日本ダービーが終わってから、実に1週間。
終盤の前傾スパートで肉離れを起こした私は、トレセン近くのウマ娘専門病院に移され、収監……もとい入院していた。
そしてなんとか脚の筋肉が治り、しっかりとリハビリして以前の走りをある程度取り戻し、病院を退院。
晴れて自由の身となった私は意気揚々……とは言えないまでも、心を躍らせながら堀野トレーナーのトレーナー室に向かい。
……まぁ、その後思い出したくもないことがあったので、ちょっと中略するとして。
中略した色々の結果、私はキレていた。
もうブチギレもブチギレ。
脳の血管がプッツンしそうなくらいの激昂だ。
ここまでキレたのは今世でも初めてのことだろう。
いわゆる「ターフに行こうぜ……久しぶりに……キレちまったよ……」という状態なのだった。
私、前世はオタクだったわけで、数えきれないほどのゲームとかマンガを消費してきた。
その中には多くのストーリーがあり、色んな人がいて、そして人の数だけ多種多様な考え方があった。
彼らの考え方を一概に否定するのは、間違いだと思う。
だってそれは、その人の今までの生き方だし、人生なんだ。
唾を飛ばして否定したって、できるのは人格批判くらいのものである。
けど……人にはどうしたって、好き嫌いがある。
例えば、なよなよした考えのキャラが嫌いって人もいれば、ヤレヤレ系が嫌いって人もいるだろう。
それ自体は悪いことじゃないと思うんだ。
何かを好き、何かを嫌う。これもその人の考え方だし生き方なので、他者が否定するもんじゃない。
第一、嫌いと思うことと否定することは、近いようで全然違うしね。
で、勿論、私にも好き嫌いはある。
まず好きなのは、頑張っている人。頑張ろうっていう考え方だ。
その人の才能あるなしに関わらず、自分にできる努力をするっていうのは美しい。
たとえそれが失敗しようと、成果を結ばないことがわかっていようと、最大限に努力する人はカッコ良く映るものだ。
だからこそ、前世のアニメ2期ではテイオー、ネイチャ、ターボ師匠が好きだったわけで。
じゃあ逆に、嫌いな考え方は何かというと。
相手と相思相愛なのに、相手のために距離を空けるっていう考え方……あるいは、そういう展開。
私はそれが、大っ嫌いだった。
わかる。わかるよ。その気持ちは理解できる。
相手のことが大事だものね。
相手のためを想えばこそ、距離を置くんだよね。
そりゃあ自分の欲望を抑え付けて行動するのは、気高いことだと思うよ。
なかなかできる事じゃないし、大体の人はそれを褒めそやすことだろう。
……ただ、私はその「大体」には入らない。
確かにそれは、正しい決断なのかもしれないけど……。
それでも、イヤだ。
イヤなものはイヤなんだ。
互いが互いを想うが故に離別するとか、悲しすぎる。
幸せになるべき人たちが幸せになれないのは、おかしい。
たとえ幼い理想論に過ぎないとしても、私はそれが間違っているとは思えないんだ。
……有り体に言えば。
ホシノウィルムは……いいや、「私」は、いわゆるハピエン厨なのだ。
全てが丸く収まって、主要な登場人物全員が後になって「あれも悪い時間じゃなかったよね」と笑うことができる大団円。
そういうものこそ、私の理想だ。
だから私は、そんな展開認めない。
誰かが勝手に離れていくなんて。
その人のことを勝手に思いやって、手の届かないところに逃げるなんて。
そんなこと、絶対に許さない。
……自分のこととなれば、なおさらに。
* * *
「さて、なんで委任なんて考えたか、お聞きしましょうか」
その私の質問に対して、トレーナーが答えを渋ること数分。
色々とお話しして、ちゃんとこれが相互に必要な情報共有であるってことを真摯に伝えた結果……。
彼は顔をしかめ、すごく辛そうな顔で、色々なことを語ってくれた。
元より要領の悪い方で、何をしても中途半端な人間だったこと。
それでもちゃんとした名家のトレーナーになろうと決意したこと。
20年間、ずっとトレーナーとしての鍛錬を積んできたこと。
それでもこの学園に入ってから、自分の至らなさを痛感する毎日だってこと。
私がネイチャに追い詰められたのを見て焦り、トレーニングを他人に委任しようとしたこと。
ダービーでの一件が、最後の一押しになったこと。
……私が言うのもなんだけど、さ。
彼の語ってくれた半生は、だいぶほの暗いものだった。
家庭に恵まれず才能に恵まれた私と真逆に、彼は家庭に恵まれたけど才能に恵まれなかった。
そのどちらがマシ、だなんてくだらない話をする気はないけど……。
うん、ちょっと不謹慎かもしれないけど。
彼がそういう人生を辿って来たことが、私はちょっと嬉しかった。
彼も色んなことに苦労しながら生きて来たんだってわかって、親近感が湧いたというか……「ああ、この人も私と同じなんだな」って思えたんだ。
どこか違う世界の人間のように思えていたトレーナーも、実のところ私と同じ人間で。
同じようにこの世界に生まれて、同じように思い悩んで、同じように苦労してきたんだって。
そこまで考えて……やっと気付く。
彼に期待しすぎてた、ってことに。
私は彼の実態を見ていなかったんだ。
彼は完璧超人でも何でもない。それは仮面に過ぎなかった。
堀野トレーナーもこの世界に生きる普通の人間なんだって、そんな当然のことに、私は今の今まで気付けなかった。
確かに、彼の能力はチートそのものだ。
本人に自覚はないようだけど、彼の観察眼や知識量に行動力、その他トレーナーとしての能力は、それら全てが周囲より飛び抜けて優れている。
そりゃあ1つ1つなら勝てるトレーナーもいるかもしれないけど、総合点で見るとまず間違いなく、彼がこの学園でトップクラスと言えるだろう。
学園でも最高峰と言われるテイオーのトレーナーとも病院で何度か話したけど……やっぱり普通あんな目は持ってないし、レース前に30人分の詳細なデータを揃えたりするのは異常みたいだったし。
まるでトレーナーになるべくして生まれて来たようにさえ見える……そのように自分で育ってきた人間。
能力だけを評価するなら、彼がチートトレーナーであることは間違いない。
……けれど、その「トレーナー」というフィルターを取り除いて見た時。
彼はチートも何も持っていない、ただの人間に過ぎないんだ。
過労で思考が回らないこともある。
上手く事が運ばずに焦ることもある。
色んなことに悩み、迷い、道を間違えることもある。
そんな当然のことに、私は全く気付けなかった。
……頭が痛いよ。
仮面を被る演技力も、仮面の下を見抜く観察眼も、相応にあるつもりだったのに。
実に1年半もの間、彼のもう1つの仮面に騙されてしまったんだ。
仮面は必ずしも1層だけというわけではない。
1枚目の仮面が剥げたとしても、そこにあるのは素顔ではなく2枚目の仮面である可能性もあるんだ。
トレーナーは多分、そういうタイプだったんだろう。
1枚目は、簡単に剥げてしまう、無愛想で無表情な仮面。
彼の演技力のなさから簡単に壊れてしまう、自称完璧な隙だらけの仮面。
そして2枚目が……トレーナーとしての、強固な仮面。
自身をトレーナーであると自認し、それ以外の自分の全てを押し殺す、決して剥げない仮面。
彼の素顔は、ちょっと悲観的なスパダリなんかじゃない。
その更に下にあった本当の表情は、冷たい自己嫌悪と諦観。
自分の才能のなさを嘆き、そしてそれを諦めている……。
そんなありふれた、凡人の顔だった。
……想像して、少し悲しくなる。
この1年半、私に付き合うのは、本来彼にとってどれだけ苦痛だっただろう。
要領……才能がないが故にこれまで苦労してきたという彼にとって、先天的な素質で戦う私は、間違いなく目障りな存在であるはずだった。
他人の庭の芝は青いものだもの。
自分がどれだけ欲しくても手に入らないものを、当然のような顔で使うウマ娘なんて……鬱陶しいに決まってる。
それなのに、彼が私を嫌うことなく、むしろ私のことばかり考え、支えてくれるのは……。
多分、トレーナーとしての仮面が、その素顔に癒着してしまっているから。
彼の2枚目の仮面は、1枚目みたいな脆いものじゃない。
むしろ底抜けに強固で分厚いものなんだろう。
剝ごうとしても剥げない。どんなショックを受けたって壊れることはない。
……既にその素顔と癒着し、切り離せなくなっているから。
トレーナーとしての仮面と、その下の素顔。どちらが本当なのかもわからないほどに。
あるいはそのどちらも、彼にとっては真実なのかもしれないけど。
彼のトレーナーとしての自覚は、とんでもなく強い。
担当であるという理由だけで、私みたいに相性の悪いだろうウマ娘を嫌うこともなく、どれだけ無力感を味わっても役目を投げ出すこともない。
……普通の人間である以上に、個人である以上に、彼の言う「堀野のトレーナー」像を優先しているんだ。
故に、どれだけ自分が厭うような存在でも、担当というだけで嫌うことすらなく。
どれだけ苦しくても辛くても、受け持った担当を投げ出すことがない。
彼にとっての判断基準は、自分がどう思うか、何をやりたいか、じゃない。
ただ、堀野家のトレーナーとしてどうすべきか、なんだ。
だから今回の暗躍だって、ただの自己保身じゃないんだろう。
彼は本当に、心の底から、「ホシノウィルムのトレーナーとして自分は力不足だから、他者から力を借りる必要がある」と思っただけなんだ。
20年という長い間、トレーナーとしてしか生きてこなかった。
故に、既にどこまでが仮面で、どこまでが素顔なのか、区別ができない。
トレーナーとしての価値観が自然になって、それ以前の価値観なんて覚えていない。
……彼は「トレーナー以外の自分」に価値を置いていない。価値を見出せないんだ。
自分にはこれ以外何もできない。何の取り柄もない。
だから、トレーナーに集中できる。
……それに、命を懸けることができる。
それは……とても寂しくて、悲しくて、残酷なことのように感じた。
…………が。
それはそれ、これはこれである。
トレーナーがそういう人だったというのには、少なからず衝撃を覚えたけど……。
それはこれから付き合っていく内に少しずつ吞み込んで、解決していくべき問題。
私にはそれら以前の話、このわからずやのニブチントレーナーに、わからせてやるべきことがあるのだった。
「それで、私に適切なトレーニングを積ませる自信がないから、私のためを思って、距離を置こうとした……と?」
「いや、別に距離を置く気はないぞ? トレーニングを他トレーナーに委任するというだけで、別に距離自体を離すというわけでは」
「どう違うんですか?」
「え、いや、だから……」
「どう違うんですか?」
「違いませんね……すみません……」
先ほども言った通り、私は「相手を想うが故に相手と距離を置く」というのが死ぬほど嫌いなんだわ。
好き同士なら、ちゃんとイチャイチャしてろって思う。手ぇ繋いだりキスしたりして、ずっと幸せそうにしてりゃあいいのだ。
……いや、別に私がトレーナーとイチャイチャしたいってわけじゃないからね?
これはあくまで恋愛に限ったものの例えというヤツであって、いや本音で言えばそりゃイチャイチャしたいけど、そうじゃなくて。
そうやってお互いに本心では離れたくないって思ってるんだったら、それでいいでしょって話だ。
そこに差し障る問題なんか、ただのノイズ。そんなもんは全部この世界から消えればいい。
……勿論、現実にはそうもいかない都合がある。
面倒なしがらみとか、自分が相手を堕落させるとか、自分より相応しい人がいる、とか。
そういう都合があるからこそ、人ってのは身を引こうとするのだ。
でも、そんなの知ったことか。
私は切ないのが嫌いだ。一度掴んだ幸せを手放すのがイヤだ。
冷たいのも、温度がないのも、全部全部、もうイヤなんだ。
頭の上に置かれた熱源が、ようやく得ることのできた温かさが離れていくなんて。
そんなの絶対……認められない!
「却下です。却下も却下、大却下です!
他にトレーナー付けるとか、そんなこと絶対に許さないですからね!」
「え、えぇ……いや、だが、君のためを思えばそれが一番……」
「うるさいんですよっ!!」
「すみません小声で喋ります……」
考えてほしいんだけど。
例えば、寝取られが死ぬほど嫌いな人がいたとしよう。
それはもう、最初のねの音が耳に入るだけで拒絶反応が起こるくらいに大嫌いだとしよう。
そんな人が、リアルで自分の恋人なり妻なりを寝取られかけたら、どう思うだろうか?
……そう、それこそが今の私の状況だ。
私が大嫌いな、相手を思うが故に離れるという行為を、よりにもよって私のトレーナーが行おうとした。
そんなのもう、解釈違いのド地雷なんだよッ!!
「私は絶対、ぜーったい! 認めませんから!!
私はトレーナーだけの担当ウマ娘です!!」
……確かに、堀野トレーナーは、私が思ったようなスパダリトレーナーではなかったかもしれない。
あるいはその仮面は、嘘だったのかもしれない。
でも、それでもこの人は、私のトレーナーだ。
あの夜、私に手を差し伸べてくれた人で。
勝てても負けても、私の頑張りを認めて撫でてくれる人で。
走ることを楽しんで欲しいと言ってくれた人で。
また来年、必ず共にあると誓ってくれた人で。
レースに出なくても、私を受け入れてくれる人なんだ。
積み上げてきた経験と、向けられた想いだけは、嘘じゃない。
実はどれだけポンコツだったとしても、私を救ってくれたスパダリなんだ。
信頼も、恋愛感情も、少しだって欠けることはないんだよ。
これでも前世は大学まで行った女。恋に恋する時代はとうの昔に終わってる。
私が恋してるのは……目の前にいる、ダメダメな男の人なんだ。
……それなのに。それなのにこの人はッ!
テイオーの時は、「トレーナーとウマ娘は不可侵の関係だ」なんて言ったくせに!
自分と私だけは例外だとでも思ってるの!?
「私はっ! 他の誰でもない、あなたの……『堀野のトレーナー』じゃない、たった1人の、堀野歩トレーナーの!! あなただけの担当ウマ娘なんですよ!! あなたと信頼関係を結んだウマ娘なんですよ!?」
「……君、俺の名前を」
自分が堀野のトレーナーでしかないという自認のためか、彼は今まで私に名を言ったことがなかった。
それでも1年以上付き合いがあれば、自然と目にする機会はある。
そして、好きな人の名前を覚えない乙女なんてどこにもいない。
堀野歩。
それが私のトレーナーの名前だ。
たった1人の、かけがえのない人の名前だ。
「覚えてるに決まってるでしょう! あなたにとって私が大切である以上に! 私はあなたを大切に思ってるんですから!!」
「お、おい……ホシノウィルム?」
第一、この人はわかっていないのだ。
私がこの人をどれだけ好いているか。慕っているか。
確かに私は、熱いレースがしたいっていつもトレーナーに言ってた。
より熱いレースってのは、より強い相手とのレースに近い意味を持つ。
それをするためにも私を鍛えようとしてくれる、ここには何もおかしさはない。
あるいはそのために他者を頼るってのも、担当との関係次第ではナシってわけではないのかもしれない。
捉え方によっては、きちんと「レースにも出たいですが、それ以上にあなたと組んで出たいのです」と伝えなかった私が悪いとも言える。
……じゃあいいよ、言わなきゃわかんないなら言ってやるよ!!
「私はただレースに勝ちたいんじゃないんですよ!
あなたと! 勝ちたいんです!
1人で勝ったって何の意味もない! 他の誰かと勝っても何も嬉しくない!
なんで! それが! わかんないんですか!
1年半の付き合いでしょうが!!」
「え、いや、え……?」
トレーナーは目をしばたたかせる。
そんなに想われているとは予想もしていなかったと言わんばかりの反応。
無駄に好かれるなんて、堀野のトレーナーに相応しくない状態。
故に、そのぺらっぺらの仮面を被る。
無愛想に、ぶっきらぼうに。そんな風に接すれば、相手に好かれることはないから。
これが彼なりのやり方らしい。
でも、そんなの成立するわけない。
普通に考えれば誰でもわかることだ。
そういうビジネスライクなやり方を選ぶ彼を好きになるウマ娘もいれば、冷たくされることに快感を覚えるウマ娘がいたっておかしくない。
根本的に、誰しもに共通する「こうすれば好かれない」なんてやり方はない。相手によって態度を変えていくしかない。
それなのに、彼は……持ち前の自己評価の低さで「ウマ娘が自分なんかを好きになるわけがない」なんて無意識に思い込んで、これで行けるだろうって踏んだんだ。
はーい、残念でしたー!
むしろ普段の無表情とふとした瞬間の柔らかい表情とかポンコツさがギャップになってめっちゃすっ……好きになった失敗例がここにいまーす!!
「もう二度と!! 一生!! 他のトレーナーにトレーニングを頼むとか言い出さないでください!!
すごく、すごく、すっごく不愉快です!!
絶対に手放さないでください、私は堀野歩トレーナーだけの担当ウマ娘です!!」
「…………お、おう、そうか。それは、すまなかった」
ふーっ、ふーっ……と肩を上下させる。
取り敢えず、言いたいことは言い切った。
……なんかちょっと言いすぎたような気もするけど。
でも、今回の件でよーくわかった。
このトレーナーに察しの良さを期待しても無駄だ。
大事なことは、ハッキリ言葉にして伝えないと意味がない。
よし、ついでに今抱えてる不満もぶつけてしまえ!
「ついでに言いますけど、今回はまだ『おかえり』とも言ってもらってませんし、頭も撫でてもらってませんし、それにご褒美権ももらってません! 早くください!!」
「いや、それは公式レースから無事に帰って来たウマ娘に贈るものだ。君は今回、軽くとはいえ故障したからあげられない」
「なんでそこだけ意固地なんですか!?」
今までのおどおどした雰囲気が消え去り、キリッとした表情で断られた。
なんでだよ。ここは譲ってよ。いいでしょ別にちょっとくらい減るもんじゃないんだから!
「やです! ください!!」
「いいや、あげない。負けたくないのはわかるが、だからといって自分の脚を慮らないウマ娘にご褒美はあげられない。
前にも言ったが、俺は君が勝ったから褒めるのではない。君がここまで頑張ってきて、無事に帰って来るから褒めるんだ。
褒めてほしければ、次回以降あんな無茶な走り方はしないように」
「うぐっ……」
こ、この妖怪トレーナー男め……!
いざ担当のこととなると一瞬で冷静になりやがって! ちょっとカッコ良いのやめろ!
いいだろう、ならこっちだって徹底抗戦の構えだ!
「いいから褒めて! 撫でてください!」
「駄目だ。絶対駄目」
「今なら撫でてくれるだけで自主トレしなくなりますよ!」
「それはいつもそうしてくれ」
「ダービートレーナーにしてあげたじゃないですか!!」
「……それも、覚えていたのか」
当たり前だ。
1か月くらい前に聞いた、トレーナーの言葉を思い出す。
『今でこそ有馬記念や宝塚記念、ジャパンカップなどに存在感を奪われつつあるが、元々東京優駿は日本における最大のレースだった。
今でもその頃の威厳は残っている。『ダービーに始まりダービーに終わる』という言葉もあるくらいだ。
故にこそ、ダービーを取ったウマ娘はダービーウマ娘として、そのトレーナーはダービートレーナーとして賞賛される』
あの時はさらりと流したけど、私はそれを聞いて、チャンスだと思ったんだ。
いつも無私の精神で鍛えてくれる堀野トレーナーに、少しでも恩を返せるチャンスだって。
トレーナーがいつも忙しく働いてるのは知ってる。
私が声をかける時、いつもキーボードを叩いたり書類を読んだりハンコ押したりしているし。
ある日の深夜、LANEで明日の予定について連絡したら、ものの数秒で返事が返ってきたりしたし。
トレーナーはすごく真面目に、いつだって私のために頑張ってくれてるんだ。
その努力に私が返せるのは、それこそレースの勝利くらい。
だからこそ、特別なレースである日本ダービーには、負けたくなかった。
堀野トレーナーにダービートレーナーの称号を贈ることができれば、受けた恩の何分の1……いや何分の1は言いすぎた。十何分の1くらいは返せるだろうと思ったから。
「私、頑張りました! 恩を返すためにすごく頑張りました!
確かに、トレーナーとしては、脚を消耗させたのは褒められないことかもしれません。
でも1人の人間として、堀野歩として! 自分のために頑張った女の子を褒めないのが正しいことなんですか!?」
「あー、いや、ええと……ん? それが正しいのか? ……あー、偉いぞ、ホシノウィルム?」
「どういたしまして! 頭も撫でてください!!」
「あ、うん……うん? 何か俺、騙されてない?」
……ふぅ。
そう、これこれ。このちょっとゴツゴツした温かさだ。
トレーナーの手が頭に置かれて、少しだけ怒りが落ち着く。
もう。トレーナーなのに自分の担当ウマ娘を撫でないとか職務怠慢ですよ。
今後は気を付けてほしいですね。まったくまったく。
その時、恐らくは私に聞かせるつもりのなかった呟きを、ウマ耳がキャッチした。
「うーん、駄目か。良い案だと思ったんだけどな……」
……はぁ。
もう、本当、この人は……。
これだけ言ったって、トレーナーは自分に価値を見出せないんだろう。
20年間ずっと味わい続けて来た劣等感や諦観は、そう簡単に拭えるものじゃない。
それこそここから20年間かけて、少しずつ改善すべきものだ。
気を付けないと、この人はまたすぐに自分には能力がないだの、他の人に頼るだの言い出しかねない。
それを封じるには……そして、彼自身が彼を認める契機を作るには。
私とトレーナーが、2人揃ってハッピーエンドに向かうには、どうすればいいか……。
……そうか、思いついた。
私に、惚れさせればいいんだ。
「決めました、トレーナー」
「な、何をだ、ホシノウィルム」
私はキッと彼に視線を向け、言い放った。
一世一代の大勝負、その開始の宣言を。
「勝負しましょう、堀野歩トレーナー。
私はあなたのトレーニングプランで、宝塚記念に勝ちます。
それで勝てたら私を、ずっとずっと、あなただけのウマ娘にしてください!」
……後になって考えると。
あれは普通に告白のセリフだったなぁ、と思うのだ。
恋のダービー、第二R開幕。
次回は3、4日後。トレーナー視点で、信じるということの話。
(追記)
誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!