レースのスタートの瞬間は、例えるなら爆発に似ている。
それまで静かだった爆弾が、スイッチ1つで盛大に炸裂し、全てがめちゃくちゃになるあの感覚。
……いや、私は爆弾が爆発する瞬間なんて見たことないから、あくまでもフィクションでのそれのイメージなんだけども。
ともかく、それはきっと子供たちのかけっこだろうと、最高峰のレースだろうと、変わることはなく。
今日も、その瞬間。
ガキン! という金属音と共に、それまで静止していた世界が一気に動き出した。
静は動に。あるいは騒に。
緊張から黙っていた観客たちのわっと沸き立つ歓声に背を押され、私たち20人のウマ娘は走り出す。
当然、私はそんな中で誰より速く先陣を切り、ただ3歩での最高速度への加速を成し遂げた。
コンセントレーションに三歩飛翔。
歩さんに教わり、私が身に着けた技術は、しっかりとこの身に定着している。
私はそのままバ群の先頭に躍り出て、ゆっくりと内に切り込み、いつものポジションを確保した。
「……寒い」
降り注ぐ大雨の下、凍て付くように集中した思考。
改めて、自分とレースの状況を確認する。
まず、私ことホシノウィルムは大逃げウマ娘だ。
最速のスタートを切って先頭に抜け出し、大きくリードして最終直線に運び、追い上げて来る後方のウマ娘から逃げ切る、というのが基本戦術となる。
とはいえ、他の戦術を取れないわけではない。
多くの場合この戦術を取るのは、単にこの走りが最もスタンダードで汎用性があるからだ。
メタらないと勝てないような強敵が存在する場合や、酷い乱戦が予想される場合、もしくは同じ大逃げウマ娘が出走する場合、私は歩さんの組んだプランに従い、他の走り方をすることもある。
例としては……中盤でかなり力を抜いた皐月賞や、敢えて大逃げを図らなかった宝塚記念、そしてスズカ先輩対策で序盤からめちゃくちゃした有馬記念辺りが顕著かな。
そういう意味では、今回の凱旋門賞もまた、しっかり戦術を組むべきレースだと言っていいだろう。
なにせ出走ウマ娘はほぼほぼ全員が怪物だ。世界最高峰のレースは伊達じゃない。
ラビットの子を除いて全員、そのステータスはネイチャ級以上。中には去年私を下したスペ先輩級のウマ娘もちらほらいて……。
中でも、ギラギラとした瞳を私に向けて来る若干一名なんかは、私に迫る程の能力を持ってる。
こう言ってはなんだけど、単純な難易度で見れば去年の有馬とどっこいだと思う。
あの時はスズカさんとターボという同業他社がいて、どうしようもなくスタミナを減耗させられたけど……総合的な能力値を見れば、今回の凱旋門の方が遥かに高い。
アンダースタンディブルは言わずもがな、私だけに視線と圧を見せて来る徹底的なマークっぷり。
フォワ賞でボコったウィッチちゃんも、あの日より威圧感を増してるし……。
……それに、他にも1人、ちょっとヤバめな雰囲気を出してる子がいる。
ああ、この感じ、ちょっと覚えがあるな。
去年の宝塚記念で感じたのと同じだ。
……歩さんったら、あの子に何を言ったんだろう。覚悟のキマり方が尋常じゃない。
知り合いで言えばネイチャもそうなんだけど、私の愛しのトレーナーも、案外盤外戦術を好む方だ。
2週間くらい前に「ちょっとやることやってくる」と言って半日くらいどこかに行ってしまったんだけど、多分そのタイミングで何か吹き込んだんだろうな。
まったく……なんともエグいことをしてくれる。
おかげで、この胸に灯る熱がもっともっと燃え盛ってしまう。
さて、改めて。
こんな状態のレースで、果たしてどんな戦術を取るべきか。
私はトレーナーと喧々諤々、トレーニングの合間合間に色々話し合ったんだけど……。
結論として。
いつも通りの走りをする、ということに決まった。
思考放棄ではなく、戦術としてその道を選んだ、という意味でね。
歩さん曰く、このレースにおける最大の懸念要素は、アンダースタンディブルの爆発力だ。
ウマ娘ならば大小問わず皆が持つ、本番での爆発的な成長や覚醒。
テイオーが日本ダービーや天皇賞で、ネイチャが菊花賞や有馬記念で見せた、そして私が宝塚記念で体験した、それ。
肝心要のタイミングで心身共にレースに向き合うことで、普段以上の、あるいはあり得ない程のパフォーマンスを発揮する……。
まるで主人公補正のようなその力を、歩さんは「爆発力」とか「覚醒」と呼ぶ。
そして、アンダースタンディブルはその爆発の伸びしろを非常に……というか、ちょっとあり得ないレベルで大きく持っているらしい。
なにせ本格化してたった1年で、本格化3年目であり、生まれて15年の人生を結集したホシノウィルムに追いついて来たんだ。
その評価に偽りはないだろう。
転生チート並みの成長系天然チート……。
……あるいは、彼女の物語における、たった1人の主人公。
そう呼んで然るべき存在だ。
そして、そんな彼女にとって、ここは決戦場。
ずっと憧れていた、ずっと超えることを夢見ていた海外のウマ娘との、二度とあるかもわからない直接対決だ。
私にとっての宝塚記念のような、あるいは有馬記念のような、魂の一戦なのだろう。
である以上、どんな奇跡も魔法も起こり得る。起こし得る。
歩さんの目を以てしても、彼女がどのような走りを見せるかは読み切れない。
勿論、彼の常識や理論に基づくプランや想定はあるが、それを悠々と飛び越え得るのが彼女なのである。
ならば、いざと言う時に咄嗟の舵が切れるよう、最も汎用性のある基本の走りをすべき。
私と歩さんが辿り着いたのは、この結論だった。
……が。
そこに問題があるとすれば、今日のバ場状態だろう。
『アニメ転生』を使いでもしない限り、私の思考力は並のウマ娘とそこまで変わらない。
いや、聴覚のことも考えると並よりはだいぶ上だろうけど、それらは主に情報処理に割かれてしまうので、メインの思考処理にリソースが回らない、と表現すべきだろうか。
アニメ転生を使っている時のように、一挙手一投足までを全てバ場に合わせて完璧に操作することはできず、どうしても半自動的なマニュアルに則った動きをせざるを得ない。
要するに、日々のトレーニングによって脳と体に叩き込んだ「いつも走る時の動き」を再現するように走るわけだ。
しかし、今日のバ場は、それを許すものじゃなかった。
「…………」
視界を白く染める雨に叩かれ、内ラチ沿いで走りながら、思わず眉を寄せる。
思った以上に、バ場のコンディションが悪い。
踏みしめる脚はぐずりと芝ごと沈み込み、刹那の後、蹴飛ばされた芝が剥がれて後ろに弾け飛ぶ。
勝負服の一部でもあるシューズ、その裏の蹄鉄越しだというのに、足裏にしっかりと土、そして中に含まれた水の感触が伝わって来る。
歩さん曰く、野芝に比べて洋芝は保水性に優れているらしい。
クッション値がどうとかそういう話もあるらしいんだけど、とにかく今理解しておくべきは、日本のそれに比べて重く、バ場状態も悪化しやすいってこと。
エルちゃんが走った時のロンシャンは本当に状態が悪く、水を多分に含んだ状態から、もはや田んぼだと例えられたらしい。
実際走ってみると実感するけど、これはあながち冗談でもない。
脚に絡みつくような、あるいは脚が沈み込むような、この感覚。
ただでさえ反発力が低く、日本でのそれよりも走るのに力のいるバ場が、更にその重みを増している。
今まさに雨が降り、悪化している最中というのもあって……。
今日のバ場は、田んぼとまでは言わないまでも、あぜ道のそれに近いとすら思えた。
バ場の悪化がもたらすのは、レース全体のペースの鈍化。
こちらのそれに比べて、前半が速く後半が遅い日本のレースに慣れ切った私にとって、そして終盤にどうしても脚の振るわない大逃げウマ娘にとって、これは結構なディスアドバンテージだ。
実際、雨が地面を叩く音のせいでだいぶ掴み辛くなってしまってるけど、後方から迫って来るバ群の足音は結構ローペース寄りだ。
みんなこのバ場を警戒して、そしてスタミナを十分に残すべく、ペースを落として……。
『この状況で、本当にそう思ってる? ウィル』
……日本に残してきた、最恐のライバルの声が聞こえた気がして。
ゾクリと、寒さからじゃない鳥肌が立つ。
改めて耳をそばだてれば、後方から聞こえて来るのは、雨と脚が芝を打ち、掘り返す音。
辺り一面から聞こえて来る上、19人分もあるせいでまともに絞り込めない足音を……ちょっと無理をして、聞き取ろうとする。
逃げが1人。この子はラビット、ペースメーカーだ。
鹿毛の、ちょっとおどおどしてた子か。レース前にちらちらとこっちの様子を窺ってきてたから、記憶に残ってる。
その足取りからは、私のペースに惑わされないよう、懸命に自分のペースを守ろうとしてるのが窺えた。
……いや、待てよ? なんだろう、何か違和感があるな。
私を意識してるのは確かだけど……前に引っ張られると同時、それより強く後ろに引っ張られてる……?
一方で、先行は……4人、いや5……6人程。
ごちゃごちゃしていてすごくわかり辛い上、1人、微妙に後ろ目な子がいて判断に困った。
殆ど差しの位置にまで下がって、バ群の中、最内で走ってる子……この足音は……。
……アンダースタンディブル!
私がそのウマ娘の正体と位置を掴むのと同時、足音が雨音の向こうに消え始める。
……駄目だ、雨が強すぎる。
今や聴覚の有効範囲は6バ身程度。
私が番手の子とどんどん距離を離してることもあって、バ群の半分程度は外に出てしまった。
今、視界の端を「18」のハロン棒が通過したのが見えた。
残り1800。つまりスタートから400メートル。
その時点で、バ群の先頭から4バ身程度、アンダースタンディブルまでは6バ身以上差が付いたことになるか。
私の逃げは、自分の体感のペースと同時、番手、つまりは私の次を走ってる子との距離を見てペースを計っている。
テイオーなんかはこれを使って、私をローペースに落とそうとしてきたけど……。
……これ、もしかしたら、アンダースタンディブルも同じことやってるかもだ。
このままじゃ良くないな。
それなら、と。
私は改めて、脚に入れる力を強めた。
「……!」
バチバチと、顔に当たる雨の勢いが強まる。
雨が更に強まったのもあるけど、私が速度を上げたことで更に相対速度が上がった結果だ。
バ群との距離が更に開き、すぐに番手の子も聴覚の外に出た。
これで、私の周囲6バ身以内にウマ娘はいなくなったことになる。
6バ身とは、おおよそ15メートル。
このリードを保ち続ければ、私は他のウマ娘やバ群から影響されることはなく……。
……同時、誰がどのような走りをしているかを察することもできなくなるわけだ。
レースにおける最大の不安定要素は、バ群だ。
それぞれの思考を持ったウマ娘たちが集まったバ群は、秒単位でその動きと構成を変える。
そこから抜け出して自らの進路を作り出すためには、直感的センスと経験による技術が必要となり、時にはどれだけ素晴らしいウマ娘でも抜け出すことができなくなるもの……らしい。
歩さんと組んで以来、バ群から抜け出す逃げでしか走ったことのない私には、この感覚はちょっとわかりかねるけども。
私の取る基本戦術である大逃げは、そういった不安定要素を極端な程に取り除き、実力さえ伴っていれば必ず勝てるようになる、安定志向安全第一の歩さんらしい戦術と言える。
……ただし、その分要求されるスペックは跳ね上がり、他のウマ娘よりもずっと多くのスタミナがなければとても勝ちきれない、超ピーキーな戦術とも言えるんだけれど。
そしてもう1つ、大逃げという戦術の弱点を挙げるなら……。
「……さて、どう来るか」
雨粒が口に入るのも厭わず、私はそう呟いた。
大逃げウマ娘は、後方の子たちがどう出て来るか、事前に知ることができない。
相手が自分から1バ身2バ身程度にいるのなら、なんとなくの気配で位置や出方を窺うこともできる。
けれど、それが5バ身以上となれば、とてもじゃないけどそれもできない。
私の場合、10バ身以内までなら聴覚で動きを捉えられるけど……今日は激しい雨音のせいで6バ身が限界だし。
結果として、後方のウマ娘がどう動くか、誰がどこから仕掛けて来るかはわからなくなってしまう。
いつ来るか、どう来るか。
最終コーナー前から徐々に詰めて来るか、それとも最終直線で追い立ててくるか。
なんらかの策を通して来るのか、あるいは単純に自身の全身勢霊をぶつけてくるか。
それがわからない。
……わからないから、面白いのだけれど。
「…………ふ」
戦術の穴、不可避的に生まれる欠陥。
けれど、それだって見方を変えれば、ドキドキワクワクのサプライズプレゼントだ。
どんな走りを以て私を追い詰めてくれるか、楽しみで仕方がない。
* * *
1000メートルを通過。
ますます強くなる雨の中、私は第三コーナーに入る。
速度は、ミドルのミドル。
日本での私のレース基準であればやや遅い、けれどロンシャンの重バ場で考えれば、G1レースとしてもかなりのハイペースと言えるだろう。
大逃げウマ娘なのだから、当然と言えば当然なんだけどね。
そんなペースで飛ばして、私が消耗しているかと言えば……。
実のところ、問題ない。
より正確には、問題なくなる、というのが正しいかな。
「すぅ……」
第三コーナーを曲がりながら、深く息を吸い込む。
外にかかる遠心力の関係上、コーナーでは速度を出す程ロスが大きくなる。ある程度抑えて走るのが定石だ。
そして速度を抑えるからこそ、そこで息を入れることができる。
歩さんが「円弧のマエストロ」と呼んでいた──改めて考えると、なんとも独特なネーミングセンスだな──このコーナリング技術。
最初期に教えられて以来、莫大な体力を要する私の走りを補完してくれたこれがあれば、まだまだ走り続けられる。
その上、今は……。
「まず、1つ」
私の世界も、味方してくれるもの。
踏み出した脚を、あるいは私の心を中心に、世界が塗り替わった。
白ばんだ大雨のレース場の上に、晴天の草原の景色が広がる。
段々と慣れつつあるここ、欧州の独特な空気とは違う……。
私の故郷の、冷たく清涼な空気。
足元に感じるのは、泥のようになったレース場の芝とは違う、少し伸びた青々しい草の感触。
風に揺れるそれらが、靴の上から私の足元をくすぐってくる。
ここが、「ホシノウィルム」の世界。
この世界に生まれ付いた、1人のウマ娘の持つ心象風景。
私が最も長く走り、最も親しんだ、走るための場所だ。
「さぁ……」
改めて。
ゆっくりと、脚を進める。
感じるのは、果てしない程の多幸感。
ウマ娘として生まれ、こうして走ることができる幸福。
それらを胸に、私は徐々にそのペースを速め……。
脚の動きが、現実での走りと一致した時。
「楽しい走りは、ここからだ」
私の背を、冷たく、けれど柔らかな風が押した。
息の荒れ方が、小さくなる。
もっともっと走る気力が湧き出てくる。
私の、2つ目の領域。
歩さんが命名するところの、「青く燃えるクリカラ」。
これは中盤で一度開き、そして終盤で再び開く、二段式とか段階式とか呼ぶらしい種類の領域だ。
中盤においては、レースの中間辺りである程度スタミナを消耗していることで条件達成、この私になじみ深い世界を開き、走る気力と体力を取り戻させてくれる。
そして終盤は、この草原を、私の過去を燃料として、更に私を前へと進める、という効果になっている。
この領域が、私の体力を更に維持してくれる。
私がこのペースで重バ場の2400メートルを走り抜けることを可能とする、何よりの所以だ。
「はっ、はっ……くく……!」
走りながら、思わず笑みが漏れる。
領域を開く多幸感と、そして何より、今の状況に。
最愛のトレーナーと共に、とても大きなレースに挑んでいる。
凱旋門賞で、大きく差を付けた大逃げをかましてる。
世界最高峰の舞台で、誰も無謀だなんて言えない、私の走りを見せつけている。
言葉はわからないけれど、わかったとしても1つ1つを聞き取ることはできないけれど、多くの観客が私を見て、きっと応援してくれている。
そして何より……。
今もなお、私を追い詰めてくれるだろう、ウマ娘たちがいる。
最高だ。
競走ウマ娘として、これ以上のことなんて望むべくもないだろう。
心の底から溢れる熱が、いよいよ抑えられなくなる。
降りしきる雨ですらそれを消すことも冷やすこともできず、狂おしい程燃え盛る。
でも、大丈夫。
もう抑える必要もない。
なにせ……いよいよ、足音が聞こえてきたからね。
最終コーナー、残り1000メートル弱。
早くも、ウマ娘が私との距離を詰めて来た。
耳を澄ませるまでもなくわかる。アンダースタンディブルの足音だ。
……改めて、凄まじいな。
地響きでもするんじゃないかっていう重さ、弱々しいウマ娘なんて跳ね除けてしまうような力強さ。
私に次ぐ小さな体のどこに、そんな力が宿っているんだろうか。
しかもそれでいて、彼女の足音はまだまだ余力を残している。
しっかりと私を射程に捉え、暴走するように爆進し、けれど冷静さを欠いてはいない。
私が言うのもなんだけど、とんでもないスタミナだ。しかもこれ、私と違って領域開いてすらないんだよね、恐ろしいことに。
というか、そもそもアンダースタンディブル、領域に覚醒してないらしいし。
……そう。
歩さんの分析が正しければ。
アンダースタンディブルは、これまでに領域を使ったことがない。
これまで無敗で、各国のティアラに相当するG1レースに4連勝してきた彼女は、けれどただの一度だって領域を披露して来なかった。
この4レースの内、2度は他の子が領域を使ったらしいけど……アンダースタンディブルはこれを、地力で打破している。
私もダービーでやったけど、領域持ち相手に領域なしで戦うのは、かなり無謀だ。
正直な話、今のテイオーやネイチャを相手にするなら、私だって領域を出さずに勝つ自信がないくらい。
が、アンダースタンディブルはそれを2度も成し遂げている。
しかも、内一度は3バ身以上の差を付けた圧勝。赤子の手を捻るように一方的な、影も踏ませぬ勝利だったという。
余程手加減して走っているのなら納得もできるけど、彼女はそういう性格じゃない。
つまるところ、彼女は未だ領域に目覚めていないのだろう。
これは喜ばしいことではなく、むしろ恐ろしいことだ。
なにせ、歩さん曰く、凱旋門賞本番でほぼ確実に領域に目覚めるだろうとのことだし。
そう考える理由を聞くと、『俺たちの戦いってそんなもんでしょ。肝心要のところでライバルが領域に目覚めて俺の計画を潰すなんて日常茶飯事だ』とのこと。やっぱりテイオーやネイチャが残した傷痕は大きいらしい。
……と思ったら、彼はちょっと苦笑いして、言葉を続けて来た。
『真面目な話、領域に目覚めないわけがないんだよ。
彼女は勝負服ももらってるし、門に向けてこれ以上ない程心身を鍛え上げるだろうし、君との走りを楽しむだろう。
君が彼女を上回る実力を持ち、前を行く以上、アンダースタンディブルが領域を開くのは自明だ』
言われてみれば、確かに。
凱旋門賞での……今のアンダースタンディブルは、領域を開く条件を完膚なきまでに満たしている。
ここまで才気に溢れる彼女が、領域を開く感覚を掴めないとも思えない。
歩さんの言う通り、彼女は間違いなく、このレースで領域を開いて来るはずだ。
……問題は、その領域がどんなものなのか、だ。
領域にも種類がある。
単純に自分の走りを強める強化型もあれば、他人の走りを歪める干渉型もあり、この前のウィッチちゃんみたいな特殊な例外型もある。
アンダースタンディブルの精神世界がどんな形をしているか。
勝負服、ファンからのイメージの反映を受けて、どのような形に出力されるのか。
それを推察できる程、私はアンダースタンディブルについて詳しくはない。
つまるところ、不測の事態、不測の領域にアドリブで対処せねばならないわけで。
それもまた、私たちが「いつもの走り」を選んだ理由でもあった。
速度を保ちながらあちらの様子を窺う私に対し……。
アンダースタンディブルは、ガンガン距離を詰めて来る。
6バ身あったはずのリードは、100メートルも進まない内に5バ身となり、4バ身、3バ身と、着々と減っている。
それに応じて、彼女の気配が、圧が……熱が、迫って来る。
煮え立ち、燃え上がる、マグマみたいな競走ウマ娘の熱。
それが、私の宙にも火を灯す。
ああ、上等だ。勝負といこう。
彼女が私から1バ身以内に入るのは、相対距離からして、最終直線に入るちょうどその辺り。
であれば……私の世界を、宙を、星たるを見せてやる。
彼女がどんな世界を見せて来ても……。
私は、星の宙と燎原の火、2つの世界で迎え撃つ。
自然と脚は逸り、笑みが零れる。
降りしきる雨の礫すら忘れて、私はただ吹き荒れる内の熱を脚に流し、重い芝にぶつける。
私の持つ2つの領域展開条件は、それぞれ異なる。
1つ目の領域「天星の蛇龍」は、他のウマ娘が私のすぐ傍、1バ身以内かそれより前に来てくれること。
2つ目の領域「青く燃えるクリカラ」は、中盤での条件を満たした後、最終直線に入ること。
フォワ賞では、奇しくもウィッチちゃんが2つの条件を同時に満たしてくれた。
そのおかげで「アニメ転生」を使っての領域同時展開に成功したんだ。
今回も、まるでその展開をなぞるかのように、アンダースタンディブルは絶妙な速度で詰めてきている。
ならば、選択肢はただ1つだろう。
そうして突入した、最終直線前のフォルスストレート。
アンダースタンディブルと、そしてその後方から数名のウマ娘の足音が聞こえてくる。
ゴールまで800メートル、なるほど前半で消耗を避けた分、ロングスパートで詰め切るつもりか。
パワーとスタミナに優れるこちらのウマ娘特有のプランニングと言えるかもしれない。
けれど……私にとっては好都合。
なにせ私の世界は、誰かが追い詰めてくれないと開けないんだ。
さぁ、英雄の手がこの背に届くまで、残り3バ身。
……残り2バ身。
…………残り、1バ身半。
今!!
早くもなければ遅くもない、完璧なタイミングだった。
最終直線に入り、なおかつアンダースタンディブルとの差が1バ身にまで詰まった瞬間。
私は心に響く感慨と共に、渾身の力で脚を芝に突き入れ……
『ウィルム、それじゃ負けるでしょ』
……る、その、寸前。
日本に残した最強のライバルの言葉を聞いた気がして、咄嗟に『アニメ転生』で思考を巡らせる。
なんだ? 何が引っかかった?
今のは……私の中の、
それが、警鐘を鳴らした。
それは何故?
……違和感。
そうだ、違和感。
私は今、違和感を感じている。
では、何に対する違和感か。
それは……当然、アンダースタンディブルに対するものだ。
前提として。
アンダースタンディブルは、私の……「競走ウマ娘・ホシノウィルム」のファンだ。
それも、私の情報ならばかなりコアなものまで掘っている程の、かなり重度のファン。
彼女は、1年かけて私に追いつくべく走り続けてきたらしい。
当然ながら、私のことなんて研究し尽くしているだろう。それこそレースの映像なんて、ディスプレイに穴が開く程に見て来たんだと思う。
そして、私は今までかなりの数、公式レースで領域を開いた。
特に1つ目の領域なんて、全部で5回開いてるんだ。
勤勉な陣営は、もう条件から効果まで知り尽くしていると思っていいはず。
勿論、アンダースタンディブル陣営もその例には漏れないだろう。
更にもう1つ。
そんなホシノウィルムフォロワーのアンダースタンディブルが、私のフォワ賞を見ないだろうか?
そこで見せた私の走りを、研究しないだろうか?
そんなわけがない。
彼女は、「最終直線に入ると同時、後方1バ身まで詰める」ことで、私が爆発的な加速を見せたのを見たはずだ。
天星スパートの姿勢を取らなかったことで、これまでのスパートとは違う、特殊な加速であることも知られていると思っていい。
なんなら、条件の後者が領域の展開条件と一致することや、ウィッチちゃんや出走ウマ娘の話から、私が2つの領域を同時に展開したことすら知られている可能性もある。
その上で……。
その上で、こうして、最終直線に入ると同時、1バ身にまで詰めて来た。
殆どジャストで、私の速度に併せて……作為的にこの状況を作ったんだ。
偶然、ではない。
序盤、バ群全体のペースを落としていたのもそうだけど、彼女は既に軽度のレースメイクを可能としているようだった。
大阪杯のテイオーと同じで、多分ネイチャのような専門家程ではないんだろうけど、それでもレースの流れを作ること自体はできているんだ。
そんな彼女が、誤って本来は避けなければいけない展開に持ち込んでしまった……なんて、そんなミスを犯すはずがない。
以上から導き出される結論は、1つ。
アンダースタンディブルはわざと、私に2つの領域を使わせようとしている。
では、その理由は?
……簡単だ。彼女の性格、性質を考えれば自明の理。
アンダースタンディブルはいつだって、際限なく高い壁を求めている。
英雄は、この上ない困難にぶつかるからこそ、それを乗り越えて強くなる。
彼女もまた、壁が高い程にその輝きを増し、どこまでも強くなるのだ。
と、なれば。
領域を同時に展開することは、即ち。
……彼女をより強くする、自殺行為だ。
「……ッ!!」
咄嗟に、領域の展開を止める。
片方は、間に合う。
1つ目の領域、「天星の蛇龍」は、なんとか展開を止められた。
……でも、2つ目、「青く燃えるクリカラ」は、間に合わない。
中盤で一度開いたことが悪かったのか、展開を止められない。
ああもう、クソ。
こうなったら、やるしかない!
私の視界の上、再び現出した草原を、青い炎が燃やす。
私の人生の結集。
生きて来た全ての過去が、ホシノウィルムをより前へ進ませるための燃料になる。
故に、私は自らの全てを燃やし、前へ、前へ、前へと走って……。
「ああ……なんて、景色」
そう、誰かの言葉が聞こえてきた。
聞き覚えのある……流暢な、心の声が。
「自分の全てを燃やして走る。なんて、壮絶で、破滅的で……綺麗な。
こんなにも……こんなにも! 私の目指す星は悍ましく輝き! 倒すべき龍は恐ろしく強い!」
私の世界、私の領域に重なる……つまるところ、誰かの領域の中から。
彼女の、アンダースタンディブルの声が、届く。
「だから! だから、超えたい!!
絶対に手の届かない星だから!! 絶対に勝てない相手だから!!
だからこそ、私は、今この瞬間!! あなたに勝ちたいんですッ!!!」
……いや、違う。
これは……領域が重なってるんじゃない。
むしろ、これは……私の領域と同じ……?
いや、そんな、まさか、ありえない!
だって、これは私の……私だけの世界、私だけの領域のはず……!!
けれど。
ウマ娘のレースにおいて、「あり得ない」ことこそあり得ないと、そう言わんばかりに。
ゴウ、と。
私の青い炎を、赤い炎が押し退けた。
「私は……!」
草原を……
赤い、血のような炎が焼き尽くす。
彼女の過去を、人生を、あるいは未来までを、全て燃やし尽くす……。
「あなたを、あなたのやり方で、打ち倒すッ!!!」
それは、紛うことなく、アンダースタンディブルの命の炎だった。
アンダースタンディブル(Understandible)
『An understandible epic』Lv1
自分を超える能力を持つウマ娘が領域を開いた時、それを超える世界を拓き試練を乗り越える。
コピー忍者ならぬコピーウマ娘の本領発揮。
非常に強力な相手の力を越え、それを我が物とする。ゴルゴンの首を盾に付けたり竜の尻尾から出てくる剣使ったりする、伝統の英雄的所作。
要するに、自分より強い相手に限り、その領域をコピーして上位互換化して使用可能。回数制限なし。
次回は一週間以内。星を見上げる娘の話、あるいは凱旋門賞中編。
(雑記)
実況解説を入れないレース描写、メリハリ付かないし描写も難しいしで超苦戦しました。結果としてちょっとダレた描写になっちゃって申し訳ない。
あれ、我ながら良い手法だったんだなって……。
(追記)
誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!