ホシノウィルムは、有馬記念を制した。
サイレンススズカ、スペシャルウィーク、セイウンスカイにハッピーミーク、メジロマックイーンとメジロライアン、ダイタクヘリオス、そしてナイスネイチャやトウカイテイオー、ツインターボ……。
並みいる強豪相手に1歩も引かず、見事にその強さを証明したんだ。
そうして、それからしばらく経ったある日。
彼女は今回の「ご褒美権」を使って、1日の間、一緒に遊ぶことを要求してきたのだった。
* * *
トレセン学園近くの住宅街にて。
「トレーナー、こっちです!」
そう言って、ホシノウィルムはこっちに向けて元気にぶんぶんと手を振った。
いくら変装しているとはいえ、彼女は日本でも最上級の有名人。
往来で大声を出すような目立つ行為は避けてほしいというのが本音だったが……。
ま、今日くらいはいいだろう。
彼女は有馬記念のために、ずっと頑張って来たんだものな。
……いや、有馬記念だけじゃない。
去年は本当に色んなことがあった。
彼女の故郷でご両親にご挨拶し、彼女の過去について聞かせてもらったり。
ダービー直後には俺の思い違いから、辛い想いを強いてしまい。
宝塚記念で、俺は彼女に惚れ込んで、彼女のトレーナーになりたいと望み……。
そこからは二人三脚でリハビリをこなし、なんとかジャパンカップを制して。
そうして年末、有馬記念だ。
俺は彼女にとんでもなく迷惑をかけてしまったし、更に言えば、彼女の頑張りはその年齢に見合わないくらい多大なもの。
それらへの謝罪と報酬が「丸1日、自制もなく遊び回る」というのは、むしろ少なすぎるくらいだろう。
俺は苦笑しながら、彼女の隣に立つ。
すると……。
「……ん?」
ホシノウィルムは、俺の腕に自分のそれを絡めて来る。
思わず彼女の方を見ると、少しだけ照れくさそうに笑った。
「いけませんか?」
「……いや、いけなくはない、が」
「ふふ。それじゃあ、行きましょう!」
そう言って……彼女は、歩き出した。
彼女の言う「遊ぶ」というのが何を指すのか、俺にはわからなかったが……。
結果から言うと、彼女が選んだのは……。
なんというか、彼女には珍しく年相応……いや、それ以下だろう内容だった。
それは例えば。
「じゃあ探しますよ、トレーナー! ……いや、あの、木の裏は流石に無理があると思いますが」
公園の敷地内限定で、かくれんぼをする、とか。
「あはは、そんなんじゃ一生捕まりませんよ! 鬼さんこちら、手の鳴る方へ!」
無意味に追いかけっこをしてみる、とか。
「うん、やっぱり……高いところに登ると、気分が良いですね」
ジャングルジムに登ってみたり、とか。
そういった、所謂子供が「遊び」という言葉から想像するようなもの。
俺たちはそんなことを、人目も気にせず、日が暮れる直前まで繰り返した。
そろそろ日も暮れるという時刻、俺たちは帰路につく。
「ふぅ、楽しかった……。こうして子供らしく遊んだのは、ずいぶんと久方な気がしますねぇ」
世界が夕闇に包まれて行く中、白い街灯に照らされた彼女は踊るようにくるくると回り、笑った。
「思えば、歳を取るにつれて、こういった遊びをすることはなくなりますよね。
でも、こうして子供みたいに好き勝手に遊び回っている時が……一番楽しい気がします」
「……ふむ」
その言葉には、少なからず頷ける部分があった。
俺たちは歳を重ねる毎に、多くの過去と経験を抱えていく。
そしてそれは、決して前向きなものだけとは限らない。
人間関係の面倒臭さとか、しなければいけない義務だとか、あるいは辛い過去だとか……そういったものも、たくさん背負い込むことになる。
そうして余計なものを抱え込む内に、俺たちはいつしか、純粋に遊び回るようなことはできなくなる。
前向きな未来を根拠もなく信じられる子供から、効率とか意味とか周りの視線を気にして、気ままな行動を取れなくなる大人になってしまうから。
「……生きれば生きる程、背負うものが多くなる。楽しいだけの人生が、苦しいものに変わってしまう。
それなら死んだ方がマシ……とまでは言いませんが、ずっと子供のように遊んでいた方が楽しい。
ね、あなたもそう思いませんか?」
楽しそうに、街灯の下でくるくると回っていた彼女は、ふとそれを止めて俺に聞いて来る。
何も背負わず、何も考えなくてよかった子供の頃が、一番楽しかったのではないか。
……そんな頃に戻りたくはないか、と。
俺は半ば衝動的に肯定しそうになり……しかし、首を振った。
「いや。俺はこのままでいい」
「そうですか? こんなに楽しかったのに?」
「楽しかった、という事実は否定しないが……俺はそれ以上にやるべきことがあるからな。
……それより、1つ聞いていいか?」
「はい? どうぞ」
……明確に意思を問われ、ようやく彼女に対して自由に会話をできるようになった。
この機会を逃すわけにはいかない。
俺はずっと疑問に思っていたことを、口にする。
「君は誰だ? 何故、ホシノウィルムの見た目をしている?」
* * *
目の前の、ホシノウィルムの姿をした少女は、けれどホシノウィルムではない。
俺の確信めいた言葉に、彼女は数秒固まった後……。
「……いつ、気付いたのかな」
先程まで浮かべていた表情を消して、俺にそう聞いてきた。
それへの回答は……。
「君に会った時、だな」
……この世界の違和感には、朝から薄っすらと気付いていた。
今朝以前の記憶が、ぼやけて思い出し辛い。明確に思い出せた……いや、事実だと認識できたのは「ホシノウィルムは有馬記念に勝利した」ということくらいだ。
特に、昨日何をしていたかとか、昨夜食べたご飯なんかは、何1つ思い出せない。
……まるで、そんな細かい設定はされていない、とでも言うように。
更に言えば、そもそも思考が動きにくい。
どこかぼんやりとしていると思えば、逆に突飛な方向に吹き飛んで行ってしまうこともある。
ただ、これだけなら、何となく「そういうこともあるだろう」って納得できていたんだが……。
それら全てから視線が逸らせなくなったのは、やはり彼女を見てからだ。
「君はホシノウィルムじゃない。そんなことは、見ていればわかる」
「……そうかな。結構頑張って、彼女を演じたつもりだったんだけど」
思わず眉をひそめる。
何を言っているんだろう、彼女は。
「ホシノウィルムと君では、笑顔が違いすぎる。ホシノウィルムはそんなに綺麗には笑わないんだよ」
勿論、それが最も大きな違いというだけで、他にもたくさんの相違点はある。
話し方、言葉選び、間の取り方、振る話題の内容、身振り手振り、恥ずかしがり方、小さな癖。
それらが全て違うともなれば、ただレースでの勝利ではっちゃけていると納得することはできない。
彼女は、ホシノウィルムの姿を取っているだけの、別人。
そう判断することに、時間はかからなかった。
そして、いくら意識がぼんやりしているとはいえ、1つ疑問に思えば芋づる式に不明が沸き上がる。
何故12月中旬以降の記憶がはっきりしないのか?
そもそも、記憶を思い出そうとすると思考が停滞してしまうのは何故か?
自分が今、体系的に物事を考えることが難しくなっている理由は?
そして何より、何故それらを今まで疑問に思えなかったのか?
それらの疑問に対し、説明のつく答えはただ1つ。
「これは、現実じゃない。俺が見ている夢なんだろう。違うか?」
俺が自らの推論を口にすると、彼女は……少し硬直した後、苦笑する。
「……こういうところでも、相変わらずだね」
「ん? 相変わらず?」
「目の前の疑問から目を逸らせない。不器用だから、未知とか困難、恐怖とストレスに対しても、真正面からぶつかっちゃう。
真面目だよね、君は。……気付かないフリをしてれば、ずっと気楽でいられるのにさ」
それはまるで……俺のことをよく知っているような言い方だった。
いや、そもそも俺の夢の中の人物なんだから、そりゃあ俺を知っていてもおかしくはないんだが……。
改めて、彼女のことを見る。
見た目はホシノウィルム以外の何者でもなく、けれど中身は……意識は、全くの別物だろう。
しかし今日、彼女が取って来た行動を鑑みても……その癖や言動に該当する人物は、絞り込めない。
俺の夢に出て来た以上、どこかで会ったこと、あるいは見たことがあるはずなんだが……。
そう思っていると、彼女は苦笑する。
「そりゃあ、覚えてないよね。まぁ覚えてたとしても、あの頃と今じゃだいぶ違うだろうしなぁ……」
そのよくわからない言葉に違和感を覚えながらも……。
それ以上に、まるで考えを口に出していたかのように会話が成立したことに眉をひそめる。
「……思考を」
「隠し事ができないわけではないけど、私には君の考えていることは、なんとなくもわかるよ。……えっと、そう、君の夢……みたいなものだからね」
一説には、夢は記憶を整理するためにあるらしい。
自分が無意識化に考えていること、思い出した記憶を整理している際に、連鎖的に想起したことがパッチワークされて現れる、意識と記憶の世界。
夢を明晰夢にできれば……つまりそれ自身が夢であることを自覚できれば、空を飛ぶとか分裂するとか、自分の思うままの現象を起こすこともできる。
逆に言えば……今のところ俺には感じ取れないけど、俺が考えたことは全て、この世界に
まぁ、別に思考を見られてもそこまで困るわけでもないんだが。
これが夢である以上、彼女も俺の意識の内の一部なんだろう。自分に自分のことを知られても、大して問題はないはずだ。
白い街頭の下に照らされた彼女は、ホシノウィルムそのものの姿で、けれど決してホシノウィルムのものではない微笑を浮かべる。
「これが君の夢っていうのは……まぁ、概ねその理解で間違ってないよ。
君はしばらく前に車に撥ねられて、昏睡してしまった。これは眠り続ける君が見ている夢みたいなものだと思っていい」
……そう、か。
その言葉を聞いて、ようやく思い出した。
俺は……ブルボンの朝日杯FSの前日の夜、買い出しに行って……。
そう、車に撥ねられたんだ。
背中に衝撃を感じて倒れ込み、車のライトが近づいて来て……そこまでは覚えてる。
けれど、それ以降の記憶が、ない。
彼女の言葉が正しければ、俺はそれで昏睡してしまい、ずっと眠り続けているということになる……!
「まずい、起きないと!」
思わず動転する俺に対して……。
「なんで?」
彼女は、急に表情を消して、聞いて来る。
「なんで起きなきゃいけないの?」
既に日が落ちきった住宅街の中で、チカチカと街頭が点滅した。
それに応じて見え隠れする彼女は、どこか底冷えのする声で言う。
「どうせ起きても、また背負うものが増え続けて、苦労し続けるだけだよ。
そんな辛い思いをして、なんでそこまで……生きようとするの?
誰かを助けるため? それで『誰か』を救ったような気になって救われるため? そうしないと生きていけないから? そうしないと駄目だと感じるから?」
それはどうやら、俺を非難……いや、誘惑するもののように聞こえた。
現実は、辛い。生きても辛いことばかり。
それならいっそ、この夢の中にいればいいじゃないか、と。
「…………」
その言葉は、理解できるものだった。
確かに、生きていて苦労することは多い。特に手酷い失敗をした後なんかは、「合わせる顔がないなぁ」と現実逃避したくなることはある。
彼女の言いたいことは、わかるんだ。
だが、疑問なのは……俺の意識の一部であるはずの存在が、そんなことを言い出すのか、と。
それから、何故その声が、悲痛の色を帯びているのか。
俺は、自分の生き方に不満を持っているわけではない。
自分の意識の一部に、そんな声でそんな提案をされる程、現状に不満を感じているわけではない……はずだった。
それなのに、何故彼女はそうも……悲し気な瞳をしているんだろう。
けれど、それはそれとして。
彼女の言葉に答えるとしたら、それは……。
「俺は、ホシノウィルムの元に戻らなければいけないからだ」
そう、それをおいて他にはない。
「どうして彼女を助けるの? そうしないとといけないような気がするから? 誰かを救わなきゃいけないと、そう思うから?」
「そういうことじゃないよ。そんな……誰かを救いたいなんて、立派な理由じゃない」
自分が駄目な人間だと思うことは多いが、最近は特にそれが多い。
俺がホシノウィルムのトレーナーとして傍にいたいと思う理由は、残念ながらそんな立派なものじゃないんだ。
せめて、彼女の言うような「誰かを救いたい」なんて理由なら、格好も付いたんだけどな……。
俺は思わず俯いて……自分の足元を見ながら、言った。
「ただ……彼女の信頼に応えたいだけだよ」
その信頼を初めて感じたのは、恐らくあのダービーの直後。
あの日、彼女は……「自分のトレーナーはあなたただ1人だけだ」と言ってくれた。
それ以来、彼女は一度としてそのスタンスを崩さず、いつも言ってくれるんだ。
「私はあなたのウマ娘だ」と。
彼女は、俺を信じてくれている。
トレーナーとして、そして保護者として、大人として……導き手として。
そうして、あの日……。
彼女は俺のトレーニングプランを信じ、実行して……あの宝塚記念で、最高の走りを見せてくれた。
俺はそれを見て、「ホシノウィルムのトレーナーとして、これからも彼女の走りを見ていたい」と思わされたんだ。
「ホシノウィルムの信頼に、トレーナーとして応えること」。
結局のところ、今の俺を動かす最大の原動力は、それ以外の何物でもない。
早く彼女の元に戻らなければ、トレーニングを付けられない。彼女の走りを見られない。
だから俺は……早く起きなきゃいけないんだ。
「俺は彼女の信頼に応えたい。信じてくれる彼女に、相応のものを返したい。
トレーニングプランでもいいし、レースでの結果でもいい。とにかくそれで、彼女が楽しく、満ち足りて走る姿……俺はそれが見たい。
ただ、それだけなんだよ」
……本当に、なんて格好の付かない。
ただ、自分が評価されたことが嬉しくて、そうまでして求められたことが嬉しくて……救われたような気さえして。
そうしていつしか、彼女のことを求めてしまっていた。
トレーナーとしてではなく……堀野歩として、彼女の隣にあることを望んでしまったんだ。
でも、それだけ彼女に信じてもらっても、俺には返せるものがない。
堀野歩はトレーナーになろうと決めて生きてきて、それにしか自分の人生を使わなかったから、それ以外には何一つとしてできない。
だから、せめてトレーナーとして彼女を支えようと、そう思った。
結局のところ、俺がホシノウィルムのトレーナーでありたいと望む理由は、ただそれだけ。
ホシノウィルムというウマ娘に相応しい存在であるために……彼女の隣にいることに、相応しい理由が欲しい。
ただそれだけの、本当につまらない……利己的な我欲でしかないんだ。
「俺は彼女のトレーナーとして、隣にいたい。
まだまだ、彼女からもらった信頼に応えきれてないんだ。だから、少しでも早く起きなきゃいけない」
俺はそう、独り言ちるように呟く。
改めて内省すると、本当に……自己嫌悪に陥りそうなくらい、醜い欲求だ。
これが現実であれば、とてもじゃないけど他人には言えなかっただろう。
けれど……。
自分勝手な欲望ではあるとしても、それは俺にとって……大事な理由でもあった。
これが、初めてだったんだ。
初めて俺は……「すべきこと」以上の、「やりたいこと」を見つけられた。
だから俺は、なんとかして起きなければと、そう思って……。
「…………?」
点滅する街灯の下、ふと見えた彼女の表情に、困惑する。
ホシノウィルムの姿をした彼女は……。
悲しそうな、衝撃を受けたような……それでいて、どこか嬉しそうな、複雑な表情をしていた。
何故そんな表情を……いや、そもそも彼女は俺の……?
「……そっか。そっか、そっか。その子のことが、そんなに大事なんだね」
ポツリと、彼女は呟いた。
その表情と同じく、複雑で読みにくい声音で。
「あぁ、大事だよ」
「君の中で一番?」
「あぁ。一番大事だ」
「…………そっか。良かった」
良かった? 何が?
俺がそう聞くよりも早く、彼女は俺の後ろを指差す。
「じゃあ、行って。君の本当に大事で、本当に救いたい女の子のところに」
彼女の指さした先、俺の背後。
そこに広がる景色は、今までと同じ住宅街……では、なくなっていた。
いつの間にか住宅街は消え去り、ずっとずっと先まで、底知れない闇が広がっている。
けれどその中に……1つだけ、遠くに光が灯っていた。
これは、俺が見ている夢だ。
だから、こんな唐突な展開も、あり得るのかもしれないが……。
夢であるということを前提にしても、それはなんとなく、異様な光景に思えた。
「あそこに行けば、目が覚めるのか?」
「うん。……でもその前に、1つの条件と、1つのお願いがあるんだ」
振り返ると、彼女の頭上にあった電灯が、激しく点滅する。
その度に見えたり、見えなくなったりする彼女は、まぶたを閉じて語る。
「まず、条件は……君は1つ、何かを捨てないといけない。いわゆる、事故の後遺症ってヤツ。
……とはいえ、これに関しては安心していい。
それはもう、君には必要ない……むしろ君の足を引っ張るだけのものだったから。
どう、条件を吞んでくれる?」
彼女の語るものが何を指すのか、俺にはわからなかったが……。
「わかった。早く目覚めるためなら、何を捨ててでも構わない」
「……うん、わかった」
その時。
プツンと、彼女の頭上の電灯が、完全に消えた。
とうの昔に陽の落ち切っていた住宅街は闇に包まれ……彼女の姿は、完全に見えなくなる。
しかし、それに対して俺が何か言うより前に、彼女は静かに、どこか切なげに告げた。
「それで、お願いっていうのはね。……あなたの名前を教えてほしいな、って」
「名前? 堀野歩だが……」
「今世じゃなくて、前世の名前だよ。結局、それを知らずに終わっちゃったのが、すごく悲しかったから」
…………?
駄目だ、どうにも思考がぼやける。
彼女の言葉には違和感があって……けれど結局、それが何についての違和感なのかはわからなかった。
……まぁいい、それは一旦置いておこう。
俺の、前世の名前。それを教えても、何か悪いことがあるわけじゃないはずだ。
なにせ、これはただの夢に過ぎないんだから。
俺は素直に、かつての自分を表していた名前を告げた。
「そっか、────。良い名前、だったんだね」
既にその存在も感じられなくなってしまった誰かはそう呟いて……。
直後に、吹っ切れたような明るい声が届く。
「うん、最後にたくさん遊んだし、お願いも聞いてもらった。これで私は十分満たされた!
さぁ、早く行った行った! こんな暗い世界にいてないで、君は彼女のことを支えてあげて!」
言われ、俺は振り向く。
世界からは一切の明かりが消え去って……ただ1つ、彼方の光だけが輝いていた。
俺は、そこへと歩き出し。
そして、いつしか走り出して……。
「さよなら、──君」
最後に、そんな言葉が聞こえた気がした。
* * *
……目覚めは、本当に酷いものだった。
全身が重い。というか、まぶたすら重い。その上、動かそうとすると酷く痛む。
正直に言えば、動かないままじっとしていたかったが……今はそういうわけにもいかない。
既に、さっきまで見ていた夢の内容は、忘れかけているけれど……。
とにかく、俺が長いこと眠っていたことだけは、よく覚えている。
嫌な音を立てて送られてくる、全身からの悲痛な訴えを努めて無視し……俺は上体を起こした。
「マスター!」
「うっ……」
かけられたらしい誰かの声が、わんわんと頭に響き……数秒して、それが自分の担当ウマ娘のものだったと思い出した。
……マズいな、頭の回転が緩い。急がないといけないのに。
「ミホ、ノっ、けほっ」
「! ……再起動確認。急激な運動による過負荷と断定。マスター、一時静止してください」
……お恥ずかしながら、言われなくともそろそろ限界だ。
なんとか上体を起こしたが、今できたのはそこまで。
どうにも体に力が入らない。まるで、脳と体が繋がっていないような錯覚さえ覚える。
というか、鼻、鼻に違和感が……。
あ、これ、管か。
そっか、俺、意識がなかったんだものな。
確かそういう場合は、鼻から胃に栄養剤を送ったり、腹に小さな穴を開けて、そこから胃に入れたりするんだったか?
……取り敢えず、穴を開けられてなくて助かった。
もしそうだったら、流石にどうしようもなかったものな。
俺は震える手に力を入れ、固定器具を取り……管を、引っ張る。
「……マスター?」
ブルボンの怪訝そうな声にも手を止めず……体内を傷つけないよう、慎重にそれを抜き去った。
……本来は、意識がない内か、あるいは麻酔をしてやることなんだろうな。正直涙が出そうになるくらいには強烈な異物感と痛みがあったが、これはもう必要経費だろう。
「う、ぐ……げほっ、げほっ!」
なんとか管を体外に出し切って……俺は鼻を押さえながら、ブルボンに話しかける。
「ミホノ、ブル、ボン……今は、いつ、だ」
「いつ……現在日時という意味で言えば、12月22日、17時37分です」
12月、22日。
ウィルの……有馬記念の、日。
……マズい、最悪だ。
彼女のレースに、間に合わなかったか。
「マスター、どうか落ち着いてお聞きください。マスターは2週間前に自動車と衝突し……」
「わかって、る。ブルボン」
「は、はい」
殆ど無表情ながら、僅かに困惑の色を見せる彼女に、俺は言った。
「お願いだ。中山レース場に、連れて行ってくれ」
ミホノブルボンは非常に聡く、そして素直な子だ。
ある意味で機械的というか……元になった馬がサイボーグと呼ばれた関係だろうか、その思考方法や過程が半ば機械じみて高速かつ純粋なのである。
彼女は俺の言動から、俺が既に状況を理解していることを察した。
その上で、俺が何を考えているかを考えてくれたんだろう。
俺は、ホシノウィルムのトレーナーだ。
このタイミングで中山レース場に行きたいと言い出す以上、その理由は1つしかない。
自分の担当ウマ娘に……ホシノウィルムに、少しでも早く会うためだ。
それらを瞬時に推理すること、2秒弱。
真っすぐで心根の優しい彼女は……コクリと頷いてくれた。
「オーダー……いえ、『お願い』を受諾。
了承しました、行きましょう、マスター」
この病院に勤める方々には申し訳ないけど、今は正規の手続きなんてしてる余裕もない。
俺とブルボンは、バレないようにこの病室を脱出する準備を始めた。
「脱出手段については、お任せください。こういう時のために、ホシノウィルム先輩が教えてくださった方法があります。マスターは、必要な荷物の確認を」
「すまない、頼む」
彼女の言う「方法」がどんなものなのかはわからないが、恐らくこの病院からコッソリと脱出することのできる方法なんだろう。
……「ウィルが教えた」というあたりで嫌な予感がしないこともないが、どうか穏当な手段であってくれ。お願いします。
内心の不安を振り払い、痛む体を押して、ベッドサイドに置いてあるものを見る。
たくさんのフラワーアレンジメントが並べられている。どうやらたくさんの知己がお見舞いに来ていたらしい。
色々と片が付いたら、お礼をしに回らなければならないだろうな。
そしてその中に、俺のスマホは……ないか。
ブルボンは機械類に触れると壊してしまう特性を持っているし、彼女もスマホは持っていないはず。
となると、連絡は難しいかな。事前に昌に話を通しておきたかったんだが。
その代わりと言うように、アレンジメントの陰に置いてあったのは……俺の使っていた手帳だった。
あの事件の時にはスーツに入れていたはずだが、昌が置いておいてくれたのだろうか。
軽く捲って見ると、中には女性の筆跡で走り書きが残されていた。
『起きたらすぐにナースコールすること。絶対に勝手に出歩いたりしないこと。絶対に! 昌』……と。
「……すまん昌、それはちょっと無理だ」
俺はそれを見なかったことにして、手帳の中からページを1枚破り、置かれていたペンで書き置きを残して……。
……あれ、これは?
「マスター、準備完了しました。こちらに」
「あ、うん。頼む」
反射的に机の上にあったそれを掴み、重い体を引きずってブルボンの元に辿り着く。
……と。
ぐいっと、俺の体が持ち上げられた。
「?」
「では、マスター、行きます。衝撃に備えてください」
「???」
あれ、なんで窓が開いてるんだろう。
それと、なんでブルボンは俺を背負っているんだろう。
「あの、ブルボン?」
「オペレーション『エスケープ:フォールダウン』……開始します」
ちょっと、ブルボン?
……ミホノブルボン!?
* * *
ちょっと死ぬかと思ったが、なんとか生きながらえた。
ただでさえ体もボロボロ、精神的にも振るわない状況で、まさか4階の窓から落下するハメになるとはな……。人生って何が起こるかわからないものだ。
ブルボンが窓のひさしや雨どい、柵を使って上手く衝撃を殺してくれたから良かったものの……もし彼女が手を滑らせたりしたら、ぺちゃんこになっていたところだろう。
なんだろう、もうちょっとこう、穏当な手段はなかったものだろうか。
いや、結果としては、多少目立ってはしまったものの病院から脱出できたし、彼女の協力には感謝する他ないんだけどさ。
そんなわけで、俺たちはなんとか病室を脱出することができたんだけど……。
しかし真の問題は、病院を出てからだった。
俺もブルボンも、世間には顔が割れてしまっている。
俺は無敗のクラシック三冠、あるいは五冠ウマ娘のトレーナーであり、ミホノブルボンは中央所属のクラシックレースの有力株。
多少業界に詳しい人ならば、顔を知られていてもおかしくない。
更に現在、俺は全身の筋肉が凝り固まってしまい、とてもじゃないが走れるような状態ではなかったし、着ているのも運動には向かない病衣。
より早く中山レース場に向かうには、ブルボンに背負ってもらう必要があったわけだが……そうなると当然ながら、そりゃもう目立つわけで。
俺たちは人目を避けるため、病院を出てすぐにタクシーを拾い、目を白黒させる運転手に無理を言って、レース場に急行してもらった。
タクシーがレース場に着くまでに、俺はブルボンにあれからのことを聞きながら、凝り固まった筋肉を伸ばそうと、軽い柔軟運動を行う。
ブルボンは、朝日杯FSに勝利した。ただし余裕のものではなく、ハナ差ギリギリのものだったらしい。
一方ホシノウィルムは、一時期は相当に思い詰めていたようだったが、ある時期を境に持ち直した。そして昌とたづなさん主導の下でトレーニングを重ね、つい先刻有馬記念を走った、とのことだった。
ブルボンが続けて「有馬記念では……」と語ろうとした気配を見て、俺はその声を手で制した。
「いや……悪いが、結果はまだ言わないでくれ」
なんというか……有馬記念を見逃してしまった今、結果だけはせめて、本人から聞きたかったんだ。
彼女は俺の意思を汲んでくれたか、コクリと頷いてくれた。
軽く一連の流れを聞き終わった後、改めてストレッチに精を出していると……。
ブルボンがふと、俺の隣に置いてあったものを見て、呟く。
「……マスター、それは」
「ん……よくわからないが、病室にあったので……思わず持ってきてしまった。どうしようか」
俺が手帳と共に持って来てしまったのは、1冊のノート。
表紙にはタイトルも名前も書いていない、まだ真新しそうなものだった。
もし病院の備品だったりしたら、持ち出したのは少し問題かもしれない。
……いや、そもそも勝手に病院を抜け出しているのが既に問題なわけなんだが。
その辺りが少し、頭が痛かったんだけど……。
どうしようかと悩んでいる俺に、ブルボンが呟いた。
「……それは、ホシノウィルム先輩が病室に残していったものです。恐らく、マスターへの贈答品であると推測します」
「ホシノウィルムの……」
「まだレース場まで、少し時間があります。中身の閲覧を提案します」
少し迷ったが……ウィルは相当に追い詰められていたらしいし、これが俺への恨み言であれば、俺にはそれを受け止める責任があるだろう。
「そう……だな」
俺はそのノートのページを開いた。
* * *
確かに、そこには過去への恨み言が書いてあった。
「なんでこういう時にいなくなるんですか」。
「あなたのせいでもう心がハチャメチャです」。
そんな言葉が、いくつも並んでいた。
……けれど。
「また、あなたのトレーニングを受けたい。そうでなくても、ただ一緒にいるだけでもいい」。
「早く目を覚ましてください。言いたいこと、聞きたいこと、やりたいことがたくさんあるんです」。
「いつまででも待っています。あなたが私のトレーナーに戻ってくれる時を」。
「私は、あなたのウマ娘だから」。
「だからどうか、自分だけで抱え込まず、思い詰めないで」。
「私にも、あなたの想うことを一緒に想わせて、背負うものを一緒に背負わせてください」。
「私たちは契約トレーナーと担当ウマ娘で、相棒なんですから」。
「それに、あなたは私を救ってくれた、恩人だから」。
「今度は私に、あなたのことを救わせてください。あなたの隣にいさせてください」。
その何倍もの……明るい未来を望む声が、綴られていた。
* * *
それを読んで……半ば衝動的に、口元を抑える。
…………そうか。
彼女は、これから先の未来でも、俺の隣にいてくれるんだな。
「マスター?」
隣でこちらの様子を窺っていたブルボンが、ふと口を開く。
「ん? なんだ、ミホノブルボン」
「泣いて……いるのですか?」
泣いて……?
気付けば、俺の目からは涙が流れていた。
何故流しているのかも、……誰に向けているのかもわからない、涙が。
「……いや、悪い。起きたばかりで、情緒が不安定なのかもしれない。気にしないでくれ」
俺はそう言って目元を拭い、ノートを閉じて前を向く。
中山レース場はもう、すぐそこまで来ている。
……そろそろ過去を振り返るのではなく、彼女に会って何を言うか、考えなければな。
次回は、明日。ホシノウィルム視点で、彼と彼女の最後のお話。
2回目の本編最終話です。
(追記)
誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました。