「ごめんね。何度も言うようだけど、邪魔するつもりはなかったんだ」
「それは……構いませんが」
突然歩さんの病室に現れた、黒鹿毛のウマ娘、スペシャルウィークちゃん。
彼女は、来たる有馬記念において、私のライバルになるはずのウマ娘だ。
そこから考えれば、もしかしたらスパイに来たのか、って発想が出てこないでもなかったけど……。
彼女の手に握られていたフラワーアレンジメントを見れば、それは違うんだろうと思えた。
「……スペシャルウィーク先輩だったんですか、お花を持ってきてくれてたの」
私は毎日ここに来てるから、当然気付いていたけれど……。
病室に飾られているアレンジメントは、日に日に増えていた。
今や病室は、両手では数えきれないくらいの、たくさんの花々によって彩られている。
だから、わかった。
私や昌さん、ブルボンちゃんじゃない。
多分朝か、あるいは私が来る前に、誰かが花を持ってお見舞いに来てくれてるんだって。
それがスペちゃんだったんだと、そう思ったんだけど……。
「私だけじゃないよ。堀野トレーナーさんにお世話になった子は多いから。
私が知ってるだけでも、セイちゃんとかマックイーンさんは来てるって話聞いたし」
穏やかに微笑んで、スぺちゃんはそう言った。
……そっか。
歩さん、やっぱりたくさんのウマ娘を助けてたんだ。
セイちゃん……スカイ先輩のことは、詳しくは知らない。
でも、歩さんは「宝塚記念を最高の舞台にするために色々頑張った」って言ってたから……。
もしかしたら、スカイ先輩にアドバイスを送るとか元気づけるとか、私の視界の外で何かしらしていたのかもしれない。
マックイーンさんの件は、歩さんから直接聞いた。
天皇賞(秋)を前にしてマックイーンさんが発症した、精神的不調。
自分ならそれを解決できるかもしれないと言って、歩さんはマックイーンさんのトレーナーさんに電話をかけていた。
その結果、マックイーンさんは歩さんに感謝していたし、天皇賞(秋)ではこれ以上ない程の、最高の走りを見せてくれた。
それに、先輩だけじゃなくて、同期も。
テイオーは、ダービーに際して故障の危険性を抱えていた。
アニメでも見た、恐らくは前世の史実がベースになってるんだろう、ある意味で運命的な彼女の骨折。
しかしそれも、歩さんが彼女のトレーナーさんに危険性を指摘したことで、阻止こそできなかったものの、その療養期間をだいぶ縮めることができた。
前世アニメでは来年春からの復帰だったのに対し、この世界では今年の有馬記念からの復帰。
おおよそ4か月、半分近い短縮だ。そこにはきっと、歩さんの尽力も少なからず関わっている。
ネイチャに関してもそうだ。
歩さんは、彼女との定期的な合同トレーニングのために頑張ってくれた。
私のスケジューリングの間を縫って、ネイチャの体調や身体能力を、担当ウマ娘もかくやってくらいに細かく分析していたんだ。
決して失敗しないよう。そしてできるなら、ネイチャがもっと躍進できるように……。
合同トレーニングの間だけは、担当ウマ娘である私と一切の差を付けず、平等に彼女を育てていた。
きっと、これだけじゃない。
私がハッキリと知っているのが4人だっただけで……。
きっと彼は、もっともっと多くのウマ娘を、当たり前のような顔で助けているんだろう。
同期のトレーナーさんたちに、本来は家の外に出すべきでないハウツーを平然と教えたりとか。
あるいは、早く独り立ちできるように、昌さんにしっかりと教育を付けたりとか。
そして……。
白い月の見降ろす、寒々しい冬の夜に、1人のウマ娘を助けたりとか。
決して手の届かない『彼女』を救うために……。
歩さんはウマ娘にも人にも、おおよそ誰にでも、手を差し伸べてきたんだろう。
その結果が、この病室の花々だ。
彼は確かに、たくさんの人間やウマ娘を救っている。
それを、この白い病室を彩るたくさんの色彩が、どうしようもないくらいに証明している。
それなのに……。
それなのに、認められないのか。
頑張り続ける、自分を。
多くのウマ娘や人間が、歩さんに救われてるっていう、事実を。
スペちゃんは持っていた小さなアレンジメントを机に置いて、困ったように頬を掻く。
「えっと……その、2人の時間を邪魔するのもなんだし、私はもう失礼した方がいいかな?」
……気を遣ってくれてるんだろうな。
スペちゃんは最近は公式レースに出走していないとはいえ、シニア級3年目のウマ娘。
トレーナーさんと不仲っていう話も聞かないし、仲が良いだろうことは間違いないだろう。
だからこそ……自分のトレーナーが意識不明になったっていうことの重さを、担当ウマ娘との時間を邪魔することの無粋さを、理解できるんだ。
……確かに、歩さんとの時間を邪魔されたような気持ちは、あった。
でも、彼女が来なかったら……私は多分、何もできない無力感と、何も上手くいかないやるせなさで、ぐちゃぐちゃになっていたはずだ。
正直に言って……今、歩さんと2人きりになると、弱い私が出て来てしまいそうで、怖かった。
「いえ……よければ、お話ししませんか。トレーナーも、たくさんお見舞いがいた方が喜ぶと思いますし」
「いいの? ありがとう」
スペちゃんは驚いたような表情をした後、少しだけ悲しそうに笑い、私の提案を受け入れて……。
病室の隅に寄せられていた椅子を置いて、私の横に座ってくれた。
* * *
改めて見たスぺちゃんは、ほとんど私の知っている通りの姿をしていた。
……けれど、完全に同じではない。少しだけ、どことなく違和感がある。
例えばそれは、短く揃えられた黒鹿毛の髪と白の流星が、記憶よりもほんの少しだけ長いこと。
その身長も、私のイメージよりはいささか大きくて……。
童顔のイメージが強かった相貌は、より美しく、より精悍に引き締まっている気がする。
本格化を迎えたウマ娘は、その体型や体格を急速に成長させ、そしてそこに留める。
極端な例だと、140センチ台から1か月で180センチに伸び、それから3年間伸びもしなければ縮みもしない、なんてことすらあり得るらしい。
それは逆に言うと、その3年間の本格化が終われば体格が変わることがある、ということで……。
今、私の目の前にいるスペちゃんは、本格化を終えてから既に2年が経過した……私の知らない「スペシャルウィーク先輩」なんだろう。
けど、彼女はなんで、お見舞いに来てくれたんだろう。
どこにトレーナーとの接点が? お世話になったって言ってたけど、一体いつ……?
「その、スペシャルウィーク先輩は……」
「スペでいいよ。みんなそう呼んでくれるし」
「それでは、スぺ先輩で。スペ先輩は、どこでトレーナーと知り合ったんですか?」
そう聞くと、スぺちゃんは「あー……」と、懐かしむような表情を浮かべ、話し始めた。
「初めて会ったのは、もう1年前になるかな。
今年の有馬記念に向けて少しずつレース以外の露出を増やしていくってことで、お正月にちょっとしたイベントに出てね? その時に知り合ったんだ。
トレーナーバッジを付けてたし、何よりウィルムちゃんは有名だったから、すぐに『あ、ウィルムちゃんのトレーナーさんだ』って気付いたんだけど……。
うん、いきなり『セイウンスカイを紹介してほしい』って言ってきたのは、ちょっとびっくりしたかな」
「スカイ先輩を、紹介……ですか?」
「うん。『どうしても、天皇賞(春)までに伝えたいことがある』って。
……そう言われても、いきなりはちょっとアレだから、その日はお断りしたんだけど」
歩さん……今年のお正月に、そんなことを?
もしかして、私と初詣に行った後に、スぺちゃんにコンタクトを取ってたりしたんだろうか。
……やっぱり私に隠れて、色んなところで色んなことをしてたんだろうな。
私のことに専心するように心がけたとしても……。
やっぱり本当は、彼にとってはあらゆる人間、あらゆるウマ娘が、助けたい対象だったんだろうし。
「でも、一応話は聞こうかなって思って……それからは、色々とアドバイスをもらったりね。
私のトレーナーさんも色々助けてもらったりしたらしくて、信頼できると思って、セイちゃんに相談もしたりして……。
うん、そんな感じかな」
「……なるほど」
結局のところ、歩さんが私の視界の外でやっていた行動の1つだ。
私は子供で、競走ウマ娘で、だから走ることだけに集中してたけど……。
歩さんは、少なくとも役職上は大人で、社会人。
色んなところで、色んな繋がりを作っていってことなんだろう。
それに、とスペちゃんは言葉を繋げる。
「本当は、ウィルムちゃんともいつか話してみたかったんだ。なかなか機会がなくて……まさかこんなタイミングになるとは思わなかったけど」
スペちゃんはそう言って、小さく笑った。
それに、思わず感情が揺れかけて……。
……「最悪だ」と、自己嫌悪する。
こんな些細な、悪意のない笑顔に……苛立ってしまうなんて。
癪に、障った。
スペちゃんが、楽しそうなのが。申し訳なさそうなのが。満ち足りているのが。幸せそうなのが。
その全てを、自分の惨めさと比べてしまって……。
すごく……苛立つ。
正当性のない怒りだ。ただの八つ当たりだってわかってる。
……わかって、いるのに。
それでも、自分の情動を抑えられない。
私は今、スぺちゃんを、競走のライバルとして見ることが、できていない。
平穏と心の安寧を乱して来る敵として、障害としてしか……見ることができない。
本当に余裕がないんだな、私。
ここまで無様を晒すなんて……本当に情けなくて、自分が嫌になる。
「……えっと、大丈夫?」
その言葉に、いつの間にか下がっていた視線を上げる。
スペちゃんは……その薄紫の目で、じっと私を見つめてきていた。
大丈夫かと聞かれると、大丈夫じゃない。
すぐそこにスペちゃんがいるから、ある程度自制できてるけど……それでも、私の心は散り散りになってしまっている。
……でも、そんことを他人に言ったって、何の意味もないのはわかってる。
大丈夫って言わないと。適当に言い繕わないと。
そう思い、口を開こうとした瞬間。
「……ごめん、すごくバ鹿な質問だった。大丈夫なわけがないよね」
そう言って、スペちゃんは軽く頭を振った。
「少しだけ、気持ちはわかるつもりだよ」
わかる?
……この、気持ちを?
わかるはずがない。内面で渦巻くこの激情が、誰かに理解できるはずがないんだから。
私の中で、反感から激情が沸き立って……。
「私も、大事な人が倒れちゃったことがあったから」
その言葉に、一瞬で、凍て付いた。
* * *
「スズカさん……サイレンススズカさん。知ってるよね、すっごく有名だし。
私ね、スズカさんが日本にいた頃は寮で同室でさ、すっごく仲良くしてもらってたんだよ。
だから……あの天皇賞の時も、レース場で見てたんだ。スズカさんの走りを」
……そうだ。
なんで忘れてしまっていたんだろう。
私はその光景を、この目で見たことがあったのに。
「大ケヤキを越えた時、誰もがいつものようにスズカさんが勝つと思ってた。
でも、そうはならなくて……スズカさんはふらふらって体勢を崩して、ペースダウンして……。
あの時は……ちょっと、頭が真っ白になったな」
痛みのない……いや、痛みを乗り越えた、懐かしそうな声。
そう、スペシャルウィーク先輩は……。
私と同じ体験を、したことがあるんだ。
慕っていた人が、続くと思っていた時間が、変わらずあるべきだった平穏が。
その全てが、自分の手の届かないところで一瞬のうちに崩れ去り、腐り落ちるように「終わった」瞬間を……。
彼女は……彼女も、見たことがある。
だから、多分。
彼女は、本当の意味でわかっているんだろう。
このやるせない感情も、どうしようもない激情も……その全てを、知っている。
スペちゃんは、膝の上に置いた手を緩く握り、歩さんの様子を見ながら呟いた。
「辛いよね。なんでこんなことにって、どうしてあの人がって、思っちゃうよね。
でもそう思うたびに、答えなんてないんだってわかっちゃって、感情を向かわせる先がなくて。
『どうしようもないんだ』ってわかって……それが、辛いよね」
……そう。
ずっと、そんな激情を、自分の中に抱え込んで。
「それに、わかるって言ったけど、私の時は……スズカさんは、すぐに目覚めてくれたから。
ウィルムちゃんよりも、ずっと楽だった。いつかはきっと復帰してくれる、戻ってきてくれるって……たとえ空元気でも、そう思えたから」
だから、その気持ちの全部は理解できないんだ。ごめんね、と。
スペちゃんは、すごく申し訳なさそうに、目を伏せてそう言った。
確かに、私の記憶は唯一無二のものだろう。
スペちゃんは、ここまで冷たい激情を覚えたことはなかったのかもしれない。
……それでも。
たとえ似ているだけだったとしても。
感情を共有してくれる人がいるっていう事実は、私の心を、ずっと軽くした。
……けれど。
あるいは、だからこそ。
「だから、心配してたんだ。ウィルムちゃんは、私の時よりもずっと辛い想いをしてる。だから……もしかしたら、折れてしまうんじゃないか、って。
でも……まだ平気そうで良かった。ウィルムちゃん、強い子なんだね」
その言葉は、思いの外……。
私の心に、深く刺さって。
「……強くなんて、ありません。
私は……私は、ずっと、ずっと……怖くて……!」
気付けば、喉から声が出ていた。
「トレーナーが……歩さんが、このまま、死んじゃうかもしれない……! それなのに、それなのに私は、何もできなくて……ずっと助けてもらってたのに、私からは、何も……何1つ……ッ!!
それが、そんな自分が許せなくて!! それで、それで……そんな現実が、怖くて……」
ただ感情のままに、私は言葉を吐き出した。
もう、自分の話に文脈が成り立っているかすらわからない。
ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた、グロテスクな混沌とした感情。
それを、目の前の人に……現実に、ぶつける。
「私は、私は強くなんてないんです! 何もできない、何もしてあげられない……! せっかく両親が生んでくれたのに……この世界に生まれついたのに! それなのに、何一つできはしない……ッ!!
せめて歩さんのために走ろうとしても、ずっと、ずっとずっと、恐怖が頭から離れないんです! 歩さんにはもう会えないんじゃないか、もう話せないんじゃないかって……。
私は……私は、ずっと助けられてきたのに…………歩さんを、ただ1度救うことすら、できない……」
それが、辛い。
何もできなくて。
彼を、助けられなくて。
このまま、彼と、二度と話すことができない。
そんな「もしかしたら」が……どうしようもなく、私の脚を竦ませるんだ。
いつの間にか握りしめていた拳に、ぽたぽたと何かが落ちる。視界は歪んで、まともに世界を捉えられやしない。
「私は……私は、それが、怖い……」
……不安定で不定形な心を言葉にして、初めて自分を理解した気がした。
私はただ、怖いんだ。
幸せと平穏は、何の保証もないと、知ってしまったから。
日常は、唐突に崩れ去ることがあると、知ってしまったから。
未来の幸せを、続く日常を、根拠もなく信じていられる子供では、なくなってしまったから。
だから……未来が怖い。
もっともっと状況が悪くなってしまうんじゃないかと、そう思ってしまって。
「私は、全然、強くなんてない。ただの……何もできない、ウマ娘でしかないんです」
転生ウマ娘だとか、チート持ちだとか、そんなことを言っても。
結局……私はただの、この世界に生まれ付いたウマ娘でしかない。
歩さんを助けることもできなければ、1人で走ることもできない、普通のウマ娘なんだ。
……もしも、私がもっと、すごいウマ娘であれば。
それこそ、万能のチートを持っていれば……歩さんを助けられたはずだったのに。
自分の非力さに、項垂れる。
私には、何もできない。
「歩さんのために勝たないと」なんて言っても、結局それも、辛い現状から目を背けるための言い訳に過ぎない。
私が本当に叶えたい、「歩さんに起きてほしい」っていう願いは……。
決して、私の手の届くところには、ないんだから。
無意識に伸ばした手が、ベッドのサイドレールに触れる。
感じたのは、冷たい感触だけで……私が本当に欲しかった温かさなんて、そこにはなくて。
やっぱり、世界は寒くて冷たいんだと……そう、思いかけて。
……けれど。
「何もできない、なんてことはないよ」
ポン、と。
私の手の上に、温かさが生まれる。
見れば、レールを握りしめる私の手の上に……スペちゃんの手が、置かれていた。
「確かに、私たちは神様じゃない。怪我をした人を助けるなんてことはできないと思う」
それでも、と。
スペちゃんは、言う。
「きっと、何もできないなんてことはない。
私たちウマ娘にできることは……背負って、走って、信じること、だよ」
それは、ウマ娘の先輩としての、確信に満ちた言葉だった。
私よりもずっと先に走り出し、多くの人の見守る中で走り続けたウマ娘の、1つの結論。
「たくさんの人の夢と願いを背負うこと、それぞれのやり方で走ること……そして何より、自分とトレーナーさんと、世界を信じること」
「世界、を……?」
「うん。私たちを取り巻く、世界を。
……今、ウィルムちゃんは世界に酷い目に遭わされて、何も信じられなくなってると思う。
1秒先にはもっと悪いことが待ってるんじゃないか、1日経てば状況はもっともっと悪化してるんじゃないかって、疑っちゃうと思う。
でも、そんなことはないんだよ」
スペちゃんは、その手を私の手に乗せたまま、静かに語った。
「確かに、世界には辛くて苦しいことがたくさんある。理不尽もあるし、間が悪いこともあるし、最悪な目に遭わされることもある。
……それでも、きっと。
ウマ娘が自分とトレーナーさんを信じて走り続ければ、世界は応えてくれる」
それは根拠のない、あやふやで抽象的な話だった。
信じて走り続ければ、世界は応えてくれる、なんて……。
そんなものは、ただの戯言だと。
……そう切り捨てられれば、どれだけ楽だったことか。
私は、覚えてる。
全てのかかった宝塚記念。
不安定だった歩さんとの関係。開けない領域。折れるかと思った脚。
それらを想ってなお、それでも懸命に、最後まで走り続けて……。
そうして、勝ち取ることのできた勝利を。
だから……スペちゃんの言葉を、否定しきれない。
「……それと、私ね。1つ、後悔してることがあるんだ」
「後悔、ですか?」
「私はウィルムちゃんより、ずっと弱かったからね。
スズカさんが目を覚ましても、頭の中はスズカさんでいっぱいで……目の前のことに、全然集中できなかったんだ」
「それは……でも、仕方ないことじゃ」
誰だって、大切な人が傷つけば、そのことで頭が占められるに決まってる。
……いや。
そうじゃない、のかな。
私は歩さんが昏睡状態になっただけで、いっぱいいっぱいになってしまった。
けれど……あの2人は、違う。
ブルボンちゃんと昌さんは、今も懸命にトレーニングや仕事に励んでいるんだ。
ブルボンちゃんにとって歩さんは、唯一無二のトレーナー。
昌さんにとって歩さんは、絶対に欠かすことのできない家族。
そのはずなのに、2人は……。
辛そうにしながらも、毎日を冷静に過ごしている。
なんでそんなに平気そうなのか、八つ当たりしそうになったこともある。
歩さんのことが大事じゃないのか、心配じゃないのか、って……。
結局、そんなことを言う気力すら、その時の私の中にはなかったけれど。
でも、それは……。
「違うよ、そうじゃないんだ」
スペちゃんは緩く頭を振り、否定した。
「私は……信じられなかったんだ。
スズカさんがターフに復帰するって、心の底から信じることができなかった。
スズカさんなら当然立ち上がってくるはずだって、そう信じることができなかった。
だから、疑って……怖がってしまったんだ」
その人を信じられないから、怖がるのだと。
信じているのなら、怖くなんてなくて……。
ただ、いつか立ち上がって来るその日を待ちながら、走り続けたり……。
ただ、いつ立ち上がって来てもいいように、必死に間隙を埋めようとするんだって。
スペちゃんの言葉は、暗に、そう告げていた。
「私の後悔っていうのはね、スズカさんを信じられなかった結果、レースに集中しきれなかったことがあったんだ。何年経っても、それが忘れられなくて。
……だから、ウィルムちゃんは、信じてあげてほしいんだ。
きっといつか、あなたの大事な人は戻って来る。それを……その人のことを、信じてあげてほしい」
……信じる。
歩さんは必ず起きてくれるって、信じる。
どうするか聞かれ、二つ返事で「マスターの帰りを待ちます」と宣言したブルボンちゃんのように。
計り知れない精神的負荷を抱えながら、それでも毎日懸命に、兄の穴埋めを続ける昌さんのように。
それが……あるいは、それこそが、今。
本当に、私がすべきこと……なのかもしれない。
* * *
語り終えると共に、スぺ先輩は照れたような顔をして手を離した。
「あ、あはは! ごめんね、ちょっとカッコつけちゃった!
その、そんなわけで、えっと……有馬記念、一緒に頑張ろうね!」
さっきまで醸し出していた、歴戦の戦士のような風格は消えて、彼女は再びただの少女に戻った。
……そっか、考えてみれば、スぺ先輩はまだ高等部の生徒なんだよね。
私との年齢差だって、3歳くらいしかないんだ。
むしろ前世の分を考えたら、彼女の方が人生経験は少ないと言っていい。
それなのに……。
スペシャルウィーク先輩は、こんなにも……強い。
それが、黄金世代という修羅の時代に生まれ付いたが故の、豊富な人生経験によるものなのか。
あるいは、それこそが彼女を『日本一』たらしめている所以なのか。
今の私には、それもわからなかったけれど……。
1つだけ、確かなのは。
スペ先輩は、先達として、私に1つの道筋を示してくれたってことだ。
「……ありがとうございます。ずっと感情を抱え込んだままだったので……すごく、助かりました」
「えっ、い、いや、そんな! そんな大層なことしてないし! ほら、顔上げてってば!」
深く頭を下げた私に対して、スぺ先輩はぶんぶんと両手を振って慌てる。
そして、「あ」と呟いて、背負っていた鞄の中を漁り……。
中から新品らしく見える、1冊のノートを取り出した。
「そっそうだ! 信じるって言っても、やっぱり感情がぐちゃぐちゃになってると難しいよね?
このノートあげるから、これに思ったこととか感じたことをばーっと書いちゃうといいよ。
あとはカラオケに行ったりとか、信頼できる友達にうがーっと話しちゃうとか!
そうすれば、もっと楽になると思う!」
「あ、ありがとう……ございます」
スペ先輩は私にノートを渡すや否や、「うぅ、こんなつもりじゃなかったんだけど……」と呟きながら、鞄のチャックを閉め、慌ただしく立ち上がった。
「じゃあ、私はそろそろ!」
……この恥ずかしがり様、ちょっと冷静になって、カッコ付けすぎたって思ったのかな。
私からすれば……本当にカッコ良い、最高の先輩だったんだけどね。
「スペ先輩」
「な、何かな」
「有馬記念で、また会いましょう。
……助けていただいてなんですが、勝つのは私ですから」
まだ、ぎこちないかもしれないけれど。
私は背中を向けようとしたスペ先輩に、笑顔を向ける。
対して、スぺ先輩は……。
嬉しそうに、そして少しだけ安心したように、ニコリと笑った。
「うん! 良いレースにしようね!」
……これが、テイオーとは違う、既に自分の物語を終えた主人公の姿か。
カッコ良くて、威厳があって、でも優しくて、頼れて……何より速くて強い、最高のウマ娘。
……負けて、られないな。
私の凍り付きかけた心の底に、再び炎が灯った気がした。
* * *
そこから先の2週間、語るべきことは多くない。
まず、歩さんは……結局、目覚めなかった。
目を閉じたまま、意識を閉ざしたまま、彼は今も病院のベッドの上にいる。
……でも、いい。
私はもう、彼がいつか必ず起きてくれるって、そう信じているから。
幸せも、日常も、世界も。そのどれも、信じられないとしても……。
私の手を取ってくれたあの人のことだけは、きっと信じられる。
そして、私は……。
ひたすらに、トレーニングを重ねた。
スペ先輩との会話以来、いつもの絶好調とは行かないまでも、ある程度トレーニングに集中できるようになった。
だから、昌さんの監視の下、ひたすらに走り続けた。
勝つことで、歩さんを救えるわけではないと思う。
昌さんは「勝たなければ兄は絶望する」って言ってたけど、私はそうは思わない。
彼が求めているのは、勝利なんていう分かりやすい結果ではない、もっと曖昧でぼんやりとした、けれど得難いものだと思うんだ。
……それでも。
いつか目覚める歩さんを、喜ばせることは、できるはず。
私は、あの人に相応しいウマ娘になりたい。
あの日、あの人が私を救ってくれたように……。
いつかはあの人を救ってあげられるような、そんなウマ娘になりたい。
でも、私は彼の目を覚まさせることはできないし、過去のトラウマを払拭させることもできない。
私はスペ先輩の言う通り、背負って、走って、信じることしかできない、普通のウマ娘だから。
……だから、せめて。
いつか、あの人が笑ってくれるように。
「君のトレーナーで良かった」と、少しでも喜んでくれるように。
私は……トレーナーの期待を背負い、有馬記念を走って、彼の目覚めを信じる。
着ていた制服を脱ぎ去り、私はモノクロのインナーと、深紅のジャケットを身に着ける。
そして……指先でパチンと、胸元のブローチを弾いた。
静かに、けれど煌びやかに、灰の星々が散るのを鏡で見ながら……。
1つ、頷く。
「……よし、行くか」
12月、22日。
今年最後の、決戦へ。
次回は3、4日後。ホシノウィルム視点で、有馬記念前編。
(追記)
誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました。