堀野の家の、長男と次男。
それぞれに違った意味でイカれてる、兄たちが。
……昔は、違った。
2人の兄が大好きだったし、何よりも誰よりも誇りだった。
誰よりも優しくて、何の見返りもなく手を差し伸べてくれる、上の兄さん。
「助けて」とお願いすればどんなことでもやってくれる、下の兄さん。
幼く頑是ない私からすれば、2人は魔法使いのようなものだった。
だってそうでしょ? 言えば何でもやってくれるし、何でも買ってくれた。落ち込んでる時は慰めてくれたし、嬉しい時は一緒に喜んでくれた。
あらゆる願いを叶えてくれた……とまでは言えないけど、それでも全力を尽くしてくれたんだもの。
結果として、不器用で人との接し方というものを知らない父なんかより、私は2人の兄の方に懐いていたと思う。
……ある程度成長して、現実が見えてくるまでは。
上の兄にとって、誰かを助けることは当然のことだった。
私に対してもそうだったように、彼は誰にでも同じような態度を取っている。どんな人にだって同じように手を差し伸べ、同じように協力しているんだ。
つまり私は、上の兄にとって……次男のように、特別視されているわけではない。
彼にとって私は、クラスメイトや知り合いなどと……いや、言ってしまえば、その辺りですれ違った赤の他人と、なんら変わりはないんだ。
家族と、友人と、他人。その間に、一切差を付けてない。誰に対してでも平等に博愛を注ぐ。
全てを最上級としている、って言えば聞こえはいいけど、私はどうにもそれが気に入らなかった。
家族なのに、兄妹なのに、特別扱いしてくれないのが、寂しいから……かもしれない。
……とはいえ、上の兄の方は、まだいいんだ。
アレもアレでイカれてるけど……それでも、人として最低限の倫理と正常性は持っている。
嫌いは嫌いだけど、それはあくまで私個人の価値観に基づく理論のない嫌悪。それなら抑え込むなり適切な距離感を保つなり、あるいは別の形に昇華するなりで対処もできるんだから。
でも、次男のことは……兄さんのことは、上の兄と違って、決して受け入れられない。
「こうしてほしい」と言われれば、自分の意思に関係なく、ただそのためだけに時間を費やす。
「助けてほしい」と言われれば、手段を選ばずあらゆる方法で、その人を助けようとする。
それは、表面上だけを浚えば、あるいは善性と呼べたかもしれない。
誰かの願いに応えること、誰かを助けようとすること。それは一面において、確かに「優しさ」と呼べるものだから。
……ただし、行き過ぎなければ、だけど。
兄さんは、上の兄とさえ比べられないくらい致命的に、生物として壊れている。
人の感情を察することができない……もっと言えば、人らしい情緒を忘れてしまっているのもそう。
強迫的な観念を感じるほどに、誰かを助けようとするところもそう。
そして……人間が持つべき最大の正常性の1つ。
救われたい、助けられたい、誰かに愛されたいという、持って当然の欲望が、どうしようもなく欠けているのも、そう。
どうしようもないくらいに、兄さんは……「欠落」している。
……けれど、私が兄さんを嫌っている所以は、そこではない。
兄さんは……私を見ていないんだ。
上の兄のように、赤の他人と同じ対応をするわけではない。
兄さんは私に対し、家族として、兄としてきちんと振舞っている。
……あくまで、表面上は。
けれど、何年も家族として傍にいれば、誰だってその違和感に気付くだろう。
その実、あの兄は……。
私を通して、ずっとずっと、遠くの誰かを見ている。
話す時も、笑う時も、遊ぶ時も、勉強の時も、食事の時も、居間でも、学校でも、自室でも。
あの人は決して、一度たりとも、私のことを見てくれなかった。
最初の頃は、私が兄さんの視界にも入れてないからだと思った。
2人の兄は、どちらもとんでもない傑物だ。学校のテストで満点以外を取ったことはほとんどないし、身体能力も図抜けており、成績は常に最高の値を叩き出していた。
その上でなお努力も怠らず、特に次男の方は自己研鑽していない瞬間を見つける方が難しいくらい。
対して私は、勉強も運動も平凡の一言。分家の奴らには出涸らしだの落ちこぼれだのと散々陰口を叩かれたくらいだ。
言っておくけど、私に殊更才能がなかったわけじゃない。
むしろ大体のことはこなせる程度には要領の良い方だと思う。ただ、兄さんを含む上の2人が飛びぬけていただけ。
長男は、才能も多分にある上、十全を越えた努力ができる完璧超人。
次男は、才能こそないけど、尋常じゃないくらいの努力家。
……対して私は、才能と努力、そのどちらも程々に過ぎない凡人。
だから、兄さんは私を見ていないのか。
私が出涸らしで、落ちこぼれで、落伍者で、役立たずだから?
そう思って奥歯を噛みしめ、遮二無二努力を続けて……。
最終的に私は、国内最高峰の難易度と言われるトレーナー試験に、2年で合格するくらいにはなった。
……まぁ、兄さんは一発で合格していたんだけど。
けれど、それだけ頑張っても……。
結局、兄さんの濁った瞳に、私が映ることはなかった。
それが、気に入らない。
心の底から、恨めしくて、憎くて……嫌いだ。
私は、家族なのに。
兄さんの、ただ1人の妹なのに。
* * *
そんな兄さんの異常性に気付いたのは、中等部の頃だった。
……いや、気付きかけていたのは、と言うべきかな。
私はそれについて、確たる証拠を持っていなかった。
兄さんは、どことなくおかしい。その視線にどことなく違和感がある。
幼い私は外に気を配り切れておらず、その程度の認識でしかなかった。
そんな中、私が徐々に兄たちとの才能や実力の格差に気付き、関係がぎくしゃくし始めていたあたりの時期に……。
それは、起こった。
堀野はトレーナーの名家だ。
父さんも含め、これまでにも何度も名トレーナーと呼ばれる逸材を世に送り出してきた。
時代に即してその形を変え、子に業を強いることはなくなったとはいえ、それでもやはり子供へのトレーナーを目指す教育は徹底される。
上の兄さんのように「トレーナーにはならない」と明確に宣言すれば流石に免除されるけど……確実にトレーナーになるであろう兄さんや、将来に明確なビジョンのない私なんかはほぼ強制参加だ。
その内容は、堀野のこれまでの歴史を教わったり、ウマ娘のトレーニングや書類仕事について軽く習ったり……。
あるいは、日曜日になるとテレビを通して、時には現地にまで飛んで、レースを観戦したりすること。
その日は、そういう日曜日の内の1つ。
なんでもない、昼下がりの午後になる……はずだった。
結論から言えば。
その日の午後、父さんと兄さん、そして私が見守るテレビの向こう側で……。
レースの最中、ウマ娘が事故を起こしたんだ。
うろ覚えだけど、比較的小柄な、栗毛の差しウマ娘だったと思う。
彼女は第三コーナーの最中に前に倒れ込み、勢いそのまま痛々しくターフの上を転がって……そのまま、動きを止めた。
カメラはバ群を追ったのですぐにフレームアウトしたけど……。
打ち所が悪かったのか、かなりの大怪我になってしまったらしく、カメラの向こうのレース場が騒然としていたのを覚えている。
事件の原因は……事後の調査によると、過度のトレーニングによる負担が抜けないままレースに出走したから、だったか。
その後、彼女は手術するところまで行ったんだけど、結局そのレースを最後に現役を引退したって話だった。
……後遺症と脚の衰えもあって、本番のレースには復帰できなかったんだろう。
テレビの向こうの出来事とはいえ、目の前で起こった悲惨な事件に、見ていた全員の顔が歪んだ。
父も長男も母も……そして勿論、兄さんも。
「……兄さん?」
けれど、その中でも、兄さんの顔色は……。
不愉快とか可哀そうだとか、そういう次元を飛び越えたもので。
例えるなら……そう、まさしく。
今、目の前で、人が殺されたとでも言うような。
「…………、ごめんなさい、中座します」
兄さんはそう言って立ち上がり、どこかへと歩き去ってしまった。
それを見て、私は……。
「……変なの」
そう呟くだけで、特に止めることもなく、兄さんの後ろ姿を見送った。
そう。
もしそこで終われば、私は今も、何も知らないままだった。
私は兄の隠していたもの……「前世の記憶」を、かつて兄に何があったかを、そしてそれによって起きた不可逆の変化を……知ることはなかっただろう。
……けれど、運命はそう回らなかった。
* * *
私はその日の深夜、不意に目を覚ました。
寝ぼけた意識の中で感じたのは、ちょっとした喉の渇き。
……こんなことで起こされるのは、ちょっとばかり不愉快だけど……仕方ないか。
「ん……む」
寝ぼけたまま、転がり落ちるようにベッドから這い出る。
この時期はベッドの中の温かさが恋しくなるけど、やはりお腹の減りとか喉の渇きには勝てない。
こういうのは我慢していても眠れなくなるだけだ。さっさと食堂に飲みに行った方がいい。
そう思い、目をこすりながら部屋を出て、階段を降りようとして……。
ふと、聞こえてきた声に足を止めた。
堀野の邸宅は、森の中にある。
車が通ることは滅多になく、当然ながらうるさい隣人もいない。
夏場になれば微かに虫がざわめきが聞こえるけど、冬の夜になると、この家の中は静かで音と動きのない、静謐な世界に変わる。
子供の頃はこの静けさとそこに潜むモノが恐ろしくて、兄たちにトイレに一緒に付いて来てもらったこともあったけど……それも今は昔の話。
今はそういうモノとの付き合い方も学んで、そこまで大きな脅威ではなくなった。
……けれど。
「…………」
問題は、そういうモノよりも恐ろしい、人間が入り込んでいる可能性だ。
当然ながら、名家である堀野の邸宅には、そこそこ価値のあるものから膨大な価値があるものまで、たくさんの情報や家財が詰まっている。
その上隣人もいないから見つかるリスクも低い。盗人からすれば絶好の狩場だろう。年に1人や2人、入ってもおかしい話ではない。
「……ふぅ」
幸い、私は護身術を習っている。
実践は初めてだけど、相手が単体で、なおかつ得物がある状態なら……制圧は難しくないはずだ。
緊張で眠気は吹き飛んだ。
私は足音を立てないよう慎重に部屋に戻り、警棒を手にして、音の発生源を探り……。
少しだけ開いていた、兄さんの部屋のドアから、中を覗き込んで。
「……え?」
そこに、見た。
……兄さんが、血の混ざった吐しゃ物の中に倒れている姿を。
「これ、は……?」
念のため警戒を怠らず、けれど急いで部屋の隅々まで確認し、不審者がいないことを確認。
……ふぅ、取り敢えず一安心。
いや、一安心してる暇はない!
非常事態に混乱する顔を軽く振って、改めて兄さんに駆け寄る。
「兄さん……?」
声をかけると、力なく倒れていた体が、ピクリと反応する。
い、生きている……よね。反射でもないだろうし、意識もあると思っていいはず。
内心で胸を撫で下ろしながら、私は服が汚れるのも気にならず、兄さんを抱き起こす。
「ど、どうしたの兄さん、これ……」
触れればすぐに気付く。
……体温が、低い。
まるで生きることを放棄しているかのように、指先に触れた兄さんの体は、冷たかった。
それに、兄さんの口元に窺える、掠れた血の跡。
周りの吐しゃ物……いや、その殆どが固形物のない胃液か。
これだけ胃液が吐かれてるってことは、つまり何度も何度も嘔吐を繰り返したってことで、それで食道が傷ついて吐血を……?
相当に気分を害したか、あるいは頭でも打ったか……。
……いや。
それだけじゃない。
なんで……兄さんの指先に、他よりも濃く、血が付いてる?
待て、違う、落ち着け私! 今は原因よりも現状への対処を……!
「兄さん、平気? 気分は? 痛いところはある? 救急車呼ぶから……!」
「昌」
慌ててスマホを取り出そうとした私の行動を、兄の掠れた声と、冷たい手が止めた。
見れば、兄は……さっきまで倒れ込んでいたのが嘘だったかのように、平然とこっちを見ていた。
そうして、酷く冷たい体が、私の手の中から起き上がり……逃げていく。
別に、それ自体はいい。自分の意思で動けるのならそれに越したことはない。
けど……その顔は何?
顔面蒼白で、血の気なんて全然なくて……。
そのくせ、何かを誤魔化すような、作り笑いを浮かべて。
「ごめ、ん。なんでも、ないよ。少し気分が悪かっただけ。心配かけたね」
まるで子供をあやすような優し気な声音に……。
思わず、カッとした。
「ッ、ふざけないで! そんな状態で大丈夫なわけないでしょ!!
なに、私が出来損ないで頼りないから、何も話せないってこと!?」
……今思えば、なんて情けない。
少なからず心を乱してる人に、感情だけで怒鳴り散らすなんて。
でも、言い訳するようだけど……。
正直、私も限界だったんだ。
散々兄たちと比べられて……あるいは自分で比べて、自己嫌悪に浸って。
認められない状況に反発し、意味もなく反抗したりして環境に甘え、受け入れられることで甘やかされている現状を自覚し、それで尚更自分が認められていないのではないかと思わされ、そんな態度を取っている自分に腹が立ち、けれどそういう感情に振り回されることは止められず……。
結局、その時の私は……いや、今の私も、上の兄程に成熟した精神性を持ってはいないんだ。
私は、上の兄のような聖人じゃないし、下の兄のような狂人でもない。
ムカついたことがあれば当たり散らしてしまうような、未だに感情の抑えが利かない、愚かな人間でしかない。
……けれど。
あるいは、だから、なのか。
そうして当たり散らす私に対して、兄は少しだけぼんやりした目を向けた後……。
力なく笑って、言ってくれた。
「そうは言っても、ね。
昌も、俺に前世の記憶がある、なんて言っても信じないだろ?」
唐突に思える台詞に、思わず戸惑う。
前世の記憶がある……いや、昌「も」ってことは。
「……何、誰かにそんな話したの?」
「……父さんと兄さんには、信じてもらえなかったよ」
思わず、眉をひそめてしまう。
そりゃ、信じがたい話ではあるでしょ。
前世の記憶とか、そんなのオカルトの領域だ。そう言われてすぐに信じる人の方が心配になるくらい。
その上、話した相手が頑固でコミュ障の父さんと、心理面に知識のある兄。
それじゃ、心の病か何かと思われたって仕方ない。
……でも。
私は違う。
これでも頭は柔らかい方だって自負はあるし、不可思議なモノに出くわしたこともなくはない。
そういうモノがこの世界にあるんだから、前世なんてモノがあるとしても、そこまで強い違和感があるわけではない。
それに……あまり褒められた話ではないけど。
久しく感じることのなかった、優越感があった。
こうまで弱った兄さんは初めて見た。
何が兄さんをここまで追い詰めたかは知らない。
その「前世の記憶」ってヤツを信じてもらえなかったことも、あるいはその一因なのかもしれないけど、それはともかく。
確かなことは、今の兄さんは精神的にとんでもなく参っているってことで。
あの、いつも「なんでもない」って顔をしてる兄さんが、余裕のある表情を崩さない兄さんが……今は、今だけは、弱者の立場に立っている。
我ながら性格が悪いとは思うけど……少しだけ気分が良い。
……そっか。
信じてもらえなかったんだ。
他の誰も、信じてくれなかったんだ。
今、兄さんは、私しか頼れないんだ。
それが、少しだけ……嬉しかった。
「……まぁ、兄さんが嘘を吐く理由はないし。私くらいは信じてあげる」
私がそう言うと、兄さんは少しばかり驚いたような表情を浮かべた後……。
ふと、目を下に向けた。
「…………すっぱい匂いがする」
「…………そりゃ、そんだけ吐けばそうなるでしょ」
