私の中から、「寒さ」が消えた。
最初にそれに気付いたのは、ネイチャとの併走を指示された時だった。
他のウマ娘と一緒にスタートしても、あの「寒さ」が襲ってこない。
相手を意識しても、そのスピードに合わせて走ることができる。
まるで普段通りのトレーニングをする時みたいに、本気を出さずに駆け抜けることができる。
それは私にとって、奇跡みたいな変化だった。
それまで、私が走る時に感じていたのは、苛立ちと「寒さ」の2つ。
もっと速く走りたいのに、体が上手く動かないという、苛立ち。
正体不明の……今思えば、過度な勝利への渇望が自身を緊張させていた、「寒さ」。
それらは私をがんじがらめに縛り付けていたはずだった。
けれど、ダービーの最後の瞬間、私はその2つから解放された。
姿勢を低く保つことで大きな空気抵抗を受けなくなり、なおかつ歩幅を広げることで速度を跳ね上げる「前傾スパート」。
テイオーとの戦いの中で吹き上げた、彼女たちに感じたような熱。自分を勝利へと突き動かすモノ。
その2つが、私を捕らえていた鎖を破壊した。
もう、私を縛るものはない。
……自由だ。
そう、私は自由になったんだ。
「はっ、はっ、はっ……」
勿論、こうして普通に走れば、風の抵抗を感じる。
けれど、もうそれに不快感を覚えることはない。むしろ優越感さえ感じるくらいだ。
いつでもこの縛りを取り払うことができるんだっていう余裕があるからね。
私はもうこの風に縛られることなく、自由に走ることができる。
その認識は思いの外、私の心を軽くした。
……いやまぁ、その走りは禁止されてるんですけどね。
ああ見えて心配性なトレーナーは、私の前傾スパートを封印したんだ。
私にも自覚があったけど、あれは過度に負荷のかかる走法だ。
特に足首と膝へのダメージはバ鹿にならないものがある。
故に、大原則として使ってはならない。
それはホシノウィルムの競走ウマ娘としての寿命を削る行為に他ならない。
特に宝塚記念では決して使うな。使った場合はご褒美権の反対の、罰を課すことになる、と。
割とシャレにならない真面目な顔で、彼は私にそう言い聞かせた。
ちなみに罰の内容を聞いたら、自主トレと模擬レースを3か月禁止、とのことだ。
殺す気か。
確かに前傾スパートは、私の脚を消耗する走り方だと思う。
自分ですら自覚があるくらいだ、トレーナーから見ると顔を青くするくらいのものかもしれない。
そりゃあ、やめろって言ってくる気持ちは理解できるけどさ。
とはいえ、そんなにガッツリ縛ってくるかぁ……。
宝塚記念、全力を出さずに勝てるようなものじゃないと思うんだけどなぁ。
罰は受けたくないけど、だからといって本気を出さないまま負けを認めるのも嫌だし。
どうしたものか、ちょっと悩ましい。
ともかく話を戻すと、この風はもう振り払えるってことで。
一度でもそうと確信したことで、私の中の走る事に対するイメージはだいぶ明るいものになった。
一方、「寒さ」に関しては……乗り越えた、と言っていいのだろうか。
トレーナーが言っていたように、私はネイチャとの模擬レースで「寒さ」に耐えることができた。
すぐそこに、トレーナーがいる。
私が負けても慰めてくれる堀野トレーナーがいるんだって、そう思えば背筋を震わす「寒さ」にも耐えられた。
けれど日本ダービーの終盤、私はそれとは違う形で「寒さ」を乗り切ったのだ……と思う。
トレーナーを認識するんじゃなく、「負けたくない」「勝ちたい」という想いが……身を焦がすような熱が、私の「寒さ」を溶かした……ような気がした。
これに関しては、正直よくわかんないんだよな。
そもそも、あの時感じた熱が何なのかわかんない。
あの熱、ずっと昔に感じたことがあるような気もするけど……。
もしかしてあれが、トレーナーが時々言ってた「ウマ娘の闘争本能」ってヤツなのだろうか。
私はテイオーに追い抜かれて、初めてそれを感じ始めたのか……。
ん? でもそれ、違和感あるな。
一番最初の模擬レースで、私は確かに負けた。
前を行くウマ娘に追いつけず、2着で敗れた。
……今考えると、加速ド下手くそだったくせに差しで走ってたの、本当にアホだったな、あの時の私。
でも今、改めて考えてみると、あの時は闘争本能なんて感じなかったよね。
負けると直感しても、ただただひたすら「寒く」なっていくだけだった。
というかそれからも、例えばネイチャとのタイマン模擬レースでも「このままじゃ負ける」と思って暴走しちゃったわけで。
敗北するという意識が闘争本能を奮い立たせるのならば、これまでにも何度か発生してしかるべきだったんだよね。
あの時と今で違うのは……多分、1度「寒さ」に耐え切ったことか?
トレーナーがそこにいてくれるから大丈夫、って意識があったのは事実。
それで安心して闘争本能を爆発させられたってこと?
……いや、この辺はちょっと難しいな。
一体何故、あの「寒い」を上回る熱が発生したのか……。
現状、これを確定できるだけの情報はない。
まぁ、そもそもウマ娘の心なんて複雑怪奇なものだ。
これと確定付けること自体ナンセンスかもしれないけど。
とにかく、結論として。
私はある程度「寒い」状態を使いこなせるようになった。
「寒い」状態になって集中力を上げるのも、あるいはそうせず相手を意識して走るのも、今では自由自在だ。
「はっ、はっ、はっ……ふぅ、あと……1時間くらいかな」
苛立ちと、「寒さ」。
その2つを克服した結果として……。
私は少しだけ、走ることが好きになった。
これまではただ、勝つための手段としてだけ行っていた自主トレ。
……いや、正直これは癖というか、やってないと落ち着かないので、自主トレは元から好きだったとも言えるんだけど。
自分を鍛えること、つまり体をイジめる行為は好きなんだと思う。
けど、走ることが好きかと言われると、それは違った。
走るのは手段でしかなくて、結局のところ、レースに勝つことが目的だ。
私はその目的が好きだっただけ。
正確に言えば、勝って褒めてもらうことが好きだったんだ。
でも今は、少し違う。
足で地面を後ろへと蹴飛ばす。
全身を撫でる風の、柔らかい壁を切り裂いて。
私の体は前に進んでいく。
徐々に疲れてくる。疲労が足を止めようと泥のようにへばりつくけど……。
それでも、弱音を叩き出して、ひたすら足を回転させる。
楽しい。
こうして走ることが、少しだけ、楽しい。
全身に感じる涼しい風と、全身からにじむ汗と、少しずつ蓄積されていく疲労。
その全てに心地良さと充実感を感じる。
なんで今まで気づかなかったんだろうな。
走ることは、楽しいんだって。
……だから、まぁその、なんだろう。
そうやって、楽しいことを知って、ハイになっちゃって。
その上、すべき理由まであるんだもん。
勝手に自主トレしちゃうのも仕方ないよね。
「はっ、はっ、はっ……一旦、休憩」
夜闇の中で立ち止まる。
ここはトレセン学園の敷地外、ウマ娘用のレーンが整備された一般道路だ。
時刻は夜の10時。勿論栗東寮の寮長であるフジ先輩から外出許可は下りてないし、トレーナーからも特別許可をもらっていない。
そう、私は今。
宝塚記念に向けて、久々の無断自主トレ中なのだった。
トレーナーにも寮長にも許可を取ってない、無断の自主トレ。
しかも時刻は夜、敷地外の一般道。
これだけ聞いたら、私はだいぶやんちゃな不良みたいに聞こえるかもしれない。
でも実のところ、決してそんなことはない。
私は極めてまともなウマ娘だ。
不良な要素なんて……強いて言えば、勉強はイマイチだしトレーナーの言うこともあんまり聞けてないくらいである。
トレセン学園において、夜に勝手な自主トレをするというのは、そう珍しい話じゃないらしい。
ランニングジャンキーとかトレーニングジャンキーなウマ娘は一定数いる。
そういう子は、耐えきれずに夜な夜な寮を脱出して走り出してしまうこともある。
これに関しては、はっきり言って仕方のないことだと思う。
ウマ娘はそれぞれが強くなりたい、速くなりたいと望むものだ。
自分からトレーニングに臨むのは、至極道理な行為だと言えるだろう。
……うん、おかしくない。全然おかしくないから私。
現に、栗東寮寮長のフジキセキ先輩は、以前0時直前に寮に帰って来た私を見つけた時「はは……まったく、君も仕方のないポニーちゃんだ」と苦笑していた。
つまるところ、黙認である。15分ほど業務的なお小言はいただいたけど、同時に深夜帯に外に抜け出す許可を得たも同然であった。
……そういえば、ポニーちゃんって何なんだろうな? 私、確かに小柄だけど、ポニーって言うほどかね。
とにかく、夜の脱走とか自主トレは、一応軽く怒られるけど、基本的に黙認されているような状態だ。
私のトレーナーに関しても、絶対に自主トレしないでほしい時はちゃんと言ってくるしね。
つまり禁止されなかった今日に関しては、自由に自主トレしていいってわけだ。
……いや、自由ってほどじゃないけど。「するならランニング、ローペースで2時間以内」って言われたし。
……というか、相手に黙認されてる自主トレって、無断って言っていいのか?
そもそもトレーニングの課目まで指定されてたら、もう自主トレですらないのでは?
…………まぁどうでもいいや、走れるなら。
へへ、無断自主トレバンザイだ。
「よし……出発」
こんな夜中にうら若き乙女が出歩くなんて危ない、という見方もあるだろうけど……。
私たちウマ娘に限って、その指摘は的外れだ。
私たちはウマ娘。前世では馬力という単位があったくらいの、かなりとんでもない力持ちだ。
多分世界で一番筋力のある男の人でも、私たちに比べると貧弱だろう。そこには種族差という厳然たる壁がある。
たとえ屈強な男性複数人で囲まれたって、私たちをどうにかすることはできない。
ポケモンで言えば、600族に300族が挑むようなもの。何人同時に来ても、そうそうやられはしないのである。
更に、どうやらウマ娘には毒物の類も効かないらしい。
……いや、効かないって何? 毒物ってどこまで毒物? とか、気になることは色々あるんだけど、とにかく効かないんだってさ。
トレーナー曰く、「ウマ娘の体調に強く影響する、服毒するタイプの毒」が無効なんだとか。
例えば塩酸とか王水みたいな、体を溶かすような毒……というか酸は効く。
でも睡眠薬とか麻痺毒みたいな、体の内に取り込んで効果を成す毒は、ほとんど効かない。
ただよくわかんないことに、魚の中にいる寄生虫とかは有効らしい。ネイチャから聞いた噂では、この前ジュニア級の子が何を血迷ったか蜘蛛を食べて蕁麻疹発症したって事件もあったらしいし。
本当によくわかんない体質だよね、ウマ娘。流石はフシギ生物である。
……話が逸れた。
纏めると、睡眠薬とかの搦め手も効果を成さないってことね。
つまるところ、正攻法でも搦め手でも、普通の人間に私たちを害することはできない。
シンプルに強くて状態異常効かないエネミーとか、どうやって攻略するんだって話だよね。
勿論本当にどうしようもないってわけじゃないけど、それこそ銃なり刀なり持ち出す覚悟じゃないと、私たちには対抗できない。
そしてそもそも、友好的で文化的な種族なので害する必要性がない。
これが、この世界における一般的認識だ。
そのため、ウマ娘を狙ったそういう犯罪は極めて少ない。数年に1度、酒に酔ったバ鹿がやらかすくらいのものだ。
今世は善性の人間が比較的多い気がするし、倫理観の良さも関係してるかな。
もちろん私も、そういった行為に出くわしたことはない。
平穏無事な……とは言えないけど、悪意にはあまり縁のない半生だったね。
と、そんなわけで、ウマ娘が夜道を歩いたってそこまで危険ではないのだ。
むしろウマ娘に下手に手を出す側の方が危険だ。
私たちもまだ子供、自制心はあんまりないからね。ちょっと過剰防衛になりかねない。
で、更に言うと、私はとても耳が良いんだわ。
走ってる最中なら、10バ身……つまり25メートル周囲の足音が聞き取れる。
もし不審者が来ようものなら、誰よりも先にその存在をキャッチできるわけだ。
……故に今、後ろから付いて来ている存在にも、当然気付いてる。
20メートル程度後方、1人分の足音がする。
ローペースとはいえ、走る私に付いて来てるってことは、ウマ娘なことは間違いないね。
歩幅から考えて、多分小柄な子かな。ちょっと音が整ってないというか、どこか足取りがふらふらしてるし、まだ本格化で急成長する体に慣れきってないジュニア級の子?
しかし、ただでさえもう遅い時間だってのに、何のために付いて来るんだ?
熱烈なファン……ってわけではないと思うけど。
私がペースを僅かに上げればあっちも上げてきて、休憩のために足を止めればやはり同じように止める。
……ペースを合わせてきてるのか。そういうトレーニングでもしてるのかね。
とはいえ、どうやらかなり無理しているみたいで、聞こえてくる息遣いはぜぇぜぇと荒い。
それでもしっかり付いて来るってあたり、スタミナとガッツはかなりのものがあるな。ステイヤー向きの子なのかも。
もう20分くらい付いて来てるし、流石に声をかけてあげようかな、とも思うけど……。
あー……まぁいいや、気になるっちゃ気になるけど、足を止める程のもんじゃない。
今回は何も、楽しむための無意味な自主トレってわけじゃない。
宝塚記念への対策と、私の感じる嫌な予感を振り払うための鍛錬だ。
故に、ちょっと申し訳ないけど、声もかけてこない下級生の子を気にするほどの余裕はない。
もし私に最後まで追いついて来れれば、その時改めて声をかけようかな。
……私に追いついて来るジュニア級の子、か。
その時はちょっと……うん、その子ともレースしてみたいな。熱くなれるかも。
結局その子は、30分くらいは付いて来てたんだけど、流石にバテたのか、いつの間にかいなくなった。
軽いランニングとはいえ、それだけ付いて来るってのは……本当にジュニア級の子だとすれば、すごいウマ娘だ。
もしかしたら本格化が遅れたクラシック級か、あるいは休養明けで本調子じゃなかったとかかもしれない。
しかし、いつの間にか現れたり、いつの間にかいなくなったし、ちょっと変な子ではあったよね。
かなり正確に距離を保ってくるし、一瞬振り返った時も黒い人影がぼやっと見えたような気がしただけだったし。
それに……あまりに小声で聞き取れなかったけど、何か小声でぼそぼそ呟いてたし。
……ゆ、幽霊……じゃないよね。まさかね。
でも確かに……ぴったりと付いて来るとか、足取りがちょっと不安定とか……。
小声で「うらめしや……」とか「なんであなただけ……」とか言ってたり……?
い、いや、いやいやいや!
うん、そんなのあり得ないから!
ウマ娘以上のフシギ存在なんてこの世界にいるわけないし!!
「……よし、ちょっとハイペースで走って帰ろうかな」
うん、トレーニングの締めくくりってことで。
他意はないけど。他意はないけど!
その後は、足音が聞こえたりすることもなく、無事に寮に帰ることができた。
良かった。本当に良かった。
……いや当然なんだけど!!
「別に怖くなかったが。全然これっぽっちも怖くはなかったが?」
流石にトレセンの敷地内にまで入って来る幽霊なんていないでしょ。
……いや、ウマ娘の幽霊なら普通に入って来るのでは?
よし、さっさと部屋に戻ろう! 汗流したらすぐにお布団にこもろうかな!
別に他意はないけどね! ただ自主トレで疲れただけだよ!
というわけで、栗東寮玄関……ではなく、寮の裏側に回る。
無断外出した際の玄関はこっちだ。
まずは上に向かって壁を伝う雨どいを、腕の力でせっせとよじ登って、十分な高さになったらそこを足場に、思い切り横へジャンプ。
それで自室の窓縁を掴んで、懸垂の要領で……えいやっ、と。
うん、我ながらアクション映画もビックリな帰宅法である。
寮が頑丈な建材で出来ててよかった。普通の雨どいだったら、ウマ娘の脚力で蹴ったりすればへし折れてたところだ。
これこそが私の見出した、寮長に見つからない帰還ルートなのだった。
もし深夜帰りが見つかったら、15分くらいお小言もらうからね。
私も聞く気はないし、あっちも聞くとは思ってない、極めて無駄な時間だ。省くに越したことはない。
「……あ、ウィルちゃん、お帰りなさい」
「ただいま帰りました。窓を開けておいてくださって、ありがとうございます」
「……へへ、ぶい」
帰ってきたら、ルームメイトにご挨拶。
窓からいきなり入ってきた私に動じることもなく、ミーク先輩はブイサインしてた。
本当、頼れる先輩だよ。
* * *
「ネイチャ、ちょっと一緒に走りませんか」
おかしな足音を聞いた、次の日。
私は一緒に昼食を取ってた友達に、そう話しかけた。
「一緒に? 併走ってこと? でもウィルって」
「ええ、私の予定はトレーナーに管理されています。
ですが今日の3時から6時までは自由時間とされているのです」
「自由時間って……休んでほしいんじゃないの?」
「いえ、確認を取ったところ『君の自由に過ごしなさい。ただし全力疾走は禁止。破った場合は宝塚記念出走取消』と」
「……苦労してんね、堀野トレーナーも」
「え、自主トレを制限されて苦労しているのは私なのですが」
首を傾げると、ネイチャは大きくため息を吐いた。
理不尽を感じる。なんでだ。
「で、走るって?」
「ええ。併走というか、模擬レースみたいな」
「競走相手が欲しいってこと?」
「まぁ……そういう感じです」
「ウィルにしては歯切れ悪いじゃん。どうしたの?」
うーん、何と言うか……。
これは極めて直感的な、何ら確証のない話だ。
故に、トレーナーにも話していない。
というか、人間であるトレーナーに話しても、本質的な理解は得られないと思うし……また変に抱え込んじゃう危険性が高い。
故に、同じウマ娘であるネイチャに話を持ち掛けたのだ。
……この、少しばかり暗い話を。
「このままでは……何と言うか、嫌な予感がするんです」
「嫌な予感? 負けるかもってこと?」
「いえ、勝ち負けはともかく……言葉にしにくいのですが、何かこう……。
とにかく、何か壁……? そういうものを破らないとマズい気がしているんです」
「壁、か……。同じウマ娘として、なんとなく意味はわかるけど」
競走ウマ娘としての直感、というヤツなのか。
私は先日から、なんとなく予感していた。
近く壁にぶつかる。そしてその時、何か嫌なことが起きるような気がする。
それは敗北とか、決裂とか、そういうんじゃなく……もっとこう、なんというか、ヤバい感じ。
なんとかそれを越えないと……本当に取り返しのつかないことが起こるような気がするんだ。
……それこそ、二度と走れなくなる、とか。
ぶっちゃけさ。
私としちゃ、宝塚記念に勝てるんなら、軽い故障くらい起こしてもいいんだよ。
勿論これから一生走れないような負傷はしたくないけど、それこそ半年療養くらいならしたって構わない。
そもそもトレーナーの言う「一生モノの故障」なんて、確率は相当低い。あくまで最悪のケース、それこそ確率で言えば数パーセントのものでしかない。
そして……それを引いたって、私は後悔しない。
私は、宝塚記念に勝ちたいと望んでる。
強敵との戦いに煮え滾るような熱が心から湧いて来るのを感じてるし、誰よりも速くゴールしたいという欲がある。
……以前は感じることもなかった、私の熱。それが今、私をレースに駆り立てている。
そして、宝塚記念に勝ちたいというたくさんの理由がある。
あの期待に応えるために。最強であるために。
あるいは、トレーナーと一緒にいるために。自分は間違ってなかったんだって認めてもらうために。
何より……私が彼を惚れさせるために。
そりゃあせっかく走ることを楽しめるようになったのに、それができなくなったら残念だけど……。
望みと理由があるんだもの。満たすためには、何でもする。
それは、私が命をかけてでも欲しいものなんだから。
今なら、ダービーの時のテイオーの気持ちがわかるよ。
たとえ危険でも、この脚がもたないとしても、そこに熱く燃え上がることのできるレースがあるのなら、出たいと望むのがウマ娘だ。
……だから、後悔なんてしない。
私は私の欲望を満たすために、トレーナーに無茶を聞いてもらう。
もしかしたら、すごく迷惑をかけるかもしれない。
彼に消えない傷跡を付けてしまうかもしれない。
それでも、勝ちたいと思ってしまったんだもの。
ある意味、そういう運命だったのだろう。
もし、そうなってしまった日には。
申し訳ないけど、あの日、私なんかに手を差し伸べてしまったツケとして……。
トレーナーには、最後までしっかり責任を取ってもらうつもりだ。
その上で、ちゃんと立ち直らせる。
あなたを必要とするウマ娘はたくさんいるんだ。
トレーナーとしてしっかりと、ウマ娘の未来を育てなきゃ、って。
そう言って、私の方から身を引くことになるだろう。
……けど、それじゃハッピーエンドとは呼べないよね。
ハピエン厨の私からすれば、そんな不幸せな結論は認められない。
物語の結末は、いつだって笑顔溢れる幸せなものじゃないと。
彼も、私も、前に進める。
そんな夢のようなハッピーエンドを迎えるために。
私は、この壁を越えなければならないんだ。
そんなわけで、昨日も自主トレしてみたんだけど……。
どうにも、状況が変わった気がしないんだよね。
私が感じている壁ってヤツは、単純に鍛えても突破できないのかもしれない。
でも、他にどうすればいいかわからない。
私、ここまでずっと、困った時は走ってきたし。
足が速くなれば全部解決。それが私の人生の真理だったのだ。
けど今回のは、私1人で頑張ってもどうにかできる問題じゃないっぽい。
ならネイチャにも協力してもらおう、って流れなのだった。
「多分、私も領域を習得すれば、状況も変わるんじゃないかなって。
だから領域を持っているネイチャと一緒に走って、何か掴めれば、と」
「あー、うーん……詳細には教えられないけど、私の領域は2人じゃ出せないっぽいからなー。役に立てるかはわかんないよ?」
「それでも、是非に。私にとって、最も恐るべきウマ娘であるあなたと走りたいんです」
「アタシが……恐るべき? テイオーじゃなくて?」
テイオー?
ああ、うーん、いやテイオーも恐ろしいと言えば恐ろしいんだけど……。
「確かに、テイオーは私が知る一番強いウマ娘です。
ですが、そこまで恐ろしくはありません。私はいつだって、真正面から彼女を超えますから」
「うお……なんか、久々にアンタのキラキラをハッキリ見た気がするな」
キラキラ? 私別に光ってないし……何かの比喩かな?
……よくわかんないけど、今は置いておくか。
「ですが、私にとって最も恐ろしいのはあなたです、ネイチャ。
真正面から来るのではなく、ありとあらゆる手段を使って差を埋めてくる。
ホシノウィルムというウマ娘にとっては、あなたこそが最も恐ろしいライバルなのです」
「おぉ……うん、いやー……ありがとう、って言うべきなのかな?」
ネイチャはテレテレと頬をかき、視線を逸らして赤くなってしまった。
褒められてないっぽい、初心な反応。
美少女が慣れない褒められで照れる様は、やはり良いものだね……。
ちなみに「ネイチャが一番恐ろしい」ってのに関しては、トレーナーも同意見らしい。
前回日本ダービーではテイオーにハナ差で辛勝。直前のネイチャとの模擬レースでは1と2分の1バ身差だったことを考えると、実際に強かったのはテイオーの方だろう。
でも「強い」と「恐ろしい」は少し違うベクトルだ。
依然、ネイチャが一番恐ろしいライバルだってことに変わりはない。
テイオーはいつでも、自分の全力で戦ってくる。
他のウマ娘に依存しない、自身の持つ素養をフルに活用した走り。
周りの状況に流されない代わりに、その流れに乗って加速することもない。
故に彼女との戦いは、常に純粋なスペック勝負になる。
……つまり、ここから鍛錬に差が生まれなければ、私はずっとハナ差で勝ち続けられるわけだ。
一方、策謀家であるネイチャは、状況によってその戦力が大きく変わる。
バ場状態、距離、坂の有無、直線の長さ、他の出走ウマ娘、ファンの声援、その全てが彼女のレースを作り上げる素材となる。
あの時は1と2分の1バ身差だったけど、更に状況が揃えば、今度は私が負けるかもしれないってことだ。
そりゃあ恐ろしいってものですよ。
そして、そんな恐ろしいウマ娘からこそ学べるものもある……かもしれない。
……本音を言うと、私の友達、他には療養中のテイオーしかいないし、頼めるウマ娘がいないってのもあるんだけど。
「というわけで、是非一緒に走ってほしいのです。
勿論、自分のトレーナーさんに許可が取れたら、で良いので」
「……ま、そこまで言われちゃ断れませんわな。
わかった、取り敢えずトレーナーさんに聞いてみるよ。あんまり期待せず待ってて」
ちなみに、許可はすぐ下りたらしい。というか二つ返事でオーケーだったって。
ネイチャのトレーナーさん、いつも思うけどめっちゃ思い切り良いよね……。
* * *
その後、噂を聞きつけてすっ飛んできた私のトレーナーによって、模擬レースという形式は禁止された。
結果として、ただの併走トレーニングということになってしまった。
……併走自体は先日もしたから、得るものはなさそうだなぁ。
あれからお互い何が変わったと言う訳でもなし、両者のトレーナーも見に来てしまったので、何だかんだいつも通りの合同トレーニングって感じだ。
確かに体は鍛えられるし、何より友人と走るのは楽しいけど……。
「困ったな……このままじゃ、ちょっとマズいぞ」
私の心を今も急かす、このジクジクとした感覚が何なのかはわからない。
けれど……きっと近く、私の前に立ち塞がる壁。
それはもしかすると、私の力じゃ、越えられないのかもしれない。
「……いや、越える。越えて、魅せる」
私はもう、ただのウマ娘ホシノウィルムじゃない。
堀野歩トレーナーが担当する、競走ウマ娘ホシノウィルムだ。
折れるわけにはいかない。足を止めることはできない。
彼のためにも……私自身のためにも。
だから……。
どうか私を信じて、見ていてくださいね、堀野歩トレーナー。
担当ウマ娘が大事なレースを前にどこかそわそわし始めたら怖いよね。
しかも理由を聞き出そうとしても明瞭に答えてくれなかったらもっと怖いよね。
次回は3、4日後。トレーナー視点で、宝塚記念前半と、転生チートトレーナーの話。
すごいボリュームになりそうです。もしかしたら前後編に分けるかも。
(追記)
誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!