──翌年の春──
新入段の免状授与式が執り行われる中、私は自分が合格したプロ試験での出来事に思いを馳せていた……。
試験本選の24日目で合格を決めた後、25日目と26日目では不調に陥って敗北を喫した私だったが、最終日である27日目で無事に調子を取り戻して快勝を収めた。
ちなみに26日目で負けた後には、私はどういうわけか自宅の玄関前に横たわっている状態で母に発見されたという。インターホンが鳴って母が出てみれば、そこには他に誰もいなくて私だけが倒れていたのだそうだ。
両親に質問責めされたが、何故そのような事態になったのか私には全く身に覚えが無い。
プロ試験終了後は、和谷のアパートの部屋でささやかな祝勝会を開いてもらった。同じ年に合格したフクと小宮も一緒である。
私がようやく合格を手にしたのは、進藤を始めとするいつものメンバー達が特訓に付き合ってくれたおかげだ。感謝してもしきれない。
だから試験後は、彼らを含むお世話になった人達にお礼を伝えて回った。
ちゃんと関係者全員に感謝の意を伝えたはず。
……なのに何故だろうか?誰か抜かりがある気がする。
頭の中で幾ら考えても連絡先を幾ら確認しても、心当たりなど一つも無かった。
──ただ碁を打っている時、ふと誰かの温かくてしなやかな手が自分の指先と重なるような……そんな心地良い錯覚を抱くことが度々あった。
私の碁の中にいるその人が見守ってくれる。そう思うと自然に力が湧いてくるような気がした。
「奈瀬!良かったら今度オレと一緒に塔矢の碁会所に行ってみないか?」
用事を終えて帰路に着こうとしていた私に進藤が声をかけてきた。
彼は最多勝利賞を受賞していたため今日は同じ会場に来ていたのだ。
勝率第一位賞を受賞した塔矢アキラとは先程元気に喧嘩していたようだったが、周囲は苦笑いを浮かべながら眺めるだけで、誰も大して気にも留めていない。
「いいけど何で私を誘うのよ?」
「それがあの碁会所で受付やってる人が奈瀬のこと可愛いって言うからさ、一回会ってみたいんだってよ」
「そうなの……」
まあ悪い気はしないし、一度行ってみるか。
「そういえばあんたとは多分今度の北斗杯の予選で当たることになるわよね?」
「いや、それが今年はオレもシード枠なんだ」
昨年の予選は塔矢だけがシードとして扱われていたけど、今年は進藤もなのか。
まあ進藤はプロ二年目だと強豪棋士にも勝ちまくって三大リーグ入りまで果たしていたし、塔矢にすら時折勝つんだから妥当と言えば妥当かもしれない。
そうなると三人目の選手の枠を懸けた戦いで一番の壁になるのは、やはり関西棋院の社くんだろうか?彼は去年に選手入りしているし。
越智や和谷だって壁になり得る。同期のフクや小宮も決して弱くは無い。私より一つ歳上の本田くんは、今回はもう年齢的に参加資格が無いのが救いか。
油断ならない相手ばかりだというのに…いや油断ならない相手ばかりだからこそ武者震いしてしまう。
「じゃあ、あんたと一緒に北斗杯に出られるように頑張るわね」
「ああ、楽しみに待ってるよ!じゃあな!」
進藤は北斗杯に対して並々ならぬ熱意を抱いている。
前回、高永夏に後一歩の所で敗れたのがよほど悔しかったらしい。
進藤は私と別れた後、また塔矢と合流しているようだ。さっきまではあんなに激しく火花を散らせていたのに。
………私もあの二人に負けていられないな。
帰り道には満開の桜が連なり、そよ風に撫でられて優しく揺らいでいた。
「あなたが奈瀬明日美ちゃん?週刊碁で写真を見た時から可愛いと思ってたけど、実際に会ってみたらまるで天使みたいね!」
「あはは……ありがとうございます」
進藤に紹介された碁会所「囲碁サロン」にて。
受付の市河さんは20代半ばくらいの女性だった。
碁会所だというので、てっきりおじさんかと思っていたから意外だ。
でも同性のファンというのも中々嬉しい。
「いっちゃん、自分が呼んだ可愛い女の子に若先生を取られないようにしなよ?」
「もう!私はアキラくんのことはあくまでお姉さんとして見守ってるだけだから!」
頬を紅潮させつつ、からかってくる男性客に憤慨する市河さん。
彼女は塔矢アキラとは一体どういう間柄なんだろう?
まあいずれにせよ塔矢のことはあくまで棋士としてしか興味の無い私には関係のないことである。
「奈瀬、奥の方が空いてるからあっち行こうぜ!」
進藤に連れられて向かった先では私達と同年代の少年が他の客と打っていた。
その少年は眼鏡をかけており、対局中だというのに携帯ゲーム機で遊んでいる。
それでいて戦況は明らかに少年の方に分があった。しかも相手の客がしばらく考えて放った手に対して、ノータイムで鋭い反撃を返している。
碁石の持ち方からして初心者にしか見えないのにその一手一手はプロの私をも唸らせる物だった。
程無くして対局相手は力無く投了した。
「ここ来るのほとんど半年ぶりだってのに相変わらず強いな、桂木は」
「そんなことは無いさ。さっき塔矢がいたから三子置いて打ったんだが、前回来た時と違ってボコボコに………」
……そこで私と目が合った途端、彼は何も言わなくなった。
「あの、どうしました?」
私がどうかしたのかな?
「あ、いや…知り合いとよく似てたから勘違いしただけだ」
「まあ桂木は奈瀬とは会ったことがないはずだしな」
確かに私はこの人とは初対面のはず。
それなのにゲームをしながら人を碁で翻弄するような図太い姿には何故か既視感があった。
そして、私はある一つの衝動に駆られる。
「もし良かったら今から私と一局打ってみませんか?」
「え?」
「お、それいいじゃん!言っとくけど桂木はプロ並に強いぜ?奈瀬」
「なら互先でいいですね?」
「……ああ、構わない」
この人とはどうしても打たなければならない……そんな気がしたのだ。
桂木さんが黒で、私が白となった。
「お願いします」
「……お願いします」
彼の第一着は右上スミ小目。
私は迷わず左下の星に一手目を打った。……さながら予め定められていたことかのように。
桂木さんはもうゲームをしていない。その目は真剣そのものだった。
今の自分の相手がプロだということを把握しているのだろうか?
もしかしてこの人は私という人間のことを知っている……?
確かに彼はアマチュアとは思えないほど強かった。プロでないのが驚きだ。
それでも今の私なら勝てない相手ではない。
桂木さんの見せた僅かな綻びを突く一撃を叩き込む。
「……………ありません」
「ありがとうございました」
「……ありがとうございました」
桂木さんは投了した……。
このまま互いに打ち切れば7目半の差で私が勝つだろうという所で。
「桂木さん凄く強くてビックリしちゃいました!そういえば、まだ名乗ってませんでしたよね?私の名前は……」
「奈瀬明日美……だろ?」
「え!?知ってたの?」
「ああ、今年プロになった内の一人じゃなかったか?何かで見た記憶がある」
「……そうそう!その通り!知ってもらえてて嬉しいな」
何だ……プロになった人間の情報をたまたまどこかで見聞きしていたというだけか。
「桂木、次はオレと打つぞ!置き石は……4つでいいか?」
「舐めるな。3つで十分だ」
桂木さんは次は進藤と対局するようだ。その前に一つだけ私は聞いておきたいことがあった。
「ねえ、桂木っていうのは名字だよね?下の名前も教えてもらえない?」
「何でそんなことを?」
「いいから!」
「……桂馬だ。桂木桂馬」
不思議と馴染みのある名前だ。
「桂木くん……いや桂馬くん?もしかして私とどこかで会ったこととかない?」
「さあ?ボクは覚えてないけど、どこかで一局打ったりしたのかもな」
一局どころじゃないはずよ!……という言葉が喉まで出かかったが、何とか呑み込んだ。
もし何度も打っているのなら、覚えていないはずが無いからだ。
ならば………
「じゃあこれからはいっぱい打とうよ!」
いきなり何を提案しているのかと我ながら思う。
けれど碁も人生も終局を迎えるまでの全てが大切な通過点。未来というのは今の延長だ。
だからこそ今を大切に……悔いのないようにしたい。
「……お前はもうボクより強いじゃないか」
「でも桂馬と打つのメチャクチャ楽しいんだもん!それが一番大事なことだよ!……囲碁は楽しむために打つものだから」
「そうか。確かにそういう考え方もあるな。……まったくボクとしたことが」
ここで初めて彼は笑顔を見せた。
「よろしく明日美」
温かくて………懐かしい笑顔だった。
これにて本作は完結となります。
神のみぞ知るセカイとヒカルの碁の両作品が好きで書き始めた拙作ですが、
今までお付き合い下さって本当にありがとうございました。