「トレーナーが、事故……?」
最初、何を言われたか、理解できなかった。
スマホの向こうから届く聞き慣れた声は、トレーナーが交通事故にあったと、そう告げていた。
……やはり、理解できなかった。
確かに、不穏な予感はあった。
昨夜、トレーナーとの電話の途中で突然会話が途切れて、「ウィル、ごめん」って言われて……。
その後、すぐに電話が繋がらなくなって。
でも……でも、それはきっと、突然用事か何かができただけで……。
何もおかしいことなんて、ない。
……あるはずがない、のに。
「落ち着いて聞いてください、ホシノウィルムさん。
昨夜兄が交通事故に遭い、意識不明の状態で病院に運ばれました」
……昌さんの声は。
非現実的な現実を、私に突きつけた。
* * *
それを聞いてからしばらくの記憶が、私にはない。
ただ、気付けば私は、病院のベッドに眠る歩さんの顔を覗き込んでいた。
彼の顔は、苦痛に歪んでいるとか、やけに白々としているわけじゃない。
穏やかで落ち着いた表情だし、肌色だって確かに血が通っている。
傷ができてるのか、ガーゼを当てられてるところはあるけど……それ以外は、正常だ。
まるで深い眠りに就いているかのように、彼は安らかに呼吸を繰り返している。
呼吸は正常、体温は十分、血流も確か。
彼は生きてる。
間違いなく、ここに生きている。
でも……目を覚まさない。
「不幸中の幸いと言うべきでしょうか……。自動車との衝突の際、咄嗟に体を丸めたのでしょう。各所の擦り傷の他に大きな外傷はなく、骨折もありません。負傷に関しては、1か月程安静にしておけば完治するはずです。
ただ……脳への衝撃が強かったせいか、昨晩から覚醒していません。最悪の場合、このまま昏睡状態にあることも考えるべきでしょう」
「……当然、すぐに目覚める可能性もあるんですよね?」
「勿論です。……しかし、軽い脳震盪であれば2、3時間で意識を取り戻すことが多いので……万が一を考えておくべきかと」
「そう……です、よね。すみません」
「謝られる必要はありません。どうかお気を強く持って……」
後ろから聞こえる言葉は、殆ど耳に入ってこなかった。
ただ、私の前には、目を覚まさない歩さんの顔だけがあって……。
彼はもう……戻ってこないかもしれない。
彼から名を呼ばれることも。
頭を撫でられることも。
トレーニングを付けてもらうことも。
不器用なところを見ることも。
……一緒にいることも。
もう、できないのかもしれない。
その恐怖に直面して、私は……。
「トレー、ナー……」
私はようやく、理解した。
走るのは、好きだ。
正確には、好きになった。
私はお父さんに呪いのような言葉をかけられ、勝つことに……負けないことに執心していた。
けれど歩さんのおかげで、広い世界と走ることの楽しさを知り、そこから抜け出すことができた。
私はそれ以来、「やらなきゃいけないから」じゃなくて「やりたいこと」として、走りを楽しむことができるようになったんだ、と……。
……そう、思ってた。
でも、違ったんだ。
私が楽しんでいたのは……。
彼の下で、走ること。
彼と一緒に、勝つことだったんだ。
けれど。
それはもう、味わえないのかもしれない。
その冷たい現実だけが、私の前に立ち塞がっていた。
* * *
腰に振動を感じ、惰性的に電話を取る。
『ホシノウィルムさん』
スマホの向こうから聞こえて来た声の主は……昌さんか。
彼女の声は、周囲のざわめきに掻き消されそうになりつつも、なんとか私の元まで届く。
「……はい」
対する私の声は、掠れ、震えていた。
それでようやく気づいたけど……私の体は凍り付くくらいに冷たくなってた。既に四肢から感覚は消え去り、喉の奥までカラカラに乾いている。
歩さんのいる病室には暖房が付いているけど、そこまで効きが良くないのか、真冬の寒気は防ぎきれずに室内に漂っていた。
私、どのくらいここで、歩さんを眺めてたんだろう。
時間の感覚は完全に壊れて、自分がどれだけの時間ここにいたのか判然としない。
来たのは朝だったはずだけど……今は……16時?
……7時間以上ここにいたんだ。
何時間も歩さんを眺め続けて、何時間も……歩さんは、目覚めなかった。
どこか現実味のないふわふわとした感覚の中に、昌さんの声が投げかけられる。
『兄の様子は』
「……変化ありません」
『そうですか……。わかりました、ありがとうございます。
こちらでは、ミホノブルボンさんの朝日杯が終わりました。序盤から掛かってしまう展開になりましたが、それでもハナ差で勝利しました』
「そう……ですか。すみません、見に行けなくて」
『構いません、兄の様子を見ておいてほしいとお願いしたのは私ですから』
……そんなこと、言われたかな。
覚えてない。……いや、覚えてないんじゃなくて、聞いてなかったのかもしれない。
それに、朝日杯。
そう……そうだ、今日はブルボンちゃんの朝日杯フューチュリティステークスの日だ。
忘れてた。完全に頭から蒸発していた。
最悪だ。大事な後輩の、初のG1レースなのに……見てあげられなかったなんて。
軽くない自己嫌悪に圧し潰されそうになって、何を言っていいかわからず黙り込んでいると……。
更に真剣味を増した昌さんの声が、耳に届いた。
『トレセンに帰ったら、ブルボンさんと併せて話があります。……よければ、トレーナー室の前に来ていただけますか』
……わかってる。
私は普通のウマ娘じゃない。前世の記憶や人格を引き継いでいる転生ウマ娘だ。
だから……だから、理性ではわかってるんだ。
こんなことをしてる暇はないんだって。
私はこの世界を生きる1人のウマ娘であると同時、多くの人に期待される「競走ウマ娘・ホシノウィルム」でもある。
迫る有馬記念への出走と活躍を望まれ、それを叶えなければならない立場。
本当は今すぐにでも、トレーニングに行かなきゃいけないんだ。
だから……。
「……了解しました」
抑え込め。
自分の感情も、激情も、全てを。
……そうでもしないと、今にも暴れ出してしまいそうだから。
* * *
日も落ち切り、身を刺す寒気が世界を包む頃。
私は穏やかに呼吸を繰り返す歩さんに別れを告げ、トレセン学園に戻った。
今にも目を覚ましそうなのに、歩さんは全く反応がない。
軽く頬に触ったり、手を握ったり、語りかけたり、おでこに触ったりしても……あの困ったような苦笑が返って来ることは、なかった。
事故が起きたのは昨日の夕方で……。
それから既に、丸一日経ってるのに。
植物状態とか、脳死とか、最悪な言葉が頭に浮かぶたびに必死にそれを掻き消す。
そんなことない。そんなこと、あるはずがない。
あり得ない。歩さんは絶対にそんなことにはならない。
すぐにでも、それこそ明日にでも、「心配をかけたな」ってトレーナー室で私を出迎えてくれるはずだ。
何度も何度もぐちゃぐちゃな頭の中を整理しようとして、その尽くに失敗しながら、フラフラとトレセンの敷地を歩く。
慣れ切った道のり。この2年で何度も何度も通い続けた、私のトレーナーがいるはずの場所へ。
そこには……。
「よかった、ホシノウィルムさん。お迎えに行こうと思っていたところでした」
「先輩……」
やっぱり、私のトレーナーはいない。
スーツ姿の妙齢の女性と、後輩のウマ娘。私を待っていた2人は、どことなく気遣わしげに私を見てくる。
その視線でようやく、彼女たちにすごく心配をかけていたことに気付いた。
……駄目だ、切り替えろ。
気遣ってくれる昌さんにも、後輩であるブルボンちゃんにも、これ以上心配をかけちゃ駄目だ。
今は、感情は、切り捨てなければ。
「お待たせしました、昌さん、ブルボンちゃん」
努めて、無表情を作る。
いつかのように……この学園に来た時のように。
感情を殺し、激情を封じ、私は私を偽った。
「改めて……ブルボンちゃん、今日はレースを見に行けなくてごめん」
「構いません。1人は残り、マスターの様子を見る方が良いという判断は合理的です。ウィルム先輩が謝罪する必要はありません」
「ありがとう。……それで、昌さん、お話ということでしたが」
改めて、昌さんに向き直る。
久々にちゃんと顔を見た気がするけど、彼女は……すごく疲れてるみたいだった。
クマもすごいし、呼吸が不安定だし、顔色も蒼白。
歩さんほど疲労を隠すのに長けてないのか、あるいはそれすらできないくらいに追い詰められてるのかは定かではないけど……。
彼女は、ブルボンちゃんでなくともわかるほど、明らかに疲労困憊の様子だった。
昨日は休んでたらしいけど、兄の交通事故の報で叩き起こされ、それからは歩さんの事故の処理やブルボンちゃんのレースと、寝る間もなくすべき事に追われていたんだろう。
多分そこから寝てない……どころか、ずっと働きづめだったのかもしれない。
……昌さんは、立場上はサブトレーナー。
もしも歩さんがトレーナー業を行えなくなった場合、代理としてそれをこなす必要がある。
ブルボンちゃんをレース場に連れて行くのもそうだし、そこでURAの職員さんとやり取りをしたり、不測の事態に対応したりすることもそう。
「サブトレーナー」としてインターンを受ける昌さんは、その辺りに関して多くの経験を持っていなかったんだろう。不慣れな業務にくたびれきっている様子が伺えた。
「えぇ。……2人に、大事なお話があります」
しかし。
彼女はどれだけ疲れ果てようとも、私たちを統率する者として、その瞳に正気を保っている。
それは責任者としての矜持か……あるいは、歩さんが語っていたように「すべきことから逃げない」という真っすぐさ故か。
……昌さんは歩さんに似ていないと思ってたけど、こういうところは似ているかもしれない。
2人とも、どっちもすごく真面目で頑張り屋だ。
目の前にやることがあれば、それがどれだけ困難や苦痛を伴うとしても、必死にそれを片付けていく。
理由を付けて逃げ出すことはないし、恐らく最初からそんな思考は持ち合わせてない。
自身のすべきことを理解し、それを行うことに疑問を覚えない……2人が名家の出身であることも考えると、一種のノブレスオブリージュなのかもしれない。
私は歩さんのそういうところが、心配であると同時……好きだった。
私のために頑張ってくれるところが、私と一緒に頑張ってくれるところが、大好きで……。
でも、それはもう……。
ずぐりと、胸を冷たい杭が抉る。
……駄目だ。忘れなきゃ、駄目だ。
今、歩さんのことを考えていても、何の意味もない。
頭から離れないこの記憶を、まぶたの裏に焼き付いた顔を……今だけでも忘れなければ。
軽く頭を振る私を……昌さんは、少しだけ目を伏せて見ていた。
「……この寒い廊下で話すのも、お2人に悪いですね。中に入りましょう」
「入ると言っても……鍵を預かって来ているんですか?」
中央トレセンのトレーナー室は、厳重に施錠される決まりだ。
なにせその中には、トップレベルの機密情報が山積みになっているから。
トレーナーたちが分析した、ライバルウマ娘のデータや次走予定とその戦略、そして今後の仕事の予定。
それらはまさしく一攫千金の情報だ。ただ1つでも盗み出せば、かなりの大金で売り飛ばせることは間違いないだろう。
だからこそ、トレーナー室の鍵はそこを管理するトレーナーただ1人に渡され、それ以外の誰にもドアを開けることはできないようになっている。
それはサブトレーナー扱いになっている昌さんも例外ではなく……堀野歩さんのトレーナー室を、堀野昌さんが開けることはできないはずなんだけど……。
戸惑う私の前で、昌さんは胸元から1本の鍵を取り出した。
何度か見た、歩さんの手にあった鍵とよく似てるけど……よく見れば、別物のように見えた。
「それは……」
「この部屋のスペアキー。……いざという時のために、兄に渡されていたものです」
「いざという時、って……」
「兄は、こういう状態になることも……想像はしていなかったでしょうが、最悪の事態として想定はしていたんです。
私がトレセンに来た時、兄は最初に『自分に万が一のことがあった時、この鍵で入って、デスクの上から3番目の引き出しを開くように』と言って来ました。
私が来る前は、ナイスネイチャのトレーナーさんに渡していたそうですが……とにかく、最悪のケースに陥っても対応できるよう、兄は常に備えていたということです」
そう言いながら、昌さんは鍵を開け、扉を開いた。
そこにあったのは、歩さんのいる、いつもの温かいトレーナー室ではなく……。
誰も座っていない寂し気なデスクが目立つ、冷たい……見慣れない空間。
昌さんは室内に入り、エアコンのスイッチを入れながら、いつも歩さんが座っていたデスクに向かう。
私とブルボンちゃんは、少しだけ顔を合わせた後、その後に続いた。
部屋に入ると、前を歩く背中から言葉が降って来る。
「先に宣言しておきますが、私は決して兄の代わりになろうとも、なれるとも思いません。
私はあくまで、兄の一時的な代理人。兄が不在の間に可能な限り穴を埋めるだけの、あなたたちのサブトレーナーとして行動するつもりです」
それは多分、責任を負いたくないとか過度な仕事をしたくないとか、そういう意味ではなく……。
あなたたちのトレーナーの座を奪ったりはしないという、宣言だったんだろう。
私たちウマ娘は、自分の契約トレーナーに少なからず親愛の感情を抱く。
それは敬愛であることもあれば友情であることもあり、執着であることもあれば……私のように、恋愛感情であることもある。
だからこそ、「自分のトレーナーはその人しか認めない!」と思うようなケースも、決して少なくはないわけだ。
そして、トレーナーが不在になった以上、サブトレーナーが繰り上げでトレーナーになる可能性はある。
そこに関して、「あなたたちの意にそぐわずトレーナーの座を奪う気はない」と先に宣言し、コミュニケーションエラーを起こさないよう先回りしてくれたんだろう。
……まぁ、昌さんにしては言葉足らずで、誤解を招きかねない発言だと思うけど。
もはやきちんと言葉を繕うのも難しいくらいに疲れてるのかな。
私たちが所在なく見る中で、昌さんは歩さんのデスクの引き出しを開ける。
そして恐らく中身を見てのことだろう、少しだけ動きを止めた後、ため息1つ、その中の物を机の上に並べていく。
どかどかと取り出されたのは……ファイリングされた書類の束だ。それも10枚や20枚ではなく、何百枚という単位の。
昌さんはそれをそのまま机に載せた後、最後に引き出しの中から手帳を拾い上げ、その中を覗いて……小さく、私たちがウマ娘でなければ聞き逃してしまうくらいの声で呟いた。
「2人の今の実力、これから1か月のトレーニングスケジュールの予定、次走での作戦の詳細情報、注意すべきライバルに……この後しばらくの間の仕事、振付師さんやダンストレーナーさん、業者の連絡先と留意すべき点……!?
あっのバ鹿兄さん……。こんなの逐次、他人に伝わるように纏めたりしてたら、そりゃ忙しくもなるでしょうが……」
昌さんは呆れたように……いや、少しばかり苛立ったような声音で呟く。
そしてはっとしたように1度私たちを見て、1つ咳払いした後、改めて言った。
「ん、ん。話を戻します。
お2人に話したいことというのは、他でもありません。……この先どうするか、です」
昌さんは歩さんのデスクに座ることはなく、その横に添えられた彼女のデスクに書類を運びながら、静かにそう語った。
……この先、どうするか。
最も考えたくはなかった、けれど今、最優先で考えるべきことだ。
「医師の話によると、兄がこの後いつ目を覚ますかは不明です。もしかしたら明日にでも目を覚ますかもしれませんし、逆に言えば……一生目を覚まさない可能性もある」
努めて冷静に保たれた声に、私は心臓を鷲掴みにされた気がした。
一生、目を覚まさない可能性が、ある。
勿論、あくまで可能性がある、ってだけだ。
確実にそうなるわけじゃない。むしろそうならない可能性の方が高いんだろう。
でも、でも……もし、そうなったら。
それが……すごく、怖い。
……いや、駄目、駄目だってば。
この思考も切り離さないと。今は昌さんの話の最中なんだから。
「当然ながら、意識不明の状態であなたたちのトレーナーをすることはできません。その上、あなたたちは本格化中の競走ウマ娘、1秒1瞬が惜しい状態です。
である以上、他のトレーナーを探すのも選択肢に入るかと思いますが……」
そこまで聞いて、話を遮るように、ブルボンちゃんが1歩前に出る。
「私のトレーナーは、マスターをおいて他にはいません。他のトレーナーを探すことは在り得ません」
キッパリと、何の躊躇もなく、彼女は断言した。
「なるほど。その場合、兄が復帰するまでの間、可能な限り私がサブトレーナーとしてあなたを支えることになりますが……私は兄ではありません。あと1か月は兄のプランでやっていけるとはいえ、恐らくあなたを支えることに関しても力不足になると思いますが……それでも構いませんか?」
「マスターが認めたサブトレーナーを否定するつもりはありません。どうかよろしくお願いします」
「わかりました。未熟な身ですが、全力で支えさせていただきます」
2人はお互いに頭を下げて……すごくスムーズに、話を終えた。
ブルボンちゃんは、歩さんから離れる気はないのだという。
あるいは、彼女のそれまでのことを考えれば、それも当然の結論だったのかもしれない。
歩さんのデータと統計に基づく理論的なトレーニングプランはブルボンちゃんの主義に合致するものだろうし、何より彼女の夢を全力で応援してくれるトレーナーはそういない。
その2つを同時に持ち合わせる、彼女の「マスター」たる人間は……もしかしたら、今のトレセン学園には歩さんしかいないのかもしれない。
……でも、それは「歩さんがその内目覚める」っていう前提ありきの話だ。
彼がもしも……ずっと目を覚まさなかったら、私たちはトレーナーなしでやっていかなきゃいけない。
私はまだいいとしても、三冠を絶対目標とするブルボンちゃんにとって、それは致命的と言っていい程の大きなディスアドバンテージであるはずだ。
もう歩さんは目を覚まさないんじゃないかっていう可能性が……彼女は、怖くはないんだろうか。
私がそれを聞こうとするより早く……。
「でしたら、ミホノブルボンさん。今日は寮でしっかりと休み、レースの疲労を取ってください」
「了解しました。失礼します」
ブルボンちゃんはペコリと頭を下げて、トレーナー室を立ち去ってしまった。
* * *
トレーナー室に取り残されたのは、私と昌さんの2人。
取り敢えず私は、自分の考えを伝えようと口を開きかけ……。
「ホシノウィルムさん」
昌さんの言葉に、その先を封じられた。
見れば昌さんは、書類の束から視線を上げ、まっすぐにこちらを見つめている。
どことなく、先ほどとまでは違うような視線の色。疲労もかさんでる上複雑に感情の絡み合ったその感情を察するのは、少しばかり難しい。
彼女は私を見据えたまま、ゆっくりと口を開き……。
「お願いがあります」
そう、言った。
「お願い?」
「はい。厚顔無恥なことこの上ない願いになりますが、聞いていただけますか?」
「え、っと、はい」
そもそも何のことか知らなければ聞きようがない。
私は視線で彼女に話の続きを促した。
昌さんはコクリと頷き……。
「どうか、兄が目を覚ますまで、このまま契約を続行していただけませんか」
そう言ってこちらに、深く深く頭を下げてきた。
……どういうこと?
ブルボンちゃんには選択肢を提示するのに、なんで私にはお願いしてくるの?
困惑する私に対し、昌さんは部屋の隅に据えられているソファに座るよう手で促した。
それに従って、私は自分のデスクに座る昌さんに視線を向ける。
デスクの上で指を組んだ昌さんは、少しだけ何かを考えるような間を開けて、話し出した。
「……私が、『あなたは兄にとって「特別な存在」である』と言ったことは覚えていますか?」
「はい」
確か、ジャパンカップの少し前、歩さんと昌さんの話を聞いてしまった後のお話で言われたことだ。
ずっと他人のため、自分の意思なく生きてきたという歩さんから、自身の欲望を引き出した私は……あの人にとって特別な存在である、と。
「だから……ですか? 私が特別だから、トレーナーにとって大事だから?」
「いいえ、大事だからというわけではありません。『特別だから』です」
昌さんは苦虫を嚙み潰したような顔で、微妙なニュアンスの違いを指摘する。
……どういう意味? 大事じゃなくて「特別」? そこにどんな違いがあるの?
思わず眉をひそめる私を見て、昌さんは「やはり、わかっていないのですね」と目を伏せる。
わかってない? 何を……。
「あなたは……唯一、兄が『見ている』存在なんです」
「見ている……?」
理解できない。唯一「見ている」って……つまり、私以外のものは見てないってこと?
抽象的な表現? 何かしら含むものがある……それそのものじゃなく、何かを重ねて見ている、とか?
「すみません、意味が理解できないのですが……」
「でしょうね。あなたの疑問は当然のもの。
ですが、それを説明するためには……まずは、兄の過去について話さなければいけないでしょうね」
「歩さんの、過去?」
歩さんは昔、自分の過去について語ってくれたことがある。
自分はトレーナーになるべくして努力してきた、それだけの存在だと。
殊更特殊な出来事もなく、普通の人生を送って来たのだと。
人生の大半を自己研鑽に費やすのが「普通」なのかは置いておき、少なくとも彼の自意識はそうなってしまっている。
あるいは、そう……歪んでいるんだ。
トレーナーの価値観には、少なからぬ歪がある。
自分に対する評価基準、肯定感が非常に低い。何かあったとしても、それを大事とは捉えない。
例えば事件に巻き込まれても、あるいは……もしかすれば、殺されるようなことになっても、「そんなこともあったな」くらいの認識しか持たない。あるいは、持てない。
つまるところ、信頼できない語り手というか……。
歩さんの言葉はその大半が正しいけど、自分に関する言葉が正しいとは言い切れないんだ。
だからこそ。
他者の視点を通した、歩さんの話。
あるいはそれこそが、本当に正しい情報になるのかもしれない。
「とても愉快な話ではありませんし、少しばかり長くなってしまいますが……『特別』であるあなたには、聞いていただきたいと思います。構いませんか?」
「は、はい……」
だから私は、ソファの上で居住まいを正した。
もっと、歩さんのことを知るために……。
そして、昌さんの本当の意思を知るために。
ずっと昔、まだ私が生まれてすらいないかもしれない時代の話に、耳を傾ける。
「まず1つ、先に謝っておくことがあります」
昌さんは目を伏せ、どこか痛みをこらえるような顔で……。
「『兄は他人を救うことに救いを見出す人間』だと、私はあなたに語りましたが……すみません、あれは嘘です。
兄は……どうしようもなく救われない、救えない人間なんです」
そう、語り始めた。
次回は3、4日後。別視点で、嫌悪の理由と「前世」の話。
(追記)
誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました。