6月30日。
その日は俺にとって、少しだけ特別な日だった。
何せこの1年半の間、ほぼ常に隣にいたホシノウィルムが、いない。
俺を取り巻くのは、スーツを着たり私服だったり、色んな服装の町行く人たち。
普段は見飽きるくらいに溢れたウマ娘も、今は殆ど見られない。
それもそのはず、ここは中央トレセンから遥か彼方。
俺は現在職場を離れ、古巣へと向かっていた。
今は彼女が負傷し、傍で支えるべき大事な時期ではあるけど……。
堀野の家には莫大な記録が残っている。あれは彼女のリハビリや復帰にきっと役に立つはずだ。
ある程度は頭に入れている記録だが、やはり完全に記憶できているわけではない。負傷や復帰に関する正確な記録を集めに行かないといけない。
……もう1つ、俺は実家に用もあったしな。
いつか片付けないといけない……大事な用が。
ホシノウィルムの様子もより安定してきて、なおかつリハビリが本格的に始まる前の今しか、傍を離れるタイミングはない。
とはいえ、彼女を丸一日放置するわけにもいかない。
なので、移動中に電話をかけたのだが……。
『そういえば、知ってますかトレーナー。数日前にジェット師匠がお見舞いに来てくれてたんですけど、すごく綺麗にムーンウォークしてくれたんですよ。
私も、脚が治ったら練習してみます。上手くできたら褒めてくださいね』
……良かった、この調子だと安定しているようだな。
いや、ある意味で不安定なんだけど、恐らくただテンションが上がってるだけだろう。
不安や恐怖を感じている様子がないのは、故障後のウマ娘としては良好な精神状態と言える。
「そろそろかな。それじゃ、今日はこの辺りで」
10分程話をして、乗るべきバスが来たので通話を切り上げる。
『寂しいので、早く帰って来てください。
……いや、早く帰って来てね?』
「……ああ、明後日には必ず会いに行くよ」
そう言葉を交わして、彼女との通話を終えた。
……ホシノウィルムは最近、時々敬語を外すようになった。
それが如何なる心理的影響によるものなのか、正確に推し量ることはできないけど……。
彼女なりのやり方で、少しでも俺との距離を縮めようとしてくれているのかもしれない。
あるいは、それこそが彼女の本音、本当の素顔なのかも。
……どちらにしろ、ホシノウィルムが俺を信頼してくれていることだけは、間違いない。
「本当に……信じてもらっているんだな」
確かに、俺は可能な限り誠実にホシノウィルムに向き合って来たつもりだ。
けれど、こうも信頼を貰えるというのは……少しばかり意外というか、現実感がないというか。
結局のところ、俺は彼女の言う通り、自己肯定感が低いんだろう。
どれだけ彼女から信頼を得ようと、それを受け入れることが難しい。
自分にそれだけの価値があることを信じられない。
だが、だからこそ。
もらえた信頼は、大事にしたい。
俺は俺で、彼女のためにできることをしよう。
……たとえそれが、他の全てを裏切る決断になったとしても。
それが、一度彼女を担当した者としての、あるいは彼女の走りに魅せられたトレーナーの、最低限の責任の取り方というものだろう。
* * *
堀野の実家は中央トレセンから遥か遠く、飛行機で2時間程飛び、そこから電車を数本乗り継いだ片田舎にある。
なんでこんな遠いかって言うと……うん。
簡単に言うと、元々堀野の家は、地方でウマ娘を育成してた過去があるんだよね。
結構前にトゥインクルシリーズを走った、オグリキャップというウマ娘がいる。
地方のトレセンで走っていたが、あまりの強さに中央へスカウトをかけられ、スーパークリークやイナリワンと共に三強を構成、その余りある才能を以て中央のG1で4勝を飾った突然変異の怪物。
