転生チートトレーナーvs転生チートウマ娘   作:アリマリア

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冬の日、先輩の答

 

 

 

「ごめんね。何度も言うようだけど、邪魔するつもりはなかったんだ」

「それは……構いませんが」

 

 突然歩さんの病室に現れた、黒鹿毛のウマ娘、スペシャルウィークちゃん。

 

 彼女は、来たる有記念において、私のライバルになるはずのウマ娘だ。

 そこから考えれば、もしかしたらスパイに来たのか、って発想が出てこないでもなかったけど……。

 

 彼女の手に握られていたフラワーアレンジメントを見れば、それは違うんだろうと思えた。

 

「……スペシャルウィーク先輩だったんですか、お花を持ってきてくれてたの」

 

 私は毎日ここに来てるから、当然気付いていたけれど……。

 病室に飾られているアレンジメントは、日に日に増えていた。

 今や病室は、両手では数えきれないくらいの、たくさんの花々によって彩られている。

 

 だから、わかった。

 私や昌さん、ブルボンちゃんじゃない。

 多分朝か、あるいは私が来る前に、誰かが花を持ってお見舞いに来てくれてるんだって。

 

 それがスペちゃんだったんだと、そう思ったんだけど……。

 

「私だけじゃないよ。堀野トレーナーさんにお世話になった子は多いから。

 私が知ってるだけでも、セイちゃんとかマックイーンさんは来てるって話聞いたし」

 

 穏やかに微笑んで、スぺちゃんはそう言った。

 

 

 

 ……そっか。

 歩さん、やっぱりたくさんのウマ娘を助けてたんだ。

 

 セイちゃん……スカイ先輩のことは、詳しくは知らない。

 でも、歩さんは「宝塚記念を最高の舞台にするために色々頑張った」って言ってたから……。

 もしかしたら、スカイ先輩にアドバイスを送るとか元気づけるとか、私の視界の外で何かしらしていたのかもしれない。

 

 マックイーンさんの件は、歩さんから直接聞いた。

 天皇賞(秋)を前にしてマックイーンさんが発症した、精神的不調。

 自分ならそれを解決できるかもしれないと言って、歩さんはマックイーンさんのトレーナーさんに電話をかけていた。

 その結果、マックイーンさんは歩さんに感謝していたし、天皇賞(秋)ではこれ以上ない程の、最高の走りを見せてくれた。

 

 それに、先輩だけじゃなくて、同期も。

 

 テイオーは、ダービーに際して故障の危険性を抱えていた。

 アニメでも見た、恐らくは前世の史実がベースになってるんだろう、ある意味で運命的な彼女の骨折。

 しかしそれも、歩さんが彼女のトレーナーさんに危険性を指摘したことで、阻止こそできなかったものの、その療養期間をだいぶ縮めることができた。

 前世アニメでは来年春からの復帰だったのに対し、この世界では今年の有記念からの復帰。

 おおよそ4か月、半分近い短縮だ。そこにはきっと、歩さんの尽力も少なからず関わっている。

 

 ネイチャに関してもそうだ。

 歩さんは、彼女との定期的な合同トレーニングのために頑張ってくれた。

 私のスケジューリングの間を縫って、ネイチャの体調や身体能力を、担当ウマ娘もかくやってくらいに細かく分析していたんだ。

 決して失敗しないよう。そしてできるなら、ネイチャがもっと躍進できるように……。

 合同トレーニングの間だけは、担当ウマ娘である私と一切の差を付けず、平等に彼女を育てていた。

 

 きっと、これだけじゃない。

 私がハッキリと知っているのが4人だっただけで……。

 きっと彼は、もっともっと多くのウマ娘を、当たり前のような顔で助けているんだろう。

 

 同期のトレーナーさんたちに、本来は家の外に出すべきでないハウツーを平然と教えたりとか。

 あるいは、早く独り立ちできるように、昌さんにしっかりと教育を付けたりとか。

 

 そして……。

 白い月の見降ろす、寒々しい冬の夜に、1人のウマ娘を助けたりとか。

 

 決して手の届かない『彼女』を救うために……。

 歩さんはウマ娘にも人にも、おおよそ誰にでも、手を差し伸べてきたんだろう。

 

 

 

 その結果が、この病室の花々だ。

 

 彼は確かに、たくさんの人間やウマ娘を救っている。

 それを、この白い病室を彩るたくさんの色彩が、どうしようもないくらいに証明している。

 

 それなのに……。

 それなのに、認められないのか。

 

 頑張り続ける、自分を。

 多くのウマ娘や人間が、歩さんに救われてるっていう、事実を。

 

 

 

 スペちゃんは持っていた小さなアレンジメントを机に置いて、困ったように頬を掻く。

 

「えっと……その、2人の時間を邪魔するのもなんだし、私はもう失礼した方がいいかな?」

 

 ……気を遣ってくれてるんだろうな。

 スペちゃんは最近は公式レースに出走していないとはいえ、シニア級3年目のウマ娘。

 トレーナーさんと不仲っていう話も聞かないし、仲が良いだろうことは間違いないだろう。

 だからこそ……自分のトレーナーが意識不明になったっていうことの重さを、担当ウマ娘との時間を邪魔することの無粋さを、理解できるんだ。

 

 ……確かに、歩さんとの時間を邪魔されたような気持ちは、あった。

 でも、彼女が来なかったら……私は多分、何もできない無力感と、何も上手くいかないやるせなさで、ぐちゃぐちゃになっていたはずだ。

 

 正直に言って……今、歩さんと2人きりになると、弱い私が出て来てしまいそうで、怖かった。

 

「いえ……よければ、お話ししませんか。トレーナーも、たくさんお見舞いがいた方が喜ぶと思いますし」

「いいの? ありがとう」

 

 スペちゃんは驚いたような表情をした後、少しだけ悲しそうに笑い、私の提案を受け入れて……。

 病室の隅に寄せられていた椅子を置いて、私の横に座ってくれた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 改めて見たスぺちゃんは、ほとんど私の知っている通りの姿をしていた。

 ……けれど、完全に同じではない。少しだけ、どことなく違和感がある。

 

 例えばそれは、短く揃えられた黒鹿毛の髪と白の流星が、記憶よりもほんの少しだけ長いこと。

 その身長も、私のイメージよりはいささか大きくて……。

 童顔のイメージが強かった相貌は、より美しく、より精悍に引き締まっている気がする。

 

 本格化を迎えたウマ娘は、その体型や体格を急速に成長させ、そしてそこに留める。

 極端な例だと、140センチ台から1か月で180センチに伸び、それから3年間伸びもしなければ縮みもしない、なんてことすらあり得るらしい。

 

 それは逆に言うと、その3年間の本格化が終われば体格が変わることがある、ということで……。

 今、私の目の前にいるスペちゃんは、本格化を終えてから既に2年が経過した……私の知らない「スペシャルウィーク先輩」なんだろう。

 

 

 

 けど、彼女はなんで、お見舞いに来てくれたんだろう。

 どこにトレーナーとの接点が? お世話になったって言ってたけど、一体いつ……?

 

「その、スペシャルウィーク先輩は……」

「スペでいいよ。みんなそう呼んでくれるし」

「それでは、スぺ先輩で。スペ先輩は、どこでトレーナーと知り合ったんですか?」

 

 そう聞くと、スぺちゃんは「あー……」と、懐かしむような表情を浮かべ、話し始めた。

 

「初めて会ったのは、もう1年前になるかな。

 今年の有記念に向けて少しずつレース以外の露出を増やしていくってことで、お正月にちょっとしたイベントに出てね? その時に知り合ったんだ。

 トレーナーバッジを付けてたし、何よりウィルムちゃんは有名だったから、すぐに『あ、ウィルムちゃんのトレーナーさんだ』って気付いたんだけど……。

 うん、いきなり『セイウンスカイを紹介してほしい』って言ってきたのは、ちょっとびっくりしたかな」

「スカイ先輩を、紹介……ですか?」

「うん。『どうしても、天皇賞(春)までに伝えたいことがある』って。

 ……そう言われても、いきなりはちょっとアレだから、その日はお断りしたんだけど」

 

 歩さん……今年のお正月に、そんなことを?

 もしかして、私と初詣に行った後に、スぺちゃんにコンタクトを取ってたりしたんだろうか。

 ……やっぱり私に隠れて、色んなところで色んなことをしてたんだろうな。

 

 私のことに専心するように心がけたとしても……。

 やっぱり本当は、彼にとってはあらゆる人間、あらゆるウマ娘が、助けたい対象だったんだろうし。

 

「でも、一応話は聞こうかなって思って……それからは、色々とアドバイスをもらったりね。

 私のトレーナーさんも色々助けてもらったりしたらしくて、信頼できると思って、セイちゃんに相談もしたりして……。

 うん、そんな感じかな」

「……なるほど」

 

 結局のところ、歩さんが私の視界の外でやっていた行動の1つだ。

 私は子供で、競走ウマ娘で、だから走ることだけに集中してたけど……。

 歩さんは、少なくとも役職上は大人で、社会人。

 色んなところで、色んな繋がりを作っていってことなんだろう。

 

 

 

 それに、とスペちゃんは言葉を繋げる。

 

「本当は、ウィルムちゃんともいつか話してみたかったんだ。なかなか機会がなくて……まさかこんなタイミングになるとは思わなかったけど」

 

 スペちゃんはそう言って、小さく笑った。

 

 それに、思わず感情が揺れかけて……。

 ……「最悪だ」と、自己嫌悪する。

 

 こんな些細な、悪意のない笑顔に……苛立ってしまうなんて。

 

 癪に、障った。

 スペちゃんが、楽しそうなのが。申し訳なさそうなのが。満ち足りているのが。幸せそうなのが。

 その全てを、自分の惨めさと比べてしまって……。

 すごく……苛立つ。

 

 正当性のない怒りだ。ただの八つ当たりだってわかってる。

 ……わかって、いるのに。

 それでも、自分の情動を抑えられない。

 

 私は今、スぺちゃんを、競走のライバルとして見ることが、できていない。

 平穏と心の安寧を乱して来る敵として、障害としてしか……見ることができない。

 

 本当に余裕がないんだな、私。

 ここまで無様を晒すなんて……本当に情けなくて、自分が嫌になる。

 

 

 

「……えっと、大丈夫?」

 

 その言葉に、いつの間にか下がっていた視線を上げる。

 スペちゃんは……その薄紫の目で、じっと私を見つめてきていた。

 

 大丈夫かと聞かれると、大丈夫じゃない。

 すぐそこにスペちゃんがいるから、ある程度自制できてるけど……それでも、私の心は散り散りになってしまっている。

 

 ……でも、そんことを他人に言ったって、何の意味もないのはわかってる。

 大丈夫って言わないと。適当に言い繕わないと。

 

 そう思い、口を開こうとした瞬間。

 

「……ごめん、すごくバ鹿な質問だった。大丈夫なわけがないよね」

 

 そう言って、スペちゃんは軽く頭を振った。

 

「少しだけ、気持ちはわかるつもりだよ」

 

 わかる?

 ……この、気持ちを?

 

 わかるはずがない。内面で渦巻くこの激情が、誰かに理解できるはずがないんだから。

 

 私の中で、反感から激情が沸き立って……。

 

 

 

「私も、大事な人が倒れちゃったことがあったから」

 

 

 

 その言葉に、一瞬で、凍て付いた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「スズカさん……サイレンススズカさん。知ってるよね、すっごく有名だし。

 私ね、スズカさんが日本にいた頃は寮で同室でさ、すっごく仲良くしてもらってたんだよ。

 だから……あの天皇賞の時も、レース場で見てたんだ。スズカさんの走りを」

 

 ……そうだ。

 

 なんで忘れてしまっていたんだろう。

 私はその光景を、この目で見たことがあったのに。

 

「大ケヤキを越えた時、誰もがいつものようにスズカさんが勝つと思ってた。

 でも、そうはならなくて……スズカさんはふらふらって体勢を崩して、ペースダウンして……。

 あの時は……ちょっと、頭が真っ白になったな」

 

 痛みのない……いや、痛みを乗り越えた、懐かしそうな声。

 

 そう、スペシャルウィーク先輩は……。

 私と同じ体験を、したことがあるんだ。

 

 慕っていた人が、続くと思っていた時間が、変わらずあるべきだった平穏が。

 その全てが、自分の手の届かないところで一瞬のうちに崩れ去り、腐り落ちるように「終わった」瞬間を……。

 彼女は……彼女も、見たことがある。

 

 だから、多分。

 彼女は、本当の意味でわかっているんだろう。

 このやるせない感情も、どうしようもない激情も……その全てを、知っている。

 

 スペちゃんは、膝の上に置いた手を緩く握り、歩さんの様子を見ながら呟いた。

 

「辛いよね。なんでこんなことにって、どうしてあの人がって、思っちゃうよね。

 でもそう思うたびに、答えなんてないんだってわかっちゃって、感情を向かわせる先がなくて。

 『どうしようもないんだ』ってわかって……それが、辛いよね」

 

 ……そう。

 ずっと、そんな激情を、自分の中に抱え込んで。

 

「それに、わかるって言ったけど、私の時は……スズカさんは、すぐに目覚めてくれたから。

 ウィルムちゃんよりも、ずっと楽だった。いつかはきっと復帰してくれる、戻ってきてくれるって……たとえ空元気でも、そう思えたから」

 

 だから、その気持ちの全部は理解できないんだ。ごめんね、と。

 

 スペちゃんは、すごく申し訳なさそうに、目を伏せてそう言った。

 

 確かに、私の記憶は唯一無二のものだろう。

 スペちゃんは、ここまで冷たい激情を覚えたことはなかったのかもしれない。

 

 ……それでも。

 たとえ似ているだけだったとしても。

 感情を共有してくれる人がいるっていう事実は、私の心を、ずっと軽くした。

 

 

 

 ……けれど。

 あるいは、だからこそ。

 

「だから、心配してたんだ。ウィルムちゃんは、私の時よりもずっと辛い想いをしてる。だから……もしかしたら、折れてしまうんじゃないか、って。

 でも……まだ平気そうで良かった。ウィルムちゃん、強い子なんだね」

 

 その言葉は、思いの外……。

 

 私の心に、深く刺さって。

 

「……強くなんて、ありません。

 私は……私は、ずっと、ずっと……怖くて……!」

 

 気付けば、喉から声が出ていた。

 

「トレーナーが……歩さんが、このまま、死んじゃうかもしれない……! それなのに、それなのに私は、何もできなくて……ずっと助けてもらってたのに、私からは、何も……何1つ……ッ!!

 それが、そんな自分が許せなくて!! それで、それで……そんな現実が、怖くて……」

 

 ただ感情のままに、私は言葉を吐き出した。

 

 もう、自分の話に文脈が成り立っているかすらわからない。

 ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた、グロテスクな混沌とした感情。

 それを、目の前の人に……現実に、ぶつける。

 

「私は、私は強くなんてないんです! 何もできない、何もしてあげられない……! せっかく両親が生んでくれたのに……この世界に生まれついたのに! それなのに、何一つできはしない……ッ!!

 せめて歩さんのために走ろうとしても、ずっと、ずっとずっと、恐怖が頭から離れないんです! 歩さんにはもう会えないんじゃないか、もう話せないんじゃないかって……。

 私は……私は、ずっと助けられてきたのに…………歩さんを、ただ1度救うことすら、できない……」

 

 それが、辛い。

 

 何もできなくて。

 

 彼を、助けられなくて。

 

 このまま、彼と、二度と話すことができない。

 

 そんな「もしかしたら」が……どうしようもなく、私の脚を竦ませるんだ。

 

 

 

 いつの間にか握りしめていた拳に、ぽたぽたと何かが落ちる。視界は歪んで、まともに世界を捉えられやしない。

 

「私は……私は、それが、怖い……」

 

