後ろ姿よ、さようなら 作:こり
仄かに黴臭さが漂う石造りの階段を、ゆっくりと降りていく。人ひとり通るのに最低限の通路幅しかなく、こまめにカーブする階段は、なかなか歩きにくかった。粗く削られた岩肌に触れると、冷たさが指先から流れ込んでくるような気がして立香は肩を震わせた。
「もう少しで広い空間に出るようだ」
先頭を進むカルナの指先には、小さな炎が灯っている。太陽をちょっぴり拝借したかのような暖かな光に、なんとなく立香は安心する。日の当たらないところで人間が生きていくのは辛い。
しばらく進んだところで、アーチ状の出口がぽっかりと開いているのが目に入った。青白い光がトンネル内部まで差し込んでいて、立香の後ろを歩く劇作家が感嘆の声を上げる。
「終着点のようです。どんな物語が始まることやら、楽しみですな、マスターよ!」
アーチを潜ると、突如視界が開けた。
神殿のような柱が何本も壁に並び建ち、見上げるほど高い天井を支えている。床は見えず、青白く発光する大量の水が湛えられていた。進んできた階段はそのまま桟橋状の通路に繋がっていて、部屋の中央まで伸びている。
「ものすごい量の魔力ですね……セミラミスが廃棄場と言っていたのも納得できます」
「アインツベルンはホムンクルス鋳造の大家と聞いております。失敗作や用済みのホムンクルスを棄てていたのでしょうな。魔力変換の方法論はそれこそ大軍師殿にくまなく調べていただかねば分からないでしょうが、いやぁ、いいですな!大変興味深い!」
地下空間に明かりは一つもついていないものの、満ち満ちた水の燐光で空間全体がぼんやりと照らされていた。
狭い桟橋で外套を翻すシェイクスピアの横をすり抜けて、カルナが先端まで進んでしゃがみ込む。
「マスター、沈んでいるホムンクルスとはこれのことか」
「生きてる!?生きてるなら助け……」
「いや、手遅れだ」
駆け寄る立香を手で制して、カルナはゆっくりと首を左右に振った。立香は手をきゅっと握りしめ、通路の先端から身を乗り出すようにしゃがみ込む。
そこには、通路にもたれかかるような体勢で、銀髪の少女が透明度の高い水の中に沈んでいた。鼻の高さまで水に浸かり、肩あたりまでの髪が燐光を放ちながらたゆたっている。
銀細工のように繊細な睫毛の隙間から見える瞳の色は、燃えるような赤。そして、壁面を撫でるように添えられた右手には、見覚えのあるような赤い刻印が浮かんでいた。
「これは……令呪……!」
槍のようにも十字架のようにも見える赤い紋様は、まごうことなく令呪だった。一画も使用しないまま息絶えたのだろう、どこにも欠けは見られない。
ケイローンが立香の背後からかがみ込む。肩から滑り落ちた明るい栗色の髪が青みを帯びて光った。
「銀髪、赤目、そして令呪。彼女がナーサリーライムのマスターで間違いないでしょう。何らかの理由で廃棄されたホムンクルスのように見えますね」
「この子はもう亡くなっているのに、なんでナーサリーライムは消滅してないんだろう」
「元々このマスターに召喚されたわけではないのかもしれません。元来ホムンクルスという存在は、全身が魔術回路でできていると聞きます。マスター適性は十分でしょう。何らかの原因でホムンクルスが聖杯を手にし、その結果、はぐれサーヴァントとしてナーサリーライムが召喚された。そして、ナーサリーライムはあとから彼女と契約したのではないでしょうか。そうであれば魔力供給は聖杯からになり、マスター亡き後も存在することに説明がつきます」
しばらく無言で考え込んだ立香は、両膝立ちするように体勢を変える。そのまま片手を通路についた。
「マスター、どうするつもりだ」
「もう手遅れなら、せめて埋葬してあげたい。このままここに置いておけば魔力に戻るのかもしれないけど、それはなんだかよくない気がする」
「そういえば、池のほとりに作ってからそう時間の経っていない墓が一つありました。それこそせめて埋葬したような急ごしらえの様子で……そちらはホムンクルスではないのでしょうか」
ケイローンの呟きを一旦聞き流して、立香は左手をホムンクルスに伸ばす。
指先と指先が触れ合ったそのとき、突然背後の劇作家が外套をばさりと翻した。
「おぉ、まさに『
シェイクスピアの芝居がかった台詞が地下空間に反射した。余韻と引き換えに訪れた静寂は、ぴりぴりとした緊張感を孕む。
こつん、と小さな足音がひとつ、階段から響いた。
立香が音をたてないようにそっと立ち上がると、ケイローンとカルナが静かに臨戦態勢の構えを取る。
「……今、
アーチの向こう側に人影が見える。黒い靴と細い足を覆う黒いタイツ、ピンクのフリルが覗く黒のドレス、そして炎が渦巻くような真っ赤な瞳。
水中のホムンクルスとうり二つの少女は、小さな拳を握りしめ、必死の形相で叫ぶ。
「……ひどいわ、ひどいわ、ひどいわ!貴方たち皆大嫌い!――繰り返すページのさざなみ……押し返す草のしおり……全ての童話はお友達よ!」
溢れ出たのは呪いの言葉。宝具の解放に気づいた瞬間、立香たちの意識は暗闇に呑み込まれた。
目を開けると、森の中に立っていた。正面には踏み固められた道が続いていて、道の両側には、背丈ほどのきのこがいくつも生えている。足元にはクリーム色の靄が流れて、色とりどりの傘の表面は水滴を纏って濡れていた。
「……ここは、どこだろう」
「ご無事ですか」
ぼそりと呟くと、すぐ近くで聞き覚えのある声がした。声のほうを振り向くと、男性が三人こちらを見ている。信頼のおける仲間である彼らの名前を呼ぼうとして、ぐっと喉が詰まった。
――名前が分からない。さっきまで分かっていたはずなのに、彼らの名前が記憶からすっぽりと抜け落ちている。どうしようもなく寒気がして、思わず両手を合わせて握りこんだ。彼らの名前を忘れるのはまずい。思い出さなければ、この森から抜けられないだろう。
彼らの名前だけではない、このままでは自分も――自分の名前は、なんだっけ?
「これはこれは、大変に興味深い森ですな!どうやら吾輩、『自分の名前を忘れてしまった』ようです。皆さまはいかがでしょう?ご自分の名前は覚えていますかな?」
三人のうちの一人が、一歩前に出る。モスグリーンの上着を羽織った役者のような男性の言葉に、全員が首を横に振った。
「そうよ、ここは『名無しの森』。貴方たちは自分の名前を忘れるの。そのまま全部忘れてしまいなさい。そうすれば苦しまずに存在ごと消えていけるわ」
道の遠く、靄の向こうにぼんやりと小さな人影が見える。距離のわりによく響く声は、まるで脳内に直接流し込まれるようで、その場の全員を不安に駆り立てた。
「それは困ります。もう消えてしまうなんてクソつまらない!いいでしょう、謎解きはまず現状の整理からと相場が決まっております。皆さまは、何かご自身について覚えていることはありますかな?」
唯一ちっとも不安を感じていない様子の役者は、楽し気に皆に問いかけた。頬を紅潮させた彼の笑顔に釣られてうっかり微笑み、少し腹を括る。まずは自分のことからだ。右手の甲を指の腹で撫でて、男の問いに意を決して答える。
「私は、今は何も思い出せない。ただ、右手のこの模様が私の役割であることは、なんとなく分かっている」
「……私も何も思い出せません。覚えているのは、私の役目は教え導くことだということだけです」
穏やかそうな栗毛の男性がしょんぼりと肩を落とした隣で、白髪の男性がすっと目を細めた。
「……オレは、名は思い出せないが、一つ分かっていることがある」
「ほう?それはなんですかな?」
「オレが
赤いきのこの傘からぽつりと水滴が落ちる。戦士であると言った彼は自身の右手を開き、何か試みた。
「……自身の武器があるような気がしているのだが、思い出せないようだ」
「武器、武器ときましたか。よろしい!勇猛果敢な戦士よ、貴方は武器があれば戦うことができるということですかな?例えば、そちらのきのこの影に突き刺さった錆びた剣などはいかがでしょうか」
「この剣が使えるかは分からんが、敵がいるのであればオレはそれを打ち払うまでだ」
「素晴らしい!――おっと失礼、名前が出なかったもので。ええ、そちらのお嬢さん。役者は揃いました。これより謎解きの開幕といたしましょう!何を隠そう、本日は吾輩自らが!この舞台のメインキャストを務めさせていただきます!」
高らかと宣言した男の声が森にこだました。タイミングを見計らったかのように木々の合間からさっと陽の光が射しこむ。まるで舞台のスポットライトのようだ。
「さて、まずは先ほど皆さまに問い掛けた問いを己自身にも訊いてみるといたしましょう。男よ、己の名を覚えているか!――否、全く覚えておりません。己が何者かを覚えているか!――応、覚えておりますとも。吾輩は『物語に仕えるしがない男である』と!」
堂々と歌い上げる彼を、皆は無言で見守る。振り回した外套の裾が靄を切り裂いて、足元に飛び出していたシダの葉を大きく揺らした。
「つまり吾輩は、自身のことはこれっぽっちも覚えておりませんが、今まで読んだ本についての知識は一切失っていないということです。――えぇ、『名無しの森』にも心当たりがあります。ルイス・キャロルの児童小説、『鏡の国のアリス』。参考までに読ませていただいておりますとも」
男の言葉に、黙り込んでいた全員がハッとする。最も反応したのは、遠くで見守る少女だった。どうやら男の指摘は図星だったようだ。彼女の動揺が、大気を揺らして波のように伝わってくる。
「先ほどそちらの少女は言いました。名前を忘れると全部忘れて消える――つまり裏を返せば、名前さえ思い出せば全て解決すると読み解くことができます。『
「……例えこの森について分かったところで、貴方が自分の名前を思い出すことなんてもうないわ。諦めなさい」
「そうでしょうか?吾輩、言葉が溢れて止まらないのですよ。『
あからさまに少女を煽るような言葉が放たれた瞬間、森全体がざわりと揺れた。木々の間に満ちるのは、強い怒り。足元に流れていたクリーム色の靄が、徐々に黒く変色する。
「そのまま苦しませないであげようと思っていたけれど、ここまで言われたら我慢できないわ!――行きなさい、ジャバウォック!!」
突然、少女の後ろからどす黒い何かが宙に舞った。ドラゴンのようにも見える怪物は、蝙蝠にも似た大きな翼を羽ばたかせ、触覚の生えた魚のような頭を振り回す。超音波のような甲高い咆哮が、辺りのきのこを薙ぎ払った。
「ジャバウォックときましたか!これはまた素晴らしい展開です。ジャバウォックは『鏡の国のアリス』に登場する伝説の怪物!ヴォーパルの剣でしか倒せない、得体のしれない怪物!」
「まずい、私の後ろに!」
腕を引かれて後ろによろめくと、すかさず目の前に長髪の男が滑り込んできた。もう一人の男は、錆びた剣を引き抜いて何やら考え込んでいる。
「おぉ、戦士よ!戦いの刻だ!ジャバウォックといえばヴォーパルの剣!汝が持つべきはヴォーパルの剣、ただそれだけ!」
「無駄よ!ヴォーパルの剣はあたしが持っているの。いくら貴方がこの世界を知っていても、ジャバウォックは倒せないわ!」
ヴォーパルの剣――ジャバウォックの詩で怪物の首を掻き切った剣であれば、ジャバウォックを倒すことができる。しかし、戦士を名乗る男が手にしているのは、錆びついて今にも折れそうなぼろぼろの剣だ。
しかし、男はその剣を眼前に掲げて、静かに告げた。
「ヴォーパルの剣であろうがなかろうが、オレのやることは変わらん。その怪物を倒す――ただ、それだけだ」
「ええ、ええ、その意気です!その剣がヴォーパルの剣でないのなら、ヴォーパルの剣にしてしまえばいい!烈火を伴う嵐のように!稲妻を伴う豪雨のように!永劫醒めぬ物語が、これより始まる!」
役者の狂言回しに合わせて、戦士が掲げる剣に向かって魔力が迸り、収束していく。眩い光から覗いた柄は、ぼろぼろだったとは思えないような宝剣に変わっていた。
「汝が持つ剣、それこそがヴォーパルの剣!!」
――勝負は一瞬だった。
長い首を振りかざし、真上から戦士に喰らいつこうとした怪物の目に映ったのは、見えないはずの空だった。左の拳が繰り出した強烈な一撃は、怪物の顎を撃ち抜く。間髪入れずに、戦士は右手に握った宝剣を真横に一閃した。
断末魔を上げることもなく、ジャバウォックの頭部はごとりと地面に転がった。少女の声にならない悲鳴が森を震わせる。
「『
少女から向けられる憤怒など歯牙にもかけずに、役者は意気揚々と語る。そして、おもむろに小脇に抱えていた一冊の本を取り出して、天に掲げる。
そして、表紙を検分した男は、にっこりと笑って恭しくお辞儀をした。
「おや、こちらの本に著者の名前が書いてありますな。――ウィリアム・シェイクスピア。なんと、我輩ではありませんか!名無しの森、これにて閉幕にございます!」
気が付くと、陽の光が届かない地下空間に立ちすくんでいた。立香は周囲を見回し、安堵の息をつきながら白い歯を見せて笑う。
「ケイローン、カルナ、そしてなにより、シェイクスピア。ありがとう」
「なんのなんの、我がマスターのためならこの程度、いつでもご覧に入れましょう」
舌の調子が絶好調の劇作家は、上機嫌にウインクを飛ばす。
まさか、『エンチャント』でヴォーパルの剣を作り上げるとは、流石の立香も予想外だった。稀代の劇作家が魂を込めて綴ったガラクタの剣には、怪物ジャバウォックを殺すヴォーパルの剣としての概念が付与されたのだ。
「創作物の世界を書き換えられるのは作家だけ。その点、シェイクスピアは適任でしたね」
私だけお役に立てず、と下を向いたケイローンの肩を軽く叩き、立香は真っ直ぐ前を向いた。
「……ナーサリーライム」
立香の視線の先に立つ少女から、一切の表情が消えていた。
「許さないわ。絶対に貴方たちは許さないって、あたしは決めたの。だから」
怒りに燃える少女は、胸の正面に人形を抱えなおす。そして、渾身の力を籠めて絶叫した。
「やっちゃえ!!バーサーカー!!」