二次創作として楽しんでいただけたら幸いです。
……おかしなことに。
その日が来ることはわかっていたし、その重さも理解していたはずだった。
それなのに、いざ当日になった今、全く現実感がない。
「改めて、調子はどうだ、ホシノウィルム」
「万全です。昨日はしっかりと7時間半睡眠を取りましたし、これ以上ないコンディションであると自認しています」
「……うむ。俺の目にも、君は絶好調に映っている。仕上がりも上々。
後は、パドック入りまでしっかりと体を伸ばしておけ。だいぶ待つことになるからな」
「了解しました」
控室でホシノウィルムと言葉を交わす。
彼女は全く以て正常。いつも通りのホシノウィルムだ。
対して俺は……果たして、きちんと仮面を被れているだろうか。
クラシックロードの出発点、G1、皐月賞。
それが今日、俺の担当が出走するレースだ。
ウマ娘たちの体が仕上がってきたクラシック級4月に開催される、中山レース場、右回り芝2000メートルのレース。
「最も速いウマ娘が勝つ」という言葉通り、このレースでは直接的な速度こそが重視される。
ここに来るまでに参加できる中距離のG1レースは、ジュニア級年末のホープフルステークスのみ。
よって、そこに参加できなかった中距離から長距離を主戦場とするウマ娘たちにとっては、これが初めてのG1レースとなる。
経験から来る慣れというものは、勝負事において非常に大きなウェイトを占める。
殊にただ力を比べ合うだけではなく、高度な戦術や技術、策略を使う場合には、それに思考を割くためにどうしても慣れが必要となるだろう。
……つまり、G1初参加のウマ娘たちは、複雑な手管を使う余裕なんかないってことだ。
2000メートルという距離は、長いようで短い。この時期のウマ娘たちなら2分程度で駆け抜けてしまう距離なのだ。
経験もなければ時間もないこの環境下でものを言うのは、本人たちのスペック……そう、「速さ」。
皐月賞に、難しい要素はない。
最も理想的に、最も美しく、そして最も速く走ったウマ娘が勝つ。
それこそが、皐月賞というG1レースなのだ。
……よほど素質が高ければ、この限りではないだろうけどな。
とはいえ、そのレースは蠱毒の末に磨き上げられた最強たちによるもの。
単に速さを比べるだけでも、とんでもないデッドヒートになることは避けられない。
クラシックレースは、優駿の証明の1つ。
当然の話だが、適性のあるウマ娘の大半は、このレースへの出走を望むだろう。
しかし残念ながら、そのほとんどは叶わず夢と消える。
それもむべなるかな。皐月賞の出走枠は18人分しかない。
400人近く……地方まで含めれば、それこそ1000人以上いる同期のウマ娘の中で、その頂点の18人にしか、この舞台に立つことは許されないのだから。
……さて、ここからが本題になる。
至極当然の話になるが、そんなウマ娘を担当するのは、名門の知識と長年の経験を持つベテラントレーナーの役割だ。
いくら名門出身だろうと、中央の新人トレーナーがまず目指すべきは、担当をトゥインクルシリーズの重賞……G3で勝利させること。
担当との二人三脚に慣れ、徐々にそのハウツーを自身の中に蓄積していき、それがしっかりと形になって初めて、G1を目に入れる。それが普通なんだ。
むしろ一度でも担当にG1勝利を与えられた時点で、優秀なトレーナーである証明と言ってもいい。
それくらい、G1レースに勝利するという栄光には、重い価値がある。
前世アプリの影響とホシノウィルムのおかげで、俺の感覚はおかしくなっているが……。
はっきり言えば、G1の勝利というのはまさしく「夢」だ。
誰よりも優れたトレーナーであった俺の父でさえ、その生涯において担当に取らせたG1は5つのみ。
G1ウマ娘を担当するというのは、それだけ珍しく、そして重責を負うべきものなのだ。
だからこそ……現実感がない。
ホシノウィルム。突然変異的に発生した、最高の素質を持つウマ娘。
彼女を俺が担当し……G1どころか、皐月の舞台に立たせる、だなんて。
不釣り合いじゃないか?
俺は、ホシノウィルムを担当するトレーナーとして、相応しいのだろうか。
新人で経験もなく、今もこうして緊張で竦んでしまっている。
ホシノウィルムの勝利を信じたいのに、何かが起きて負けてしまうんじゃないかって……。
皐月賞の格を前に、彼女の勝利を信じる心が揺らいでしまっている。
ホープフルステークスの時はこうじゃなかった。
あの時は、出走するウマ娘のステータスや天候、バ場状態や距離などを考えて、冷静に、どこか他人事のようにレースを見ていた。
今思えば、半ばゲーム感覚だったのかもしれない。
ウマ娘を育成すること。ホープフルステークスに出走すること。
俺は前世のアプリで、それを何度も何度も経験してきた。
だから今世のあれも、その延長線上だと感じていたんだろう。
しかし、2つの出来事が俺の心を揺らした。
1つは、あのネイチャの大健闘。
圧倒的な格上であったはずのトウカイテイオーを振り回し、完全にレースを支配して……そしてホシノウィルムに迫った。
そしてもう1つは……ホシノウィルムが、過去を聞かせてくれたこと。
彼女には彼女の人生があり、苦しみがあり、そして俺を信頼してそれを打ち明けてくれたのだ。
その2つで、俺は実感した。
ウマ娘は、生きている。
ゲームのデータじゃない。彼女たちはこの世界に生き、この世界で走っている。
ゲームとしての感覚が、現実と剥離した。重ねて見ることができなくなった。
……ようやく目の前の現実を、正しく認識できた。
皐月賞に担当を出走させるという、これまで何度も繰り返してきたはずの行為は……。
今や俺にとって初めての、この身に余る挑戦になってしまった。
知識はある。
堀野の歴史が紡いできた膨大な知識を、俺は受け継いだ。
この世界でも有数の名家である堀野家には、至宝と呼んで差し支えのない圧倒的な量のデータと、それに裏付けられた叡智が収められていた。
能力もある。
「アプリ転生」というわけのわからないこの観察力は、とてつもないアドバンテージだ。
ウマ娘の管理という側面において、俺は並のベテラントレーナーよりも上手くやれている自負がある。
だが、経験がない。
俺はこれまでただの1度も、ウマ娘を担当したことがなかった。
本来経由するはずだったサブトレーナーや教官も何故か回避してしまったから、その経験すらもないのだ。
そして何より、覚悟がない。
俺はまだ、他のウマ娘の夢が散ることも、自分の担当が負けることも、覚悟できていない。
仮にホシノウィルムが勝ったとしても、それを心の底から喜ぶことができないかもしれない。
そんな俺は、ホシノウィルムの契約トレーナーに相応しいのか?
この最強のウマ娘の横に……彼女の隣に、いていいのか?
「トレーナー?」
「……ん、何だ、ホシノウィルム」
「トレーナーの番ですよ。さ、です。さ」
担当の声で、ようやく思考が現実に戻って来る。
さ。……さ?
ああ、しりとりか。そう言えば、時間を潰すためにしりとりしてたっけ。
「さ……さ、か。いざ考えるとなかなか思いつかないな。散布」
「また、ぷ……。ぷ、ぷ……プロフェッショナル」
「ループ」
「ぷ…………。プリンセス」
「スープ」
「トレーナー、大人げなさすぎませんか」
「カップ」
「いや、今のは違うんですけど」
「ドープ」
「あ、聞いてませんねこれは」
「ワイプ」
しりとり、か。だいぶ久々にした気がするな。
1年と少し前、まだホシノウィルムとどうコミュニケーションを取ればいいかわからなかった頃……。
重い沈黙に耐えかねて、俺が始めたのがしりとりだった。
それからは、少し時間が空けば取り敢えずしりとりをしていた記憶がある。
今はネイチャやターボ、そして模擬レースの話題に席巻されてしまったが……そういう時期もあったな、と懐かしく思った。
まだ俺が、ある程度はちゃんとトレーナーの仮面を被れていた頃。
……ゲーム感覚で、ホシノウィルムの運命を眺めていた頃。
あの頃の俺なら、この皐月賞も、何の動揺もなく迎えられただろうか……?
……いや。
あの時とは、何もかもが違う。
スカウトすらまともにできなかった頃に比べれば、今の方がずっとマシなトレーナーになれているはずなのに。
なんて、情けない。
あの日のことを羨む程、俺は追い詰められているのか。
「あの、トレーナー? ……トレーナー!」
「ん……どうした、ホシノウィルム」
「トレーナー、体調が悪いのですか? 心ここにあらず、という感じですが」
ふと見れば、そこには……いつもの無表情を破り、心配そうに少し眉を寄せた担当の顔があった。
……あークソ、ホントに情けないな俺。
よりにもよって、レース前の担当ウマ娘に気を遣われるとか……ホシノウィルムどうこう以前に、トレーナーとして論外。
何のために仮面を被ってんだ、俺は。
ホシノウィルムを見ろ。
皐月賞という人生の岐路に立ちながらも、気丈に振る舞い、俺なんかを気遣っている。
レース直前の自分のことよりも、誰かのことを優先しているんだ。
お前はそんな担当ウマ娘に対して、何をしている?
くだらない悩みを抱えて、彼女の存在を無視するのが、俺にとっての正しいトレーナーなのか?
「そんな訳がない」
初心、忘るべからず。
堀野のトレーナーとして、担当を支える。
今は、それだけを考えろ。
そのために、そのためだけに、俺はここにいるんだから。
「……悪かった、ホシノウィルム。今日のレースのことを考えていたんだ。
大丈夫、1000回走ったら1000回、必ず君が勝つ」
「はい、トレーナーの作戦で、必ず勝って来ます」
ホシノウィルムは心配そうな表情を消し、どことなく真剣な表情で頷いた。
その瞳には、はっきりとした信頼が伺えて……。
本当、ダメだな、俺は。
いつの間にか、大切なことを忘れていた。
相応しいとか相応しくないとか、契約トレーナーと担当ウマ娘は、そういう関係じゃない。
ホシノウィルムは、俺を信じてくれる。俺をトレーナーとして認め、指示を聞いてくれる。
俺は、ホシノウィルムを信じる。彼女のウマ娘としての力を認め、完璧なプランと作戦を指示する。
トレーナーとウマ娘、その両者の間にあるのは、才能とか能力とは関係のない……。
相互が認め合う、信頼関係でなくてはならない。
俺がすべきは、うじうじ悩むことじゃない。
彼女の信頼に応えるために、自分を変えていくことだ。
そのための第一歩は……。
……うん。
今日レースから帰って来る担当ウマ娘を、心の底から祝うことから始めよう。
* * *
さて、URAの職員が彼女を呼びに来たタイミングで、俺はホシノウィルムと別れる。
この後、出走するウマ娘のトレーナーは、関係者用のスタンド指定席に入ってレースを待つのだが……。
まだレースまで時間がある。
俺は地下通路を抜けて、一般入場者の中に交じることにした。
その理由は、ファンの方々の生の声を聞くため、というのが1つ。
観客視点でパドックに立つウマ娘を観察するため、というのが1つだ。
……しかし、改めて。
「お前誰推しなん?」「ハートブロウアップ! 大番狂わせもあり得るぜ」「ひえー、テイオーの推しTシャツ完売だってよ」「どうせ帝王と蛇の戦いになるんでしょ?」「ホットダンス頑張ってくれぇ」「お前ホシノウィルムのグッズ買えたの?」「おお、見てよこれ、ウィルムぬい!」「めっちゃ無表情じゃん……」「スイートキャビン、実力あるのに人気なさすぎでしょ」「最近テイオーかなり気合入ってるよな」「チアーリズムって結局どうなの?」
すごい人だかりだ。
今年の皐月賞の事前入場者予想は前年の2倍近くに膨らみ、10万人を超えるものと見られている。
それだけの人数が、今から始まるレースに期待を寄せているんだ。
特に、やはりと言うか、物販は死ぬ程混んでるね。
……ほんとに死者出るんじゃないかこれ。とんでもないことになってるけど。
ちらっと覗いた感じ、グッズは……やはりと言うべきか、ホシノウィルムとテイオーの売れ行きがすごいね。残酷なくらい差が出ちゃってる。
ちなみに、自慢じゃないが俺はホシノウィルムのグッズを全部持ってる。トレーナーには確認のために送られてくるんだよね。
結果として、俺のトレーナー寮の自室は半分くらいグッズの倉庫と化している。処分するのも申し訳なくて、どうしたものかと悩んでいるところである。
……しかし、ファンの方々はすごくマナーが良いな。
この世界は、前世に比べてだいぶ民度が良いというか、善性の人間が多い。