 ……不安定で不定形な心を言葉にして、初めて自分を理解した気がした。

 

 私はただ、怖いんだ。

 

 幸せと平穏は、何の保証もないと、知ってしまったから。

 日常は、唐突に崩れ去ることがあると、知ってしまったから。

 

 未来の幸せを、続く日常を、根拠もなく信じていられる子供では、なくなってしまったから。

 

 だから……未来が怖い。

 もっともっと状況が悪くなってしまうんじゃないかと、そう思ってしまって。

 

 

 

「私は、全然、強くなんてない。ただの……何もできない、ウマ娘でしかないんです」

 

 転生ウマ娘だとか、チート持ちだとか、そんなことを言っても。

 結局……私はただの、この世界に生まれ付いたウマ娘でしかない。

 

 歩さんを助けることもできなければ、1人で走ることもできない、普通のウマ娘なんだ。

 

 ……もしも、私がもっと、すごいウマ娘であれば。

 それこそ、万能のチートを持っていれば……歩さんを助けられたはずだったのに。

 

 自分の非力さに、項垂れる。

 

 私には、何もできない。

 「歩さんのために勝たないと」なんて言っても、結局それも、辛い現状から目を背けるための言い訳に過ぎない。

 私が本当に叶えたい、「歩さんに起きてほしい」っていう願いは……。

 決して、私の手の届くところには、ないんだから。

 

 無意識に伸ばした手が、ベッドのサイドレールに触れる。

 感じたのは、冷たい感触だけで……私が本当に欲しかった温かさなんて、そこにはなくて。

 

 やっぱり、世界は寒くて冷たいんだと……そう、思いかけて。

 

 

 

 ……けれど。

 

「何もできない、なんてことはないよ」

 

 ポン、と。

 私の手の上に、温かさが生まれる。

 

 見れば、レールを握りしめる私の手の上に……スペちゃんの手が、置かれていた。

 

「確かに、私たちは神様じゃない。怪我をした人を助けるなんてことはできないと思う」

 

 それでも、と。

 スペちゃんは、言う。

 

「きっと、何もできないなんてことはない。

 私たちウマ娘にできることは……背負って、走って、信じること、だよ」

 

 それは、ウマ娘の先輩としての、確信に満ちた言葉だった。

 私よりもずっと先に走り出し、多くの人の見守る中で走り続けたウマ娘の、1つの結論。

 

「たくさんの人の夢と願いを背負うこと、それぞれのやり方で走ること……そして何より、自分とトレーナーさんと、世界を信じること」

「世界、を……?」

「うん。私たちを取り巻く、世界を。

 ……今、ウィルムちゃんは世界に酷い目に遭わされて、何も信じられなくなってると思う。

 1秒先にはもっと悪いことが待ってるんじゃないか、1日経てば状況はもっともっと悪化してるんじゃないかって、疑っちゃうと思う。

 でも、そんなことはないんだよ」

 

 スペちゃんは、その手を私の手に乗せたまま、静かに語った。

 

「確かに、世界には辛くて苦しいことがたくさんある。理不尽もあるし、間が悪いこともあるし、最悪な目に遭わされることもある。

 ……それでも、きっと。

 ウマ娘が自分とトレーナーさんを信じて走り続ければ、世界は応えてくれる」

 

 

 

 それは根拠のない、あやふやで抽象的な話だった。

 

 信じて走り続ければ、世界は応えてくれる、なんて……。

 

 そんなものは、ただの戯言だと。

 ……そう切り捨てられれば、どれだけ楽だったことか。

 

 私は、覚えてる。

 全てのかかった宝塚記念。

 不安定だった歩さんとの関係。開けない領域。折れるかと思った脚。

 それらを想ってなお、それでも懸命に、最後まで走り続けて……。

 そうして、勝ち取ることのできた勝利を。

 

 だから……スペちゃんの言葉を、否定しきれない。

 

 

 

「……それと、私ね。1つ、後悔してることがあるんだ」

「後悔、ですか?」

「私はウィルムちゃんより、ずっと弱かったからね。

 スズカさんが目を覚ましても、頭の中はスズカさんでいっぱいで……目の前のことに、全然集中できなかったんだ」

「それは……でも、仕方ないことじゃ」

 

 誰だって、大切な人が傷つけば、そのことで頭が占められるに決まってる。

 

 ……いや。

 そうじゃない、のかな。

 

 私は歩さんが昏睡状態になっただけで、いっぱいいっぱいになってしまった。

 けれど……あの2人は、違う。

 ブルボンちゃんと昌さんは、今も懸命にトレーニングや仕事に励んでいるんだ。

 

 ブルボンちゃんにとって歩さんは、唯一無二のトレーナー。

 昌さんにとって歩さんは、絶対に欠かすことのできない家族。

 

 そのはずなのに、2人は……。

 辛そうにしながらも、毎日を冷静に過ごしている。

 

 なんでそんなに平気そうなのか、八つ当たりしそうになったこともある。

 歩さんのことが大事じゃないのか、心配じゃないのか、って……。

 結局、そんなことを言う気力すら、その時の私の中にはなかったけれど。

 

 でも、それは……。

 

「違うよ、そうじゃないんだ」

 

 スペちゃんは緩く頭を振り、否定した。

 

「私は……信じられなかったんだ。

 スズカさんがターフに復帰するって、心の底から信じることができなかった。

 スズカさんなら当然立ち上がってくるはずだって、そう信じることができなかった。

 だから、疑って……怖がってしまったんだ」

 

 その人を信じられないから、怖がるのだと。

 

 信じているのなら、怖くなんてなくて……。

 ただ、いつか立ち上がって来るその日を待ちながら、走り続けたり……。

 ただ、いつ立ち上がって来てもいいように、必死に間隙を埋めようとするんだって。

 

 スペちゃんの言葉は、暗に、そう告げていた。

 

「私の後悔っていうのはね、スズカさんを信じられなかった結果、レースに集中しきれなかったことがあったんだ。何年経っても、それが忘れられなくて。

 ……だから、ウィルムちゃんは、信じてあげてほしいんだ。

 きっといつか、あなたの大事な人は戻って来る。それを……その人のことを、信じてあげてほしい」

 

 ……信じる。

 

 歩さんは必ず起きてくれるって、信じる。

 

 どうするか聞かれ、二つ返事で「マスターの帰りを待ちます」と宣言したブルボンちゃんのように。

 計り知れない精神的負荷を抱えながら、それでも毎日懸命に、兄の穴埋めを続ける昌さんのように。

 

 それが……あるいは、それこそが、今。

 

 本当に、私がすべきこと……なのかもしれない。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 語り終えると共に、スぺ先輩は照れたような顔をして手を離した。

 

「あ、あはは! ごめんね、ちょっとカッコつけちゃった!

 その、そんなわけで、えっと……有記念、一緒に頑張ろうね!」

 

 さっきまで醸し出していた、歴戦の戦士のような風格は消えて、彼女は再びただの少女に戻った。

 

 ……そっか、考えてみれば、スぺ先輩はまだ高等部の生徒なんだよね。

 私との年齢差だって、3歳くらいしかないんだ。

 むしろ前世の分を考えたら、彼女の方が人生経験は少ないと言っていい。

 

 それなのに……。

 スペシャルウィーク先輩は、こんなにも……強い。

 

 それが、黄金世代という修羅の時代に生まれ付いたが故の、豊富な人生経験によるものなのか。

 あるいは、それこそが彼女を『日本一』たらしめている所以なのか。

 今の私には、それもわからなかったけれど……。

 

 1つだけ、確かなのは。

 

 スペ先輩は、先達として、私に1つの道筋を示してくれたってことだ。

 

「……ありがとうございます。ずっと感情を抱え込んだままだったので……すごく、助かりました」

「えっ、い、いや、そんな! そんな大層なことしてないし! ほら、顔上げてってば!」

 

 深く頭を下げた私に対して、スぺ先輩はぶんぶんと両手を振って慌てる。

 そして、「あ」と呟いて、背負っていた鞄の中を漁り……。

 中から新品らしく見える、1冊のノートを取り出した。

 

「そっそうだ! 信じるって言っても、やっぱり感情がぐちゃぐちゃになってると難しいよね?

 このノートあげるから、これに思ったこととか感じたことをばーっと書いちゃうといいよ。

 あとはカラオケに行ったりとか、信頼できる友達にうがーっと話しちゃうとか!

 そうすれば、もっと楽になると思う!」

「あ、ありがとう……ございます」

 

 スペ先輩は私にノートを渡すや否や、「うぅ、こんなつもりじゃなかったんだけど……」と呟きながら、鞄のチャックを閉め、慌ただしく立ち上がった。

 

「じゃあ、私はそろそろ!」

 

 ……この恥ずかしがり様、ちょっと冷静になって、カッコ付けすぎたって思ったのかな。

 

 私からすれば……本当にカッコ良い、最高の先輩だったんだけどね。

 

「スペ先輩」

「な、何かな」

「有記念で、また会いましょう。

 ……助けていただいてなんですが、勝つのは私ですから」

 

 まだ、ぎこちないかもしれないけれど。

 私は背中を向けようとしたスペ先輩に、笑顔を向ける。

 

 対して、スぺ先輩は……。

 嬉しそうに、そして少しだけ安心したように、ニコリと笑った。

 

「うん! 良いレースにしようね!」

 

 

 

 ……これが、テイオーとは違う、既に自分の物語を終えた主人公の姿か。

 

 カッコ良くて、威厳があって、でも優しくて、頼れて……何より速くて強い、最高のウマ娘。

 

 

 

 ……負けて、られないな。

 

 私の凍り付きかけた心の底に、再び炎が灯った気がした。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そこから先の2週間、語るべきことは多くない。

 

 まず、歩さんは……結局、目覚めなかった。

 目を閉じたまま、意識を閉ざしたまま、彼は今も病院のベッドの上にいる。

 

 ……でも、いい。

 私はもう、彼がいつか必ず起きてくれるって、そう信じているから。

 

 幸せも、日常も、世界も。そのどれも、信じられないとしても……。

 私の手を取ってくれたあの人のことだけは、きっと信じられる。

 

 

 

 そして、私は……。

 ひたすらに、トレーニングを重ねた。

 スペ先輩との会話以来、いつもの絶好調とは行かないまでも、ある程度トレーニングに集中できるようになった。

 だから、昌さんの監視の下、ひたすらに走り続けた。

 

 勝つことで、歩さんを救えるわけではないと思う。

 昌さんは「勝たなければ兄は絶望する」って言ってたけど、私はそうは思わない。

 彼が求めているのは、勝利なんていう分かりやすい結果ではない、もっと曖昧でぼんやりとした、けれど得難いものだと思うんだ。

 

 ……それでも。

 いつか目覚める歩さんを、喜ばせることは、できるはず。

 

 私は、あの人に相応しいウマ娘になりたい。

 あの日、あの人が私を救ってくれたように……。

 いつかはあの人を救ってあげられるような、そんなウマ娘になりたい。

 

 でも、私は彼の目を覚まさせることはできないし、過去のトラウマを払拭させることもできない。

 私はスペ先輩の言う通り、背負って、走って、信じることしかできない、普通のウマ娘だから。

 

 ……だから、せめて。

 いつか、あの人が笑ってくれるように。

 「君のトレーナーで良かった」と、少しでも喜んでくれるように。

 

 私は……トレーナーの期待を背負い、有記念を走って、彼の目覚めを信じる。

 

 

 

 

 

 

 着ていた制服を脱ぎ去り、私はモノクロのインナーと、深紅のジャケットを身に着ける。

 そして……指先でパチンと、胸元のブローチを弾いた。

 静かに、けれど煌びやかに、灰の星々が散るのを鏡で見ながら……。

 

 1つ、頷く。

 

「……よし、行くか」

 

 12月、22日。

 

 今年最後の、決戦へ。

 

 

 







 次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、有記念前編。



(追記)
 誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました。
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