1つ上の世代であったタマモクロスと共に「芦毛は走らない」というジンクスを覆し、一躍時のウマ娘となった子だ。
分かりやすく言えば、堀野家はオグリキャップと同じ移籍組なんだ。
だいぶ前の時代になるが、堀野は地方でトレーナー業を営んでいた。
そんな中でトレーナーとしての実績を評価され、中央に招かれたのだ。
……非情な話だが、地方と中央は次元が違う。
地方でも選りすぐりの天才が乗り込んでくるのが中央、トゥインクルシリーズだ。
別の名前であった頃からもずっと変わらず、地方と中央ではレースのレベルが決定的に違うんだ。
故に堀野は、元々中央で活躍していた超一流の名家には勝てないと目されているわけだ。
中央で何十年何百年とウマ娘を育てて来た猛者に比べると、どうしても収束した知識と経験の両面で差が付いてしまう、と。
とはいえ堀野家も、総合戦績で言えば間違いなくトップクラスではある。中央に来た後も、重賞めちゃくちゃ勝ちまくってるし。
逆に言えば、それほど優秀でもなければ中央に招かれるなんてことも起こらないからな。
……ただ、光があるところには陰もあるというべきか。
堀野家の最たる欠点を挙げるとすれば、担当との関係の瓦解が比較的多かった、という点だろう。
生え抜きである他の名家と違い、堀野は外様。
常に実力を見せ続けねば、いつ排斥されるとも知れない家だった。
故にこそ、焦る部分もあったんだろうな。
堀野家はかつて、極端なまでの実力主義だった。
ウマ娘の心よりも鍛錬を重視し……過重なトレーニングを課したり、望まぬレースを走らせたりと、度の過ぎた態度を取っていたこともあったらしい。
そうなると当然というか、担当との契約解除とか暴行事件も起こった。
堀野家の黒歴史という奴だ。
もうそこまで行っちゃうと、トレーナーだとか名家だとか言ってられなくなる。
家の評価は下がる一方で、ご先祖様は方針の転換を余儀なくされた。
……というか、とても優秀なトレーナーだった当主が、大改革を図ったらしい。
堀野のトレーナーの基本指針を、徹底的な実力主義から、その心の在り様を重視するものに転換したんだ。
最初の方こそ混乱もあったみたいだけど、今ではこれが堀野のやり方として定着してる。
結果として、実力主義だった時代よりも戦績は良くなっているのだから、不思議なもので。
やはりウマ娘は理屈では測りがたい部分に底力を持っているのだ、という事実を堀野家は痛感したのであった。
そんなわけで、不幸な境遇に陥るウマ娘はいなくなり、堀野家も一歩前に進めましたとさ。
以上、3分でわかる堀野家の過去でした。
さて、話を戻して。
そんなわけで、堀野家は中央トレセンからめちゃくちゃ遠い片田舎にある。
電車を乗り継いで辿り着く、田舎と都会を足して2で割ったくらいの町……から、徒歩で20分程歩き、山に入って、落ち葉が脇に避けられ舗装された道を登ること10分。
青々しく茂る山の木々が途切れ、ふと視界が開けた先。
そこに、堀野の本家は邸宅を構えている。
ぶっちゃけハウスキーパーがいないと管理すらできないバ鹿でかい敷地と、ウマ娘でも越えられなさそうな大きな大きな門。
徹底的に整備された広大なターフ、そして横に建つこれまたデカい屋敷。
その脇にいくつか建設されている離れとか倉庫とか。
これが堀野家の全貌となる。
備え付けられたキーパッドをいくつか押して門を開け、一番大きな屋敷を目指して足を進める。
今回俺が用があるのは、勿論母屋だ。
赤レンガで造られた古風な様式で、広さは……名家本筋と言うには少し小さいかもしれない。
元より、中央の他家と深い繋がりは持っていなかったからな。今も精々、年に何度か分家の人たちを泊める程度だし、あまり広い家は必要ないんだ。
