後ろ姿よ、さようなら 作:こり
第6話
冬の朝らしいピンと澄んだ空気に、小鳥のさえずりが響く。まだ空の支配権は夜にあるものの、木々の向こうに太陽の気配を感じた。一晩中絶やさなかった焚火の炎が、ぱちりと音をたてて爆ぜる。森で唯一の明かりは、切り株に腰掛けたガネーシャ神の顔をぼんやりと照らしていた。
「眠れなかったのか」
隣に立ってしばらく見下ろしていても気付かないガネーシャ神に、カルナは我慢できずに声を掛けた。一拍遅れてこちらを見上げた彼女の眼鏡は、吐息で一部が白く曇っている。
「……おはよ、カルナさん」
「あぁ、おはよう」
カルデアで毎日交わすいつもの挨拶。ただそれがレイシフト先だというだけで、印象が全く違う。
「あまり眠れていないのか」
あくびを噛み殺したタイミングで話しかけるカルナを、ガネーシャ神がじと目で見やる。
サーヴァントが交代で寝ずの番を務めているが、疑似サーヴァントである孔明、そしてガネーシャ神は、優先的に睡眠をとるよう立香に言い含められていた。にもかかわらず、彼女がここに座っていること自体がカルナからすれば異常事態だ。
「確かにボクにしてはちょっと早めの起床ッスけど、別に眠れてないってほどじゃないッス。それを言うならカルナさんだって今当番の時間帯じゃないでしょ」
「早めに目が覚めて、ケイローンと交代したところだ。ケイローンは少し森を見てくると言っていた」
東の空が赤く染まりつつあるものの、まだまだ森の中は暗い。小さくなりかけた焚火に薪を足したカルナは、ガネーシャ神の右隣にある丸太に腰掛けた。
「今日ははぐれサーヴァントの探索ッスかね」
「そうだな。それに、早めにヘラクレスを見極めねばなるまい」
カルナの返答に、ガネーシャ神は自身の右手を左手で掴んだ。下唇を噛み締めて俯く横顔を、長い髪が覆い隠す。
「やっぱり、あのヘラクレスは倒さないとなんスよね」
「愚問だな」
「はい、言葉が足りないッス。もう一声」
「……実際にヘラクレスを見たのはおまえだ。オレに判断を仰ぐまでもなくおまえは分かっているだろう」
ぼそりと付け加えたカルナの言葉に、ガネーシャ神はにやりと笑う。その笑顔は微かに引き攣っているように見えたが、カルナは何も言わなかった。
今に始まったことではない。このレイシフトのしばらく前から、彼女が何やら思い詰めていることにカルナは気づいていた。日頃から怠惰な生活を送り、プロニートを自称する彼女は、その実己の内心を早々簡単に晒そうとはしないタイプだ。皮肉めいた笑顔と軽口で、臆病で気弱な本心を何重にも覆い隠す。カルナの貧者の見識を以てしても読み解き切れないその本心は、ときにカルナを迷わせた。
最近、ガネーシャ神は前に比べて戦闘に積極的になっている。戦況を分析し、できる最適のサポートをして皆を助けるその姿は、不思議とカルナの心をぽかぽかと温めた。
しかし、どうしても見過ごせないことが一つあった。カルデアに帰還する直前、ガネーシャ神は必ず自身の右手を左手で強く握るのだ。最初に見たときは右手を負傷したのかと慌てたが、どうやら違うらしい。無意識のうちにやっているその行為は、決まって必ず戦闘が終わってしばらく経った後にこっそりと行われる。
一度気づいてしまってから、カルナは注意深く観察するようになった。直接問いただしてしまえば、彼女は必ずはぐらかす。ちょっとした行為が見せる彼女の本心を見逃すわけにはいかないと、どうしてか強く心に誓う。
そんなことを何度も繰り返したある日、ようやくカルナはその行為の意味を知る。斧を持つ小さな右手が小刻みに震えるのを隠すために、左手で押さえつけていたのだ。
本来であれば、戦場に出るのは不可能なくらい怖がりであることをカルナは何故か知っていた。どこで知ったのかは分からないけれど、まるで魂に刻まれたような強さで確信する自分がいる。
それなのに、彼女は今、恐怖を押し殺して自ら戦場に立とうとしているのだ。楽なほうに流されやすい性質にもかかわらずそんな苦行を選ぶなど、よほど強い動機があるに違いない。なのに、肝心の動機が未だにカルナは理解できずにいた。
彼女のために出来ることは何でもしたいと願っても、動機が分からなくては何をすべきかも見えてこない。不甲斐ないにも程がある。
だから、せめて邪魔はすまいと決めた。彼女が言わない限り、何も言わない。常に傍で見守り、いざとなれば助けに入る。それが今のカルナにできる精一杯の後押しだ。
追加した薪が大きく爆ぜて、ごとりと地面に落ちた。強く握られすぎた白い右手に、焚火の赤がうっすらと映る。
唇をはくはくと動かしたガネーシャ神は、鳥のさえずりにも負けてしまいそうな小さな声で呟いた。
「こんなとこ連れてこられてるけど、ボクってばプロのニートッスから?できればお仕事したくないっていうか……よく皆ボクにいろいろ任せるなーっていうか……」
「マスターも、ケイローンも、オレも、おまえを信用していることは確かだ」
カルナの言葉に、ガネーシャ神は黙り込んだ。左手をもぞもぞと動かして、もう一度右手を握りこむ。
「アタシに何かできるのかな」
唇の端からポロリと溢れた言葉に、カルナはいたたまれなくなって目を細めた。俯いた瞳の色は、眼鏡のレンズに阻まれて伺うことはできないけれど、相変わらず右手はしっかりと掴まれたままだった。
今の彼女が求める言葉がなんだか、カルナには分からない。それでも、決して彼女を一人にはしないと決めている。自他ともに認める言葉の足りなさを今だけは返上して、カルナが伝えるべきと感じたことを余さず彼女に伝える。
「恐れは必要なものだ。正しく恐れるならば、それは強さに繋がる」
カルナの言葉に、ガネーシャ神が顔を上げた。冬の空が映り込んだ無垢な瞳が微かに震える。彼女の本心が零れ落ちるのを、カルナは祈った。
何度か言葉を呑み込んだ彼女の喉が、ようやく声を紡ごうとする。
しかしその瞬間、二人を呼ぶ声が聞こえた。
「……行こ、カルナさん」
本来言うはずではない言葉を口にしたガネーシャ神は、自身の右手を解放する。解き放たれた小さな手には、うっすらと左手の指の跡が残っていて、カルナはこっそりと眉を顰めた。
「おはよう、皆!」
立香のいつも通りの明るい挨拶に、サーヴァントたちも口々に応じた。状況が苦しいときでもいつも通りを貫けるところが、人類最後のマスターの強みであり美徳であると、彼女に仕える英霊は皆よく知っている。
「最初に伝えなきゃいけないことがあるんだ。朝一でカルデアに連絡を試みたけど、やっぱり無理だった」
「アインツベルンの結界が原因だとすれば、特異点解決まで連絡が途絶える可能性がある。向こうにサポートを望むのはやめたほうがよさそうだ。幸い数日は持つだろう。それまでに解決するとしよう」
説明を付け加えた孔明は、しょんぼりと肩を落とす立香を励ますように頷いて見せた。
「できることから一つずつ、だよね。まずは昨日報告してくれた教会のはぐれサーヴァントを探すところからかな」
「それについて一ついいかな、マイロード」
マーリンがすっと左手を上げる。ほっそりしつつも節が少し目立つ指をひらひらと動かしてから、花の魔術師は指を二本立てた。
「今朝になってからサーヴァントの気配を探っていたんだけれど、教会の他にもう一騎いるようだね」
「それはヘラクレスとは違うサーヴァントということ?」
「そうだね。城の内部に一騎、城と外を行き来しているのが一騎。これはヘラクレスとナーサリーライムだろうね。そして城壁の内部に一騎。こちらは教会のサーヴァントだろう。それに加えて更にもう一騎、城壁外の森に気配があるということさ」
マーリンは杖の先を二度地面に打ち付けた。とんとん、と先端が触れた地面から小ぶりな花が生み出されては消えていく。
「……おや、一瞬匂わせてすぐ気配を消したようだね」
「あえて存在を気づかせたということでしょうか」
ケイローンの疑問に、どことなく楽しそうにマーリンが同意する。
パンッと一回手を打って、立香は方針を決めた。
「じゃあまた昨日と同じメンバーで二手に分かれて探すことにしよう!ナーサリーライムに出会ったら何か聞けるかもしれないから、昨日と同じく私は城外隊に入るね」
「では、教会が安全であることを確認し次第、こちらの木に矢を放ちます。もし矢があれば教会に集合、なければこちらで再集合としましょうか。よろしいですか?」
ケイローンの提案に、一同は異論もなく同意する。
「じゃあ皆、気を付けていこう!」
立香が元気よく声を掛け、二日目がスタートした。
昨日通ったのと同じルートを索敵しながら、一行は足早に進む。アインツベルンについて話し合うケイローンと孔明の後ろを、ジナコは上の空で歩いていた。
『恐れは必要なものだ。正しく恐れるならば、それは強さに繋がる』
今朝のカルナの言葉が何度も頭をよぎっては消えていく。
ちっぽけで、むしろ灯ったこと自体が奇跡のような決意の火が、ジナコの心の奥でちろりと火の粉を出す。城の大広間でヘラクレスと出会ったときに一瞬で吹き飛びかけた火をなんとか消さずに済んだのは、苦しそうな顔をしながら矢を放ったケイローンを見たからであり、ジナコを庇うように飛び出した孔明の姿のせいでもあった。
『今回ガネーシャ神を呼ぶよう提案したのは私です』
『私も大丈夫だと思う。だから、行こう、ガネーシャさん!』
『マスターも、ケイローンも、オレも、おまえを信用していることは確かだ』
心の奥で燃える小さな種火に皆の言葉がくべられて、少しずつ火種が大きくなる。
ジナコは自分を信じられていない。なのに、立香は、ケイローンは、そしてカルナはジナコを信じているという。何故だろうと思う以上に感じる喜びを、ジナコは誤魔化すことはできなかった。信頼されることは嬉しい。でも、期待に応えられる自信はない。どうやってあんな狂戦士から立香を、仲間を守りきればいいんだろう。
縮こまっていたジナコを覗きこんだ今朝のカルナの表情を思い出す。口には出さないものの、あからさまに心配の色を滲ませてこちらを見ていた。己のヒーローの瞳はいつでも澄んだ青空であってほしいと願うジナコにとって、薄曇りは好ましくない。もっと言えば、曇天を生み出したのが他でもない自分であること自体、許せそうになかった。
まずはせめて足手まといにならないようにしようと心に決める。できることから一つずつと言うのは立香がよく言う言葉だ。臆病なジナコでもなんとか一歩踏み出せる気がして、同じ言葉を口の中でもごもごと唱える。
「できることから、一つずつやるッスよ」
教会のはぐれサーヴァントが好戦的ではないことを祈りながら、ジナコは前をゆく二人の背中を追いかけた。
蔦に覆われた教会は、昨日と同じく静寂に包まれていた。
「まずは中に入ってみましょうか」
昨日と同じように、ケイローンが慎重に扉を開ける。木製の扉が軋み、石造りの建物独特のひんやりとした暗闇が三人を出迎えた。足音を響かせながら柱の間を抜けると、その先は陽光溢れる礼拝堂だった。昨日と唯一違うのは、通路の真ん中に漆黒のドレスを纏った女性が一人立っていることだけ。
「貴様ら、サーヴァントだな?」
氷の刃のような鋭利な声が広い空間に反射する。艶めく長い黒髪に人間のものとはかけ離れた形状の白い耳。妖艶さと退廃的な空気を双方纏った美しい女が立っていた。
「……現地召喚のサーヴァントは貴女でしたか。アッシリアの女帝、セミラミス」
ケイローンの言葉に、セミラミスは片眉を上げる。
「ほぉ……我が真名を口にするか。ふむ、汝とはどこかで縁があったようにも思える顔だな」
「私はケイローン、そしてこちらは諸葛孔明とガネーシャ神と申します。我らはこの特異点を解決するためにカルデアのマスターと共にやってきました。我々に貴女と敵対する意思はありません。話をさせてもらえないでしょうか?」
「マスターとな。……よかろう、赦す」
大ぶりのファーをふわりと揺らしながら、セミラミスは微かに頷いた。
一歩彼女に近づいたガネーシャ神は、床を見て息を呑む。彼女の右の指先から、一定の間隔で赤い雫が床に落ちていた。床の惨状に言葉を呑み込んだ孔明は、ややあって口を開く。
「単刀直入に訊かせていただく。アッシリアの女帝よ、一体何があった?」
「見れば分かるだろう。我は背中を負傷している。それも、霊核にひびが入るほどのな」
肩付近まで傷が及んでいるのか、右の二の腕を抑えてセミラミスは唇の端を上げる。微かに見える歯は固く食い縛られ、額にはうっすらと冷や汗が滲んでいた。
「そんな大怪我って……まさか、ヘラクレス……!?」
ガネーシャ神の小さな叫びに目を細め、女帝は裾を翻して礼拝堂の前方にゆっくりと歩いていく。カツンと踵の音が響くたび、赤い雫が床を汚した。
「我の召喚は汝らがやってくるよりも前だ。城の中に召喚されたものの、マスターが見当たらなかった。どうやら俗にいうはぐれサーヴァントなるものかとつまらなく思ったものだ。マスターを弄ぶのが現界時の愉しみの一つだと言うに」
「では、貴女が召喚された時点では、ヘラクレスはまだいなかったということだろうか」
片手を上げて質問を挟んだ孔明をちらりと見やり、セミラミスは頷く。
「そうだ。我はキャスターとしての能力も持つ二重召喚故、サーヴァントの気配程度を察するのは造作もない。あの時点では我以外にはもう一騎が存在するのみであったな」
「ナーサリーライム、もしくは城壁外にいるという残り一騎のことですね」
考え込むケイローンには答えず、セミラミスは言葉を続ける。
「鳩も使いながら城の内部を見て回ったものの、破壊の痕跡はあれど人の姿は終ぞ見かけなかった。面白くもなんともない特異点だと頭痛がする思いでな。……あぁ、地下に少々面白いものがあったか」
「地下空間があるのですか。まだ確認できていない範囲ですね」
「大部分が水に満たされた空間がある。異様な魔力を宿した水……我が思うに、あれは廃棄場のようなものだろうて」
どす黒く変色した両手に繋がる飾り布を揺らめかしながら、セミラミスは優雅に手を顔に添える。絶世の美女の頬にかすれた血の跡が塗り込められて、それを見たガネーシャ神は礼拝用の椅子の上で縮こまった。
「なぜ廃棄場だと?……まさか、ホムンクルスか?」
「ほう?汝は少々頭が切れるようだな。褒めて遣わす」
鼻で笑いつつも、女帝は青ざめた唇を美しく歪めた。孔明が口走った言葉は正解だったようだ。
「朽ちかけたホムンクルスが一体、水際に沈んでいた。不要になったホムンクルスを魔力に変換でもしているのだろうよ。であれば、あの膨大な魔力量も頷ける」
「貴女はそれを確認した後、大広間に戻ったのですね?」
「そうだ。そしてその時点であの狂戦士が召喚されていて、襲われたというわけよ」
大きく息を吐いたセミラミスは目を閉じる。長い睫毛の影が陶器のように滑らかな頬に落ちて、かすれた血の跡とのコントラストが痛ましかった。
ぽとりとまた一滴床に赤が散らばって、天井の高い位置から鳥の羽音が聞こえた。血だらけの女帝の前に、ケイローンは一歩踏み出して、彼女を真正面から見つめる。
「大方の事情は把握しました。セミラミス。我々の特異点解決に協力していただけますか?」
「協力してやらなくもない。ただし無条件でとはいかぬぞ?」
どことなく退廃的な探るような目つきを浮かべたアッシリアの女帝の言葉にも、ギリシャの大賢者は顔色一つ変えなかった。
「お聞きしましょう」
「汝らのマスターの令呪一画で手を打とうではないか。全快とはいかぬだろうが、霊核のヒビを修復するくらいは容易いだろうて。そうすれば多少の偵察や毒の付与程度ならできるようになる。悪い条件ではなかろう?」
「お互いに益があると思います。私からマスターに掛け合いましょう」
「汝を信用しよう。違えるなよ」
ケイローンの言葉を受け取ったセミラミスは、霊体化してその場から姿を消した。霊基の消耗を抑えるためだろう。しばらくその場でとどまっていた三人は、揃って大きく息をついた。
眉を顰めたガネーシャ神は、ケイローンに囁く。
「大丈夫なんスか?ああいうタイプってちょっと信用ならない気がするッス……」
「大丈夫ですよ。彼女はああ見えてマスターに尽くす一途な面も持っていますから」
「喧しいぞ賢者。それは他所の我の話よ」
小声のやり取りは完全に筒抜けていたらしい。苛つきを隠しもしない声が礼拝堂に響いた。驚いてあたりを見回したガネーシャ神に対し、ケイローンはどこ吹く風だ。弓を顕現して調子を確認するように一度弦をはじいた。
「こちらの任務は円満に終えられてよかったです。集合場所も教会でよさそうですから、約束の場に合図を送ってきましょう」
足音が遠ざかり、重い扉の開閉音が収まると同時に、ここまで黙っていた孔明が葉巻を探して上着の胸ポケットを漁る。無事見つけ出した嗜好品に火をつけて、大きく一度息を吸い込んだ。
「城外隊の首尾が上々だといいのだがな」
ぼそりと零れた呟きは、紫煙と共に空間に紛れて消えていった。