こうして列に並んでいる時も、基本的に割り込みとか諍いが起きないし、むしろ初めて会った人と推しのウマ娘の話題で盛り上がっているようなことさえ珍しくはない。
俺もウマ娘を愛する人間の1人、立場さえ許せば彼ら彼女らと語り合いたい気持ちはあるんだけど……。
何度か顔出しで取材に答えたりしたし、俺の正体が知られている可能性はなきにしもあらず。一応マスクはしてるけど、バレる可能性は否定できない。
流石に今日の主役級ウマ娘のトレーナーがそんなことしてたら、馬鹿みたいに目立っちゃうだろう。
というわけで、悲しいけど我慢だ。
せめてその話をこっそりと盗み聞きながら、パドックへ向かうことにしよう。
「帝王と蛇の戦いはどうなるかな」
「ホシノウィルムは去年のホープフルステークス、1か月前の弥生賞と、二度に渡って中山の2000メートルを経験している」
「どうした急に」
「対してトウカイテイオーは、若葉ステークスで阪神レース場に改修工事が入った際、代わりに中山で走った1回のみ。経験値という点では、去年と直近という長期・短期記憶両方を獲得したウィルムが有利と言えるだろうな」
「なるほどな。しかしテイオーと言えばその天才的レースセンスだ、1回走っただけでも十分にモノにした可能性はあるんじゃないか?」
「天才はいる。悔しいが。もしもテイオーがその能力を遺憾なく発揮すれば、ウィルムは迫られるかもしれないが……」
「ああ……」
「「中山の直線は短い」」
「最後の上り坂を越えた先は80メートル前後。どうしても前方のウマ娘程有利になりやすいと言えるだろうな」
「テイオーが最終コーナーを抜けた後、上り坂までにウィルムのセーフティリードをどこまで削り取れるかが勝負所か」
……すっごい詳しいファンいるな!?
思わず足を止めて聞いてしまった。
ウマ娘は、アスリート性とアイドル性を併せ持つ。
アイドル的な部分に惹かれる人も多い印象はあるが、こうしてアスリート性を愛してくれる人たちもいるわけだ。
個人的には、ホシノウィルムの努力の結果を評価してくれるファンがいるのは、とても嬉しい。思わずニコニコしちゃうくらいには。
……いや、良い歳した成人男性がいきなり笑うのは怖いわ。
さっさとパドックに向かおう。
* * *
トゥインクルシリーズの公式レースでは、ファンの方々が出走ウマ娘たちの調子を窺えるように、パドックでのアピールタイムが設けられる。
準備運動しているウマ娘たちが順番にランウェイに歩み出て、身振り手振りでアピールする、というものだ。
レースへの気概、体のバランス、何よりその精神の整い具合。
そういったものを見たり解説を聞いたりして、どのウマ娘がこのレースで活躍するかを予想するわけだ。
ウマ娘たちは呼ばれるまで、パドックの中で軽く歩いて、改めてターフに足を慣らす。
その中で呼ばれたウマ娘からランウェイに上がり、アピールすることになる。
その順番は基本的に枠番とウマ番に従い、出走位置が内側のウマ娘から順に呼ばれるんだけど……。
アクシデントがあったり、人気に大きな差があれば後に回されたりもする。……今回みたいにね。
俺がパドックにたどり着いた時、そこではちょうど今日の出走ウマ娘たちが姿を現し、アピールを始めたところだった。
1枠2番、17番人気、スイートキャビン。絶好調。
デビュー戦以外ではなかなか1着を取れていないために評価は低いが、今日は見事に気合が入っている。これといった強力なスキルはないが、ステータスの均整が取れており、テイオーに次いで危険か。
4枠9番、4番人気、ホリデーハイク。絶不調。
初めてのG1レースを前に興奮している……いわゆる入れ込んでる様子だ。レースまでに落ち着きを取り戻すのは無理かもしれない。
5枠11番、3番人気、ハートブロウアップ。普通。
良くもなく悪くもない、普通のコンディションだな。彼女の素質はかなりのものだし、場合によっては入着もあるだろう。
6枠13番、6番人気、チアーリズム。絶好調。
強い。強いが、スイートキャビンに比べると誤差レベルで見劣りするか。スピードがそこまで高くないのが足を引っ張るかもしれない。
6枠14番、5番人気、パンパグランデ。不調。
ステータスはかなり高いが、左右の耳の動きが乱れており、抑えようとしても抑えきれない不調っぷりが表れている。皐月での活躍は難しいか。
テイオー以外で一番警戒してたホリデーハイクが絶不調となると、いよいよ彼女たちのことは視界の外に置いてもいいだろうか?
