後ろ姿よ、さようなら 作:こり
第15話
「よい行楽日和ですな、マスターよ!」
「遠足じゃないんだけどなあ」
上空の強い風に流されて、輪郭がぼやけた雲がどんどんと横切っていく。溢れる陽光はまるで春のようで、確かにピクニックに最適な天気ではあった。
立香とシェイクスピアは森の小道を進む。丁寧にならされた道の先には、この城のエントランスがあるはずだ。
「それにしても、堂々と正面から行くとは思わなかったね……ギルガメッシュ王が言うなら大丈夫なんだろうけど」
教会を出る際に、同行するはずのギルガメッシュは「エントランスから堂々と行け」と言い残してあっと言う間に霊体化してしまった。呆気にとられた立香がマーリンに確認すると、サーヴァントが一騎、城のエントランスにいるらしい。大広間にいる一騎がヘラクレスであることを考えると、確かに正面突破が手っ取り早そうだった。
「いえいえ、我がマスター。我々の取材は何も疚しいことはありません。むしろ正面から出迎えていただくべきでしょう!これは殴り込みとは違うのです!」
「そうかなぁ……殴り込みみたいなもんだと思うんだけどなぁ……」
立香のぼやきなど気にするわけもなく、劇作家は上機嫌で先導する。
そうこうしている間にどんどんと城が近づいてきた。トラップの類も一切ないまま、小道が舗装された大きな道へと変わる。古びた石造りの階段を上ると、重厚な両開きの扉が二人を出迎えた。
「ここからどうやって入ろうか……あれ?」
「ほう。どうやら招かれざる客ではないようですな。吾輩、暴力沙汰は苦手ですので、開かない場合はマスターに頑張っていただくほかなかったのですが、安心いたしました」
石が擦れる鈍い音と共に、ゆっくりと扉が開いていく。薄暗い城のエントランスに光が射しこんで、空中の埃が星屑のようにきらきらと輝く。最後に大きな音を立てて扉が完全に開き切ると、立香とシェイクスピアは顔を見合わせ、慎重に一歩踏み出した。
広い空間の両サイドに石膏の胸像がいくつか並び、煌びやかな装飾が施された豪華な階段が正面に設えられている。物音一つしない中、階段の赤絨毯を踏みしめる小さな人影がこちらを見つめていた。
「……ナーサリーライム」
立香の言葉にも微動だにせず、ナーサリーライムは階段の上に立ちはだかっている。お茶会では野苺のように透き通った赤だった大きな瞳は、冷ややかな色を湛えていた。
そのとき、シェイクスピアが立香を置いて前に出た。二歩、三歩と足を進め、エントランスの中央まで辿り着いた男は、外套を翻して大仰にお辞儀をする。
「ごきげんよう、自ら語る絵本よ。そしてさようなら!絵本そのものを取材する方法について、ああでもないこうでもないと思案していたのですが、やはり吾輩にできる事は一つと思い至りました。物語というものは、異なる側面から解釈するとなお面白くなるというもの!手段はそうですね――例えば、演じてみるとか」
稀代の宮廷劇作家は、腕を広げて滔々と歌い上げる。そして、頭上に一冊の本を掲げて、銀髪の少女に向き直った。ぱらりと開かれた本のページが白く輝く。
「おぉ、我ながらなんと素晴らしい取材方法だ!そうと決まれば、我が劇団が必要であろう!ご安心ください、本日の我が舌はまさに絶好調!――なにせ貴女の心を切り裂かねばならぬのですから」
シェイクスピアの朗々と語る声に合わせて、本のページが勢いよく捲れて、段々と大きな風を巻き起こす。そして、両手を広げて天を仰いだ劇作家は、高らかに開演を告げた。
「さあ我が宝具の幕開けだ!席に座れ!煙草はやめろ!写真撮影お断り!野蛮な罵声は真っ平御免!世界は我が手、我が舞台!『
強烈な風に乗って舞い上がった白紙のページが、後ずさるナーサリーライムを包み込む。大きく見開かれた鮮血のような瞳が白に覆い尽くされたその瞬間、突如としてエントランスが暗転した。
立香がふと気づくと、見覚えのある青白い光を湛える水の側に立っていた。目が慣れるまで何度もまばたきを繰り返すと、ようやく周囲が見えてくる。
そこには、崩落したはずの地下の廃棄場が、本来の姿のまま目の前に広がっていた。
溢れた魔力で燐光を帯びた光の中に、一本通路が突き出している。その先端から鋭い響きの幼い声が立香の耳に飛び込んできた。
「……呆れたわ。ごきげんようの挨拶もできないなんて、本当にお行儀の悪いおじ様なのね」
『これは失敬、取材にはやる気持ちを抑えきれない性質でして。さて、本来であれば貴女のためだけの舞台にするところですが、今回は特別製!我がマスターもご招待いたしました。どうぞ、ごゆるりとお楽しみくださいませ』
空間全てに広がるように、劇作家の声が響き渡った。姿がどこにも見えない分、本当に芝居の一部分になったかのような感覚に陥ってしまう。
シェイクスピアの『
彼と彼女の壮絶な舞台の幕は既に上がってしまった。もはや成り行きを見守ることしかできない立香は、ナーサリーライムを通路に残して地上に繋がる階段の影に身を寄せた。
『もうお分かりかとは思いますが、ここは地下の廃棄場でございます。こちらはナーサリーライムの記憶、そして、彼女のマスターの記憶から作り出した舞台装置ですが、このような辛気臭い場所の記憶しか持っていないとはなんとも嘆かわしい!しかし、断罪の場にはふさわしいとも言えるでしょう。――よろしい、第一幕の開演です!』
ぱちんと指を鳴らす音に、ナーサリーライムは眉をひそめる。腕の中に抱えた自身とうり二つの人形を抱きしめて、冷たく言い放った。
「何を見せるというのかしら。あたしは
『――さて、本当にそうなのでしょうか?』
ぱちゃんと水音がする。ナーサリーライムの背後から聞こえた低い男の声に、その場が凍り付いた。
『ナーサリーライム、自ら続きを紡ぐ物語よ。貴女は本当に、貴女がマスターと仰ぐ方の望みを叶えているのですかな?』
暗い空間にもう一度水音が響く。心に冷たい水が染み渡るような感覚に、立香は無意識に両腕をさすった。
ふと顔を上げると、何もなかったはずの水面に細い腕が一本突き出している。立香の声なき悲鳴に、輝く水のほうを振り向いたナーサリーライムは分かりやすく怯んだ。
「……どうして?どうして動いているの?あたしのこと置いて遠いところにいっちゃったのに」
「――置いていったのはどちらかしら」
ナーサリーライムの独り言に、聞いたことのない少女の声が答えた。
しっとりと濡れた白い肌がなまめかしく光って、ほっそりした指に力が入る。握られた拳に浮かぶ令呪の上を水滴が伝って、立香の喉の奥で恐怖が膨れ上がっていく。
『置いていったのは貴女のほうです、ナーサリーライム。他でもない己のマスターをこんな暗い空間に置いていったのですよ。助けもせず、契約だけして――貴女は彼女を放置した』
水面から突き出る腕はいつの間にか二本に増えて、通路の端を掴んでいた。力が籠められて真っ白に変わった指先に、立香の心臓は縮み上がる。
死んだはずのホムンクルスが、水から這い上がってこようとしている。
「ねぇ、私はお願いしたかしら。特異点を作ってってお願いしたかしら。――よく覚えていないの。ねえ、ナーサリーライム。あなたは私と何を約束したの?」
『そもそも彼女は望みを口にしたのですか?もし口にしていないのなら……彼女の望みを貴女の望みにすり替えたとも言えるのでは?』
ホムンクルスの残骸は、男の声と少女の声で交互にナーサリーライムを糾弾する。己の主人である証明が刻まれた手がぎこちなく伸ばされ、声も出ない少女の足首を掴んだ。
「ただそばにいてくれればよかったのに、あなたはいつも私を水の中に置いていく」
ナーサリーライムの肩が大きく跳ねる。一拍置いて響き渡ったのは、か細い悲鳴だった。
「違うわ、置いていってなんかないわ!一緒に遊びたかったけど、
「そんなことを貴女のマスターはお願いしたのですかな?人形にして外に連れて行って、なんて言われていないでしょう。そう、本人を助けられない事実から目を瞑ったのは、他でもない、貴女だ。ナーサリーライム」
「……そんな、そんなことあるわけないわ!こんなのあなたが勝手に作り出した妄想よ!」
「いえいえ。残念なことに、吾輩の宝具がベースとするのは貴女の記憶なのですよ。つまり、マスターを見捨てたと思っているのは吾輩ではなく、貴女です」
ひゅっと少女の喉が鳴る。
それと前後して、ナーサリーライムの足首を掴んでいた手から力が抜け、ゆっくりと遠ざかっていく。直後に、盛大で無慈悲な水音が地下空間にこだました。
マスターを見捨てたサーヴァントは、引き攣った呻き声を漏らしてその場に崩れ落ちる。
「――第二幕」
指を鳴らす音が男の声に被さり、舞台は真っ暗に塗り潰された。
どこからか小鳥の声が聞こえる。ゆっくりと瞼を上げると、立香は森の中にいた。目の前には見覚えのあるテーブルセットが用意されていて、お菓子や軽食が所狭しと並べられている。
丸テーブルを挟んだ向かいには、白磁のように真っ白な顔のナーサリーライムが座っていた。
『辛気臭い地下に比べて、やはり外はいいものですなぁ。気分新たに、楽しい楽しいお茶会を開くといたしましょうか。マスター、温かい紅茶はいかがですか?淹れて差し上げよう』
はしゃぐような男の声と共に、少し離れた位置に置かれたティーポットがふわりと浮き上がった。声の主の姿はない。ティーポットは蓋を鳴らしながら宙を移動し、立香の前のティーカップになみなみと紅茶を注いで戻っていく。
白地に小花柄のカップは以前のお茶会と同じものなのに、主催者だった少女は今や微動だにしなかった。
『――あぁ、これは失礼いたしました!吾輩としたことが、参加者をおひとり忘れておりました。どうぞこちらへ!』
悪戯っ子のようにはしゃいだ男の声が聞こえ、ティーポットが再び宙に浮かび上がった。立香とナーサリーライムの真ん中のあたりに紅茶が一組用意されると、食器はカシャカシャと音を立てながら移動していく。落ち着いた先は、赤くて華奢な椅子の前だった。
ぱちんと軽快に指を鳴らす音が響くと、突然人の気配を感じる。立香は空席の赤い椅子に恐る恐る視線を向けた。
そこには、さっきまで水中に沈んでいたホムンクルスが座っていた。
腕の産毛が逆立つような感覚を覚える。漂白されたように白いブラウスが濡れそぼり、べったりと二の腕に貼りついていた。ぽたりと顎から水滴が落ちても微動だにしない少女は、異様な雰囲気を醸し出す。
『どうぞ、温かい紅茶をお召し上がりください。――ずっと水の中にいたのです。身も心も芯まで冷え切っているでしょう?』
ホムンクルスの表情は、俯いていて見えない。テーブルの上に遠慮がちに乗せられた手の甲には、赤い複雑な紋様が変わらずに刻まれていた。
『さて。念願通り、ご自身のマスターに外の世界を見せることができましたな!これは大変に喜ばしいことです。おや?あまりの喜びに、貴女自身が人形に戻ってしまいましたか?それはそれで面白いのですが、吾輩といたしましては少々物足りない!』
劇作家の喜色に満ちた声色が、冬の晴天に溶けていく。降り注ぐ陽光と手元の紅茶は温かいのに、お茶会の空気はただただ冷え切っていた。
「そんなわけないわ。それで、あなたは何が言いたいの」
一切の表情をそぎ落とした少女が、温度のない声で呟く。
『吾輩に言いたいことなどございませんとも。吾輩は聞きたいだけ――言いたいことがあるのは貴女のマスターではないですか?』
「――陽の光を浴びたのはこれが初めてなの。こんなに眩しいのね」
ずぶ濡れの少女がぽつりと呟いて、テーブルが静まり返る。ホムンクルスの銀髪がきらきらと輝いて、場違いに綺麗だった。
「あなたはいつもこんなに日が当たる、温かい場所を走り回っていたのね。私はいつも寒かったのに、羨ましい。……ねえ、ナーサリーライム。どうして連れてきてくれなかったの?」
「…………」
「――あなたは、私が手に入れた聖杯で自分の好きな世界を作って遊んでいただけじゃない」
ホムンクルスの声は徐々に糾弾の色を帯びる。
晴天を覆い尽くすような暗雲が遠くに見えて、立香は空を見上げる。ホムンクルスの少女の怒りを具現化したような真っ黒な雲は微かに雷鳴を帯びていて、猛スピードでこちらに近づいてくる。
「……違うわ」
突然がしゃんと音がして、ナーサリーライムの手元にあったティーカップが跳ねた。周囲が濡れるのにも構わず、少女はテーブルをもう一度叩く。
「違うわ、違うわ、違うわ!全ては
カミソリのように鋭い叫び声をあげて、少女は立香のほうに向き直る。怒りに支配された瞳には、怒りが立ち込めていた。
「シェイクスピア、これ以上マスターとあたしの物語を踏みにじるのは許さないわ!」
『許さないと言われましても、彼女の言葉は貴女の深層心理ですよ?貴女が怒り、憤るべきは貴女自身に対してではありませんか?』
「そんなことっ」
「――シェイクスピア、もうこの辺にしておこう」
なおも続けようとする劇作家を遮って、反射的に立香は声を上げていた。こちらを見つめるナーサリーライムの瞳が、動揺で揺れ動く。
「もう十分すぎるくらいやったよ。これ以上彼女を追い詰めるのはやめよう」
『……我がマスターの命であれば致し方ないですな。哀れな道化は主人の命に従うのが鉄則です。よろしい、日程半ばで千秋楽となる舞台もございますし、これもまた芝居の醍醐味とも言えましょう――本日の我が舞台は、これにて閉幕!お帰りの際はお忘れ物にご注意を!』
以前より大きく指が鳴り、テーブルセットがぐにゃりと曲がる。そして、目の前が暗くなった。
瞬きのあとに見えたのは、最初に辿り着いたエントランスだった。静謐な空間も、ちらちらと差し込む陽光も全く同じ。異なるのは、階段の上にいた少女が立香たちの目の前で蹲っていることだけだった。
傍らのシェイクスピアを手で制した立香は、ゆっくりと距離を詰める。床に広がるドレスの裾を踏まないように片膝をつき、少女と視線を合わせた。
「……ナーサリーライム。あなたと話をしたい」
少女の姿をしたサーヴァントは、すぐ近くに落ちている人形を怯えた目で見つめる。そして、小さな手を伸ばして人形を抱き締めた。
「――ここにはおしまいなんて来ないわ」
くぐもった声がエントランスに零れ落ちる。微かに肩を震わせた少女は、突然立ち上がった。まるで凍り付いた人形のような表情で立香を見下ろし、堰を切ったように話し出す。
「聖杯を渡せって言うんでしょう?嫌、絶対にあげないわ。あたしたちは、あたしたちが望む明日を見るために聖杯を使っているの!だからもうやめて!あたしたちに構わないで!」
激高したナーサリーライムの瞳孔が、立香を捉えてすっと細められた。
「これ以上邪魔されるくらいなら……今ここであなたを殺すわ」
死刑宣告にも等しい一言を平然と口にした少女は、右手を立香の首に向けて伸ばす。
立香が目を見開いた、そのときだった。
「それはならん」
――瞬間、立香の背後から眩い光が空間を貫いた。
肉を抉るような鈍い衝撃音。立香の目に飛び込んだのは、目の前の少女の胸から溢れる鮮烈な赤だった。
甲高い悲鳴を上げて、少女は床に崩れ落ちる。手元からは人形が滑り落ち、床に当たった右頬が砕け散った。
「人間が生み出した物語が更なる物語を紡ぐ。それ自体は興味深いが……そのために人間を害するのは度し難い。物語が読み手に手を掛けるなど、本末転倒にも程があろうよ」
金属音と共に、声の主が立香の背後に立つ。魔杖を操るギルガメッシュに向けて、シェイクスピアが二度三度拍手を送った。
「『
恭しくお辞儀をした男の足元まで飛び散った人形の欠片が、陽光を浴びてきらりと光った。