷たい世界から完全に脱し、俺も彼女を担当するためにこれまでの生き方を捨てることを決意。
結果として……まぁ、そこそこに雑談もこなせる程度には仲が深まったと思う。
特に大きかったのは、やはりウィルの入院だったかな。1か月近く毎日のように話で時間を潰したことで、多少なりとも話の進め方などの勉強になった。
……さて。
それでは現在、俺たちがどのくらいの距離感になったかと言うと。
「そこでね? テイオーが言うんですよ。『でもウィルが引いたら絶対ハズレじゃん』って。
失礼じゃありません? 私八冠ウマ娘ですよ? 宝塚記念連覇も春シニアも史上初ですよ? 世界最強ですよ?」
「一番くじに関係なくないそれ? ……で、どうだったんだ。引いたの?」
「引きました」
「結果は?」
「…………E賞とF賞が合計7つ」
「知ってた」
「あと1回! あと1回引いたら絶対A賞でしたから!!」
「その根拠のない自信はどこから湧いてくるんだよ」
ウィルは俺の膝の上でぎゃいぎゃいと騒ぎ、その両手を振り回す駄々っ子モード。
とはいえ、ウマ娘としてのフルパワーではなく、あくまで人間の少女並みの力だ。
きちんとセーブするだけの理性は残してくれている。
えらい。えらいので、ご褒美を差し上げよう。
「はいはい。ほら、ブドウだぞー」
サイドテーブルに置いていたブドウを一粒、彼女の口元に寄せると……。
彼女は「む」と呟き、不機嫌そうな表情は変えることなく……と思いきや、よく見たらめちゃくちゃ上機嫌な色を隠しきれない表情で、パクリとそれを頬張る。
「んむ……あ、ほれ、皮もはへられるタイプです?」
「イエス」
「んっ。食べやすいし、種もないし、甘さと酸味が噛み合ってて……すごい美味しいですねこれ。もしかしてこれも高級品?」
「勿論」
実のところ、閉塞感や動けない状態を嫌いがちなウマ娘にとって、飛行機の中はかなり強いストレスを受ける可能性のある空間だ。
勿論、どれほど嫌うかはウマ娘によるし、前世の世界の馬たちと違ってウマ娘は強い理性を持っているので多少は耐えることもできるが……。
流石に12時間という長期間ともなると、心的負担がバ鹿にならない。
海外遠征の難しさの1つには、こうして開幕からストレスを負わされるというのもあるんだよな。
そんなわけで、このフライト中はウィルのストレスを最低限に抑えるため、最高品質のサービスを用意している。
このブドウは勿論、お菓子の類も彼女の口に合いそうな中で味の良い高級品を選んだし、機内食もしっかりしたものが届く予定だ。
勿論、そういった飲食関係だけではなく、俺自身も彼女の望むように行動しようとは思っているのだが……。
……しかし、この状況は如何なものか。
「ところでウィル」
「あんえすか?」
「俺の膝枕って……なんというか、良いの?」
俺は現在、ウィルのスペースとして立ち入らないつもりだったベッドの上で、しりもちをつくように足を伸ばしている。
で、その膝の上にウィルが頭を乗せている状態だ。
つまるところ、一言で表すとすれば……膝枕だ。
勿論俺が自分からこんなことをするわけもなく、ウィルに「枕が合いませんので!」と強請られた形。
いや、絶対俺の膝の方が合わないと思うんだけど……という俺の考えに反し、彼女は軽くポジションを正しながら、落ち着いて言ってくる。
「良いっていうか……あったかいですし、どっちかと言えば落ち着くって感じですね。
あ、勿論続行希望です。歩さんの足が痺れたら流石にやめますけども」
「え~……」
「何ですかその声。もう痺れました?」
「そっちは大丈夫だけども」
いや、なんだろう、ちょっと戸惑うというか。
俺は前世でいわゆるオタク的コンテンツにある程度触れていたので、膝枕というものに対する憧れは理解できないでもないが……。
それが自分に向くとなると、なんというか、ちょっとビックリしてしまうものがある。
普通こういうのって女性が求められるものなのでは?
男の膝枕とか誰が得をするんだ?