……いいや、そんなことはない。
ホリデーハイクが掛かれば、それだけホシノウィルムは追い詰められやすくなるわけで、むしろ彼女が入れ込んでいる状態はホシノウィルムからすると不利な可能性がある。
やる気の上下は本人の勝率に大きく関わるが、同時に他のウマ娘への影響がどう働くかは未知数。
むしろ冷静な好調の時より、掛かった不調の方が恐ろしい、なんてことも間々あるのだ。
故に、彼女たちも脅威になる。
……残る1人に比べれば、小さな脅威でしかないのも事実だが。
さて、16人の紹介が終わり、いよいよ彼女が現れる。
ファンたちの熱い期待を受けて、実況が高らかにその名を唱えた。
『8枠18番、2番人気、トウカイテイオー』
白と青を基調としたヒロイックな勝負服に身を包み、軽快にステップを踏んでランウェイを歩くテイオーは……絶好調。
……うん、これで2着までは確定したな。
テイオーが絶好調になっている時点で、どちらが1着かはさておいて、ホシノウィルムとテイオーの2人がワンツーだ。
確かに他の子も強いよ。特にスイートキャビン、チアーリズム。調子も整っている彼女たちの入着は固いだろう。
でも、テイオーに勝てる程でもない。
トウカイテイオーは勝利を約束されたウマ娘。
その血も、才能も、そして実力も。周りからは1回りも2回りも隔絶している。
故にこそ彼女は絶対の自信を持って、この皐月の舞台に立っているんだ。
『僅差で2番人気となりましたが、その実力は折り紙付き。
柔軟さとレースセンスに関しては随一と言って良いでしょう。
皇帝に次ぐ無敗の皐月賞制覇を成し得るのか。調子も体も整った彼女に注目です』
スピードはホシノウィルムよりそこそこ下、スタミナと根性はかなり低い。賢さとパワーは同じ程度。
ステータスだけだと、ホシノウィルムが有利だ。
問題は、スキルだな。
上手くコース取りし、より良い位置に付く「ポジションセンス」。
好位置で息を入れて脚を溜める「好位追走」。
スパート直前にバ群から脱出する「抜け出し準備」。
……そして、直線でグッと加速する「一陣の風」。
実に隙が無い、あのトレーナーの担当ウマ娘らしいスキル構成だ。
特に、最終直線でスパート開始と共に一陣の風が発動すれば、少しばかり……いや、かなり恐ろしい結果を生む。
前世のアプリと違い、この世界ではスパートする位置や、スキル……つまり技術を活かすタイミングは、ウマ娘と作戦を出すトレーナーによって自由に決められる。
故に、ちょっと死にスキル気味だった一陣の風も、場合によっては恐ろしいものとなるんだ。
一方、賢さ不足によるスキル不発は、アプリと同じように起こる。
思考が追い付かず、常に動き続けるレースの状況に合わせて咄嗟に技術を使えなかった、ということになるわけだ。
……無論、それらスキルを考慮してもなお、俺の目から見てテイオーはホシノウィルムに届かない。
けど、何があるかわからないのがウマ娘のレースだ。
警戒するに越したことはないだろう。
トウカイテイオーはランウェイを去る前、天に向けて指を1本突き立てた。
テイオーが信奉する中央トレセン学園生徒会長、無敗の三冠ウマ娘、シンボリルドルフ。
彼女は皐月賞に勝った時、「まず1冠目」と、指を1本立てたという。
それをリスペクトした勝利宣言に、当然ながらファンたちは沸き立った。
……けれどそのざわめきは、思ったよりずっと控えめだ。
何故なら、今日ここに皐月賞を見に来た者たちは、その全てが知っている。
もはやこの世代は、トウカイテイオーの一強ではなくなっていることを。
トウカイテイオーが小気味良い軽快な走りでランウェイを去り……。
代わりに、もう1人の最強が現れた。
モノクロの軽装の上に深紅のジャケット。左の胸には両耳の耳飾りと同色の薄灰色、星型ブローチが鈍く輝く。
吹き抜けた風が、鹿毛と一房の黒鹿毛を揺らした。
小柄な体から放たれるのは冷たい威圧感。
青ざめた瞳は真っすぐ正面に向けられ、観客たちすらも視界に入っていない。
その歩みはテイオーと対極に、遅く重厚。
コトリ、コトリと、蹄鉄が床を叩く音に、観客たちは自然と静まり返った。
『2枠3番、1番人気、ホシノウィルム』
彼女はいつも通りのポーカーフェイスでゆったりと歩を進め、ランウェイの先へ辿り着く。
そしてゆっくりと右手を伸ばし、胸のブローチを指で弾いた。
瞬間、ジャケットの襟部分から、灰色の光が噴出する。
キラキラと空中を散った灰はすぐに消え、新たに排出された光がすぐに形を成して纏まり、彼女が背に負うマントになった。
呆れる程に幻想的な、美しい光景。
初めて見たのであろう観客の、息を呑む音が聞こえた。
……まるで灰被り姫の魔法のように。
埋もれた血統のウマ娘が、けれど今、中山レース場のパドックに立っているのだ。
誰もがそこに夢を見る。
あり得べからざる幻想を見る。
恵まれない少女が下剋上を果たしてハッピーエンドを迎えるという、ありふれた絵本の結末。
彼女ならばそれを為せるのではないかと、期待してしまうのだ。
……けれど、同時。
彼女は幸せが来るのを待つことしかできないような、か弱い乙女ではない。
ホシノウィルムは腕を組み、ただ真っすぐに前を見据える。
目線が合わない。どこを見ているのかわからない。……土台、視座が違いすぎる。
その風格はまさしく、異次元の存在。
今まで見てきたウマ娘のような、親しみやすい少女とは別の何かだ。
無邪気で可愛らしいテイオーに対して、泰然とした恐ろしさを醸し出すホシノウィルム。
それを見た者は皆、今回のレースにファンタジーを重ねた。
灰被りの姫が、敗北という運命に挑む。
あるいは、我らの帝王が、恐るべき蛇に挑む。
その決戦が、これから始まるのだと。
それこそが、今回の皐月賞なのだと。
……どちらがヒーローで、どちらがヒールなのか。
それはもはや、誰にもわからない。
『逃亡者を思い出させる逃げ脚で、ここまで全戦全勝全大差。
当たり前のようにレコードを更新し続ける彼女は、まさしく「最速」に最も近いウマ娘です。
果たして彼女はヒールか、あるいは今を生きる伝説なのか。
中山レース場は今、恐るべき灰色の蛇に睨まれています』
解説が語り終わると、ホシノウィルムは腕を崩し、ふいと向き直って去っていく。
見ていた者たちは、その後ろ姿に絶対強者の影を見た……。
……かもしれない、が。
忘れてはならない。
いくらカッコつけようと、彼女はホシノウィルム。
自主トレと模擬レースをねだりまくり、時には勝手に自主トレし、最近は甘えたり拗ねたりすることで譲歩を引き出す技術まで使い始めた……。
そんな、ダメダメなところのあるウマ娘だ。
このパドックでのアピールは、俺と彼女で考えたものだ。
彼女は「顔の横でダブルピース」とか「大きく腕を振る」とか、そういったアピールを提案してきたんだけど……残念ながら、彼女のパブリックイメージには合わないからな。
2時間に及ぶ協議の結果、俺の提案した「一周回ってアピールなどせず、威風堂々と仁王立ち」が選ばれた。
ちなみに参考イメージは前世アプリのナリタブライアン。めっちゃカッコ良いからなナリブ。
なんかファンの方々には、騙しているようで申し訳ないんだけど……。
こうも綺麗にキャラが立ったホシノウィルムが、今更ニコニコ笑顔でダブルピースなんかしたら、色んな意味で混乱を呼びそうだからな。
アイドル性も持つウマ娘なんだし、こういうところを取り繕うくらいは許してほしい。
ホシノウィルムは、結局のところ、どこまで行ったってホシノウィルム。
辛い過去を持ち、それでも曲がることのない優しい心を持った、等身大の女の子。
蛇でも、灰被り姫でも、世代最強でもない、この世界にただ1人の、俺の担当ウマ娘。
誰もがその実像を見失ったとしても、俺だけはそれを探さなきゃいけないんだ。
ある意味、それこそがトレーナーの最も大事な仕事なんだから。
* * *
「……さて」
パドックが終われば、いよいよウマ娘たちの本バ場入場。
スタンドの、関係者用のゴールに近い指定席からターフを見下ろす。
ゲートインの時間まで、ウマ娘たちはターフの上で自由にウォーミングアップをする。
その間に他のウマ娘に話しかけたり、互いに健闘を誓ったりすることもできる。
ちょっとズルい気もするが、この時間で他ウマ娘に何か吹き込んだり、精神的に圧をかけたりするのも戦術の1つだ。
ネイチャなんかはまさに、こういう盤外戦術をガンガン使っていくタイプである。
しかし今、ストレッチをするホシノウィルムの周辺には、他のウマ娘の姿がない。
レースが近づくと、ホシノウィルムは「冷」の表情になって威圧感を放つからな。それで調子を落としたくない、といったところだろう。
皐月賞は策を弄するより、自分らしく完璧に走る方が有利という考え方もあるしな。
今回はどうやら、ホシノウィルムにちょっかいをかけるウマ娘はいないらしい……。
あ、いや、いたわ1人。
よりにもよって世代最強の片割れ、トウカイテイオーが彼女に突撃した。
テイオーはホシノウィルムに近寄り、何かを話している。
ホシノウィルムが何を返したのかはわからないけど……その返答に対してテイオーが軽く地団駄を踏んでいるところを見るに、満足いく回答は得られなかったらしい。
……すまん、テイオー。
今のホシノウィルムは、ゲートイン後程ではないにしても、レースの気配を感じてしまってる。ちょっと話は通じないかもしれない。
心の中で謝っていると、いよいよ実況解説によるアナウンスが聞こえ始めた。
『晴天に恵まれた中山レース場、右回り、芝2000メートル。バ場状態は良バ場の発表となりました。
クラシックロードの出発点、皐月賞。最も「はやい」ウマ娘が勝つというこのレースを制し、成長を見せつけるのは誰だ!』
ウマ娘たちがそれぞれ、ゲートインを始める。
トウカイテイオーは楽しそうに、ホシノウィルムは無表情で。
どこまでも対極な2人は、やはり目を引くな。
『3番人気を紹介しましょう。5枠11番ハートブロウアップ!』
『仕上がり良好、素晴らしい末脚を持つウマ娘です。今日でG1レース2勝目を刻み、三冠への足掛かりとすることができるか』
『この評価は少し不満か、2番人気はここまで無敗、8枠18番トウカイテイオー!』
『外枠という不運を自慢の脚で撥ね除けられるか。皇帝の背中を目指す小さな帝王の挑戦が始まります』
『1番人気は譲れない。ここまで無敗のジュニア王者、2枠3番ホシノウィルム!』
『遅咲きだった異次元は、今年クラシックに再誕するのか。突然変異の蛇の瞳は虎視眈々と三冠の玉座を狙っているぞ』
『……ゲートイン完了。出走の準備が整いました』
始まる。
俺の担当ウマ娘の、生涯で一度きりのクラシックレースが。
……神様。どうか彼女に幸運を。
『スタート!』
いよいよ皐月賞、そしてクラシックロードが始まります。
ここまで長かったような、短かったような……。
次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、皐月の冠の話。
(追加)
誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!
今回は特に誤字が多かったです……。なんか推敲したものを上書きできなかったみたい。反省です。