物語はいよいよ大詰め。
今回は長めです。
黄色く染まったイチョウの葉が、風に煽られてひらひらと舞っていった。
棋院の入り口から伸びる道の両脇に佇む並木は、紅や橙に色付き始めてすっかり秋の装いだ。
プロ試験本選25日目、私に初の黒星が付いてしまった……。
自分でも酷い碁だったと思う。攻守共に精彩を欠いた手が多かった。
昨日、プロ試験の合格が確定したにも関わらず言い知れぬ不安感に襲われた私は、震える手で桂馬に連絡を取った。
彼は私の合格を賞賛してくれた。無論それ自体はとても嬉しい。
でも肝心なことは聞きそびれた。より正確に言うなら、怖くて聞けなかったというべきだろうか。
もし想定していた通りの答えが桂馬の口から返ってきたなら、自分がどれほど酷く傷付くか計り知れないからだ。
要するに私は彼の本心に触れることから逃避したのだ。それが単なる先延ばし以外の何者でもない行為だと理解していながら。
不治の病に冒されている患者が医師に余命を問うことを恐れるかのように……。
プロ試験本選26日目、今日も負けた。相手はフク。
「ねえ奈瀬さん、前回と今日はどうしちゃったのー?」
普段は無邪気なフクが心配げな顔で尋ねてくる。
私は笑って誤魔化す。
「あはは……合格が決まって気が抜けちゃったのかも!私ったらまだまだ甘いなぁ」
しかしフクは納得行かないような表情をしている。
「奈瀬さん…碁を打つ時はね、しっかり碁盤を見なきゃダメなんだよ?今の奈瀬さんはちゃんと盤面を見てるようで見てないもん」
「そんなこと……」
否定しようにも後ろめたさが先行して言葉が続かない。
「こんな奈瀬さんと打ってても全然楽しくないよー!」
苦い顔付きのままフクは立ち去って行った。
「ごめん…」
私は座ったままその小さな背中を見送ることしか出来なかった……。
俯いて独り悔悟する。本当に私は一体何をしているんだろう。
心ここにあらず。
そんな心境のまま試験場の囲碁研修センターから出た私に声をかけてくる人がいた。
「やあ、明日美」
おそらく直接会うのは約1週間ぶり。
……今私が誰よりも会いたくて、でも誰よりも会うのが怖い相手だった。
「…桂馬!」
一瞬の躊躇はあったものの私はすぐに駆け寄る。
「こんな所でどうしたのよ?」
「結果を見たぞ。お前、前回だけでなく今日も負けたんだってな」
私が一番触れて欲しくないことに彼は言及してきた。
「それが合格確定しちゃったら気が抜けちゃってさ。面目無い限りです!」
フクに伝えたのと同じ言い訳を口にする。
自分の心にすら嘘を吐きながら……。
「そうか」
桂馬は私の返答をあっさりと受け入れたように見えた。
ほっと胸を撫で下ろす。ところが……
「なあ明日美、今からボクの家に来ないか?」
「え?」
「母さんが家で喫茶店をやっているというのは前に話したよな?今日は店が休みだから、そこで明日美の合格祝いがしたい」
思いも寄らぬ提案だった。
「でもそこまでしてもらうのはちょっと悪いし……」
「ストレートに言わせてもらうならば、ボクの方からどうしても話したいことがあるんだ。だから頼む」
「……わかったわ」
とりあえず行ってみるとしよう。
桂馬の家の喫茶店というのがどんな感じかも気になるし。
私達は電車に乗って舞島市へと向かう。途中、桂馬が黙々とゲームをしていて何も話さなくて良かったのが今の私にとっては非常に有難かった。
「へえ~、お洒落なお店じゃない!」
店の裏口から中に入れてもらった私は、内部をざっと見渡す。
「まあ母さんはインテリアに結構こだわってるらしいからな。ボクにはよくわかんないけど」
言われてみると、確かに店内に置かれている調度品の数々はどれもセンスの感じられる品だった。
自らの存在を主張し過ぎることも無く、自然に店に馴染んでいる。
「母さんが出かけてるから大した物は出せないけど、コーヒーならボクでも淹れられる。ちょっと待っててくれ」
そう言って桂馬は店の奥へと姿を消した。私は大人しくテーブル席に座って待つことにする。
店の隅にちらりと目を向けると意外な物が置いてあった。……碁盤だ。マグネット式の碁盤が棚に仕舞い込まれている。
「ほら、熱々だから気を付けろよ?」
桂馬の持つコーヒーからは湯気がほかほかと立ち昇っていた。ほろ苦く、ほろ甘い香りが私の鼻腔をくすぐる。
コーヒーを受け取りつつ私は疑問を露にする。
「ねえ、何で碁盤が店の中にあるの?」
「ああ、あれは元々は進藤が持ってきた物なんだ」
「進藤の?」
「ボクはついこの前まで進藤から囲碁について教わってたからな。一回目の時にあいつが持ってきていたマグネット碁盤をそのままもらったんだよ」
「あんたのとこには碁盤が無かったわけね?」
「そうだ。碁はゲームで打てるからな」
「はあ~あんたらしい考えね」
私は進藤に同情した。
まあ進藤のことだから桂馬ともすぐに打ち解けてしまったのだろうけど。
というか、やたら負けず嫌いな所は似た者同士で案外いいコンビだったり?
桂馬が私をここに呼びつけて、しようとしている話……それを聞くのが怖くて何か適当な会話を続けようとするも話題が何も思い付かない。
そうこうしている内にその時は来てしまった。
「明日美…ボクが伝えたいことは一つだ」
「何?」
「もうボク達の関係は終わりにしよう」
「…………」
やっぱりこう来たか。
前々から薄々察していたことだ。私がプロ試験に合格したらこんなことになるんじゃないかということなんて。
「………何でよ?」
「ボクはもう碁を打たないからだ」
「打たない?」
「ああ、元来ボクは碁打ちではなくギャルゲーマー。ボクの本来の使命はゲームのヒロイン達を攻略することにある」
は?
「ふざけないでよ…ふざけんじゃないわよ!そんなことのために!!!」
「そんなこと……か。お前は自分が碁を打つことを誰かにそんなこと呼ばわりされたらどう感じる?」
確かにそれは怒るだろう。
私は黙り込む。それでも到底納得は出来なかった。
「だからって……私とたまに打つことすらダメなの?ホントのホントに『たまに』でいいんだよ?」
「ダメだ!」
桂馬はいつになく強い口調だった。
「ボク自身はもう今よりも強くなることはない。だから明日美はすぐにボクなんか追い越してしまうだろうな」
「私なんかまだまだよ。そもそも一体そのことが何の関係があるわけ?」
「関係大有りだ。ボクと出会ってからの明日美はただひたすらボクに追い付くことだけを目標に必死に頑張ってきたわけだよな?」
「……まあそれが一番になりつつあったのは否定しないわ。もちろんプロ試験に受かりたいっていう想いもあったけど」
「そうなるとお前がボクに対局で勝つようになればモチベーションの大部分は失われてしまうだろう。そしたら、またお前は碁への向上心を失くすかもしれない」
「どうして?打倒塔矢アキラとか言ってた進藤だって、塔矢に手合いで勝ったことのある今でも情熱的に強さを追い求めてるのよ?」
塔矢に勝ちたいという、あの飽くなき欲求が進藤の強さの源の一つになっているのは間違いない。
「塔矢は棋士だ。それも生粋のな。だからどこまでも強くなり続け、進藤が並んだ今でも互いに競い合って互いに打ち勝たんと切磋琢磨を続けている」
「うん」
「だが、ボクは棋士じゃない。ボクはお前に負けるようになったからといって、今のあいつらのようにお前と対等なライバルとして在り続けるわけにはいかない」
「それならこれからも桂馬がネットで色んな相手と碁を打ったり、進藤に教わったりして強くなれば……」
「ボクにこれからも囲碁をたくさんやれということか?」
私は口を噤んだ。
桂馬には桂馬の人生がある。なのにそこまでさせるわけにはいかない。
でも……でも……
「私は桂馬に会いたい……とにかくこれからも会いたいんだよ……!」
いつの間にか自分の声は涙交じりのものになっていた。
桂馬の前で泣くのは二度目だ。私って意外に泣き虫だったんだなぁ。
涙で目の前が霞む。それでもなお彼の真剣な面持ちははっきりと見えた。
「まずはコーヒーを飲んで落ち着け。このままじゃ冷めるぞ?」
渋々ではあるが、言われた通りにコーヒーを一口啜った。
繊細な風味で、爽やかな酸味のアクセントが効いている。
体が芯からじんわりと温まってくるような気がした。
「なあ?今からあれで一局打とう」
桂馬が指差したのは先程のマグネット碁盤だった。
私は頷く。正直彼に言いたいことはまだまだ沢山ある。しかし、何にせよ彼と会うのが今日で最後かもしれないのなら打たなければ……。
「………お願いします」
「お願いします」
私と桂馬は黒石と白石、点と点を結び、戦いの流れを幾重にも読み合う。
対局は終盤に入るまで互角の形勢のまま進んだ。
そんな中、私は一つとても気になることがあった。
……パチッ
「あんた今日はゲームしながら打たないんだ?最後だから私に気を遣ってるってわけ?」
「違うな。もはやお前は今のボクにとってゲームをしながら戦えるようなレベルの相手ではないというだけだ。認めるのは癪だがな」
パチッ ……パシンッ!
嬉しいコメントをもらう。
とはいえ、盤面は私にとって急速に不利になりつつあった。
それでも桂馬に勝ちたい……。そんな自分の心に正直に私の打てる限りの手を打つ。
遠くに見える勝ち星を掴み取るために怒涛の勢いで追い上げていく。
パチンッ
「………。」
「……っ。」
まだ、まだまだ足りない…!!
……パチッ パシィッ!
「っ!」
「………。」
後ちょっとだけ……。
「……………。」
たとえ桂馬が私の前からいなくなってしまうとしても、彼との思い出はこれからも私の碁の中にある。
私は自分自身を囲碁のことしか好きになれない女の子だと思っていた。けれど貴方に出会って私は恋というものを知った。
貴方が今愛しているのがゲームのヒロインだけだったとしても、私が貴方のヒロインになれなかったとしても、貴方は私のヒーローだ。
会えなくなるのなら、せめて私の碁をその目に焼き付けて忘れないでいて欲しい。
ジャラ……パシィッ!!
「っ……あ…っ……ありま、せんっ……」
届かなかった。まだまだ遠かった。
「………ありがとうございました」
結果として4目半差での私の敗北。
奇しくも棋院で初めて出会って対局した時と同じだった。
「あらら、負けちゃった。今度こそ…勝てるかもって、思ったんだけど…ねぇ……っ…」
「一歩間違えば負けてたのはボクだったかもしれないな」
桂馬は温かく微笑む。
打ち終わった途端、堪えきれずに再び私の目から涙が溢れてきた。
とはいっても先程の涙とはまた別種の感情が込められたもの……。
「そこで流すのが悔し涙なら、やっぱりお前はまだまだ今の何倍も強くなるよ。ボクなんかに勝ったくらいで満足していい器じゃない」
「……………」
「お前も囲碁というゲームを極めんとするゲーマー、即ち棋士ならばより高みを目指すんだ。進藤や塔矢にも負けないくらいにな。そして最高のエンディングを見付け出せ!」
「………うん!」
私は残っていたコーヒーを再度口に運ぶ。すっかり冷めたコーヒーは苦味を増していた。
何故だろうか?今の私にはそれが絶妙に心地好かった。
「あのさ……」
「何だい?」
「最後のお願い。私の気持ち受け取ってくれる?」
私は桂馬と共に椅子から立ち上がった。
更に彼の頬に手を添えて顔を近付ける。拒む様子は見られない。
そのまま初めての口付けを交わした……。
ただ触れるだけの不器用なキス。それでも互いの唇の柔らかさを実感するのには十分だった。
頬に当てた手が汗ばむと共に唇の温度まで上がっていく気がした。
そっと顔を離し、心からの一言を告げる。
「今までありがとう、桂馬────」
***
明日美の身体から異形の霊体が噴き上がってきた。
心のスキマが無くなった宿主から逃げ出そうとする駆け魂だ。
「エルシィ、頼むぞ!」
「はい!神にーさま!」
現場に素早く臨場したエルシィは、姿を現して飛び立とうとする駆け魂を大きなビンで捕らえる。
「駆け魂勾留!!」
駆け魂は勾留ビンの中でぐったりとしている。
「よくやった!では次に明日美を彼女の家まで送り届けてくれ。場所は分かってるんだったな?」
「もちろんです!お任せください!」
胸を張るエルシィに明日美を託した。
エルシィは、安堵の表情で眠る明日美を抱えて姿を隠しつつ、すっかり暗くなった空へ飛んで行った。
「終わったな……」
ボクは力無く椅子に座り込んでPFPの電源を点ける。
「何よ?もし駆け魂が成長してたらエルシィ一人じゃ押さえ切れないからって私を呼んだくせに出番無し?」
「攻略にこんな長期間を費やしたことは未だかつて無かったからイレギュラーなんて幾らでも想定出来る。地区長様の力を信頼してのことだ」
「こんな時だけ煽てられてもね」
ボクの要請に応じて待機していたハクアだ。
先程呼び出した時のような緊張感は見られない。むくれつつも大事に至ることが無くてほっとしているようだ。
そんな彼女が皮肉げに口を開く。
「でもまあ桂木…あんたってホントに女の敵よねぇ?」
「何?」
「今までああやって何人の女の子に甘ったるい台詞吐いてはサヨナラしてきたわけ?」
「フンッ…さあな。しかもこれからは女神を探さなければならないとなると、修羅場の一つや二つは潜り抜ける羽目になるだろうな」
「……まああんたの立場が大変なのには同情するわ」
ボクだって早くこんなことの繰り返しからは解放されたいさ。
このままではボクは、また
「ところで明日美はともかく進藤達の記憶や記録はどうなるんだ?」
「進藤があんたに囲碁教えたり、友達の所に連れてったりした部分は消されないでしょうね。でも、あんたが奈瀬って子といる所に出くわしたのに関しては消されるはず」
「意外だな。てっきり何から何まで消されるかと思っていたが」
「あんたが進藤から指導受けてたのをあんたのお母さんやここの常連客が何度も見てるし、エルシィが学校のクラスメート達にも話してるからね。全部消しちゃうとかえって何か問題が起きかねないじゃない?」
「ふーん。……ならまあいつか気まぐれであの碁会所に行ってやってもいいかもな」
ま、あそこで打つとしても近くの店で買ったギャルゲーをプレイしながらにはなるだろうけどな。どちらにせよ当分先の話だ。
嘆息しつつ碁盤に目を向ける。
明日美の記憶が失われた今となっては自分だけがこの一局の全てを知っている。
ボクと彼女を繋ぐ碁………それは決して忘れてはならない。そうボクは心に誓ったのだった。
次回エピローグとなります。
ちなみに今話のタイトルは、ヒカルの碁に関連するあの名曲から拝借させて頂きました。