ていうか俺、そこそこ体鍛えてるし、多分全然柔らかくないぞ。
それと単純に、枕としても高すぎるのではなかろうか。
あと、くんくんと匂いを嗅ぐのは恥ずかしいのでやめてほしいなって思います。
「まぁ、君が望むのならばするが……ねぇ?」
「な、なんですか、そんな配偶者の変な性癖に付き合わされて疲れたような目をして!
……冷静に考えると今の私、自分の性癖一方的にぶつける最低女だったりします?」
「いや、俺としては拒絶の感情は殆どないぞ。ただ、こんなのが良いのかっていう困惑の感情が強くてなぁ……うん」
「膝枕の良さとかわからない感じです?」
「多少はわかるつもりだよ? ただ、自分がやるとなると……本当に気持ち良いのかそれ? と思ってしまうというか。普通は女性が求められる側なのでは? とも思うし」
「あ、じゃあ歩さんが寝る側なります? ほら」
ウィルはそう言うや否や、しゅばっと起き上がって足を伸ばし、パンパンと自分の膝を軽く叩く。
うーん、犯罪的に眩しいお膝。というか彼女の歳を考えると、不用意に触るのは割とガチで犯罪なんだけども。
ウマ娘って、太陽の下に出ても日焼けとかあんまりしないんだよなぁ。
1年をずっとトレーニングに勤しんでいたウィルも、その肌は雪のような白さを保ったまま。
……っとと、そうじゃなくて。
「いや、君ね、競走ウマ娘の膝ってめちゃくちゃ商売道具よ? それもあのホシノウィルムのものを使った膝枕なんて、どんな高級品だって話で……」
「やめときます?」
「せっかくだしよろしくお願いします」
彼女自身それを望んでるっぽいし、こうなれば旅の恥はかき捨てだ。
いや、まだまだ旅に出たばかりなんだけども。
普段なら観衆の目を気にするところだけど、今日は人の目が全くない、というのもあるしね。
そんなわけで、俺は彼女の膝に頭を乗せたのだけれど……。
ちょっと不安そうに見下ろしてくるウィルと視線を合わせながら、俺はポツリと呟いた。
「……ちっさ」
「何が!? 何がですか!? 事と次第によっては訴訟も辞さないですよ!?」
「え、いや、膝のスペースがだけど。こうして身を頼りにすると、君が小柄な少女だということを改めて思い知るよ」
「あ、ああ、そういう。まぁ私、体だけだとかなり小さいですしね。
……今胸も小さいよなって思いましたか!?」
「被害妄想エグくない?」
ウマ娘というのは、それぞれで体格が変わるんだけど……。
ウィルは多くのウマ娘の中でも、最も小柄なタイプだ。
身長は145センチで、数値だけで言えばあのライスシャワーと同じだ。
彼女はライスと触れ合う時、大体いつも先輩風を吹かせているが、第三者から見ると同年齢の友達が背伸びして頑張っているようにしか見えないんだよなぁ。そういうとこも可愛いが。
……というかむしろ、ライスと比べて、耳の大きさの差で身長負けてるまであるかもしれない。
ウィルも体格にしては大きい方だけど、ライスってとびきり大きい方だからね。
「しかし、殆ど顔を動かす余地がないな。あと非常に引き締められていて硬い。思ったより高いし」
「不満たらたら! ここはお世辞でも褒めるところでは!?」
「でも確かに、なんというか……落ち着くな。人肌の温かみからか? あとよく知る人の匂い?」
「あっちょっ! 嗅がないでっ! お、乙女の恥じらいという言葉をご存知でない!?」
「君だってさっき俺の膝枕ですんすんしてたじゃん」
「バレてたんですか!?」
そりゃあんな夢中で嗅がれればね。
そんなに良いのか俺の匂い。まぁウィルに会う前からずっと体臭のケアは欠かしていないので、少なくとも酷すぎることはないと思うけども。
……あるいはアレか? 恋愛感情を抱いた相手の匂いだから快いと思えるとか?
理屈はわかるけど……これまた自分のこととなると、なんとも体感し辛い話だな。
* * *
ずっと膝枕してたらウィルの興奮が高まっていくばかりなので、いいところで切り上げた。
彼女は他の子よりはだいぶ落ち着いた性分ではあるが、そうして溜め込んだ分、爆発した時の暴走はかなりすごいものがある。
飛行機の中で暴れられたら危ないし、何より他の乗客や乗務員の迷惑になってしまいかねないからな。
そういうのは現地に着いて、俺たちだけの時にやっていただくということで。
そんなわけで、ベッドから降りて椅子に戻ろうと思ったんだが……。
「行っちゃうんですか?」
「む? 無論、話はこれからも続けていいが」
「……もっと、近くで話したいです。もっと」
戻れなくなってしまった。
契約トレーナーは、担当ウマ娘のしゅんとした顔に弱いのだ。
しかし今日のウィル、なんかこう、いつもよりテンション高くない?
いやまぁ正直、俺だって結構テンション高くなっちゃってる自覚はあるけれども、ウィルはそれに比べてもだいぶすごいと思う。
普段のウィルなら絶対言わないからね、こんなこと。
まぁ、彼女にとっては(少なくとも今生では)初の海外渡航だ。
こうして雲上の碧空を飛ぶ飛行機の、それも一般ではそう使われないスイートルーム。
更に言えば、この3年の間ほぼ一切なかった、誰からも絶対に見られていないという確証の持てる状況。
これらの非現実的な状況が、彼女のテンションを上げてしまっているのかもしれない。
ま、なんにしろ、ウィルが望むのならば俺はそれに従う他ないな。
……ただ、ウィル、俺の左腕に抱き着くのはやめてくれまいか。
いくら人の目がないとはいえ、大人が不用意に中等部の生徒に触れるのは色々と問題があるんだよね。
ていうか、ぶっちゃけ俺も人間なわけで、様々な方向で好意を持っている担当に抱き着かれると……ちょっと何も思わないままではいられないんだよね。恥ずかしながら。
とはいえ、俺はこれでも、元は堀野のトレーナー。
自制心には多少の自信がある。
鋼の意志で以て表情を維持し、俺は改めてベッドに座り直した。
「……ふふふ、歩さんもこういうの嬉しいんですねぇ」
全然維持できてなかったらしい。
……ま、バレてしまったのなら仕方ない。
「は? 嬉しいが? 君と触れ合えて嬉しくないわけがないが? 可能ならずっとこうしていたいまであるんだが?」
「すっ……す、素直すぎませんか、ちょっと。そこは恥ずかしさとかから否定しとくところでは?」
「たとえ嘘でも誤魔化しでも、君と一緒にいる時の気持ちを否定したくはないよ」
「うっぐッ……こ、この……ホンット変わんないですよね歩さんそういうとこ! どうせ誰にでも言ってるんでしょう!?」
「……? いや、こんなこと言うのは君だけだが」
「うぐぐぐぐッ!!」
何やらわたわたと慌てるようにしながらも、彼女は両腕を俺の腕に絡めたまま。
結局、2人で寄り添いながらベッドに腰かけて、数時間、尽きることなく話を続けていたのだった。
* * *
飛行機が日本を出たのは9時半……の予定だったが、結局遅れて10時半となった。
そしてフランスまでにかかる時間は、12時間余り。
つまり、俺たちの体感では、到着は23時過ぎのことになる。
……が。
日本とフランスの間には実に8時間の時差があり、日本の方が時間が進んでいる形だ。
結果、俺たちがパリに降り立つのは、現地時間では16時過ぎの予定となった。
「ん、む……」
飛行機があと1時間で現地に到着しようという頃、ウィルのまぶたが下がりがちになり始めた。
彼女の就寝時間は、大体いつも10時半から11時。
そこから7時間の就寝を経て、朝のランニングに出る日常だ。
つまるところ、普段ならそろそろ寝る時間である。
その上、聞いた話だと昨日はワクワクしてしまってあまり眠れなかったらしいし、今日もかなりテンションが高かったので、疲れてしまったのだろう。
ついに眠気が限界に来たらしい。
窓の外は夕方どころかまだ真昼だというのに眠くなってしまうとは、つくづく体内時計は正確なものだ。
実際俺の方も、僅かに疲労がかさんできた実感がある。まだまだ我慢できる範囲ではあるが。
さて……本来ならばウィルをしっかり寝かせてあげたいところではあるが、今回はそうもいかない。
なにせ、ホシノウィルムだ。
現在世界で最も人気のある、最強のウマ娘だ。
そんな彼女が自分の国に来るともなれば、その国のレースファンやウィルのファンは皆、その姿を一目見ようと空港に駆けつける。
彼女の姿を頻繁に見ることのできる日本でさえ出国の時はかなり賑わってたんだ、フランスとなればそりゃあ多くの人の目が集まると予想される。
いや、予想されるというか、ほぼ間違いない。到着1時間前の今ですら、既に人でごった返しているところだろう。
そして同時、そんなファンの中に紛れるように、取材陣や記者が押しかけてくる可能性も高い。
そこで見せた姿や言った言葉は、そのままフランス中を駆け巡るというわけだ。
いわゆる芸能人というヤツは、人前で隙のある姿を見せるわけにはいかない。
特に、ウマ娘はアイドル的人気も高いんだ。ウィルの最悪な寝起きを史上初公開する場としては最悪と言えるだろう。
なので、ゆっくりと本格的に眠らせるわけにはいかないが……。
「ウィル、30分程寝なさい。いいところで起こすから」
幼少期から、睡眠時間を最低に保つため色々と実験してきたので、知っている。
30分以内の睡眠なら、そう寝ぼけることもなく、かなりスムーズに起きることができる。
というか、自分が眠れたのか実感することもできず、ただ眠気がある程度飛んだ状態になるんだ。
昔はこれを使って、朝昼夜それぞれ30分ずつ寝て眠気を飛ばす、なんかもやってたな。
今となってはちょっと懐かしい。
これならウィルも、ある程度眠気を飛ばしながらフランスに降り立つことができるだろう。
俺の言葉が耳に入っているのかいないのか、ウィルは身をよじりながらベッドに倒れ込む……が。
「うおっ」
俺の左腕は、放してくれないままだった。
「ちょ、ウィル」
「歩さん……一緒に……」
寝ぼけているのだろう、彼女はぽつぽつと言葉を呟きながら、既にその目を閉じている。
このままではマズい。色々と。
「ウィル、俺はあっちの椅子に座っているから……」
「ごほうびけん……」
「雑に切ったな切り札を」
やられた。
「ご褒美権」は、俺への絶対命令権。
これを使われた場合、少なくとも俺の出来る範囲において、彼女の望みを叶えなければならない。
たとえそれが、ただの寝言であったとしても、である。
そして今回……はっきり言ってしまえば、彼女の「お願い」を断る理由が、非常に薄い。
一般人の目もないし、ご褒美の内容もあくまで「一緒に横になる」ところまでだ。
俺がそれ以上何もしなければ、問題は起こらない。
「……ふぅ。わかった、添い寝な、添い寝」
両手を挙げる……ことはできないけれど、片手を挙げてホールドアップ。
俺は諦めて彼女の隣に横になり、それからの30分間を、彼女の頭を撫でたり天井を眺めたりすることに費やすことになったのであった。
……ちなみに、ウィルに無意識に抱き締められた左腕は、あとちょっとで脱臼しそうになった。
無意識下で抑えが利かなくなったウマ娘の握力と腕力、ヤバいね。
余談だが。
翌日フランスで放映されたニュースでは、ウィルの来訪が広く知らされたわけだが……。
到着の興奮からか、やけにウィルの顔が赤かったと、一部で話題になっていたらしい。
【吐息を感じる距離感】あなただけのトレーナーと添い寝♡ 抱き着いて過ごす、絶対誰にも邪魔されない温かな30分【ASMR】
次回は一週間以内、ホシノウィルム視点でこれもう同棲だろの話
甘すぎて砂糖吐くと思った読者様、まだ2人の恋愛フェイズは終了してないぜ……!
(雑記)
謎のマスクドじゃなくなった三冠バ、カッコ良すぎない?
それに比べてウチの三冠バは……どうしてこうなった。
(追記)
誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!
なんかウィルが堀野君のことをマスターとか呼んでたんですけどどんな誤字??? 完全に前回のノリが残ってましたね……。