1月も中盤に入り、まだまだ冷え込む空気の中。
一人のウマ娘の歓声が、トレセン学園のグラウンドに響いた。
「ライス、ふっかーつ!」
「ふっかーつ」
おー! と天に拳を突き上げたのは、小柄な黒鹿毛のウマ娘と、彼女とは対極的に大柄な栗毛のウマ娘。
私の後輩である、ライスシャワーちゃんとミホノブルボンちゃんだ。
……いや、ブルボンちゃんは別に復活してないでしょうに。こう見えてノリの良い子だよね。
で、そんな彼女たちに対して、私とネイチャはパチパチと手を叩く。
「合同トレーニングとレース復帰おめでとう、ライスちゃん」
「ライス、すごく頑張ってたからね。報われて良かった良かった」
そう。
去年脚部不安が生じ、トゥインクルシリーズの公式レースや私たちとのトレーニングを禁じられていたライスちゃん。
けれど、彼女はついにその状態を脱し、彼女のトレーナーさん……つまりネイチャのトレーナーさんと歩さんの両方にお墨付きを貰って、今日から合同トレーニングに復帰する運びとなったのだ。
いやぁ、本当にめでたいね。
ライスちゃんは私にとって、ブルボンちゃんに次いで応援しているウマ娘。更に言えば、夜の自主トレに付き合ってくれる優しい後輩でもある。
彼女が健全に走れるようになったのは、我がことのように嬉しいよ。
「夜、どうする?」
早速そう聞くと、ライスちゃんは少し気恥ずかしそうに赤くなって俯き、呟いた。
「えと……今夜、いいですか?」
「早速だね。それじゃ、部屋で待っててね」
久々のライスちゃんとの併走の予感にニヤニヤしてると、頭にゴツンと衝撃が走る。
「あいた」
「ちょっと、何の話してんの!?」
そのチョップの主は、私の横で共に快気を祝っていたはずのネイチャ。
彼女は何故かその頬を若干赤らめて、その拳を固く握りしめていた。
……? 何? ネイチャ何に怒ってるの?
「何の話って……そりゃ、夜の自主トレの話ですが」
「…………あぁ、そう、そうよね」
ネイチャはなんだか微妙な顔で、俯いてしまった。
「ネイチャ、何の話だと思ったんですか?」
「いや別に……別になんでもないし! ほら、合同トレーニングでしょ? 走るよ!」
ネイチャからは明確な答えが得られず、ブルボンちゃんやライスちゃんも首を傾げるばかり。
よくわかんないけど……まぁ走れるならいいか。
「行こうか、2人とも」
今日も今日とて、トレーニング開始だ。
* * *
「んふー……」
相も変わらずと言うべきか、やっぱり走るのって、すごく気持ちが良い。
足が地面を捉える感覚、僅かに絡みつくような芝の弾力と、それを後ろへ蹴り飛ばす爽快感、自分の走りの技術が着実に伸びていく実感。
これらは唯一無二のものだ。カラオケとかサンドバッグを殴るとかの、並みのストレス解消手段よりよっぽど心地良い。
まだ人間だった前世の頃は、こんな感覚を覚えることもなかったし、やっぱりウマ娘特有の本能みたいなものなんだろうね。
食欲、性欲、睡眠欲が三大欲求って話はよく聞くけど、ウマ娘の場合はそこに走欲が加わってるのかもしれない。
……でも、勘違いされがちだけど、どんなところでも走れればいいってわけでもないんだよね、これが。
食欲で例えるとわかりやすいかな。
いくらお腹が減ってたとしても、どんなものでも食べられればいいってわけじゃない。より美味しいものの方が食欲がそそられるし、より満たされる。
それと同じように、この走欲も、より良い場所で走る方が満たされやすいってわけだ。
日本のレースでターフがメインになっていることからもわかるように、多くの日本のウマ娘にとって、最も走りやすいのは芝の上。
そんな競走ウマ娘の1人である私もやっぱり、コンクリートや砂場、ダートよりも、しっかり整備された芝の上が一番走りやすいし、気持ちが良い。
特にトレセンのグラウンドの芝は、流石にレース場の芝には勝てないものの、しっかり整備されてるからすごく走りやすいんだよね。
叶うなら、夜の自主トレもここで走りたいんだけど……それで問題が起こったり、変に疑われたり、怪談になったりなんかしたら面倒臭いからね。仕方なく一般道のウマ娘専用レーンで我慢しているってわけだ。
あー、いつもこんな気持ちの良いところで走れたらなぁ……。
いや、空腹こそ最高のスパイスって言うし、たまにだからこそこのターフのありがたみが理解できるってものかもしれないけどさ。
そんなことを考えていると、すぐ横を走るネイチャに声をかけられる。
「気持ちよさそうだね、ウィル」
ウマ娘にとって、走りながら話すのは、そんなに難しいことじゃない。
……いや、そりゃあ最高速度で走りながら話すのは無茶だけど、走るペースによっては可能、っていうのが正しいかな。
人間だって、軽いジョギングをしながらなら会話だって可能じゃん? そういう感じだよ。
今日歩さんが組んでくれたトレーニングメニューは、私とネイチャが控えめのランニング。そしてそれに追従する形で、ライスちゃんとブルボンちゃんはちょっと速めのペースを2000メートル維持する、ってもの。
スタミナのある私とネイチャは延々とグラウンドを回り続け、ブルボンちゃんとライスちゃんは何周かに一度私たちに合流し、2000メートル走って離脱し休憩、体力が戻り次第また合流、って流れだ。
シニア級の私やネイチャにとってはローペース以下のランニングでも、ブルボンちゃんやライスちゃんにとってはそこそこのペースになるからね。そりゃあ何千メートルも走り続けるのは厳しいだろう。
本格化というルールに縛られる競走ウマ娘にとって、1年という差は圧倒的で決定的だ。1つ上の級のウマ娘と同じ練習をするのには、かなり強い負荷がかかってしまう。
……いやまぁ転生ウマ娘である私は、ちょっと例外かもしれないけど。
そんなわけで、かなりへとへとになっているジュニア級の……じゃなくて、もうクラシック級か。クラシック級のブルボンちゃんとライスちゃんの2人に対して……。
私とネイチャは、息切れもなしにとはいかないけど、結構長時間走り続けることができる。
このペースなら……まぁ、1時間くらいは持つかな。人で言うところの駆け足程度だし。
で、そんな余裕のある速度だから、こうして軽く話もできるってわけだ。
ちょっと呆れ気味に頬の緩みを指摘してきたネイチャに、私は気持ちのままに答える。
「ええ。走るのって、やっぱり楽しいですから」
「あのウィルがこんなことを言うなんて、アタシは嬉しいよ……」
「もう、何ですか、それ。……まぁ確かに、あの頃の私からすると、ちょっとびっくりするような台詞かもしれないですけど」
「ホントだよ。昔はめちゃくちゃつまらなそう……というか、気持ち辛そうに走ってたのに」
「実際、結構辛かったですしね。死んだお父さんから呪いみたいな言葉かけられてて、レースに勝たないと自分に価値なんてないんだーって思ってましたし」
「……え、なんか今さらっとすごく重い事実カミングアウトしなかった?」
「ネイチャならいいかなーって」
「いや急すぎる! 流石に反応に困るから!! ……そっか、そんなことがあったんだ。えっと、今はもう大丈夫ってこと?」
慌てながらも誠実に返してくれるあたり、本当に友達甲斐のある良いウマ娘だなって思う。
……本当。
ここで最初にできた友達が、ネイチャで良かった。
この子に熱を教えてもらって、この子と一緒に走って来て、どれだけ救われたことか。
「大丈夫。今はネイチャのおかげもあって、すっかり元気です」
「アタシの……? まぁ、確かに最近のアンタ、誰よりウマ娘らしいっていうか……走ることをすごく楽しんでるって感じだけど」
「実際楽しいですからね。夢なら醒めてほしくないって思うくらいに充実してます」
「……そか。そりゃ良かった」
そう言って、横で走るネイチャは微かに微笑んだ。
で、そんな私たちの、ちょっと後ろの方では。
「……1500メートル、突破……!」
「ついてく、ついてくっ……!」
割と和気あいあいと走っている私たちとは違い、熾烈な競走が繰り広げられている。
私たちのペースに合わせて走る、ブルボンちゃんとライスちゃん。
今回のトレーニングプランは、ただの併走だったはずなんだけど……彼女たちの走りはいつしか、タイマンの競走じみてきている。
今の彼女たちの身体能力については、ちょっと前にトレーナーが分析していた。
曰く、瞬間的な速度や加速力、精神力といった面ではブルボンちゃんに分があるが、スタミナに限れば元よりステイヤー気質のライスちゃんの方が高い。
1600メートルまでの距離ならブルボンちゃんが圧倒的に有利だけど、2000メートルかつ速めのペースとなると、現状どちらが勝つかわからない……とのことだった。
そして、その「どちらが勝つかわからない」という状況こそが、ウマ娘の闘争本能を最も強くくすぐる。
今回は別に、どちらが勝つとか負けるとか、そういう勝負ではないんだけど……それでも2人は「より前に進もう、横にいるウマ娘に負けられない」と、懸命に脚を動かしている。
それを音で聞きながら、走りを楽しんでいたんだけど……。
ふと、横のネイチャから声がかかる。
「ね、ウィル。あの2人、今はどっちが優勢なの?」
「ん? ……足音からして、前に出てるのは半バ身差くらいでブルボンちゃん。ただ足並みが乱れてるし、最終的に2000メートル時点で前にいるのはライスちゃんじゃないですかね」
「……いや、改めてとんでもない耳だね、アンタ」
ネイチャは呆れたように首を振った。
自慢じゃないけど、私は耳が良い。より正確には、耳が良くなる、と言うべきかな。
競走ウマ娘ホシノウィルムの特徴の1つ。走っている間限定だけど、周囲10バ身程度の足音が聞き取れたり、その歩調がわかったりする。
恐らくは私の持つ転生チート「アニメ転生」の一部が漏れ出したものと思われる、特殊な能力だ。
で、歩さんに許可をもらって、ネイチャには既にこの能力のことを話してある。勿論、転生周りの話は除いて。
というか、もう隠す意味なかったんだよね。耳に何かあるってことは普通にバレてたし。
……ただ、ここまで耳が良いとは思わなかった、とは言われたけども。
「大逃げでめちゃくちゃ距離を離すアンタにとって、すごい使いやすい能力じゃない? いいなぁ」
「あはは……」
まぁこの耳の良さ、多分「アニメ転生」がちょっとだけ漏れ出しただけで、本気で「アニメ転生」使ったらもっともっとエグいことになっちゃうんだけど……。
流石にその辺は秘密だ。私の持つ最大のアドバンテージ、これを易々と公開するのは、ライバルに弱みを晒すことに他ならない。
幸い、ネイチャにはこのチートに気付いている様子はないしね。
……というか、地に脚を付けて走ってる皆が、こんなトンデモ能力に気付けっていう方が無理って話だ。
アイツは転生者でチートを持ってるんだ! なんて推察しようものなら、普通はお薬出しておきますねーと流されるのがオチだろう。正直当事者の私ですらちょっと現実味がないんだもの。
どれだけ察しが良くても「なんか知らんけどアイツ一時的にめっちゃ速くならない?」って考えるのが限界だろうね。
ウマ娘が一時的に速くなるなんてこの世界じゃそう珍しいものじゃないし、たとえその内容をある程度察したとしても、そこから私が転生者であるという事実まで割り出すことは不可能だろう。
というか、そもそもこの世界にはスズカさんみたいにデフォルトでチートみたいな能力を持ってるウマ娘もいるし、そこまで疑われることもないでしょう。安心安心。
……とはいえ、その辺を探られるのは、やっぱりちょっとだけ怖い。
ここは話を変えておくべきだろう。
「ネイチャだって、皆を綺麗に誘導したりするじゃないですか。私としてはその能力も十分に羨ましいんですけどね?」
「あれは……あーいうことでもしないと、ウィルやテイオーに追いつけないってだけだし」
「私だって、耳が良かったり脚が速くないとネイチャには勝てませんよ」
「いやそうじゃなくて……」
「ネイチャのそういう策士なところ、ある種の能力だと思いますけどね」
「うーん、そういう感じじゃなくて、こう……もっとキラキラっていうか……」
妙なこだわりのあるネイチャと話していると、いよいよ後ろの方で決着が付いたらしく、2人の足音がストップした。
結果は、やっぱりライスちゃんの勝利だ。……いや、本当に僅かな差だけども。半バ身差ないくらい。
今回のルールはライスちゃんに有利だと思うんだけど、それでもギリギリなあたり、やっぱり単純なスペックだとブルボンちゃんが優ってるらしい。
この調子で成長を続ければ、やっぱり皐月賞と日本ダービーまではブルボンちゃんに有利かだろうか。
「はぁ、ふぅ……やっぱり、ブルボンさん、すごい……! この距離、向かないはず、なのに……!」
「いえ、ライスさんこそ……流石です。私も更にトレーニングに励まなければ……」
彼女たちが脚を止めて距離が離れたから少し聞き取りづらいけど、どうやら互いに健闘を讃え合っているらしい声が聞こえてくる。
うーん、これは美しい百合の花。やっぱりミホライは正義だね。
「ブルボンさん、一緒に頑張ろう! 私もお姉さまに追いつくために頑張るから!」
「はい。マスターとの目標『クラシック三冠』達成のため、鋭意努力しなければ」
……あれ、ミホライ成立してるよね? なんか心配になってきたな……。
* * *
……と。
そこで、その日が終われば良かったんだけど……。
私のトレーナーである歩さんは、そこまで高い頻度でトレーニングを見には来てくれない。
どうやらこれは多少なりとも珍しいことらしく、ライスちゃんなんかは最初結構驚いてたな。お目目をまん丸にしてて可愛かった。
でも私、個人的には、これに不満はないんだ。
彼が見に来ないのは、ひとえに歩さんの管理能力の高さと、信頼感が故だ。
1時間に1回見るだけでも十分に体力と事故防止の管理が可能で、なおかつ私たちがちゃんとトレーニングに励むと信じているからこそ、歩さんは時々しか顔を出さない。
……いやまぁ、書類仕事に追われて見に来る暇もない、って側面もあるんだろうけども。
更に言えば、あくまで歩さんが見に来ないってだけで、大体は誰かが見に来てくれるしね。
手が空いた時は昌さんが見に来たりもするし、合同トレーニングの時はネイチャのトレーナーさんやソウリちゃんのチームのサブトレーナーさんが見に来てくれたりもする。
私たちだけでトレーニングをするってことは、そうそう多くはないんだけど……。
その日は間が悪かったのか、誰も私たちのことを見ていなかった。
別に、それが悪かったとは思わない。
たとえ見ていたとしても、多分それがわかったのは歩さんくらいのものだっただろうし、そしてその歩さんはここ数日本当に忙しくしていたようだったし……。
つまるところ、それは仕方のない事だったんだ。
現に、誰一人として、当事者さえも歩さんを責めなかった。
けど……。
歩さんは、自分を責めるかもしれないな、とは思った。
「ナイスネイチャ!」
遠くから歩さんの声がかかるのを聞いて、ターフを走っていた私とネイチャは脚を止めた。
ちょうど気持ち良く走れてたところだったから、少し残念ではあったけど……。
それ以上に、歩さんの余裕のなさそうな声が気にかかる。
歩さんは、そうそう声を荒らげたりしない。というか、もはや怒りっていう感情があるかすら怪しいような人だ。
そんな人が鬼気迫るような声を出したってことは……。
「え、何、どうした堀野トレーナーさん」
ネイチャ自身は状況を飲み込めていないらしく、目を白黒させていたけど……。
私は思わず、眉を寄せてしまった。
歩さんの観察眼は、鋭い。
これまで、たった一度だって、ウマ娘の状態や容体を読み間違えたことがなかった。
その目を以て、ずっとずっと私のことを支えてくれていたんだ。
だからきっと今回も、歩さんの言葉は、正しいものなんだろう。
それが、良い事であろうと……あるいは、悪い事であろうと。
彼は私たちに駆け寄って来て……肩を上下させながら、真剣な表情で言った。
「ナイスネイチャ。今すぐに、保健室に行け」
* * *
「あー、やっちゃったか」
保健室のベッドの上で、ネイチャはどこか明るい調子で、軽く頭を掻いた。
……診察の結果。
彼女の脚には、骨膜炎が発症していることが発覚した。
管骨骨膜炎。
俗にソエとも呼ばれる、競走ウマ娘にとっては非常にメジャーな、そして非常に悪名高い故障の1つ。
本格化中にトレーニングを積み過ぎると起こると言われている炎症だ。
実のところ、この症状自体は、そこまで重いものじゃない。
重症化すれば腫れたり痛みが伴ったりするものの、初期の内に気付くことができれば、適切にトレーニングの負荷を落とし、患部を冷却することで比較的簡単に治癒する。
ただ、これの最大の問題は、再発しやすいってことなんだ。
一度骨膜炎を発症すると、2度3度と繰り返すことが多い。最悪の場合、現役の間ずっとこれと付き合っていくことになる。
無論、重度の炎症が発症すれば、まともに走れるわけもない。
本格化中のウマ娘がこれを本格的に発症してしまうと、身体能力を伸ばす有限の時間を大幅に削られることになる。
そして、たとえ本格化を終えようと、こんな炎症が再発すればレースへの出走は不可能になる。
私たち競走ウマ娘のアスリートとしての人生に、大きな足かせを嵌める病。
それが、骨膜炎であり……ネイチャが陥ってしまった故障だった。
「ネイチャ……」
思わず呟いて、ベッドに横たわったネイチャに瞳を向ける。
トレセン学園の保健室、私や歩さん、ブルボンちゃんにライスちゃん、そして彼女のトレーナーに囲まれたネイチャは……。
「そんな顔しないの、ウィル。何、アタシが走れなくなったとでも思ってるの?」
それでもなお、明るかった。
……演技じゃない。
その瞳に浮かんだ感情からして、彼女がこの故障を無念に思っているのは間違いないだろう。
けれどネイチャは……これをそこまで絶望的なものとは見てはいないらしい。
思わず眉を寄せた私に、彼女は苦笑気味に告げる。
「いや、実はさ、初めての発症じゃないんだよ、これ」
「え? でも……」
「去年の若駒ステークスでテイオーに負けた後、やっちゃってさ。初期段階で気付けたから、負荷落とすだけで対処できたけど……うん、ここ最近頑張り過ぎたからね。再発しちゃったんでしょう。
たはは、あの有馬記念で3着なんて取ったからなー。アタシの脚も悲鳴を上げるってものよ。
大丈夫、今回は前回よりもっと早く見つけられたんだから、絶対復帰してみせるから」
そう……だったんだ。
これが2度目で、彼女が再起する可能性は高いっていう事実に、私は少し落ち着きを取り戻す。
……そう、そうだよね。私やテイオーだって半年の休養が挟まっても復帰したんだ。ネイチャだってきっと、問題なく復帰してくる。
そう思って私が身を引くと同時……。
横にいた歩さんが、頭を下げる。
「すまない、ナイスネイチャ。俺がもっとよく見ていれば……」
「あーもう、堀野トレーナーさんも何度目ですか! むしろ発症直後、本来は気付けないような初期段階で気付いてくれたんだから、こっちからありがとうって言うところですよ。ね、トレーナーさん」
ネイチャが目を向けると、先程保健室に飛んできたばかりのネイチャのトレーナーさんが、ようやく息を整え終わって顔を上げた。
「うん……。そうだ、その通り。堀野君、僕は君に感謝しこそすれ、責めることはないよ。
そもそもネイチャのトレーニングを見ていられなかった僕が悪いし、その上で君は、おおよそ考え得る限り最高の段階で骨膜炎に気付いてくれた」
「しかし……」
「反論は許さないよ。ネイチャが骨膜炎を発症したのは君のせいじゃないし、君は最速でそれに気付いてくれたんだ。彼女のトレーナーとしてこれ以上を求めるのは大きな間違いだし、何より僕は君に感謝すべきなんだよ」
……そう。
歩さんを責めることなんて、誰にもできない。
歩さんはただ、契約トレーナーが見ていないところでウマ娘の骨膜炎を発見し、保健室に行かせてトレーナーに知らせただけ。
殊に今回は、歩さんの付けたトレーニングで事故を起こしたわけじゃない。
骨膜炎は長期的な負荷が原因で発生する故障だ。時折付けられる合同トレーニングも極端に負荷が高かったわけではないし、それ単体では故障には繋がらないはず。
あんまりこういうことを言いたくはないけど、どちらかと言えば彼女のトレーナーさんの方針にミスがあったのだろうと推測できる。
……いや、普通は骨膜炎を回避しながらスパルタなトレーニングを積ませるのは難しいんだ。
私があの宝塚記念以外で一切の故障を経験していないのは、歩さんがその辺りの観察眼と知識が飛びぬけているだけで……こういう故障は、普通のトレーナーさんであればどれだけ気を付けようと発生してしまうようなものらしいし。
ネイチャのトレーナーさんは頑張っているけど、それでも管理能力に限界があった……というところだろうか。
少し話が逸れたけど……。
とにかく、歩さんに責がないことなんて明らかだ。
それでも、彼が自分を責めてしまうのは、やっぱり……過去の経験からか。
自分が行動を起こさなかったことで、知り合いの少女を救えなかったという、彼の過去。
その呪縛がまだ彼を縛っているのか、と。
どうしようもない現実に、私が眉をひそめた時……。
「……すまない、正直、そう言ってもらえると助かる」
歩さんは顔を上げて、そう言った。
以前なら、言わなかったであろうことを……確かに言ったんだ。
驚きに、思わず目を見張る私を後目に、彼らの会話は続く。
「とはいえ、俺としても呑み込めないものはある。せめてネイチャの復帰プランについて、できる範囲で協力させてくれないか」
「もう。だから君は悪くないって」
「先にも言ったが、これは俺の心情的な問題だ。……俺も当事者の1人なんだ、協力させてくれ」
「……そっか。そういう理屈なら、まぁ……いや、ごめん、正直すごく助かる。よろしく頼むよ」
「あぁ」
……以前の歩さんなら。
きっと、自分が悪いのだと譲らなかっただろう。
その上で、ネイチャの復帰プランに関しても、自分が請け負うとまで言っていたかもしれない。
でも、今、歩さんは……自分が悪い訳ではないって認めて、その上で当事者の1人として、罪悪感の払拭のために協力したいと申し出た。
「…………」
変わってる。
歩さんは……やっぱり、少しずつ、変わって行ってるんだ。
故障を起こしたネイチャには悪いし、不謹慎だと思うけど……。
私はそれが、すごく嬉しかった。
* * *
さて、これは後日談のことになるんだけど……。
ネイチャは彼女のトレーナーさんと話し合った結果、春の間は全休とすることになったらしい。
ここまでかなりハードにトレーニングを積んできたから、余裕を持って一度体を休めながら鍛え直し、秋以降のレースに全力を注ぐつもりとのこと。
「この際焦らず鍛え直そうかなって。あんだけ完璧に走れた有馬記念でも2バ身近く差を付けられたんだもん、次に走る時までに、もっと走りに磨きをかけておきたいじゃん?」
「……春って4月までですか?」
「バ鹿、分かってるのに聞かないの。……復帰は、早くても8月以降かなぁ。毎日王冠か京都大賞典あたりから始動になるかも」
「そうですか……」
マジかぁ……実に1年弱、ネイチャとは公式レースを走れなくなるわけだ。
思わず肩を落としてしまった私に、ネイチャは笑いかけて来る。
「そう落ち込まないの。ほら、秋以降なら本気で走れるからさ、模擬レースでもすればいいじゃん」
あー、その提案は嬉しいんだけど……。
「いや、それはちょっと難しくて……」
「え、なんで?」
きょとんとした目を向けて来るネイチャに……。
私は頭を掻きながら、言った。
「いや、私、秋からはちょっとパリに行ってるんですよね……」
ネイチャは頑張り過ぎたのでちょっとお休みです。
とはいえ、本当に初期段階の発見でしたし、そう長く休養しているわけではありません。レースには出ずに鍛え直しがメインになります。
次回は3、4日後。トレーナー視点で、URAファイナルズ予選の話。
(追記)
誤字報告をいただき、わざとでない部分は訂正させていただきました。ありがとうございました!
ライスのことをスプリンターとか書いてて、我ながら「コイツ大丈夫か……?」となりました。推敲の時にも全然違和感覚えなかった不思議。