タキオンが元トレーナーのために孤島の学園で謎を解く 作:首狩兎計画
「誰っ?」
ドックに響いた鋭い声に、タキオンたちは足を止めた。
暗いドックの中で陰になっていてよく見えないが、どうやら原因究明は恵那の仕事だったらしい。
敗率百パーセントの賭けに出るべきか悩むタキオンたちの耳に、キィ、と車輪のような音が聞こえた。
「ドックはドローンのチェックが終わるまで立ち入り禁止……あなた達は」
ようやく光の届くところまで近付いてきたのは恵那……ではなく、彼女にそっくりなショートカットの女性だった。
足が不自由なのか、『車椅子』に座っている。
けれどなによりも目を引いたのは、その顔立ちだった。
先ほどの声もそうだが、余りにも恵那に似すぎている。
呆けて固まるタキオンたちに構わず、彼女は三人の顔を順々に見つめて、なにかを確認するように数秒間、目を閉じた。
「……見慣れない顔ですね。調査のために理事が呼んだウマ娘とは、あなた達のことですか」
「生徒の顔は全員覚えているってか?」
見慣れないから部外者か、という言い方を選んだ彼女にシャカールは噛みつくが、彼女はさも当然のように「もちろん」と答えた。
「管理する側が把握していないと、どうにもならないでしょう? すべて把握していますよ、私は」
私は、という言葉が、厭味だったのか、ただの補足だったのかはわからない。
理事や主任たちが把握していないのであれば、厭味の可能性が飛躍的に上がるけれど。
「私は副主任の長良音緒と申します」
「長良……? と、いうことは主任の長良恵那氏の……?」
「妹です、双子の」
双子と聞いて、タキオンも納得がいった。
たしかに他人だと言われても絶対に信じられないくらいに、ふたりは似ていた。
ただ、服装や髪形、眼鏡で印象を変えているのか、見分けることはできる。
ふたりのテンションの違いもあるかもしれないが。
「紹介が遅れてすまなかった。私は……」
「自己紹介は結構。私は主任と違って、事前に説明を受けていましたから。よろしくお願いいたします。アグネスタキオンさん、エアシャカールさん、テイエムオペラオーさん」
——誰が優しい子だって?
敵意満載で睨みつけられたタキオンは、芝居がかった所作で「ご存じならば話が早い」とおどけて見せながら、内心で吐き捨てた。
「いかにも。私たちは理事に呼ばれて脅迫事件の調査に来たものだ。別に、探偵というわけではないのだがね」
そんなふざけた態度を取ってみせても、音緒はクスリともしなかった。
「さて。早々に本題に入らせていただくが、今回の事故原因はわかったのかい?」
音緒はギロリとタキオンを睨みつけた。
不思議なことに、彼女の視線はタキオンに固定されており、一緒にいるシャカールとオペラオーのことは睨もうともしていないように思える。
「……もう少し詳しく調べてみないと爆発した原因まではわかりませんが……事故ではなく、人為的な事件である可能性が少なからずあります」
「……随分、あっさりと私たちに教えてくれるのだね。もしも恵那主任なら『あなた達には関係ない』の一点張りで追い出そうとしていただろう」
「双子とはいえ、姉とは別個の人間です、私は。それに、あなた達は理事が事件解決のためにお呼びしたんでしょう? ならば、情報提供をするのは当然では?」
「まァ、たしかにな。最初からそうしてくれると、こっちも助かったンだがよ」
厭味交じりのシャカールの言葉に、音緒は軽い一礼で応えた。
ギスギスとした学園内の雰囲気を知っていてなお、無関係を装うように。
「今回爆発したドローンは、運の悪いことに大型のものでした。防犯用というより、レース中に負傷したウマ娘の応急処置を行いながら、迅速に病院へ搬送することを目的とした個体です。まだ常用はされておらず、試験運用中でした。……この爆発が人為的に行われたのであれば、使用頻度、大きさによる破壊力などにより、選ばれたことにも納得がいきます」
「ちなみに何故、人為的な事件の可能性があると?」
タキオンの問いかけに、シャカールからタキオンへ視線の向きを変えた音緒は、その瞬間に目つきを剣呑なものへと変えた。
彼女は意図して、タキオンだけを睨み続けているのだ。
「破壊されていなかったストレージを覗いてみたところ、仕様にはないコードが見つかりました。誰かが書き換えた可能性があります。しかし、これが原因かどうかは、これからハード面も含め、詳細に調べてみなければわかりません」
理論的なその考え方はとても好ましいと思ったけれど、だからこそ、初対面のはずのタキオンだけを睨み続けるという理論的ではない行為の意味がわからない。
「……そうか。ちなみに、もし。もしもの話だ」
タキオンの前置きに、音緒は少しだけ嫌そうな顔をした。
シャカールと同じように、もしも、という不確定な話が嫌いなのかもしれない。
「もしも書き換えられたコードが原因で事故が起きていたとしたら……考えられる、目的はなにかあるかな?」
相変わらず音緒はタキオンを睨みつけているが、質問に答えてくれるつもりはあるらしい。
少しだけ考えるように間をあけて、彼女は口を開いた。
「警告……いいえ、最終通告かもしれない」
「何に対する、だい?」
「今朝届いた、新しい脅迫状よ」
「……話の腰を折ってすまない。あえて当たり前と思われることを聞いてみるが、脅迫状とは……手紙、で間違いないかい?」
「え、えぇ。普通の封筒に入った便箋よ。理事に見せてもらっていないの?」
「残念ながら、機密に触れるため見せられないと。現物に触れるどころか、見ることすらできていないから、存在すら怪しんでいたんだよ。色や柄なんかもわかれば教えていただきたいのだが?」
思わぬタキオンの質問攻めに、音緒は動揺しながらも、思い出すようにゆっくりと答えてくれた。
「柄はなくて……無地よ。色は、普通に白色……といっても、なんていうのかしら、真っ白ではなくて……薄いクリーム色、といって伝わるかしら?」
「ふぅン、なるほど。それが私たちと同じ船に乗ってこの島に上陸した可能性がある、というわけか」
二日に一度の定期便には、島内へ届ける郵便物も一緒に乗せられていた。
脅迫状絡みとはその時点で聞かされていなかったから、それほどマジマジとは見なかったけれど。
「無地のクリーム色……ねぇ。見た覚えはあるかい、シャカールくん、オペラオーくん」
「さぁねぇ? ボクたちも、そんなにはっきり見たわけじゃないし……」
「オレも。だが……無地の封筒は軒並み茶色だった気がするぞ? 学園宛なんだから当たり前だと、スルーしたけどな」
さすが、ともに実験(悪だくみ)に勤しむ仲間たち。
深くを語らずともタキオンの狙いを読み取って、最高の答えを返してくれた。
さすがの鉄面皮も少しくらいは動揺するかと期待をこめて見た先で、音緒は「早くこの茶番終わらないかしら」とでも言いたげな無表情でタキオンたちを見ていた。
「クリーム色の封筒なんてありふれていますし、見落とされたのでは? そんなことよりも、そろそろ原因究明のための解析をしますので席を外していただけるとありがたいのですが」
「あぁ、忙しいところ、すまなかったな。最後に、ひとつだけ。こちらが話の腰を折っておいて申し訳ないのだが、少しだけ、話を戻しても構わないかい? ドローンの爆発は、なんの警告だと?」
「あぁ、そういう話でしたね。新しい脅迫状には、こうありました。『……事実を公表しなければ、実力行使にでる』と。ドローンの爆発が実力行使だとすれば、事実を公表しなかったことに対する警告であり、最終通告であると言えるでしょう」
古城戸も五十嵐も教えてくれなかった脅迫状の内容の片鱗を唐突に知らされて、タキオンはしばし呆けた。
「その『事実』ってェのは?」
呆けるタキオンに構うことなく、シャカールがさらに音緒を問い詰める。
「そこまでは。私が機密を喋るわけにはいかないので。ただ、この学園の研究にかかわること、とだけはお伝えしておきましょう」
「……そうか。忙しいところをありがとう。これで失礼するよ」
「えぇ。では、私もこれで」
ぺこ、と座ったまま礼をした音緒は、器用に車椅子を操って方向転換し、そのまま振り返ることもなくドックの奥へと進んでいった。
やがて、完全に光の届かない場所へと車椅子が消えていく。
「一度、五十嵐くんと合流しようか。なにか、情報が見つかっているかもしれないしね」
車椅子が完全に見えなくなってから、三人も踵を返し、ドックを出た。
「それにしても。彼女はタキオンさんに、並々ならぬ敵意があるらしい。……もちろん、気付いていただろう?」
歩き出しながら問いかけてきたオペラオーに、タキオンは頷いた。
「あれだけ睨まれていて気付かないほど、鈍くはないつもりだよ。……理由までは、わからないけれど」
「初対面だろう、もちろん?」
「あぁ、そうだね。素知らぬ間に恨みを買うことなど、あるわけが……うーん」
「ボクにはタキオンさんに嫉妬しているように見えたけどね」
「嫉妬、ねぇ」
同じ研究者同士、もしかしたら研究内容が被っていて、タキオンが先に論文を発表してしまって妬まれた、という可能性もなくは無い。
かといって、あそこまで敵意満載の目で見られる謂れはないのだけど。
「まぁ、いい。揺さぶりをかけたつもりだったのだが、軽くいなされてしまったな」
「あァ。それで? 郵便物にクリーム色の封筒、あったのかよ?」
「あったよ。クリーム色の封筒は、ね。裏返っていたから、無地かどうかはわからないがね」
「でも、おかしいな。今朝受け取った手紙、それも脅迫状なんて印象に残るもの。……わざわざ目を閉じて集中してまで考えこまなくても覚えているもンだろ?」
「私も、そこは疑問だったよ。でも、もしかしたら逆じゃないか、と思ったんだ」
「逆?」
「脅迫状を思い出そうとしたんじゃない。今日、外から送られてきたなんらかの手紙の外観を思い出そうとしたんだ、とね」
なるほど、とオペラオーは頷いた。
シャカールも、なるほどな、と呟く。
「それなら、納得できる。脅迫状が外から送られたものだと錯覚させるために、あえて外から送られた中で目立ちそうな色をあげた、ってところか」
「あぁ、多分ね。クリーム色の封筒、というのがもし嘘だとしたら。……犯人は、学園の関係者である可能性が高いだろう」
「内部犯とは、穏やかじゃあないね」
「わざわざ嘘を吐くってことは、彼女は犯人を知っていて、庇っている可能性もあるね。……まぁ、もちろん、嘘だったら、の話なんだけどね」
「チッ、不確定要素の多い話は聞いていて嫌になる」
「まぁまぁ。証拠を集めて不確定要素を潰していくのが、捜査の醍醐味じゃないか」
「どうしたんだい、オペラオーくん。まるで探偵のようじゃないか」
「せっかく探偵の真似事をしているのだからね。どうせならば、骨の髄まで演じ切ってみようかと」
ははっ、と楽し気に笑うオペラオーに合わせて、タキオンも笑った。
「なら、とりあえずひとつずつ、不確定要素を潰していこうか」
正直な話、まだなんの手立てもないのだけど。
[newpage]
12月12日16時10分
端末で連絡してみると、五十嵐は防犯室で防犯カメラの監視と職員への指示を行っているらしい。
タキオンたちは、五十嵐の仕事を手伝うため、彼女がいる防犯室を目指し、人気のない廊下を歩いていた。
他の職員たちはその職務を問わず、全員が一斉に施設内に不審物がないかの捜索行っているため、人手が足りないらしい。
「それにしても、いいのかァ? オレら、一応部外者だろ?」
「一応もなにも、純然たる部外者だよ、私たちは。しかしながら、犯人は学内の人間である可能性が高い。ならば、外部の人間である私たちにも監視の協力をさせよう、といったところかねぇ。部外者だというだけで、疑いは晴れるのだろう」
「あー、腑に落ちねェな。やろうと思えば外部犯でも可能だろ? だからこそ、あの女も外部犯の存在を仄めかそうとしたわけだし。にもかかわらず、防犯室にまで招き入れるか、普通?」
「シャカールくんは、『裏』があると?」
「言い切るつもりはないけどな。……話が美味すぎるンだよ、不愉快なぐらいによぉ」
「そうだねぇ。事実、これまでは情報漏洩と脅迫状のみの問題だったはずが、私たちが来てから唐突に事態が進展している。まぁ、単に偶然が重なっただけ、なんてことも考えられるがね」
「そんな偶然、あり得るか?」
「先入観を持っちゃいけないよ。もしも私たちが何者かに調査を操作されているとして、だ」
「駄洒落か」
「ふむ。そんなつもりはなかったのだがね。まぁ、とにかく。偶然などありえない、という先入観を持っていると、本当に偶然だった場合に先入観のせいでひらめきがなくなってしまうかもしれないだろう? 研究者たるもの、いつだってフラットな感性でいなければね」
「今のオレたちは、研究者っていうより思いっきり探偵だろうが」
「まぁ、そうともいうね。でも、探偵だってフラットな感性は大切だろう? とにかく、防犯室へ急ごう。こんな最先端技術の詰まった防犯カメラの映像なんて、ここでしか見られないぞ」
どちらかというと研究者としての探求心が表に出かけているタキオンに嘆息して、シャカールとオペラオーはズンズンと突き進んでいくタキオンの背中を追っていた。
端末のナビにより、迷うことなく防犯室の前に辿りついた。
なんの表札もない部屋のドアをノックすると、中から「タキオン?」という五十嵐の声が聞こえた。
「……私からの呼び方を指定しておいて、君はいったいどういうつもりなんだい、五十嵐くん?」
わざとらしくドアを開けながらあてこすってやると、五十嵐はバツが悪そうに肩を竦めた。
「ごめんなさい、タキオンさん」
防犯室は、壁という壁がすべて、モニターに覆われた部屋だった。
そのすべてに、別々の場所が映っている。
「普段はドローンの撮影している映像が映っているのだけど、今はすべてのドローンを一斉検査しているから、定点カメラの映像に切り替わっているわ。私は現場の職員へ指示を出すから、あなた達はここでカメラ映像を見て不審物や不審者がいないかを確認して頂戴」
「あぁ、わかったよ。ひとり一面ずつの監視で構わないだろう? 私がこちらを担当しよう」
タキオンは迷いなく、入り口から見て対面にあたる壁へと向かった。
一番ディスプレイの数が多い壁だ。
「ははっ。さすが、タキオンさんは格好いいねぇ」
にまり、と笑いながらも、オペラオーが選んだのは二番目にディスプレイの数が多い壁だ。
険のある溜息とともに、シャカールは二番目にディスプレイの数が少ない壁を選ぶ。
一番ディスプレイが少ない入り口側の壁を担当するのは、必然的に五十嵐となった。
体力も動体視力も、人間よりもウマ娘の方が圧倒的に優れている。
「ありがとう」
「別に」
素直な謝辞に、タキオンは素直ではない言葉を返す。
「それにしても、私たちがいなかったらひとりで担当することになっていたのかい? それはさすがに無茶だと思うがね」
「そうね。でも、人手不足は仕方がないことだから」
いくら人手不足だとはいえ、ひとりでこの仕事がこなせるとは思えない。
誰かが嵌めようとしているのではないだろうか……なんて。
少々、穿った見方をしすぎだろうか。
[newpage]
12月12日17時50分
学内の一斉点検は、恙なく進んでいるようだった。
点検で不審物などは見つからず、防犯カメラを見ているタキオンたちの方でも、とくに不審点は見つからなかった。
「五十嵐です。職員による学内の一斉点検が終了しました」
最後の職員から担当エリアの確認終了の連絡をもらってすぐに、五十嵐は端末を古城戸に繋いで報告する。
『わかりました。私は最後に工事区画へ向かいます』
意外だったのは、古城戸が現地へ参加していることであった。
「承知しました。気をつけください」
古城戸は監視カメラに手を振って応えると、背を向けて歩き出した。
「まさか彼女も参加していたとはね。それも指示する側ではなく、される側に回るとは」
「別に珍しくないわ。理事はこういう事態に、ああして自ら率先して現場へ向かう方なのよ」
「なるほど。あれは生徒へのポイント稼ぎか。ご苦労なことだ」
先ほどの理事の対応を根に持っているのか、画面に映る古城戸を皮肉るタキオン。
「その言い方、好きじゃない」
「……すまなかった。ところで工事区画とは?」
咎められたタキオンは話題を変えた。
五十嵐は入口側の左上にあるディスプレイを指差して、これよ、と答えた。
左上五枚のディスプレイに、呼び名の通り工事現場のような映像が映っている。
足場で囲まれている建物はブルーシートによりよく見えないが、近代的な出で立ちから研究施設だろう、とあたりをつける。
一番左のディスプレイに古城戸の姿が映った。
足場の回りを回って、不審物がないかのチェックをしているらしい。
三枚目のディスプレイに足場への入り口が映っているから、そこまでは外を歩くのだろう。
古城戸の姿が、二枚目のディスプレイに、そして三枚目のディスプレイへと移動していく。
そして、足場の入り口に片足をかけた、瞬間。
突如としてバランスを失ったように、足場が崩れ落ちた。
「〜〜ッ⁉︎」
五十嵐が口元を押さえて声にならない悲鳴をあげる。
タキオンもさすがに息を呑んで画面を注視する。
五十嵐が震える手で端末を操作する。
「ご、ごごご後藤さん! こ、ここ、工事区画であ、足場が崩落! 古城戸理事が崩落に巻きこまれた可能性があります! 至急、大至急、救護班を! 私も向かいます!」
五十嵐は狼狽しながらそう言い捨てて、防犯室を飛び出した。
「ちょ、由美!」
即座に、タキオンたちもその背を追う。
「おい、オレたちは先に行く!」
「あぁ、任せたよ! シャカールくん、オペラオーくん!」
タキオンが言い終えるかどうかのタイミングで、シャカールとオペラオーが走る速度を上げた。
ふたりは人間を超えるスピードで五十嵐を追い越し、あっという間に視界から消えてしまった。
タキオンは五十嵐を残していくわけもいかず、歩調を合わせる。
「まったく。ただの脅迫事件の調査だったはずなのだがね」
そう茶化したタキオンの顔は、さすがに少し強張っていた。
目の前で鉄の塊が人に降りかかる瞬間を見たのだから、仕方がない。
あれだけ隙間なく降ってきたのだ。
最悪の事態も考えられる。
「えぇ。私も、ただの脅迫事件の調査を依頼したつもりだったわ。もちろん、理事もね」
五十嵐の言葉に、タキオンは肩を竦めて「仕方がない」と呟いた。
「何故か探偵が現れたタイミングで犯罪が激化するのは、もはや使い古された『お約束』だからね」
タキオンだって、目の前で人が怪我をすればそれなりに動揺する。
だが、元来タキオンは、狼狽えているところや、困っているところを人に見せることを良しとしない。
結果として、いつも通りを演出するために茶化すような言葉を選んでしまった。
こんな時にふざけるな、と叱責されてもおかしくないような言葉遣いだったにもかかわらず、五十嵐は怒らなかった。
それは、タキオンがいつも通りのテンションを守るためにそういう話題と言葉を選んだことに気付いているからだろう。
本当に、勘弁してほしい。
もう気にしてなんかいないはずなのに、こんな、ふとした瞬間に、かつての絆を思い出させるようなこと。
『タキオンさん』
頭の中にオペラオーの声がする。
『そっちの状況は?』
『理事は無事だ。足場の崩れた規模の割に、建物への被害は少ないし、怪我人もいない。安心して向かってくれたまえ』
『……ありがとう、恩に着るよ』
通信を切断したタキオンは、今の連絡内容を五十嵐へと伝えた。
よかった、と小さく呟いた五十嵐は、少しだけ、走る速度を緩める。
タキオンにしてみれば、早歩きをするのと大差ない程度の速度だったけれど、五十嵐にしては辛いほどの速度で走っていたらしい。
はぁはぁ、と荒い呼吸をこぼし、脇腹を撫で擦りながらも、五十嵐は足を止めない。
タキオンにしてみれば、ついに普通に歩くのと変わらないほどの速度になってしまったけれど、それでも走り続けている。
いっそ、担いでしまおうか? と提案しようと口を開きかける。
「由美……」
その時、今の自分と彼女の関係を思い出す。
彼女は自分を捨てたのだ。
もう彼女は自分のトレーナーでは無い。
無意識に、何も身につけていない彼女の手首を見る。
——あのブレスレットはどうしたんだい?
昔あった筈の絆は……もう何処にも無い。
わかっていた。もう彼女との関係は終わっていたのだ。
その事実を直視するのが辛かった。
「どうしたの、タキオン?」
「いや、まだ考えがまとまら無くてね。また後で話すよ」
込み上げた黒い感情を押し留め、平静を装う。
「昔の癖が出てるわよ。気をつけて」
「はいはい、悪かったよ」
昔の、という言葉に、少しだけ嬉しさを感じてしまう。
そんな単純な自分に呆れてしまう。
どう取り繕っても、自分にとって彼女との思い出はかけがえの無いものなのだろう。
それは今も依然変わらず。
——なら、由美はあの日々をどう思っているんだろう?
必死に走る五十嵐の背中を見つめながら、タキオンは疑問を口にしようとするが、目的地が見えても口を開くことはなかった。