昔は子供が多かったために家も広かったらしいけど、現代となると兄弟姉妹は3、4人。
他にも職業選択の自由だとか、地方と中央の確執だとか、色んな要因が重なった結果、現代における堀野の本家は一般家庭並みの人数で、かつ狭めの家となっている。
これも時代の流れってヤツだ。
……ま、狭いと言っても、常識的に考えればかなり大きな屋敷なんだけどね。
中央トレセンのトレーナー寮と比べても、どちらが大きいかわからないくらいだ。
「久々に帰って来た、気がする」
赤レンガの建物が目の前に迫ると、郷愁に襲われる。
ここを出たのも、もう2年以上も前のことなんだよな。
俺がこの世界でずっと過ごしてきたその場所は、いつもと変わらず無機質に俺を迎えてくれた。
……少し、緊張する。
ここは俺に、今世における目標を与えてくれた場所。俺の始まりになった場所だ。
だからこそ思い入れがあるというか……こんな想いを抱いて帰って来るとは思わず、心が軋むような想いだった。
俺は今、この家に相応しいトレーナーでいられているだろうか。
常々抱いていたその疑問が、脳裏をよぎる。
「……いられてないから、ここにいるんだけどな」
ため息1つ。
……覚悟を決めて、俺は玄関の鍵を取り出した。
家を管理してくれてる昔馴染みのハウスキーパーさんたちとすれ違う度に挨拶して、リビングへと向かう。
勝手知ったる第二の我が家、迷うこともなければ追い出されることもなく、そのまま屋内を区切る扉を開いた。
「よく帰って来た」
品の良い調度品と静謐な空気に包まれた空間。
……その奥に座るのは、1人の男性だった。
常に冷たい無表情、品のある服に身を包む男。
その歳も40を過ぎて、けれどなお壮健。
彼こそが、俺をトレーナーの道へ導いてくれた父親だった。
俺に堀野のトレーナーとしての生き方を教えてくれた恩師であり。
俺の被る仮面の基になった、鋼の仮面の持ち主でもあり。
俺が誰よりも尊敬する、最高のトレーナーだった人だ。
その鋭い視線に射られると、心の底まで見透かされるような気がして、思わず身震いする。
中央でトレーナーをやっていたのは、先代の家長が引退するまでの、僅か10年足らず。
その間に担当ウマ娘にG1を4度も勝たせた、超が付く敏腕トレーナー。
父にとっては俺など、文字通り子供のようなものだろう。
この心を如何に隠そうとも、簡単に透けて見えるに違いない。
「……ただいま、戻りました」
そう言って、深く頭を下げた。
俺にとっての理想であり、目標であった、最高のトレーナー。導きの星。
今から俺は……そんな父を、裏切ることになる。
まずは何を言おうか迷っていると……。
「昼食を用意させている。食べてから話そう。
まずは荷物を置いてきなさい。お前の部屋は、そのままにしてある」
そう言って、父は食堂へと歩き出してしまった。
静かで味のしない食事を終えた後。
父は俺に対して、厳かに話し出した。
「さて、改めて。
まずは日本ダービーの勝利を祝おう。これでお前は、堀野で初めてのダービートレーナーになった。
更に、クラシック級のウマ娘が宝塚記念に勝利するのは、史上初のことになるな。
おめでとう、歩」
寡黙な父にしては珍しい、饒舌な台詞だった。
現堀野家当主である父にとって、この2つのレースの勝利はそれだけ喜ばしいことだったんだろう。
長い堀野の歴史においても、未だかつて成し遂げられていなかった日本ダービーの勝利。
そして史上初となる、宝塚記念のクラシック級時点での勝利。
この2つは、間違いなく堀野の名に箔を付けることができる記録だ。
家長として、嬉しくないわけがないだろう。
だが、その祝福をそのまま受け入れるわけにもいかない。
「いえ。以前にも言いましたが、これも全てホシノウィルムの力です。
是非、彼女の努力と勝利を祝ってあげてください」
「……そうではないが、確かにその側面もある。
良い担当を持ったな。大事にしなさい」
「…………」
本当に、俺にはもったいないくらいの、素晴らしいウマ娘だ。
だが……だからこそ、俺は。
彼女を支えるためにも……。
「父さん。……言わなければならないことが、あります」
「聞こう」
父は、やはり動じなかった。
俺がこれから言うことも……父は既に、察しを付けているのかもしれない。
それを聞いて、どう反応するつもりなんだろうか。
……これは、手酷い裏切りだ。
ここまで育て、導いてもらった大恩を、仇で返す行為だ。
けれど俺は、この人や堀野家に、嘘を吐き続けることはできない。
堀野家のデータは、今のホシノウィルムに必要だし……。
何より俺は、堀野の皆のことが……好きだから。
だから、言わなくちゃいけないんだ。
「俺は、堀野のトレーナーを辞めようと思います」
ぴたり、と。
父の動きが止まった。
その瞳はじっと俺を見て、何を考えているか窺ってくるようで。
俺は寒気を覚えながら……けれど、その瞳を見つめ返す。
じっと、時が止まったように、視線を交換する時間が続く。
果たしてどれだけ時間が経っただろう、父の唇が重苦しく開いた。
「それは……」
「待った」
父の言葉を遮るように、ダイニングの入り口から女性の声が響いた。
凛として涼やかな、耳慣れたそれは……。
「
「久しぶり、兄さん。……相も変わらず辛気臭い顔してるね」
俺の、妹のものだった。
堀野の家には、両親を除いて3人の家族がいる。
長男、次男、そして長女だ。
堀野昌は、俺の知る限り堀野の家に生まれた最後の子供だ。
今は大学に通いながら、トレーナー免許を取ろうと勉強を頑張っているらしい。
今日は日曜日、大学は休みだったのだろう、普段のコンタクトではなく厚縁の眼鏡をかけた私服姿。
ぱっちりとした二重、幼さの残る童顔と、可愛らしい容貌を持っている……のだが、その冷ややかな雰囲気が全てを封殺してしまっている。
幼い頃は、天真爛漫でよく懐いて来る、可愛げのある妹で……。
いつからか、一定の距離感を保ち、何かと反抗的な妹になってしまった。
だがまぁ、何だかんだ根底にある優しさは変わらない。雨の日に捨て猫を見つけたら無視できないタイプのヤンキーガールなのだ。
「今、何か不愉快なこと考えたでしょ」
「……いや、褒めたつもりなんだけど。2年ぶりかな、昌」
「そうだね、2年と2か月ぶり。薄情者が全然帰ってこないから」
「トレーナー業に就いていると暇がなくてね」
「1つ上の長男さんは定期的に顔を見せてくれるのにね」
「い、いや、兄さんはトレーナーじゃないしさ」
「父さんも、もっと顔を見せに来るべきだと思いますよね?」
「…………まぁ、そうだな」
「ほら」
「今すごい圧かけなかった?」
……そして俺は、この妹に弱かった。
兄に生まれついた宿命として、どうしたって妹には勝てないんだ。
というかこの家のヒエラルキーの頂点は母、次点でこの子なので、ぶっちゃけ母以外は誰も昌に勝てない。無敵の妹なのである。
しかも今回に関しては、相手に一理あるんだよな……。
昌は昔から、割と寂しがりな部分があった。
ずっと隣にいた肉親が2人もいなくなったことで寂しさを感じていたのかもしれない。
そこに関しては、ちょっと申し訳ないね。
「次変なことを考えたら殴るから」
「ごめんなさいです……」
殴られたくはないので素直に頭を下げる。
昌はため息を吐き、俺の隣の椅子に荒々しく腰かけた。
「……で、何だっけ、『堀野のトレーナー辞める』だっけ?」
「あ、あぁ、うん、そう」
「どういう意味? 何も中央のトレーナーを辞職するって意味じゃないんでしょ」
「…………? 辞職する? なんで?」
俺は「堀野のトレーナー」を辞めるだけで、別にトレーナーを辞める気はない。
というか、今更ホシノウィルムから離れるなんて考えられない。
そもそも俺は、堀野のトレーナーだって辞めたくはない。
ただ、俺はホシノウィルムの走りに惚れてしまった。余計な一念を持ち込んでしまった。
それは不可逆で、どうしようもない変化で……俺は堀野のトレーナーとして、決定的に欠陥品になってしまった。
だから……情けないことだが、「堀野のトレーナー」は諦めるしかないと判断した。
俺をここまで育ててくれた父には、本当に申し訳ないことだと思う。
俺は堀野のトレーナーになるべく生まれ、堀野のトレーナーになるべく育てられた。
それが役目を放棄し、自分勝手な方針でトレーナーをしたいと言っているのだ。
名家の子としては許されざる蛮行。ここまでに繋がれてきた歴史を放棄する、最悪の愚行だ。
その上自分の担当のために、ここの資料を使わせてほしいとまでのたまう。
恩知らずの上恥知らず。廃嫡どころか絶縁されてもおかしくない傲慢な願いだろう。
だが、それでも……ホシノウィルムを支えたい。
彼女のトレーナーとして、彼女の走りを一番傍で見ていたいんだ。
だから、最悪ここで縁を切られても仕方ないという覚悟をして、この話を切り出した。
……んだけど。
2人の反応は、予想外のもので。
妹は「はいはい」と言わんばかりに頬杖を突いて。
父は……何故か、胸を撫で下ろしていた。
「父さん、安心しましたか?」
「あぁ……寿命が縮んだわ」
「寿命……!? まさか、ご病気ですか!?」
「兄さんは邪魔だから黙っててくれる?」
「あ、うん」
どうやら俺は邪魔らしかった。
「……はぁ。兄さんが悪いのは当然として、父さんも悪いんですよ。
いい加減、腹を割って話すべきじゃないんですか?」
「む……」
昌と父は、よくわからない会話を交わしている。
腹を割る……? 何か、2人の間で共有されてる秘密があるのかな。
……もしかして、また1人兄弟姉妹が生まれたとか言わないよね?
どうしよう、俺滅多に帰ってこないから家族って認識されないかもしれん。
「兄さん、変な妄想はやめてくれる?
てか他人事じゃないよ、兄さんも悪いんだから。
私、昔言ったよね。誤解しやすい上に意味わかんない結論から話し出す癖やめてって」
「言われた……けど」
「けど?」
相手との会話を円滑に進める上で、「最初に結論を述べる」のは基本中の基本。
恐らく問題は、その結論が突飛で誤解を招きかねない、という点にあるんだろうが……。
「今回の、そんなに突飛な話だったかな?」
「…………まずは相手が持っている情報を整理して、『こう言ったら相手はどう思うかな』って考えるところから始めて。まともに人と話す気があるなら」
これだから兄さんは……と、昌は軽く頭を押さえた。
……これでもホシノウィルムとのすれ違いを生んで以来、コミュニケーションの意識は徹底していたつもりだったんだけどな。
しかし、相手の持ってる情報を整理する、か。
……地味に難しくない、それ?
「で? 『堀野のトレーナーを辞める』ってどういう意味か、改めて聞いていい?」
「あ、うん……じゃあ、改めて」
この2年で、俺は1つ痛感したことがある。
俺は堀野のトレーナーに向いていない、ということだ。
無私の奉仕をするつもりでウマ娘に尽くそうとしても、そこに俺個人の「勝って欲しい」「もっと走って欲しい」「幸せになって欲しい」という我欲が少なからず混じってしまう。
根本的な要領の悪さもあり、担当ウマ娘との距離感を適切に保つことができない。
あろうことか1人のウマ娘の走りに魅了されてしまい、身を引くべき場面で身を引けない。
……俺は、堀野のトレーナーとしての適性が、ない。
ウマ娘のそれと同じで、俺は努力さえ積めば適正の壁を越えられると信じ、ここまで研鑽を積んできたつもりだった。
でも……それでも、今はまだ届かない。
そして、今は届かない、じゃ駄目なんだ。
ホシノウィルムは今まさに、支えを必要としているんだから。
「堀野のトレーナー」では、駄目だ。
今の俺では、ホシノウィルムを担当できない。
実力不足の俺単体では、彼女を支えるに適さないんだ。
故に担当契約を解除するか、あるいはトレーニングを委任するなりして、然るべき人材にその才能を託す、という方針しか残されない。
だから……逆説的に。
ホシノウィルムを俺が担当したいのなら、「堀野のトレーナー」を捨てるしかない。
それが、俺の悩み続けた末に出した……。
ホシノウィルムを取る代わり、それ以外の全てを裏切る決断だった。
語り終えた頃には……自然と、視線はテーブルに落ちていた。
どんな罵倒をされてもおかしくない結論だ。
堀野がこれまで築いてきた何百年という歴史。
その中で積み上げられ、研鑽され、完成された「堀野のトレーナー」という理想形。
それを投げ出すというのは、つまるところ、堀野の歴史の全てを裏切る行為だから。
俺はこの家が、家族が、好きだったんだと思う。
少し頑固なところはあるけど、尊敬できるトレーナーであった父。
子に対する愛と理解を持って接してくれた母。
他者に対する深い博愛と努力を惜しまない強さを持った兄。
心優しく、何だかんだ人の世話を焼いていた妹。
いつも勉強や運動ばかりだったとはいえ、皆の中で暮らす毎日は……俺には少し眩しいくらいに、楽しかった。
だから、もうそこに戻れないと思うと、少し寂しいものがあるが……。
それでも、受け入れなければならない運命も、きっとあるんだ。
堀野の家と、ホシノウィルムなら、今の俺は後者を取る。
結局は、それだけの話。
「兄さん」
「……うん」
「宣言はしたから」
え、何、あ痛ぁっ!
昌は立ち上がって俺に近寄ってきたかと思うと、割と強めにげんこつを振り下ろしてきた。
う、お……割と真剣に痛いヤツだ。
なんで? 俺、そんなに何か悪いことした?
ああいや、間違いなくしたけど、確かに言ったけど、暴力まで行くぅ……?
しかも殴るや否や、昌はダイニングの入り口に向かって歩き出してしまった。
「父さん、これ父さんのせいですからね。ご自身で誤解を解いてください」
「あ、昌?」
「じゃあ私、勉強があるから。
……あぁ、それと。担当ウマ娘の躍進、おめでとう、兄さん」
振り返ることもなくそう言って、昌は歩き去ってしまう。
……勉強があるなら何のために来たんだ。
挨拶? するにしても、今、このタイミングで?
結果として、仲裁してくれたことで話が円滑に進んだのは助かったけど……。
いやまぁ、とにかく。
彼女は頑張ってトレーナー免許を取ろうとしてるわけだし、エールだけでも送らないと。
「頑張れ。昌なら絶対受かるよ!」
「それ、ウザいから。マジウザい」
駄目だった。
ウザい、かぁ……。何が駄目だったんだろうな、はは……。
「歩」
父が、俺の名を呼ぶ。
向き直れば、父はこちらをじっと見つめていた。
「大事な話がある。聞きなさい」
「はい」
……いよいよ、話が始まる。
恐らくは……俺にとって、辛い話が。
思わず身を竦ませてしまった俺に……父の、落ち着いた言葉がかけられる。
「まず、お前は間違っていない。むしろトレーナーとして、新たな一歩を踏み出したと言っていい。
『堀野のトレーナー』とは、あくまで目標であり理想の1つでしかない。
お前は、お前自身が正しいと思った道を行け」
…………?
それは、どういう……。
「俺は、お前への教育を間違えた。堀野の理想を押し付けすぎてしまった。
理想は、あくまで理想でしかない。理想そのものになる必要はない。ただそこを目指すことが、多くの場合成長に繋がるだけだ。
……お前は、ストイックすぎる。無理に自分を変えようとしてはいけない。
お前が担当に感じた感覚と、自分がしたいこと、トレーナーとしてすべきこと。その全てを今一度鑑みて、自分がすべきだと思うことをしなさい」
……それは、つまり。
「俺は……えぇと」
「お前は、間違っていない。
ホシノウィルムがお前を求め、お前がホシノウィルムを求める限り、傍にいてやれ。
トレーナーとウマ娘は……極論にはなるが、そういう関係なんだ。
……ウマ娘のトレーナーのやり方に、正解はない。トレーナーの数だけ正解があるのだ。
だからお前は、お前なりの正解を探しなさい」
つまり。
俺はずっと昔から、大きな勘違いをしていた。
「堀野のトレーナー」とは、即ち「道徳的観念」みたいなもので。
基本的にそれが理想だけど、それを守ったからと言って必ずしも正解になるとも限らない「理想」でしかなく。
大事なのは、それを守る中で自分が正しいと思う道を探し出すことだ、と。
「本来、家は子を縛るべきではない。
兄が自分の道を行ったように、お前にも望ましい道が見えたのなら、それを行きなさい。
堀野は……いや、俺は、それを応援する」
……そうして、堀野歩は自由になって。
同時に、進むべき道を照らす明かりを、失ってしまったのだった。
* * *
「……あー」
久々でありながら身に馴染む自室で、うめき声を漏らす。
あの後、帰ってきた母に挨拶したり、無理言って嫌がる妹の勉強を見たり、父にトレーナー業についてアドバイスを聞いたり、資料庫でリハビリに関する資料を漁ったり……。
俺はその日を、久々の実家で過ごした。
楽しく、充実した1日だったと思う。
けれど、頭を占めていたのは、やはり……。
俺のトレーナー観の間違いだった。
「これから、どうしよう……」
俺は、要領が悪い。
もっと言ってしまえば、才能がない。
自論だが、人の能力ってのは才能と努力、努力の軌道の正しさ。この3つの乗算で培われる。
その内才能が僅かしかない俺は、「俺自身の努力」と「その方向性を定めてくれる目標」、この2点が揃わなければ人並みの能力を持てない。
そして今日、その内の片方が、失われた。
堀野のトレーナーを絶対正義としてきたから、俺はここまで来れた。
超一流にはなれなくとも、そこそこのトレーナーにはなれた。
なのに今、その軌道の1つがなくなったら、俺は……。
「いや、やるしかない。やるしかないんだ」
そう何度も口に出して、自分に言い聞かせる。
どれだけ能力が劣っていても、ホシノウィルムのトレーナーである以上、そうありたい以上、俺はやるしかない。
……それで、彼女に迷惑をかけても? 彼女の可能性を閉ざしてしまっても?
俺のエゴで、彼女の未来に影を落とすのが、正しい判断か?
また、同じ間違いを犯すのか?
「…………また? いや……駄目だ、混乱してる」
ここまで人生の道筋にしてきたものがなくなってしまったんだ。そりゃ混乱もするか。
もう夜も更けたし、寝よう。
早く寝て、気分を切り替えないと……。
ベッドの中に入ると、長旅で疲れていたのか、すぐに意識は暗闇に沈んでいった。
* * *
……多分、最後に考えていたことが良くなかった。
「堀野のトレーナー」を失った俺には、何もできないんじゃないか、と。
その無力感が……本当に、良くなかった。
その夜、俺は酷い悪夢を見た、気がする。
前に見た、ぼんやりした誰かの夢ではなく。
意識の奥底に沈めた、ずっと昔の、自分の夢を。
いわば、大雨の後の川のように。
感情の濁流が、俺の中から思い出したくもない記憶を掘り返してしまった。
けれど……。
「うえ、すごい汗かいてる。悪夢見たからって……。
……ん?
あれ、どんな夢見たんだっけ?」
翌朝には、その記憶も、忘れてしまった。
過ぎ去ってしまった記憶を掴もうとしても、泥の中を探るような気持ち悪さがあるだけで……。
何も、思い出せない。
それをただの悪夢として、記憶の底に封じることしか、できなかった。
1人のウマ娘としてある意味完成したホシノウィルムに続き、堀野歩もようやく1人のトレーナーとして歩き始める、的なお話でした。
それにしては不穏なスタートになっちゃいましたけども。
次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、リハビリ開始! の話。
(追記)
誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!