宝塚からもう15万字以上書いてるという事実に震えてる。
「トレーナー、あれ、あれ行きましょう!」
「待て待て、ホシノウィルム、いやホントに待て、腕が千切れる」
担当に肩が外れる勢いで腕を引かれ、俺は慌てて脚を動かす。
ウマ娘の力ってすごい。ちょっとはしゃいで引っ張っただけでこの力だ。
流石、前世では「馬力」という単位のあった生物の……生物の、何?
冷静に考えると、ウマ娘って馬にとっての何なんだろう。この世界では二次元の擬人化キャラってわけでもないんだろうし、魂を継承した別生物?
まぁそれはさておいて、このままじゃ肩が外れるか骨が折れるかの二択。
何はともあれ注意しなければ。
「せめて握るのは逆の手にしてもらえるか? 右手が逝ったら業務に差し障るので……」
「あっ、す、すみません」
何故かちょっと顔を赤くして、繋いだ手を離すホシノウィルム。
うん、冷静になってくれたようで何よりだ。
いくら競走ウマ娘と言っても、傷害事件とか起こすのは問題だからね。
この子は中等部の女の子なわけで、お祭りを前にしてはしゃぐのはおかしなことじゃない。そんなに顔を赤くして恥ずかしがる必要はないが……トレーナーとして注意はしておくべきだろうな。
「君はウマ娘だ。俺はいいが、他の人に対しては優しく、な?」
「はい……」
人に優しく。
それは、この世界でウマ娘が一番最初に教え込まれることだ。
ウマ娘は人間とほぼ同じ体型、体重でありながら、筋力や頑健さは人間を遥かに超えるフシギ存在。
敢えて冷たい言い方をすれば、あくまで限りなく近いだけの別種族なんだ。
そして、だからこそ。俺たち人間とウマ娘が共生するには、相互の歩み寄りが不可欠と言える。
特に人間よりも性能的な側面で上位に立つウマ娘が暴走すると、人間は寄ってたかってそれを止めなくてはならなくなる。
そうなれば、相互の信頼関係は瓦解しかねない。最も避けるべき可能性だ。
そんな事態に陥らないよう、この世界は前世に比べ、倫理教育が更に徹底しているように感じる。
決して悪い子に育たないように。あるいは癖のある子に育ってしまったとしても、その根底には善性と隣人への理解・友愛を持てるウマ娘になるようにと、幼少の頃から、しっかりと教育を受けるんだ。
勿論これは、ウマ娘に対して数で圧倒的に勝る人間側も同じだ。
隣人愛は、この世界の基本中の基本。
恐らくこの道徳教育の方針も、この世界の人間やウマ娘に善性の存在が多い原因の1つなんだろうと思う。
でも、逆に言うと……。
この世界で他者を傷つけることは、前世よりも更に忌避されている、とも言える。
よりにもよって無敗二冠、最強格と目される大スターが人間の骨を折った、なんてニュースが広がれば、それはもうとんでもないスキャンダルになる。
俺なら事故ってことで済ませられるけど、もしもファンの方に被害を出してしまうと庇うことも難しいからな。
窮屈な思いをさせて申し訳ないけど、ホシノウィルムには抑えてもらうしかないんだ。
……とはいえ、今日はお祭りだ。
叱ってばかりじゃいられないよな。
「ほら、目的はあの出店だろう? 行こうか」
「っ、はい!」
今日は大感謝祭、当日。
俺とホシノウィルムは、なんやかんやあって、一緒に祭りを見て回っていた。
* * *
本日のホシノウィルムのお仕事は、トレーニングやレースではなく、『ウィルム相談所』。
たくさんのお客さんの相談を聞き、コミュニケーションを取ることだ。
……だが、ホシノウィルムがそれを受け入れていたかと言うと、どうやらそうではなかったようで。
朝、彼女は珍しくナーバスになり、大樹のウロの前でぼんやりと物思いにふけっていた。
振り向いた顔は僅かに目尻が下がり、いつもは合う視線もどこかすれ違っている。
ホシノウィルムは、コミュニケーションに長けたウマ娘だ。
俺の前では理性的だが多少甘え気味に、友人の前では少しだけ砕けた態度で、ファンの前では笑顔で優しく、後輩の前では寛容かつ親身に、インタビューでは歯に衣着せず強者として。
彼女は対面した人物や出来事によって、その仮面を切り替える。
そのどれが本物というわけじゃなく、全てがホシノウィルムの一面なんだろう。意見が変わるのではなく、その言い方や表し方を変えていくわけだ。
どんな人間や出来事に対しても適切な対応ができるというのは、実のところなかなか得難い能力だ。
だからこそ俺は、彼女は誰かと話すことを得意にしていると思った。
これまで誰かと話すことを苦にしている様子もなかったし、相談所に関しても問題ないと判断していたが……。
その実、ホシノウィルムは大きな緊張を感じていたわけだ。
彼女は想像以上に、人との関わりに慎重だった。
ただの学生のイベントだって言うのに、客やファンの方々のことを考え過ぎて……。
楽しむべきお祭りで、他のウマ娘がレース前に感じるような緊張を抱いた。
それだけ彼女は優しいウマ娘であり、同時、ファンに恩を感じていたんだ。
宝塚記念で、彼女は決定的に変わった。
あの瞬間、彼女があの走りをできたのは、きっと多くのファンの方々の声援によるものなんだろう。
だからこそ、ファンの方々に恩返ししたいと思った。
なんとしてでも楽しんでもらわなければと、強く強く想った。想い過ぎてしまった。
その気負いを察することができなかったのは、俺の不徳の致すところだ。後でしっかり反省しよう。
だけどそんな彼女も、最終的には笑顔を見せてくれた。
12時の昼休みに入り、俺が声をかけてテントに入った時。
ファンの熱に当てられたか汗をかきながらも、「午前中、とても楽しかったです!」とあどけない笑顔で言ってくれたんだ。
今のホシノウィルムに必要なのは、とかく多くの人に愛される経験だ。
これまでの人生で愛というものを知らなかった彼女にとって、評価され、好まれ、愛されるという経験は重要なもの。
それは呪いを破り広がり始めた彼女の世界を、もっともっと広げてくれるはずだ。
だからこそ、ファンと直接触れ合える「相談所」というブルボンの企画を通したわけだ。
一度は酷い読み間違いで彼女を追い詰めてしまったものの、その結果は実を結びつつあるらしい。
ブルボンも無事に大感謝祭を一緒に回る友人を見つけたみたいだし、取り敢えず今のところ、俺の担当は2人とも大感謝祭を楽しんでくれている。
うん、良かった。
ホシノウィルムもミホノブルボンも、それぞれ違う意味で人生経験が豊かでないウマ娘だ。
走ること以外にも色んな経験を積んで、良い競走人生を送ってほしい。
……で、そこまでは良かったんだけど。
ホシノウィルムの直後の言葉は、俺の想定の外にあった。
「じゃあ行きましょう、トレーナー!」
「え?」
「え? じゃなくて。昼休みの間に一緒に回るんですよ、大感謝祭!」
……なんで?
「いや、俺のことは気にしなくていいから。君は友達と一緒に回って来なさい」
「ネイチャもテイオーも企画やってるらしいですし、ブルボンちゃんはサクラバクシンオーさんとかニシノフラワーさんと一緒に回ってるらしいですし、こういう日に後輩ちゃんたちの中に入るほど私も無作法じゃないですし、他に友達っていうほどの友達もいませんし」
「うっ」
なんだその悲しい……うわ、前世の学生時代の記憶がフラッシュバックする!
これは、この記憶は……友達が皆他の友達と一緒に回るって先約付けてて、微妙な空気にもしたくないから交ざることもできず、微妙に寂しい思いをしながら1人で回った高校1年生の時の文化祭!?
あまりに物悲しいが故に忘却の底に封じていた記憶が、ふと蘇ってしまった。
くっ、担当にあんな想いを抱かせるわけにはいかない……!
「……一緒に回ろうか、ホシノウィルム」
「はい!」
そんなわけで俺はホシノウィルムと一緒に、ファン大感謝祭を回ることになったのだった。
* * *
「まずは何か食べましょう。この香ばしい匂いに身を任せて!」
「テンション高いね今日は。……お、あれは」
「たこ焼きですね。良い匂いです……」
「企画担当は白い稲妻、タマモクロスか。綺麗に焼くものだな、すさまじい手並みだ」
「……そういえば、あのたこ焼きをひっくり返す針みたいなの、何て言うんでしょうか。やっぱりカタカナのカッコ良い正式名称があったり?」
「たこ焼きピックだ」
「え?」
「これと言った正式名称はないが、最も誤解なく広く伝わるのはたこ焼きピックだろう。
一応千枚通しとかアイスピックとも言われるが、たこ焼きピックの方がずっと伝わりやすいだろう?
なので、現時点においてあの器具を示す最も人口に膾炙した名称はたこ焼きピックだと思われる」
「……なんか想像以上に詳しいですね。なんでそんなこと知ってるんですか?」
「教養」
「きょうよう……」
「トレーナーとしての教養」
「ウマ娘のトレーナーって難しいんですね……」
嘘。前世で得た知識です。
さて、ちょっと並んで買ったたこ焼きは、12個のパック2つで24個。
人間2人で食べるには多い量だが、俺の隣にいるのはウマ娘。これくらいが適切な量だろう。
2人で近くのベンチに座り、ゆっくりとアツアツのたこ焼きを口に入れていく。
「はふ、はふっ……うん、美味しい!
たこ焼きって独特な感触と青のり、鰹節、ソースが美味しくて、時々食べたくなりますよね」
「そうだな……とは言っても、俺が前回食べたのはずっと前だが」
「え、そんなに……あ、でもそういえば私も……」
たこ焼き、実は前世ぶりに食べた。
今世では繊細な味わいと保存食に慣れ切ってしまってたけど、やっぱりこういうジャンクな味も良いよね。粉物、前世で好きだったし。
「ところで、ピンクの髪の小さいウマ娘が来ただろう。君から見てどうだった?」
「え? どうだったかと言われると……そうですね、少し感じるところはありましたが」
「ほう、やはりか。年齢的に君とトゥインクルシリーズで当たるかはわからないが、あの子は恐らく伸びてくるぞ」
「あ、そっち方面で……」
今日来てくれたお客さんの話なんかをしながら、俺たちはしばらくの時間を共にした。
……ちなみに、2パック24個の内、18個くらいはホシノウィルムの胃に収まった。
うん、今日も食欲旺盛なようで何よりだ。午後からも頑張らなきゃいけないから、少しでも英気を養って欲しい。
「あれは何ですかね? 射的?」
「射的だな。最強マイラーことタイキシャトルの企画らしい。
よくある、撃ち落としたら景品が貰えるルールのヤツだ。……あ、君のぱかプチもあるな」
「トレーナー、やってみてください!」
「あー……うん、じゃあやってみるけど、期待はするなよ」
奮闘の結果。
4000円使って、ちっちゃいお菓子の箱が1つ取れた。
「……想像を超える下手っぷりですね」
「射的の練習はしたことがないから……」
「いや、うーん、にしてもこれは……ちょっとやらせてください」
ホシノウィルムは銃を構え、まず1発目は狙ったお菓子の少し下に逸れて外した。
「む……なるほど」
そして2発目、綺麗に大きめのお菓子を撃ち落とし。
3発目で、自分のぱかプチを撃ち落とした。
「……すご」
「ふふん、私天才なので。……このぱかプチはトレーナーにあげます」
「いいのか? ありがとう」
「私と思って、大事にしてくださいね」
大きくて笑顔を浮かべた、勝負服のホシノウィルムぱかプチ。URA謹製のぬいぐるみだ。
……うん、実はこれ、2つ目なんだけどね。
ぱかプチ、というかウマ娘のグッズは、URAの企画制作部から担当トレーナーに、販売前の確認のために送られてくる。
だから俺、ホシノウィルムの公式グッズは全種類持ってるんだよね。勿論ぱかプチも。
小さいのと大きいの、制服と勝負服、普通の顔とにっこり笑顔の組み合わせがあり、トレーナー寮の自室にはそれぞれのパターン、合計8つのぱかプチが棚に並んでいる。
とはいえ、これはホシノウィルムからの気持ちだ。ありがたく受け取ろう。
しかし彼女と思って大事に、か……。埃を被ったりしないよう、ガラスケース買わないとな。
……でも、そろそろホシノウィルムグッズが部屋から溢れる頃合いだ。捨てるのは忍びないし、どこかの倉庫借りるか、実家に送るかしないとなぁ。
「ネイチャは友人と組んで、小規模なカフェを開いてるそうです。まだお腹の余裕があるなら行ってみませんか?」
「いいぞ、行ってみるか」
そんなわけで、次の目的地はネイチャの開いたカフェ。
……カフェ? これカフェというか、メニュー見てる感じ、ちょっとした定食屋? というかお酒のない飲み屋じゃないこれ?
しかしそのオシャレさ皆無の中身とは裏腹に、教室を1つ使ったそのカフェはめちゃくちゃ混んでた。なんなら行列までできてる。すごい人気だ。
中からはお客さんの歓談の声と共に、スタッフであろうウマ娘たちの悲鳴が聞こえてくる。
「ちょ、誰かジュース買ってきて!」
「ジュースって何!? 炭酸!?」
「オレンジ! あと紙コップも足りない! あ、お箸も余裕ないからお願い!」
「誰か会計ヘルプ入って! あとアンケート足りないって!」
「回せる人手ないって! デイジー探して呼び戻して来て!」
「煮込みあと何分!?」
「そんなぱっと終わるわけないでしょ! あと16分!」
「からかい半分に来たんですけど……思いの外大人気ですね」
「午前中に聞こえて来た噂だと、牛筋煮込みと串カツが学生のクオリティじゃないらしい」
「……渋すぎません?」
「ナイスネイチャは確か、親がバーを営んでいるという話だったからな。料理も上手いんじゃないか」
「あー……ちなみにトレーナーは、料理のできる女の子って魅力的だと思います?」
「料理に限らず、できることが多い子は魅力的だとは思う」
「あ、はい、そうですよね……」
「まぁでも、競走ウマ娘に限って言えば、君のように走りに特化した子もいいと思うぞ。トレーナーとして、非常に支え甲斐がある」
「うぅ……それじゃ駄目なんですよねぇ」
「?」
彼女はがくりと肩を落としてしまった。
ホシノウィルムは走ることに特化していたからこそ、ここまで飛びぬけて強いわけで、俺としてはそれを否定する気はないんだけどな……。
結局、そこまでお腹も空いていないし、列に並ぶ時間がないので、ネイチャのカフェは様子を窺うに止めて次の企画に向かった。
「テイオーはダンスライブですね。……そう言えば、テイオーのダンスをしっかりと見るのは初めてかもしれません」
「君の隣で2回も踊っていたが」
「ウイニングライブの時は、横を見ている余裕がありませんから」
「そういうものか。……では、せっかくだし見に行こう。ちょうどもう少しで始まる頃合いだ」
ダンスライブが開催される体育館には、既に溢れんばかりのお客さんたちが押し寄せていた。
少し待つと照明が暗くなり、トップバッターを任されたテイオーのダンスが始まる。
『まっすぐな目で こっち見ないで
かわせない 逃げられない
こんな時 どうすんの?
恋の経験値 ギミギミギミギミ!』
……すごいキレだな。あまりダンスには詳しくないけど、これ普通にプロ級なのでは。
いや、彼女たちはレースとライブで集客してるわけで、ある意味間違いなくプロではあるんだけど。
『覚悟 決めて 勝負しなきゃ
明日? やだね、今すぐ! Step it!』
「……見事なものです。勝負の内容がダンスなら、今の私では勝てないでしょうね」
「君も綺麗にウイニングライブをこなしていると思うが」
「こればかりは、才能の違いですね。ダンスの才能で見ると、私よりテイオーの方が秀でている。
今の私でもある程度はこなせるでしょうが、テイオーのような独自性を含んだダンスはできません」
「ほう。君にしてはあっさりと負けを認めるな」
「は? 負けてませんが。
現段階で勝てないとしても、あと100……いや、50時間くらいちゃんと練習すれば勝てますし。現時点で劣っているというだけで、まだ勝負の舞台に立ってないので全然負けてませんが」
「あ、うん、そうだね」
ダンスライブを見終わり、そこらの屋台を見て回る内、一風変わったスペースを見つけた。
「あれは……ゴミ捨て場?」
「気持ちはわかるが、そう言ってやるな。マチカネフクキタルの開運占いショップだな」
「いえ、でも……その、粗大ゴミ……」
「いや、あれも彼女なりの開運アイテムなんだよ。多分」
「なんか扉の上半分がなくなった冷蔵庫とかありますけど」
「恐らく何かの開運アイテムなんだろうな……」
「あのバキバキに割れた勉強机も?」
「……うん」
「しかもフクキタル先輩、なんか泣いてますけど」
「なんでだろうね……」
せっかくなのでゴミ捨て……じゃなかった、開運占いショップにも寄ってみることにした。
……さて、ここで1つ疑問が湧き出る。
開運占いショップって何? 占いしてるの? それとも何か売ってるの?
果たして、その答えは……両方だった。
どうやらフクキタルが集めた多数の開運グッズ(?)を売ると同時、彼女謹製のおみくじや占いをすることができるらしい。
ちなみに、フクキタル自身は売ることに納得していないようだ。
寮の部屋から開運グッズが溢れ出そうになったことで、同室の子と寮長がトレーナーに「なんとかしてくれ」と訴え、今回グッズ販売という形で処理することになったらしい。
試しに小さめのゴミもといグッズを手に取ったら涙目になったので、可哀そうだから買うのはやめておいた。
これ、処分進まないかもしれないな……。
しかしショップが機能不全を起こしてるとなると、利用できるサービスは……。
「おみくじか。君の秋のG1戦線の願掛けでもしておこうか」
「はい。……あ、中吉ですね。『好事魔多し、足元の即死トラップに要注意! ラッキーアイテムはぶっきらぼうなカエル』……? ぶっきらぼうなカエルって何?」
「俺は……超大凶? なんだ超大凶って。
『空回り、盲目、最悪の1年! ぬおお、最悪の運勢です!! ラッキーアイテムは銀河のストラップ』……」
「あ、おみくじの引き直しで結果を更新できるらしいですよ。『開運初心者限定! 無料で何回でも引き直せるおみくじ!』って書いてます」
「ソシャゲか……?」
「10連続でおみくじを引くと1枚は吉以上確定とも書いてますね」
「ソシャゲだこれ」
「私も大吉目指して引き直そうかな」
「やめておけ」
* * *
思えば、誰かと一緒に祭りを巡るのは……前世の10代以来だから、30年ぶりになるだろうか。
改めて、何の目的もなく歩くっていうのは……なんというか、少しばかり、不安になる。
俺は凡才だ。人の何倍も努力して、ようやく人並になれると思ってる。
だからこそ、この世界に生まれてからは、決して努力を怠らなかった。
20年間、ひたすらに堀野のトレーナーとして必要な知識を詰め込み、体力も付けて来た。
だから……うん。
今、本当に久々に、トレーナー業以外のことをしている気がする。
自分の担当のための調査やスケジューリング、デスクワークをしているわけでもない。
次回のレースに向けた調査や研究、根回しをしているわけでもない。
ただホシノウィルムと2人、シュールな出し物を笑ったり、気まぐれに美味しそうなものを食べるだけの時間。
それが、落ち着かない。
やって当然のことをできていない、地に足が付かない感覚。
まるで鞄を持たずに仕事に向かっているような、週末にすべき部屋の掃除を忘れてしまっているような違和感。
それがどうにも、心から離れない。
とはいえ、今はホシノウィルムに付き合う時間。
そんな気配を出すわけにもいかない。いつも通りの表情を取り繕ったつもりだ。
……だが、どうだろう。
果たして俺は、それをホシノウィルムから隠し切れる程、演技が上手かっただろうか。
「そろそろ時間だ。戻ろうか、ホシノウィルム」
「……トレーナー」
「ん? まだ何か食べるか?」
振り向くと、ホシノウィルムは少し……寂しそうにしている?
何故? やはりネイチャやテイオーと一緒にお祭りを回りたかったからか?
どう声をかけるべきか迷っている内に、ホシノウィルムが口を開いた。
「楽しかったですか?」
「楽しかった……?」
「私はこの2時間、すごく楽しかったです。トレーナーは?」
「俺は……」
勿論楽しかった、と答えようとして……言葉に詰まる。
楽しい。最後にその感情を持ったのは、本当に、随分と前のことで。
何が「楽しい」という感覚なのか。
正直、俺にはよく、思い出せなかった。
……そして、彼女に嘘を吐く気にもなれない。
事実を捻じ曲げて伝えることが、彼女との関係を良いものにするとは思えない。
だからここは、正直に言うべきだろう。
「楽しいかは、ともかく……君のことを知れて良かったと思う。この2時間は有意義なものだった」
「そう、ですか」
……マズい、そんな顔をさせるつもりはなかったんだけど……。
また俺は、何か間違えてしまったらしい。
「いや違う、待った、やり直させて。
君と一緒にいることができて、良かった……じゃ、駄目か?」
「駄目とか、そういうんじゃないです。それがトレーナーから出て来た言葉なら……今は、それでいい」
ホシノウィルムは俯いて、俺を先導するように歩き出す。
俺は……彼女を追い抜かないよう、ゆっくりとその後を追った。
ゆったりとした歩みと共に、前から彼女の言葉が降って来る。
「私が今日を楽しめているのは、トレーナー、堀野歩さん。あなたのおかげです。
でも、あなたは楽しめていないんですよね」
何と答えるべきか、数瞬戸惑う。
けれど、ここで嘘を吐いても……意味がない。
彼女はとても聡い女の子だ。俺が吐いた嘘は、簡単に看破される。
そして何も言わない、誤魔化すことも、今は許されない。
あまり他人に話すようなことでもないが……本音を言うしかないか。
「……正直に話すと、俺は『楽しい』って感覚がわからないのかもしれない。
この世界に生まれてから、気分の浮き沈みはあったが、浮足立ったことはなかったように思う。
だから……」
「全ては『すべきこと』だったからですか?」
「……そう、なのかも、しれないな」
思えば確かに……俺はいつだって、「すべきかどうか」で判断していた気がする。
かつては堀野のトレーナーとして。今はホシノウィルムとミホノブルボンのトレーナーとして。
自分の担当やウマ娘たちに、何をしてやれるか。何かをしてやるために、何を蓄えられるか。
そうじゃなかったのは、ただ、あの時だけで……。
「じゃあトレーナーは、私に言えないですよね」
「え?」
「『楽しめ。何をすべきかじゃなく、何をしたいかを優先しろ』。
私にかけてくれた言葉、トレーナーにそっくりそのままお返ししますよ」
「……いや、俺は大人だからな。何をしたいかじゃなくて、何をすべきかで判断しなきゃいけない立場なんだよ」
「前に聞いた話から考えるに、幼少の頃からずっとそうらしいですが」
「ん、む」
言い返せない。
……それは、俺の転生者という特殊性によるものだから。
俺は、前世の記憶を持っている。
本当に駄目な、救いようのない男の記憶を。
何かをしようとして、結局何もできず、何も……。
だからこそ今世では、何かができるようになりたいと思ったんだ。
今度こそ、誇れる人間になりたい。
今度こそ、何かができるようになりたい。
今度こそ、間違いのない選択を下せるようになりたい。
来世という、あり得ないはずの、奇跡のような再起のチャンス。
やり直せる可能性が生まれた時、きっと人は誰だって「今度こそ」を望む。
もっとより良い人生になるようにと、幼少期の拙さや愚かさを取り返したがるはずだ。
俺も、そういう普通の人間の1人なんだよ。
前世の経験で、自分に才能がないことはわかっていた。諦めが付いていた。
だからこそ腐らず、才能がなくても問題のないように学習と鍛錬を徹底できたんだ。
……その方向性は間違っていたとしても、その研鑽の積み重ねは今、確かに活きている。
だから俺は、この20年の努力が間違っていたとは思えないんだ。
「俺は子供の頃から変わっていたらしいからな」
「今のトレーナーが見れば否定するような子供だったわけですか」
「……ホシノウィルム、理論の間隙を突くのが上手くなったな」
「あまり人前には出していなかっただけで、元から得意な方です」
「あ、そう……」
……わかってる。
俺は、他人からは多少歪に見えるんだろう。
それでも……もう二度と間違えたくないという想いが間違いだとは思わない。
そのために努力することが間違いだとは、思いたくない。
「俺のことを心配してくれているんだろうことは、なんとなくわかるよ。
でも、ごめんな。俺はこういう人間だから」
「……ふーん、私を好き勝手にイジっておきながら、自分のことはイジらせないと」
「言い方に気を付けなさい。ファンの方も来てるんだから」
「わざとです」
なお悪いが。
苦笑しながら、先導するホシノウィルムを追う……と。
少し、声音の違う質問が耳に入ってくる。
「いつからですか?」
「いつから、というのは?」
「いつからトレーナーは、そういう風になったんですか? 何がトレーナーを……堀野歩さんを、そういう人間にしたんですか?」
それは……難しい質問だ。
人間に「いつから、なんでそうなったのか」なんて聞いて、明確な答えが返って来ることは少ないと思う。
何かしら重大で、どうしようもないような出来事が起きて、不可逆的な変化が起こったというのならともかく……。
大抵の人間は、そんな出来事に出くわすことはないんだ。
生きていく中で少しずつ学習し、少しずつそういう風になっていく。
勿論俺にも、自分を変えた一大事の記憶なんてない。
何か分岐点があったとしても、きっと忘れてしまうくらいにつまらない、取るに足らないことだったんだろう。
「昔から、かな。もう覚えていないくらい昔から……。
いや、あるいは……この世界に生まれた時からそうだったのかもしれない」
そう。
「堀野歩」がどうあれ、「俺」は昔から、そういう人間だった。
思い出せないくらいに昔から、ずっと。
次回で大感謝祭も終わり。
そろそろレースもできる……かな?
次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、大感謝祭後半、見知った顔と見知らぬ顔の話。
(報告)
ちょっと忙しくなる予感がするので、投稿ペースが3、4日に1本になるかもしれません。ならないかもしれません。予定は未定!
(追記)
誤字報告を頂き、わざとでない部分は訂正させいていただきました。ありがとうございました!