前回と繋がっているお話なので、是非連続でお読みください。
「……っ!!」
勝った。
確かに今、私はサイレンススズカを超えた。
視覚と聴覚、それに空気の振動を感じる触覚。
その全てが、半バ身程度の差を付けて、私がスズカさんよりも前に出ていることを示している。
やった、と……そんなことを思う間もなく、私の頭がジクリと痛んだ。
しまった、これは……やりすぎたか。
私の転生チート、「アニメ転生」には制限時間がある。
そのタイムリミットは、おおよそ30秒。勿論、正確に30秒ピッタリというわけではなく、その日の体調などによって多少上下するんだけども。
このジクジクとした嫌な感じの痛みは、そのタイムリミットの予兆……というか、初期症状だ。
多分、脳が処理する情報量が多すぎることで悲鳴を上げているとか、そういう状態なんだと思う。
これを感じながらも「アニメ転生」をオンにしていると、頭痛は更に酷くなるし、果てには酔ったような感覚と共に酷い混乱状態に陥る。
そうなると、とてもじゃないけどもう走ることはできない。勢いそのまま転倒して事故を起こすことになるだろう。
勿論、歩さんのウマ娘であるところの私が、そんな事故を起こすわけにはいかない。
私は慌てて天星スパートの前傾姿勢から通常の走行姿勢に立て直し、「アニメ転生」のスイッチをオフに切り替える。
天星スパートは、あくまで「アニメ転生」中限定の姿勢だ。
通常状態で使うにはあまりにも脚に負担が大きすぎるっていうのは、あの宝塚記念でよくわかった。これ以上使うわけにはいかない。
「……ふぅ」
「アニメ転生」を切ったことで、頭痛はゆっくりと消えていった。
ひとまず一安心といったところか。
……しかし、ちょっとマズいな。
想定よりも、かなり消耗してしまった。
今回の有馬記念において立てた作戦は、ジャパンカップ直後に歩さんが立てた粗い骨子に、私と昌さんが肉付けしたもの。
ただ、私たちには歩さんほどの能力はないから、こうして微妙な誤差や失敗が生じてしまう。
今回の最大の読み間違いは、ターボが想定以上に粘ったことで、私の「アニメ転生」の開始位置が遅れてしまった、というものだ。
これに関しては、ターボを舐めていたとかそういうことではなく、彼女がデータに表れにくい根性を振り絞った奮闘の結果、と言うべきだろう。
だから、そこに関しては仕方がないと思うんだけど……それはともかく。
良くも悪くも、この微細なズレは、レースの状況を大きく変えてしまった。
本来のプランでは、第四コーナーを抜けて正面の直線に入ると同時に天星スパートを開始し、約350メートルの直線内でスズカさんをかわすつもりだった。
コーナーに入れば、どうしたって走る力に無駄が生じてしまう。だからそうなる前に、最低限の負担でスズカさんを抜き去り、後半に備える……。
それが、この有馬記念に勝つためのプランだった。
けれど……。
ターボが想定以上に粘ったことで、天星スパートの開始は直線の半ばとなり。
その上、スズカさんが計算以上にその力を発揮したことで、越えるのは600メートルギリギリになってしまった。
結果として、第一第二コーナーで、過剰なくらいに速度を出すはめになってしまい……。
更には「アニメ転生」でこれからの展開について考える時間もなくなってしまった。
……そう言えば、いつかトレーナーが言ってたな。
「ウマ娘は常にこちらの想定を超えてくる」って。
なるほど、今になってその言葉の真意を理解する。
必死に研究し、数値化し、考察し……しかしそれでも、ライバルたちは想定を超えてくる。
それが脅威でないはずがない、か。
けれど……。
『さぁ体勢を戻した先頭ホシノウィルムが向こう正面を駆けていきます! 現在1400メートル、ここまでのタイムは1分19秒4!!
番手となったサイレンススズカは少し下がって、先頭から1バ身程度開いたか。そこから3番手ダイタクヘリオスまでは13バ身程、ジワジワと差は詰まり始めています』
『2人とバ群までの距離もそうですが、バ群自体も縦に広く開きましたね。25、いえ、30バ身程度あるでしょうか?
自分のペースを保つべきか、あるいは意地でもこのハイペースに乗るべきか、空前絶後のこのレース、各ウマ娘の判断が問われています!』
……もう、スズカさんは脅威にはならないだろう。
歩さんの言う「絶好調状態」が解かれた今、まるで重力を無視するような走りを見せていたスズカさんも、これからはスタミナの有限性というルールの下で走ることになる。
そしてスズカさんのスタミナは、私のそれよりも乏しい。
彼女は既に本格化を終え、その身体能力が大きく成長することはない。
1か月前の段階で私が上回っていたんだから、今は逆転している、なんてことは起こりえない。
本来はその無敵性でスタミナ不足を補う走りを見せていたんだろうけど……今はもう、それも不可能。
更に言えば、彼女は大外枠から先頭に立てるくらいに全力で駆け出し、コーナーの中で遠心力に振り回されながらターボと熾烈な競り合いをして、その上私の天星スパートと対等にやり合ったんだ。
そのスタミナは大きく抉れているだろう。
仮に、私の「アニメ転生」のように負担を軽減できていたとしても、完全にゼロにできているわけではないはず。
今、彼女がペースダウンしていることからも、それはほぼ間違いないことだと思えた。
異次元から引き落とされた逃亡者は、もはやスタミナで私に劣り、ここまでに消耗し過ぎた大逃げウマ娘に過ぎない。
もしかしたら、また限界以上の力を引き出して迫って来るかもしれないけど……。
もはや彼女の無敵性はなくなった。私が追い抜かれない限り、復活することはない。
長距離に対する適性不足、残ったスタミナから考えても……ターボのように大きく垂れることはないにしても、ここから私を抜き返すことは不可能。
ホシノウィルムがサイレンススズカに負けることは、もうないはずだ。
この有馬記念における、私にとって最大の壁の1つ、異次元の逃亡者サイレンススズカ。
私はこれを、なんとか突破したことになるだろう。
……でも、当然ながら、まだ油断はできない。
昌さんと一緒に立てた作戦において、私は第一第二コーナー内と向こう正面では、ある程度リードを保ちながら速度を緩め、息を入れるはずだった。
「アニメ転生」の開始地点までは、ターボとスズカさんの破滅的と言っていいペースに合わせて走らなきゃいけないし……。
天星スパート中も、いくら「アニメ転生」を使っているとはいえ、負担はゼロにはならないんだ。
故に、スズカさんを突破したら、一旦減速しないと流石にスタミナが持たない、というのが私たちの予測だった。
だから今、私はスピードを落としている。
スズカさんには決して追い付かれない、けれど過度な負担にならないような……いわゆる経済速度から僅かに速めた程度のもの。
けれど、すぐに追手が迫って来るだろう。
いつまでも、これを続けるわけにはいかない。
スズカさんに勝ったとはいえ、まだ有馬記念は終わっていない。
いや、距離的に言えば、ここでようやく折り返しだ。
『さぁ前から振り返って行きましょう。先頭ホシノウィルムから1バ身サイレンススズカ、そこから11バ身程度開いてダイタクヘリオス、セイウンスカイ、バイトアルヒクマ追走。
そこからはトウカイテイオー、ハッピーミーク、メジロマックイーン、スペシャルウィーク少し前に出たか、そこから少し空いてナイスネイチャ、メジロライアン、ダイサンゲン!』
『おっとここで仕掛けたのはハッピーミーク、徐々にペースを上げていく! 釣られるようにしてセイウンスカイ、トウカイテイオーも前に出ました! ここからペースアップか!』
早いな……もう来たか。
私の聴覚の範囲に、数人のウマ娘の足音が聞こえ始めた。
1人は聞き覚えのある……いや、少し足音が変わったみたいだけど、久々に聞いたテイオーのものだ。
そしてもう1人は、宝塚記念の終盤に聞いた軽快な足音、スカイ先輩だろう。
一方で、残る1人の方は……聞き覚えはない、初めて競う相手だ。
でも、この自由なようでいてしっかりと基礎の根付いた足音には、察しが付いた。
……ミーク先輩、ここで仕掛けてくるか。
さて、どうするべきだろうか。
私と昌さんは、歩さんのようにはなれない。
昌さんは相当に頑張ってたけど、それでも歩さん程にデータ収集ができるわけではないし……。
私は2年間で培ったレース勘で、直感的な展開予想はできるけど、それでも歩さん程に正確な展開予測はできない。
だから、歩さんがするような正確無比な作戦立案は、私たちには不可能だ。
この有馬記念において、ターボとスズカさんが張り合うところまでは間違いない。
そして、スズカさんを正面の直線で──実際には、第二コーナー内までかかってしまったわけだけど──超えるべきだろう、というところまでは予測できた。
しかし、ここから先の展開の予測は、非常に困難だった。
なにせ、このレースには策謀に秀でたウマ娘が2人も参加している。
セイウンスカイ先輩と、ナイスネイチャ。この2人はどこで何をしてくるか、予想すらできなかった。
一体どこで、どのように仕掛けてくるか。あるいは、他のウマ娘を仕掛けさせるか。
私を超える最適解というだけなら、むしろ読みやすい。なにせ明確な答えが存在するんだから。
……けれど今回のレースは、私の他にも対策すべきウマ娘は多い。
スズカ先輩を超え、スペ先輩たちを抑えながらの勝利となると……彼女たちがどういう策を取るか、私たちには想定することすらできなかった。
歩さんは「こちらにかかる負担は減る」って言ってたけど……むしろ状況が複雑になったことにより、私たちにとってはより読み辛くなってしまったんだ。
更に、警戒すべきはその2人だけじゃない。
このレースには、私でも止められない身体能力を持つウマ娘が、少なくとも4人いる。
既に超えたサイレンススズカさんはひとまず置いておくとしても、いつも通りの好位抜け出しを狙ってくるだろうメジロマックイーン先輩、先行で来るか差しで来るか読めず未知数な部分も多いハッピーミーク先輩、そしてやはり誰よりも恐ろしいスペシャルウィーク先輩。
これだけの逸材、これだけの優駿が揃った今回の有馬記念、一体誰がどう出てくるかなんて想像すらできない。
あるいは歩さんなら、いくつかのプランに絞り込めたかもしれないけれど……残念ながら、私と昌さんには不可能だった。
歩さんの立ててくれた骨子を参考にしようとしても、あれはあくまで情報の精度に難のある1か月前のデータを元にしたもの。
参考にするならまだしも、絶対に正しいと信じられる程の精度ではない……と、歩さんの残したデータの中に書いてあったらしい。
……いや、そもそもこんなトンデモレースに対して、1か月前にある程度の予測を付けられる方がおかしいと思うんだけど。
そんなわけで、ここから先は、アドリブで対処すべき部分が大きいんだ。
落ち着いていかないと……。
『さぁ先頭ホシノウィルム、向こう正面を越えて第三コーナーに入りました!
ここからおおよそ900メートル、レースもいよいよ終盤といったところです!』
さて、改めて。
今迫って来ているのは、後ろ7バ身程度にスカイ先輩、少し距離を置いてミーク先輩と、そのすぐ後ろにテイオー。
いや、もう1人来たか。徐々にペースを上げてきているのは、すごく力強い足取り……。
これは、スペシャルウィーク先輩……か?
……マズいな、これはちょっと、マズい。
テイオーだけならいい。そこにミーク先輩が加わっても、対処可能な範囲。
あるいはそこに領域を封じられたスカイ先輩がいても、ギリギリなんとかなるレベルだったと思う。
けれど、スペ先輩まで入って来るとなると……もはや猶予はないだろう。
残ったスタミナは、そこまで多いわけではない。
それを900メートルという距離に適切に割り振る必要がある。
問題は、後ろから来るウマ娘へ対応する必要があること、そして領域という数値化し辛い現象……。
……駄目だ、まだ不明なピースが多すぎる。こうして走りながらじゃ、とても正確には考えられない。
ここで「アニメ転生」が残っていれば、これからの300メートルに全力を注げたろう。
あるいは、ここからの適切なペース配分を、正確無比に割り出すことができたかもしれない。
けれど、何を言おうと、ない袖は振れない。
どちらにしろ、スズカさんを超えるためには、あそこで「アニメ転生」を切る必要があったんだから。
戦いは、いつだって全力を出せるものではない。
スズカさんは私によって、その無敵性を剥ぎ取られた。
スカイ先輩は、このレースでは領域の展開が難しいはず。
ネイチャは、その策謀の大半をバ群の処理に占められ、こちらに割けないだろう。
私たちは、その場その場の状況に応じて、持てる力を振るわなきゃいけない。
だから、私も……今の私にできる、最善を尽くさなきゃ。
さぁ。
ここからペースアップして……走り切るぞ!
『もはやサイレンススズカとツインターボの叩き合いは遠い過去、第四コーナーに入ります!
サイレンススズカ、懸命に粘るが今なおホシノウィルムには届かないか! 一方後ろからはセイウンスカイを筆頭にバ群がペースアップ! 最終直線だけでは差し切れないと判断し、ロングスパートをしかけに来たか!?』
『ここからが勝負所! 中山レース場の直線は僅か310メートル、果たしてこの大きな大きな差を詰めることのできるウマ娘は出て来るのか!』
あと……500メートル。
まだ、ゴールは見えない。
徐々に重くなってきた脚で、懸命に体を前に進める。
少しでもこのリードを維持できるよう、けれど負担が大きくなり過ぎないように細心の注意を払って、芝の大地を蹴り飛ばした。
終盤以降、私は領域の展開が可能になる。
私が領域を開く条件は、恐らく間近で……推定1バ身以内に、他のウマ娘の熱を感じること。
それを満たした瞬間、私は領域を開き、更なる力を振るうことができるようになるんだ。
けれど、それも無制限というわけではない。
領域は「アニメ転生」と同じで、その維持にタイムリミットがある。
そもそも領域というのは、言わば極限の集中状態。チートもなしにそれを維持するのは、生物としてかなり強い負担がかかるものらしい。
故に、私たちウマ娘が領域に入っていられる時間は、おおよそ5秒から15秒程度。
そこから先は、領域で得た速度や加速力の恩恵を上手く残しながら走るしかない。
最大である15秒展開し続けたとしても、その持続時間は「アニメ転生」の半分でしかない。
距離にしておおよそ300メートル弱、つまりこの短いと言われる中山の直線と同程度。
最後まで領域に入った、全力全開の状態で駆け抜けるために……。
私はなんとしても、最終直線に入るまで、領域を温存しなくてはならない。
そのためには、後方1バ身以内にライバルを入れないよう、リードを保ち続けなければ。
勝つために。
誰よりも早く、ゴールするために。
……しかし。
それは結局のところ、私が現在の状況から、最も早くゴールする方法……。
つまり、「最も勝率の高い走り」でしかない。
もしも。
もしも、現段階で、勝率がゼロであったら……。
私は……どうすればいいんだろうか。
『ハッピーミーク、ここでスパートを切りました! 先頭までの距離はあと4バ身、サイレンススズカの番手はここまでか!?』
『スペシャルウィークがトウカイテイオーをかわしてハッピーミークに続き……いえ!!』
ゾクリと、心臓を鷲掴みにされたような恐怖が、私の思考を硬直させる。
「それ」が、見えた。
見えてしまった。
* * *
美しい星空の下。
何十、何百、何千、何万、あるいはそれ以上。
数えきれない色とりどりの星々が、1人のウマ娘の背後から飛び去って行く。
幻想的に美しいその景色の中を、彼女は駆ける。
「日本一のウマ娘として」
その薄紫の瞳が映すのは、ライバルでもターフでもなく、遥か先。
いつもは緩めている唇を凛と結び、1人の戦士となった少女は、ただ至るべき場所のみを見据えて。
「このレース」
そうして、彼女の背中を押すように流れていく無数の星が、1つの点に結集する。
至るべき栄光。
他の全てを超えた先の、たった1つの頂。
「この勝負……!」
……自らの言葉の通り。
彼女は、何万何十万という夢を背負い。
ただひたすらに、走り続け。
そうして……自らと、トレーナーさんと、そして世界の全てを信じていた。
……だから、彼女の元に道が拓ける。
黄金に輝く、たった1つの、王の道が。
「勝ちますッ!!!」
* * *
負ける。
敗北の予感が……いいや、確信が。
初めて、恐怖として、私の心に刻まれた。
『スペシャルウィーク抜け出した!! 爆発的加速で一気にハッピーミークを抜き去りました!
サイレンススズカまでの距離はあと1バ身、ホシノウィルムまでは2バ身!!
さぁそろそろ最終直線だ!! バ群もすぐそこまで迫っているぞ!』
それはきっと、ウマ娘以外には理解できない感覚だったと思う。
スペシャルウィーク先輩の領域は、余りにも完成され過ぎていた。
言うならば、ジャパンカップで見たマックイーン先輩の領域の、更なる上位。
その美しさに、私は心を打たれて、絶望しかけてしまったんだ。
完全に洗練され、究極に磨かれた、文字通りこれ以上ない程の「自分の世界」。
不足しているものがない。あらゆるものが完成している。満ち足りている。
この世界に彼女の脚を阻む要因は一切なく、そして世界全てが彼女の背中を押していた。
これが……領域の、最奥。
自らの心と魂、そしてこの領域の……いや、「世界」の全てを味方に付けた、絶対的な、「我」。
私は、これに勝てるだろうか。
スペ先輩の、勝ちたいという欲求。
もっと速く、もっと強く、完璧に、絶対に、何が何でも、誰かに勝ちたいという、燃え上がる闘争本能。
この上なくエゴイスティックで、この上なく真摯な、彼女の想いに。
……いや、違う。
勝てるかじゃなくて、勝ちたい。
勝ちたいじゃなくて……勝つんだ!
足音は、ほんの一瞬で迫って来る。
こっちがあれだけ頑張って稼いだ大差なんてものともせず、彼女は私の後方1バ身に踏み込んだ。
その瞬間、彼女の世界を押しのけるようにして、私の領域が広がる。
……それでも、私だってやられるばかりじゃない。
懸命に脚を伸ばし続け、ここまで距離を稼いだんだ。
この場所はもう、ちょうど最終直線に入る辺り。
ここからなら……最後まで行ける。行ってみせる!
……けれど。
この時の私には、1つ、忘れてしまっていたことがあった。
歩さんに、言われていたはずだ。
「領域はウマ娘の心持ちによって、その形を変えることがある」と。
いくら忘れようとしても、意識の外に追い出そうとしても、あるいはどれだけ信じようとも……。
領域は、鏡のように、私たちの心を映し出す。
* * *
星空の世界。
数多の星が、私を照らし、温めてくれる、ホシノウィルムの領域。
けれど、私の視界に広がったそこは、いつもと様相が違った。
確かに、多くの星がある。
多くの人やウマ娘が、私のことを見て、期待し、愛してくれている。それは変わらない。
でも……。
今はその星が、ただ1つ、欠けていた。
私を導いてくれた一等星が……雲の向こうに、隠れてしまっていたんだ。
「……っ」
その事実に、一瞬、怯えた。
私の傍にはずっと、あの星があった。
私を支え、導き、共に歩んでくれるあの星が。
だから、ここまで来ることができたんだ。
だから、私は今、走れているんだ。
けれど……。
今、私の世界に、あの星はない。
いつかは再び顔を出すと、またあの輝きを見せてくれると、そう信じようとも……。
この瞬間に、あの星が見えないことだけは、揺るがない真実だった。
「……、あ」
それが、どうしようもなく……寒くて、冷たい。
星を見失った旅人は、もう二度と、目的地にたどり着くことはない。
だから、私はこの領域に……「世界」に、助けてもらうことが……できない。
理解が、現実が、その冷たさが、私の心を覆い……この体を氷漬けにする。
その、寸前。
トン、と。
冷たくて、どこか懐かしい2人の手に、背中を押された気がした。
「…………いや」
過去、というものは……。
変えようがない。決して変えられないものだ。
たとえば、そこで誰かに助けを乞われ、けれどそれを叶えられずに、見殺しにしてしまったとしても。
あるいは、この世界に異端な存在として生まれ、自分のせいで愛すべき家族を破綻させたとしても。
それは、決して変えられない事実として刻まれる。
覆しようがなく、贖いようがなく、これからの一生……あるいは、記憶が続くのなら転生した先でも。
私たちがずっと抱えていくべきものとして、残り続けるのかもしれない。
……でも。
でもさ、歩さん。
その過去がなければ、私たちはここにはいないんだよ。
それが如何に辛くて痛々しくて、あるいは冷たくて無力感に満ちたものだとしても……。
それは間違いなく、今の私たちを形作った経験であり、私たちをここに導いてきた一因だ。
たとえ苦しいばかりの過去だったとしても……その過去がもたらした
そして……
だから私は、過去を抱えていく。
決して誇れるものじゃない。私のせいで2人の家族の歯車が狂ったことを、誇れるわけがない。
けれど、そんな最悪な過去も、一生背負って生きていくんだ。
そうして、未来に歩んだ先に……きっと、あなたがいるから。
「星は……ッ!」
手を伸ばす。
あの日、垣間見た星の方向に。
あの夜、私の手を取ってくれたあなたに向かって。
領域が、ウマ娘の心を示すと言うのなら。
受け入れた過去もまた、私の世界に内包されると言うのなら……。
キラリと、遥か彼方、導きの星が煌めく。
厚い雲の先、ただ今までは見えていなかっただけで……。
私が取り戻すべき希望は、確かに。
「そこに、ある──!!」
* * *
残り、約300メートル。
最終直線に入った瞬間、私の世界が拓けた。
……大丈夫。
もう、目指すべき場所はわかってる。
スペ先輩が王の道を行くのなら、私は星を目指す。
その過去が、
私を、ゴールの先に導いてくれるんだから!
「っ、がぁぁぁあああああ!!」
『さぁ最終直線、ウマ娘がどっと押し寄せて来る!
逃げる灰の龍ホシノウィルム、それを追うは日本一かスペシャルウィーク!
内からハッピーミークにサイレンススズカ、メジロマックイーンはここにいる!
更に大外から、これはびっくりダイサンゲン!? その後方から詰めるのはナイスネイチャだ!!』
『誰が前に出るかのか、誰が夢を掴むのか、もはや誰にもわからない!!
この奇跡の舞台でセンターを飾るのは──!?』
「私、だぁぁぁぁあああああッ!!!」
「勝ちたぁぁぁあああーーいッ!!!」
『ホシノウィルム、スペシャルウィーク、もつれ込むようにしてゴォォオオルインッ!!!
とてもではありませんが、ぱっと見ただけではどちらが1着かわからない、あまりの大接戦でした!!
これは……写真判定!! 今年の有馬記念は、写真判定です!!!』
* * *
「かっ、はっ……は、ぁ……」
頭が、回らない。
体が、上手く動かない。
私は、なんとか減速した後、ターフの上に倒れ込んだ。
……スタミナも、根性も、本気も、底力も、全部全部出し切った。
限界なんてとうの昔に超えてしまって、世界が歪んで、白くなって……意味がわからなくなって。
それと同時、どうやら私は、ゴールラインを踏み越えていたらしい。
その瞬間、彼女は、隣にいた。
私と一緒に、本当にすぐ隣で、ゴールしていた。
ほんの少し、勝ったと思った。
多分、私の方が数ミリメートル先にいた。いたはずだ。そう信じたい、と。
でも同時、負けたとも思った。
きっと、彼女の方が先にいたはずだ。あんなに綺麗な走り、綺麗な世界だったんだから、と。
「はぁ……はぁ、はっ……げほっ」
体の熱か、あるいは勝負の余韻か……。
とにかく体が熱くて、でも同時に冷たくて。
その熱を少しでも外に逃がそうと、ゴロンと仰向けになって。
「……ぁ」
自然と見上げた、雲1つない空に……その青さに、驚いた。
なんて綺麗な青空なんだろう。
ずっとこの空を見ずに、ここまで走って来てたんだ、私。
……そうか。
緊張とか、興奮とか、そんなので一杯になって、空を見る余裕なんてなかったから……。
あぁ、なんて、もったいない。
もっと早く、こんなに綺麗な空がそこにあるって、気付けば良かったのに。
「ウィルムちゃん」
声をかけられて、視線だけを動かす。
そこには、黒鹿毛の髪を垂らした、彼女がいた。
……マズい、頭が回らない。
確かに名前を知っているはずなのに……彼女の名前が、出てこない。
黒鹿毛の彼女は、私に手を差し出してくれた。
先輩として。
……あるいはもう、「ライバルとして」だったら、嬉しいんだけど。
そうして、彼女は荒れる息もそのままに、言った。
「勝っても負けても悔いなんて残らない、すごく良い……いや、最高のレースだったよ!
私と一緒に走ってくれて、ありがとう!」
……はは。
そんなこと言われたら、胸が一杯になっちゃいますって。
もう……まだ、泣くには早すぎるのに。
「こっち、こそ……最高の、レース……でし、た」
私は、かろうじてそう返事して……彼女の手を、握った。
『長い写真判定の末、結果が確定しました!!
たった3センチメートルの差で1着をもぎ取り、奇跡の有馬記念を制したのは────!!』
* * *
ウイニングライブを終えて、私はステージを後にする。
この後は控室で待機してくれてるはずの昌さんと合流し、制服に着替えて帰らなきゃいけない。
……あー、めんどくさい。
もう1歩も歩きたくないのに、帰ったらご飯を食べたりお風呂に入らなきゃいけないなんて。
今日は疲れた。
本当に、本当に疲れた。
正直、レースの後にライブをやるとか言い出した人を殴ってやりたいくらいだ。
なんで当日、それも数時間後なんだよ。こっちはもう生まれたての小鹿くらい脚がプルプルなんだ。せめて翌日にしてくれ翌日に。
……いやまぁ、ファンの皆の応援への感謝という意味では、やっぱり当日が良いと思うんだけどさ。
もうちょっとどうにかならないかな、その辺り。まぁどうにもならないから、今もこれが続いてるんだろうけども。
私たちの疲労と、ファンへの恩返し。
この2つを天秤にかけるなら……確かに後者の方が重いわけで、こればっかりは仕方がないのかな。
でもそれはそれとして、やっぱり疲れるものは疲れるんだ。
今日はもう何もしたくない。早く帰って寝たい。
そんな風に、心の中で愚痴をこぼしながら、控室に戻ろうとしているところで……。
ふと、俯きがちに歩いていた私の前に、2本の足が生えた。
誰だか知らないけど、今の私は疲れてるんだ。さっさとどいてほしい。
あまりの気怠さに思考停止して、ただそれを避けようとして……。
……そうして、私は。
「おい、君、止まれ」
…………ずっと聞きたかった声を、聞いた。
「まったく、目を覚まして急いで来たというのに、その反応は……なんかこう、少し傷つくぞ。
もうちょっと……なんだろう、『待ってましたよ』とか、そういうのはないのか、そういうのは」
……その声。
「いやまぁ勿論、ずっと寝ていた俺の方が悪いし、君が拗ねるのも仕方がないとは思うんだが……。
というか、担当の有馬記念に間に合わないとか最悪すぎるし、トレーナー失格くらいあるわけだが。
その件に関しては、本当に申し訳ないと思う。後日、改めて謝らせてくれ」
その声も、話し方も、どことなくズレた話も……。
すごく、聞き覚えがあった。
ずっとずっと聞きたくて、けれどこの2週間、聞けていなかった声。
思わず顔を上げようとして……ピクリと痙攣して、終わる。
もし、違ったらどうしよう。
私の思い描いた人じゃなかったらどうしよう。
きっと、傷ついてしまう。生半可に希望を持った分、酷く傷んでしまう。
それが、怖くて。
けれど……。
「ウィルム先輩」
もう1つ投げかけられた、聞き覚えのある……今もまだ病院にいるはずの、後輩の声と共に。
私の頭は掴まれ、無理に前を向けさせられて。
そこにいた、のは…………。
「トレー、ナー……?」
「ああ。……君の感覚で言えば、久しぶり、になるのかな、ホシノウィルム」
ちょっと申し訳なさそうな顔をした……。
私のトレーナー、堀野歩さん、だった。
スペシャルウィーク
『シューティングスター Lv6』
レース終盤に前の方で相手を抜くと勢いに乗って速度が上がり、加速力もちょっと上がる。
更に、背負った夢が流星となり黄金の道を切り開く。
ホシノウィルム
『天星の蛇龍 Lv2』
レース終盤に他のウマ娘に競り合うか負けかけると、星々の輝きを受けて燃え上がり勝利を誓う。
次回は2日後。トレーナー視点で、その日の話。
(追記)
誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!