後ろ姿よ、さようなら 作:こり
突然、地下空間全体がみしりと揺れた。ぱらぱらと埃が舞い、天井の一部が水しぶきを上げて落下する。断続的な強い揺れは、段々と大きくなっていく。
「これは、まさか……」
「マスター、ガネーシャ神を呼ぶべきだ」
カルナの短い一言に立香が反応しようとしたそのときだった。
「■■■■■■■!!」
昨晩、鼓膜を揺らし続けた大咆哮が空間を震わせて、おもちゃが崩れるように天井が崩落した。
瓦礫と土煙の向こうに、鎧のような筋肉を纏った狂戦士が飛び込んでくる。その様子は、まるでスローモーションのように見えた。ぽっかりと開いた空間から、星が瞬いている。
「ヘラクレス、どうして……!」
「マスター、駄目です!伏せて!」
鋭い叫び声に、咄嗟に頭を抱えてしゃがみ込むと、直後に津波が押し寄せた。濁流に呑まれかけたところを、ケイローンの逞しい腕が立香の身体を引き留める。一時的な大波をなんとかやりすごして顔を上げると、ヘラクレスの血色の瞳が劇作家を捉えていた。
「シェイクスピア!」
立香が叫ぶより早く、目の前からケイローンが掻き消える。直後、通路の上にいたシェイクスピアの身体が弾丸のように撃ち出され、ヘラクレスと逆側の壁に叩きつけられた。劇作家は声も出さずに崩れ落ちる。
「マスター!」
先手を打って標的を蹴り飛ばしたケイローンの手には、顕現した弓が握られていた。間髪入れずに射かけた先のナーサリーライムは、甲高い悲鳴を上げて出口に走っていく。
「■■■■■■■!!」
今までにないほど強い咆哮に、立香は腹を決めた。ここで彼に問いかけることはできない。ナーサリーライムの悲鳴が、荒れ狂う狂戦士の攻撃スイッチを押してしまったから。きっと彼はナーサリーライムが敵と定めたシェイクスピアを狙い続けるだろう。
それなら、もう他に手はない。左手で右手首を押さえ、なけなしの魔力を回す。それがマスターとしてできる最善手だと信じて、立香は高らかに声を上げた。
「令呪を以て命ずる!来て、ガネーシャさん!」
右手の甲が紅い光を発して、令呪の二画目がうっすらと跡を残して消えた。直後に巻き起こったのは、ヘラクレスが一瞬怯むほどの魔力の渦。
そして、立香たちの目の前に見慣れた象の被り物が現れた。
「ひょえっ?ひ、ひええええええええッ!!」
口から零れたのは絶叫だった。突然の空間転移と同時に放り出されたのが、よりによって狂戦士の目と鼻の先となれば無理もない。
しかし、ヘラクレスは待ってくれない。本来の標的の前に立ちふさがるように飛び出したガネーシャ神に、狙いは完全に移っていた。
ヘラクレスと目が合ったガネーシャ神はヒュッと息を呑む。一度叫び声を止めてしまうと、口がはくはくするばかりで声が出ない。状況を把握する余裕も失ってパニックになりかけたそのとき、腹の底から絞り出すような大声が彼女の耳を刺し貫いた。
「――ガネーシャ神!!」
それは、心を揺さぶるような、強く激しい呼び声だった。ガネーシャ神だけでなく、立香もケイローンも思わず声の主に視線を向ける。施しの英雄がそんな声を出すのを見たことがある者など、今までどこにもいない。
「は、『破砕されし牙』ッ!」
一瞬ののち、ガネーシャ神は自身のスキルを発動した。小さな白い手を前に伸ばし、迫りくるヘラクレスの斧剣の衝撃に必死で耐える。頭の中にあるのは、ついさっき鼓膜を揺らしたランサーの声だけだった。
創り出した障壁に打ち込んだ反動で、狂戦士がぐらりと後ろにのけ反るのが目の端に入った。無意識のうちに障壁の半径を押し広げ、ヘラクレスを更に後退させる。
もっと離して、もっと遠くへ――怖い、でもせめてカルナが攻撃しやすいポジションに、狂戦士を動かす。
「良い判断だ、ガネーシャ神よ」
地下室の壁を足場にして加速したカルナが、マゼンタ色の弾丸と化して狂戦士に突っ込んでいく。ヘラクレスと接触する直前に、黄金の神槍が太陽の業火を宿して燃え上がる。
カルナのAランクの魔力放出による突き技は、ヘラクレスをも貫通する、はずだった。
――肉がぶつかるような鈍い音が、ガネーシャ神の耳に届く。
バーサーカーとランサーは互いに動きを止めていた。
炎を纏った穂先は、狂戦士の皮膚を浅く切り裂くに留まっていた。ゆっくりと滴るギリシャの大英雄の血は、槍に宿る炎が焼き尽くす。攻撃を防ぎ切ったヘラクレスの手は、カルナの頭部をわしづかみにしていた。ぎりぎりと締め上げられるカルナの口から呻き声が漏れる。
「か、カルナさ……!!」
障壁越しに聞こえた泣きそうなガネーシャ神の声に、カルナの目が大きく見開かれた。
地下空間を振動させるような低音が響いた直後、バーサーカーの手元から紅蓮の渦が巻き起こる。カルナの全身から放たれた炎が巨大な火の玉となり、ヘラクレスごと呑み込んで燃え上がった。
「■■■■■■■――!!」
建物を崩壊させるような大咆哮を上げたバーサーカーは、火だるまになって暴れ狂う。火の粉を上げながら、掴んだ元凶を正面の壁に豪速で投げつけた。巻き込まれた劇作家が出した蛙の潰れるような声は、崩落の音にかき消される。
全身から巻き上がる魔力で燃え移った火の大部分を消し飛ばした狂戦士は、なおもシェイクスピアを狙って前進しようとした。しかし、斧剣を振り回して腕に残った炎を払ったヘラクレスの前に、小さなガネーシャ神が立ちはだかる。
「ここはっ、通さないッスよっ!」
桟橋の際に立った疑似サーヴァントは、震える手の中に斧を顕現する。ケイローンと共にじりじりと後退する己のマスターが離脱するまでは、少なくとも瓦礫からカルナが抜け出すまでは、ガネーシャ神がここを退くわけにはいかない。
血潮のように赤い目が、ゆっくりとガネーシャ神を捉えた。口から漏れる白い蒸気は野生の獣を思わせる獰猛さを漂わせていて、気を抜くと膝が震えてしまいそうだった。
「だいじょぶ、だいじょぶ。ボクは食べてもおいしくないからね、だからだいじょぶ」
なんの根拠もない言葉を、口の中でもごもごと繰り返す。
嘘が本当になるなら、ガネーシャ神は大丈夫なはずだ。いつもなら持っているモーダカを出す余裕など残っていない。代わりに斧の柄をしっかりと両手で握りしめる。
ゆっくりと振り上げられた斧剣を真下から睨み付け、深呼吸して障壁を創り出した。
そのとき、ガネーシャ神の目の端にちらりと黄金が映った。
鋭い声と共に目の前で散ったのは、火花だった。カルナの神槍が目にもとまらぬ速さでヘラクレスの上半身を刺し貫いていく。鮮血が吹き出した傷がみるみるうちに塞がっていく光景は、悪夢そのものだ。
「■■■■■■■!!」
執拗な攻撃に吠えた狂戦士は、右手の斧剣で槍兵を薙ぎ払う。下半身が水に浸った状態で踏みとどまるカルナに視線を向けた瞬間、その空色の瞳が限界まで見開かれた。
「ガネーシャさん!!」
後ろから飛んできたのは、立香の焦ったような叫び声。事態が呑み込めないガネーシャ神の顔に影がかかった瞬間、酷い衝撃で目の前が真っ白になった。
――耳を犯す轟音と、ひんやりと冷たい感触にガネーシャ神はうっすらと目を開けた。
焦点が定まらないぼやけた視界の中に見えたのは、燃え盛る炎。マスターを、仲間を、ガネーシャ神を守る太陽の炎が、青白く照らされる空間の中で舞い踊る。
脳内にかかった靄が急速に晴れていく。軽く頭を振って、ずぶ濡れの身体をなんとか持ち上げた。どうやら立香とケイローンは無事脱出したようだ。劇作家は多分まだ瓦礫の下で、カルナは前方でヘラクレスを押しとどめている。
じくりと腹部が痛む。立香が脱出の際に治癒術式を施してくれたのか、内臓や骨に問題はなさそうだった。しかし、指先を薄い刃で切り裂いたような痛みが腹部から全身に広がっていく。
怖い――でも、それよりも強くガネーシャ神の胸に押し寄せたのは、怒りの波だった。
『その観察眼であれば、落ち着いて考えれば分かるのではないか?今一番の問題は、君が落ち着いていないということなのだが』
昼間、孔明に言われたことが頭をよぎる。そう、今ガネーシャ神は冷静ではない。大事な人を守るべき役目を背負っているのに、実際は部屋の隅で気を失っていただけだ。そんな自分が情けなくて、恥ずかしくて――腹立たしい。
不甲斐なさと悔しさで心がふつふつと沸き立つ。そのエネルギー全てを吸い上げた高望みの新芽が、新しい若葉をぐんぐんと生み出して育っていく。
『レディ、君の信念はなんだ?』
信念なんて知らない、そんなのまだ分からない。ガネーシャ神の中を支配するのは、『このままではいられない』という強い危機感だけだった。
できることを、一つずつ。
床に落ちていた斧を拾い、思いっきり振りかぶってヘラクレスのほうに投げる。風を切る音と共に突き刺さったのは、偶然にもバーサーカーの足元近くだった。短く咆哮を上げたヘラクレスはカルナから目を逸らし、こちらに向きなおる。
その瞬間、ガネーシャ神はありったけの魔力を絞り出し、叫んだ。
「もぉー頭きた!超、ありがたいフラーッシュ!!」
途端にガネーシャ神の身体は眩い光に包まれる。己の裡に溢れる神威を光に変えて、狂戦士の視界を奪う。一瞬でも隙を作れば、必ず決めてくれると信じていた。
その瞬間、薄暗い空間に強烈な赤が現れた。荒れ狂うプロミネンスを思わせる炎が、一筋の光になる。いつの間にか高く跳んだカルナが投擲するのは、太陽の業火。
「『
ガネーシャ神が放つ以上の輝きが、隙を見せた狂戦士に突き刺さる。直後に巻き起こった爆風が、崩れかけの天井にとどめを刺した。
「■■■■■■■!!」
断末魔を上げるヘラクレスを崩落した岩盤が押しつぶす。押し寄せる大波と舞い上がる粉塵に翻弄されそうになったそのとき、ガネーシャ神の身体が宙に浮かんだ。
「カルナさんっ」
「撤退だ。オレとおまえの役目は終わった」
黄金の鎧が当たらないようにガネーシャ神を肩の上に担ぎ、カルナは一気に跳躍する。重力に呻いたガネーシャ神を気にもせず、天井に開いた大穴から外に飛び出した。
カルナの肩から下りて、久しぶりの芝生の感覚にほっと息をつく。空に立ちこめていた厚い雲が風に飛ばされて、いつの間にか満天の星空が広がっていた。
「中庭の下だったんスねぇ」
「そのようだな……む、そろそろか」
穴の縁にしゃがみ込んで中を探っていたカルナは、すっと目を細める。積み上がった瓦礫の真ん中あたりに、赤黒い光が漏れ出ていた。
「カルナさん、このまま撤退ッスよね?」
「そうだ。そこまで猶予はないようだな。悪いが抱えるぞ」
返事を待たずに、カルナはひょいとガネーシャ神を肩に担ぐ。中庭を囲む建物の上に飛び上がる瞬間、ちぎれた芝が辺りに飛び散った。
カルナはそのままの姿勢でおもむろに夜空を見上げる。釣られて上を向いたガネーシャ神は、息を呑んだ。満天の星の瞬きを塗り潰すような強烈な光が、どんどんと輝きを増している。
「あれ、ケイローンさんの……!」
「今夜のとどめだ。受け取れ、狂戦士よ」
カルナの呟きを掻き消すような轟音と共に、黄金の光が空を駆け抜ける。
――そして、一筋の流星が地面に突き刺さった。