部屋も私たちも、兄さんのゲロ塗れだったし、すっごい匂いだったし……。
私たちは部屋の掃除をしてからお互いお風呂に入った後、改めて話をすることになった。
* * *
諸々の片付けを済ませた後、深夜、兄さんの自室にて。
私は改めて、兄さんに事情を尋ねる。
何故酷く嘔吐していたのか。何故指先に血が付いていたのか。
……他にも聞きたいことはあるけど、取り敢えずはこの2点だ。
私が椅子の上からそれらを尋ねると、ベッドに座った兄さんは、苦い顔で頬を掻く。
「何度も言うけど、面白い話にはならないよ」
「何度も言うけど、面白い話なんて期待してないから。私明日は学校だし、なんであんなことになってたか、早く教えてくれる?」
もう何度も繰り返した会話に、兄さんはようやく諦めてくれたらしい。
ため息1つ、指を組んで話し始めた。
曰く。
兄さんには、前世の記憶があるのだという。
より正確に言えば、前世で死んだ時点の記憶とこの世界で生まれた時の記憶が連結し、連続して続いている、と言う感じだろうか。
人生を1本の紐だとするなら、まるでその端と端を結び合わせたように、兄の記憶は「前世」から継続しているらしい。
更には、その人格までもが前世から地続きなのだという。
その歳にしては随分と、それこそあの上の兄よりも大人っぽいと思ってたけど、どうやらそれが真相だったらしい。
もしかして、あっちも……いや、アレは種も仕掛けもない天然モノか。前世の記憶も信じてもらえなかったって言ってたし。
つまるところ、この世界には輪廻転生が実在し、兄さんは前世の記憶と人格を忘却することもなく引き継いでしまったらしい。
……その話は、当然と言うか、すごく信じ難いものだった。
仮に兄さんではない誰かから言われたり、もう少し兄さんの声に力があれば、私はこれを一笑に付してたかもしれない。
でも、今の兄さんには……嘘を吐けるほどの余裕も感じない。
それに、考えてみれば腑に落ちる部分も多いんだ。
やけに潤沢な知識、子供らしくない落ち着き、そして何よりも「アプリ転生」なる不可思議な力。
それらをピースとして当てはめていくと、確かにこれまで疑問だった点の大部分が解消される……ような気がする。
とはいえ、常識的に考えれば信じ難い話だ。ホラ話である可能性の方がずっと高いだろう。
けど……まぁ、そういうこともあるのかもしれない。
誰にも言ったことはないけど、昔から私は「見えないはずのモノ」が見えてしまうクチだ。
まぁ見えるって言っても、そんなに大したことじゃなくて、本当に時々見えちゃうってだけなんだけど。
だから、この世界にオカルティックなものが実在するっていうのは、既に知ってた。
兄さんの話を疑うことは、誰にだってできるだろう。
でも、多分……この話を信じることができる人間は、少ない。
それこそ、「そういうモノ」の実在を知る、私くらいで。
だから……私はひとまず、兄の言葉を信じてみることにした。
しかし、なんで今、そんな話をするんだろう。どこかで繋がってるんだろうか。
私が聞いているのは、深夜にここまで嘔吐をしていた理由だ。
頭をぶつけたとかの物理的要因だったら念のため病院に連れて行かなきゃいけないし、精神的なものだとすれば父さんにカウンセラーか何かを付けてもらった方が良い。
兄さんはその辺りの自己管理がてきとうすぎるし、周りにいる私たちが気を付けなきゃいけない。
それに……指先に付いていた血の理由も、だ。
それが衝動的なものであればいいけど、もしも習慣付いたものなら、妹として、家族として、止めなきゃいけないから。
だから、改めて兄さんにその話を促すと……彼は珍しく、少しだけ顔を苦々しく歪めた。
そしてその口を、すごく重そうに開く。
「そうだね、何と言うべきか……うん、そう、許せなかったんだ」
「許せなかった……何を?」
「忘れてしまっていたことを」
そう言って、兄さんは軽く頭を抱えた。
その瞳は……今まで見たことがない程に、濁ってしまっていた。
許せなかった。誰を? 自分か? だとすれば……自己嫌悪? それで自傷したってこと?
「それを想うと……吐き気がすごくてね。それでちょっと錯乱してしまった、って感じ」
吐き気がすごくて、錯乱……?
聞くところによると、吐き気を感じた時には、いっそ吐き出した方がずっと楽になるらしい。
だから、喉に指を入れて吐いた? ……食道が傷付いて、血が混ざるくらいに?
だとすれば、その吐き気って、どれだけ……。
「……まぁ、今は一旦、話を聞く。それで、何を忘れてたって?」
「それは……」
その時、急に兄さんが口を手で押さえた。
「……っ」
「もしかしてまた吐き気? 袋持ってきてるけど」
「…………、いや、大丈夫」
「大丈夫って……ちょっと、もしかして飲み込んだの?」
「慣れてるからね。……勉強のために徹夜してると、吐き気なんて日常茶飯事だから
……まぁ、さっきは全然我慢が効いてなかったんだけどさ」
兄さんは仕方なさそうに笑って、コップに汲んできた水を飲んだ。
慣れてるって、そんな、普段から体調を崩すくらい無茶をして……。
…………、そっか。
やっぱり足りてなかったんだ、私の努力。
これでも、頑張って来たつもりだった。
空いた時間には教科書を開いたり、筋トレしてみたりして、私なりに兄さんを追いかけようと頑張って来たつもりだったんだ。
けど、足りてなかった。
兄さんは、普段からそんなに頑張ってたんだ。
私の何倍も、努力し続けてるんだ。
……悔しいけど、そりゃあ、追い付けないはずだよね。
なんだか一周回って、変に納得した気分になった。
私には、多分「努力の素質」がない。
兄さんたちのように頑張ろうとしても、頭の中の冷静な部分が「そんなに頑張る必要あるの?」と問いかけてくる。
「やらなきゃいけないことはやらなきゃいけない」。そう割り切ることも、あるいは思考停止することも、平凡な私には難しい。
何をどうしたって、「私なりの努力」では……完璧な上の兄にも、狂っている下の兄にも、勝てはしないんだろう。
……それでも、努力をやめる理由にはならないのが辛いところだけども。
* * *
兄さんの吐き気は、しばらくして落ち着いた。
上の兄と違って心理的な方面には詳しくないけど、思い出そうとするだけでここまで急激な吐き気に襲われるっていうのは多分、相当に強い拒絶反応だと思う。
これ以上話を聞き出して、大丈夫なんだろうか。
「……その、話せる?」
「ん……多分大丈夫。忘れる……前に、誰かに聞いてほしいし」
兄さんは一度言葉に詰まり、顔をしかめながらもそう言った。
先ほどよりも軽そうだけど、やはり吐き気はあるらしい。それでも話したいっていうんなら……あるいは、その覚悟を汲むべきか。
しかし……忘れる前に、聞いてほしい?
さっきは「忘れてしまっていたことが許せない」って言ってたし……まるで、その「理由」についてさっきまで忘れていて、そしてすぐに忘れてしまうかのような言い方に聞こえた。
思わず眉間にしわが寄る。
もし、その推論が正しければ……どう考えても、健全な状態とは思えない。
そうして、真剣に聞こうと居住まいを正す私の前で……。
兄さんは膝に手を置き、俯いて、まるで吐き出すかのように語り出す。
兄さんになる前の、私の知らない誰かに起こった、1つの小さな悲劇を。
「これは俺が、小学生の頃の話。
俺は、1人の女の子を……見殺しに、したんだ」
次回は3、4日後。別視点で、壊れてしまった日の話。
(追記)
誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました。