吸血王女バラハンドル・マクシミリアンは今日も女に胸を差し出し戯れに杭を打たれる 作:てりのとりやき
金髪の少女がごろごろしている。人のベッドの上でだ。
吸血鬼が昼間から日光の当たるベッドでぼうっとしている光景は不思議だった。吸血鬼は陽の光で灰になる。そのルールを無視できるほど“強い”吸血王女バラハンドル・マクシミリアン――ミリアは、少し眠たげなとろんとした目つきで、ベッドの近くの床に座り込んで作業をするサーシャを見つめていた。
「サーシャ、どこか行くの?」
「ええ。村に買い出しに」
少女の長く艶やかな金髪が、ベッドに広がっていた。
サーシャは先日獲ったばかりの鹿肉や毛皮、塩漬けにした内臓などをそれぞれ包んで荷袋に詰めていく。
「そういえば少し気になってたんだけど、サーシャってどうやって生活してるの? 人間はお金? とかいうものが必要なんでしょう。わたし、詳しいのよ」
「あら。意外と物知りなんですね」
「ふん。わたしは頭がいいのよー」
日光に当たっているせいか、どこかミリアの言葉は気勢が弱い。うつ伏せの少女がぱたぱたと両足を揺らすと、ワンピースの裾がはだけて柔らかい太ももがちらちらと見え隠れした。
毎夜見つめ、そして殺している少女の裸をつい思い出してしまい、サーシャの胸が激しくなった。慌てて目下の作業に集中する。
「父が元々山師でして。あちこちの山を一緒に旅した時期があるんです。このあたりの山に入ってまともに狩りができるの、村じゃ私だけなんですよ。だから……」
保存がきくように干した肉。新鮮な生肉。なめした毛皮。取り出してすぐ塩漬けにした臓器。すべてサーシャが自分で捕らえ、捌き、加工したものだ。女ひとりでよくやっている方だと自分でも少し感心する。
「こういうの、結構ありがたがられるんです」
特に
「よし。こんなもんですかね」
「それ、どうするの?」
「村で物々交換するんです。布とか、野菜とか」
山で狩りをするのは得意なサーシャだが、機織りや手芸なんかの細々した作業は昔から苦手だった。妹のエルザはむしろそういった事の方が得意でサーシャの代わりにやっていたが、既に吸血鬼に殺されている。
物々交換用に材料を揃え終えたサーシャは、部屋着にしている麻布で出来た長衣を脱いだ。代わりに絹のチュニックと七分丈のズボンに着替え、腰に飾り紐の帯を締める。サーシャのよそ行き用の格好だった。
「ふーん」
「な、なんですか?」
いつも家の中では(人目がないのもあって)質素な格好しかしないサーシャがまともな格好をしているのが珍しいのか、ミリアの女を見る目つきは『見直した』と言わんばかりに感心しきっている。
「あんたも多少はお洒落の心得があるのね」
「なんですかその言い方は。私だって年頃の女ですよ。まあ、嫁の貰い手はいませんけど……」
言ってて自分で悲しくなってきた。人との交流も少ないし、そもそもの出会いがなさすぎるのだ。
するとミリアが突然得意げな顔になった。ちいさな小鼻がぴくぴくしている。
「そんなのサーシャにはいらないわよ」
「なぜミリアに断言されなければいけないんでしょうか……」
「だってわたしがいるじゃない」
えっへん。なんて言葉がぴったり似合うくらいに得意げな上向いたあご。品の良い柳眉は綺麗に立ち上がっている。
「わたしみたいな魅力的な出来るオンナが一緒に暮らしたげるのよ、他の誰かを見る必要なんてないの。おわかり?」
わかったら返事、と言われたのであまり納得はしていないが頷いておく。ミリアがむふーと鼻息を荒くして、指をちょいちょいと動かした。『こっちへ来い』の仕草だ。ミリアが何をしたいのかも分かった。
「……ま、またですか」
「なによ。嫌なの? わたしの方が偉いのよ」
「……」
渋々ベッドの脇まで近づいて、その場に膝をつく。そっと首を伸ばしてあごを引けば、つむじ辺りを小さな手で撫でられた。――ミリアは、吸血鬼の王女様は、嬉しくなると人の頭を撫でようとする癖があった。まるで愛犬を撫でまわす飼い主のようにだ。
サーシャとミリアでは身長差が頭三つ分はある。彼女の手癖を満たすために一々サーシャは膝をつく必要があった。
「ふふ。サーシャは可愛いわ」
甘い蜜をまぶしたような蕩けた声で思い出すのは、昨晩も潰した少女の心臓。そしてこちらを誘惑する赤い瞳の濡れた輝きだ。
しっとりした手に撫でられると脳髄が痺れて、何も考えられなくなっていくのが自分でも分かった。頭を空っぽにして従属する心地よさをサーシャは確かに理解しつつあったのだ。
そのまま手櫛で黒髪を梳きだす少女のされるがままになっていること数十秒。吸血鬼への復讐心から狩人になった事を思い出し、慌ててサーシャは立ち上がった。
「じゃ、じゃあ行ってきますね。家でおとなしくしててくださいよ」
「わかってるわよ」
撫でるのを中断されたのが不服なのか、ぶすっとした顔でミリアは頷いた。
少し、考える。
ミリアと暮らしだしてひと月。時折少女が外に出ることもあったが、もっぱら家の庭でミリアの薪割を眺めたりうたた寝をしたりと、家の周囲から離れたことは一度もなかった。自由奔放な吸血鬼の王女様がどうして村へ行こうとしないのか、サーシャには明確な理由まで察せない。
けれど、今ベッドの上でうつぶせになる少女は、どこか寂しそうだった。
「……いっしょに来ます?」
「行く!」
手を差し出せば、ぱっと顔を輝かせた少女が声を上げた。ベッドから跳ぶように出たミリアは、そこまで動いてから急に顔を赤くした。
「べ、別に、一人でたくさん人がいるところに行くのが怖いとか、そんなんじゃないわ」
ワンピースの裾を両手で掴んでもじもじする仕草は、どこにでもいる町娘に見える。
「そんなんじゃないけど、サーシャが一人で村に行くのが寂しいってんなら付いてってあげてもいいのよ。わたしは優しいのよ」
たくさんの言葉を並べ立てる少女を微笑ましく思う。年の離れた妹にそっくりな言葉を使うからだ。サーシャは既に、目の前のませた少女を憎むべき仇敵とは認識できなくなりつつあった。
「ま、待ちなさい。わたしも着替えるわっ」
サーシャが何か言う前にミリアは自前の金髪を揺らし、慌てて部屋を飛び出してしまった。一人取り残されたサーシャが乱れたベッドシーツを直すなどして時間を潰すことおよそ十分弱。「待たせたわねっ」と息を切って部屋に戻ってきたミリアは、ずいぶん気合の入った格好をしていた。
赤いビロード製のドレスは布の派手さに比べてデザインはシンプルだ。豪奢に紅玉をちりばめたネックレスは真っ白い肌を不思議なほど引き立てる。どこぞのお姫様がしそうな格好だった。
いつも疑問に思うがミリアはどこにこんな高価な服をしまっているのだろう。毎日着る服も違うし。
「なによ」
「や。その、ミリアは何着ても似合いますね、と……」
「……っ!」
素直な感想を漏らすと少女の頬がドレスよりも赤くなった。
「サーシャのくせに生意気! わたしが美人なのは当たり前なのよ! なんなのかしら! なんなの?! サーシャの変態!」
「うええ……褒めただけなのに……」
なんだか納得がいかなかった。頬をぷくうっと膨らませたミリアが小さな足で脛を蹴ってくる。一体なにが不満なんだろう。――まあいいか。何にせよ、ミリアのドレス姿は平凡な村に行くにしては派手で目立ちすぎる。
「でも、そんな舞踏会に行くみたいな格好じゃあ目立ちますから、これを着てください」
サーシャがクローゼットから取り出したのは、厚い生地で出来たジャケット。大人しく腕を広げたミリアに着せてやれば、派手なドレス姿も少しは大人しくなった。
少女は少し余りぎみの裾を口元に寄せて鼻をくんくん動かしている。
「……ぶかぶかね。それに別の女の匂いがするわ」
「妹のなんです」
「似合ってますよ」
「……」
ミリアはあまり嬉しくなさそうに眉をひん曲げていた。妹代わりの扱いをされたのが不満なのかもしれない。けれど、はあ、と湿っぽい溜息を吐くとサーシャを上目遣いに見つめる。
「ふん。……ほら、わたしをエスコートするくらい出来ないのかしら? わたし、吸血鬼の王女様なのよ?」
「えす、えすこ……えすなんですか?」
「こ、これだから田舎の女は……。淑女を先導するのがエスコート! あんたはわたしを大事にするの!」
ミリアが本気で驚愕していた。都会なんて行ったこともないのに無理を言わないでほしい。エスコートとやらは分からないが、妹と外出する時にしていた事ならば知っている。
少女の右手をそっと握った。
「はい。じゃあこれでいいですか?」
「……わ、悪くないわ」
毎日の作業で荒れた手に、少女の手荒れ一つない指は染みるようだった。
手を繋いだまま家を出て、緩やかな坂道を下っていく。丁度昼時ということもあり村を行きかう人の数は多い。あちこちに建つ家や、柵の中で昼寝をする馬や羊を興味津々と言った様子でミリアは見つめている。
「ふうん。こんな風になってるのね」
「ミリアはあまり人の事を知らないんですね」
「当り前じゃない。人間のことを知ろうとする吸血鬼なんていないわ」
人間なんて眼中にないのよ、とすまし顔で言うミリア。その傍を荷馬車ががらがら音を立てながら横切れば、その荒々しい音にびくついたミリアが腕に抱きついてきた。つい笑みが漏れる。
「ば、馬鹿にしないで! 怖くなんかないわ!」
「してませんよ」
顔を真っ赤にしたミリアはしかし、自分より大きな動物が苦手らしい。馬や牛がそばを通るたびにサーシャの腕を全身で抱きしめる。ついには柵から首を伸ばした馬に自慢の金髪を食まれてしまい、顔を真っ青にして静かになってしまった。
「あれまサーシャじゃないか。元気にしてるかい」
そうして大人しいミリアを連れて村を歩いていると、軒下で日向ぼっこをする老婆に声を掛けられた。サーシャが小さい頃かが世話になっている村人だ。
「サリーヌおばさん。おばさんこそ、腰の調子はどうですか?」
「お前さんが山で採ってくれた薬草、あれのおかげでだいぶよくなったよ。ありがとうねえ。ほら、これ持っておいき」
今日採ったのだろう野菜の幾つかを、老婆は籠に入れて渡してくれる。どれも山では採れないものばかりだ。
「わわっ。いいんですか、お野菜こんなにたくさん。どれも新鮮だし」
「いいのいいの。この前のお礼」
「わー。わー。ありがとうございます、いつもいつも」
「なにを言うんだい。お前さんには村のみんなが助けられてるんだよ。なのにこの村にはまぁだお前の事を変に思う者が多くていけないねえ……」
「いいんです。もう昔の事ですから」
サーシャの陰に隠れてじっとしているミリアが、透明な眼差しで女を見上げた。老婆に挨拶をしてまた歩き出した二人には、どこか余所余所しい視線が幾つかある事にミリアは気づく。
「薬草で腰がよくなるの? 人間って不思議ね」
「薬草を元に湿布を作るんですよ」
「??? 人間はよくわからないわね。……ところでこれからどこへ行くの?」
「村長さんの家です。そこでまとめて物を買いあげてもらうんですよ。ほら、あの村で一番大きな家です」
サーシャが指差したのは村の中央。他の家と比べて三倍の大きさはある建物は庭も広い。数人の子供たちが地面に棒で絵を描いて遊んでいるところに出くわした。
「あ! サーシャだ!」
子供たちのうちの一人が、サーシャに気付いて笑顔を浮かべる。とびっきりの笑顔を浮かべたその少女が駆け寄ってくる。勢いのままに抱きつくので、女もそれを受け入れた。
「こんにちは、ミサ。お兄さんたちに迷惑をかけていませんか」
「かけてないよ! サーシャに言われた通り良い子にしてるもん!」
少女の名をミサと呼ぶ。歳はミリアと同じくらいだろうか。村長の家族の一人で、ずいぶん長い付き合いだ。栗色の髪を二つ縛りにしてわんぱくに揺らす様は見ていて微笑ましい。
「サーシャ。サーシャ。今日はわたしの部屋に泊まってって。いっぱいお喋りしよっ」
「そうしたいのはやまやまなんですが……」
こうやって山で獲れたものを売りに来ると、必ずと言っていいほどミサはサーシャに甘える。幼い体全身で抱きついてくるのは、少女に姉がいないせいだとサーシャは思っている。
と。先ほどから凄まじい形相で不満を露わにするミリアに、ようあくミサは気が付いた。きょとんと甘える仕草で小首を傾げる。
「サーシャ。その子、なーに?」
「この子はミリア。しばらく預かっているんです」
「ふーん」
瞬間、少女ふたりの目線が若い女を挟んで交錯した。
「……」
「なによ」
「……」
「なんなのよ。わたし、あんたより偉いのよ。オトナのオンナよ」
腕を組んだミリアが『ああん?』とあごを上げて僅かでもミサを見下ろそうとする。対するミサは抱きついたままの体を更にサーシャへと押し付け、べーっと舌を出した。
「サーシャはわたしのものだもんね」
「な、なにおう!?」
ミリアが目を瞠って素っ頓狂な声を上げた。今まで人間に口答えされたことなんてないのだろう、動揺を露わにする吸血鬼の少女は、自慢げに胸に手を当てる。
「ふ、ふん。なにを得意げになっているの知らないけれど、わたしとサーシャはすごくいけない関係なのよ。毎日激しいんだから!」
「は、激しい……?」
「ひわわ……」
突如勃発した少女ふたりの口喧嘩に、サーシャはあわあわした。
いつミリアが自分を吸血鬼だと明かすか分からず、背中にいやな汗がどっと浮かぶ。なんとか仲裁しようとするよりも先に、ミサはサーシャの腰に回した両腕にぐいっと力を込めて、女の所有権を宣言するように抱き寄せた。
「ふ、ふんだ。わたしの家なんか、サーシャの取ってくる毛皮とかをいつも仕入れてるんだもんね。わたしの家がないとサーシャは生きてけないし! わたしの方がサーシャの大事な人だし!」
早口な言葉と共に興奮していったのか、少女の腕にこもった力は意外と強い。サーシャの体が前によろける。
その、ともすればサーシャが奪われたように見えなくもない光景にミリアの顔が憤怒の様相を呈した。
「ぐぬぬ」
「ぬぬぬ」
もはや少女とか吸血鬼とか関係なしに二人のプライドが激突する。やがて二人の目線は、困惑しきった女へと。キッと凄みのある目に睨まれてサーシャの喉から「ひぅ」と情けない声が漏れた。
「サーシャはどっちがいいの! わたしだよね!」
「いーえ違うわ! わたしに決まってるのよ!」
「あわわわ……」
もしかしなくても修羅場である。
これまで特別厄介事に巻き込まれたこともなく過ごした牧歌的な暮らしのサーシャには、あまりに対応不能な展開だった。
それからしばらく続いた口論だったが、ミサとミリアが叫び疲れることでようやくサーシャは解放された。「サーシャはわたしと結婚するんだし!」と捨て台詞を吐いて去っていったミサは何か色々と勘違いしている気がしなくもないが、無性に疲れたサーシャは腕に抱きついて離れないミリアと共に村長宅で収穫物を売り、その金で必要なものを買うとさっさと家に帰ることにした。
その日の夜のこと。
「あのミサって女はちょっとむかつくわ」
「いつもは良い子なんですよ」
「ふん。そんなの猫被ってるに決まってるじゃない」
サーシャの細い体を椅子代わりにくつろぎながら、全裸のミリアがそう言った。同じく全裸のサーシャはため息を吐いた。
「一体だれがサーシャのご主人様なのか、今度会った時にはっきりさせないといけないと思うの。そうね、次に村へ行くときはサーシャには鎖付きの首輪をつけてもらうわ。わたしが鎖を引っ張るのよ」
「どうしてミリアが私のご主人様になってるんですか……」
「あら? 自覚なかったの?」
少女が振り向き、妖艶に笑う。いつもは隠している尖った八重歯がはっきりと見えた。
「サーシャはわたしの所有物なのよ。いいこと?」
ミリアの動きで、ちゃぽんと水面が揺れる。二人は今湯舟に浸かっていた。日中、馬に髪を食まれたのが気になるのか風呂に浸かりたいとミリアが言ったのだ。普段はお湯で体を拭くだけだが、サーシャも無駄に汗をかいてしまったので一緒に入ることにした。
木板を組み合わせて作った簡素な浴槽は、二人で入ればそれだけで窮屈で身動きひとつするのも苦労する。それでも水を張るのはそれなりの重労働だが、サーシャの数倍は力持ちなミリアが手伝ってくれたおかげで随分楽に湯を沸かせたのは僥倖といえる。
透明な湯水の奥で、少女の肢体が歪んで映る。サーシャよりも細く柔らかい体を肌で直に感じると、どうしてか女の心臓が五月蠅くなった。歳の離れた少女と一緒にお風呂に入るなんて、エルザとよくしていた事なのに。
「にしても変ね」
「な、何がですか?」
ミリアが背中をそっと倒す。胸に触れる少女の背中の感触は更に強くなる。
女の強張った肩にちいさな後頭部を乗せると、少女は至近距離からサーシャの顔を見上げながら、女の耳やあごを撫でだした。ぞくっとするほど美しい少女の顔立ちと、無自覚な艶めかしい指の動きに、余計強くなった心臓の鼓動を気取られたくなくて、サーシャは曖昧な笑顔を浮かべた。
「あれだけ声をかけられるなら家に誰かやって来てもおかしくないんじゃない?」
「……それは」
笑顔はすぐに曇った。村を歩いているとぶつけられた、嫌悪の視線をミリアが疑問に思うのは無理もない。サーシャは正直に言う事にした。曖昧にはぐらかす方がミリアは不機嫌になると分かっていたからだ。
「妹……エルザが、村長さんとこの次男さんと結婚するはずだったんです。でもエルザを吸血鬼に殺されて、なんだかうやむやになっちゃって……」
サーシャ達一家は、この村の生まれではない。山師として放浪の旅をしていた父と共に、他所から流れ着いたのが10年ほど前になる。早々に妻を亡くした父が幼い娘二人に安定した生活をさせたいと望んだのはおかしな話でもないだろう。そんな父も、腹を空かせた冬眠明けの熊に襲われて七年前に死んだ。
エルザは、姉の贔屓目を入れても飛び抜けて美しい少女だった。そんな少女を村長家の次男坊が一目惚れして、二人の婚姻が決まったのが五年と半年前。サーシャも年の離れた妹が幸せになれると喜んだし、ミサもサーシャが家族になるのだと喜んでいた。
誰もが未来にあるべき幸せを確信していた。――吸血鬼が、エルザを殺すまでは。
「それにこの村で吸血鬼に襲われたの、私の家だけなんです」
なぜ、吸血鬼がエルザだけを標的にしたのかは分からない。その吸血鬼を偶然村に寄っていたキャラビスケが瞬殺してしまったからだ。恐らくキャラビスケがいなければもっと被害は拡大していたのだろう。
何にせよ、結果としてこの村で吸血鬼に襲われたのはエルザだけで、父も母も妹も失って孤りになったサーシャへ村人たちが寄せる感情は無数にあった。そして大半の者が、一人生き残ってしまったサーシャを嫌悪したのも、無理のない話だ。
「だから……呪われてるんじゃないかって皆思ってるんですよ」
「――なにそれ! バッカじゃないの!」
急に、ミリアが声を荒げた。突然の事にサーシャの肩がびくりと跳ねる。ミリアは狭い浴槽のあちこちにぶつかりながら体を回し、真正面からサーシャを睨む。その赤い瞳にあるのは我慢ならない怒りだけだった。
「いいこと。吸血鬼は気分屋よ。わたしみたいな奴ばっかりよ! なのに勝手に行動を憶測して同族を疎むなんて、人間はすっごくバカなのね!」
苛烈な激情が赤い瞳を燃やす。サーシャは茫然と少女の言葉を聞いていた。
とっくの昔に諦めた現実を、こんなにも怒ってくれる人がいる事が意外だった。小さな家に一人で過ごし続けた女は、歳不相応に孤独すぎて、自分以外の価値観があることすら忘れていたのだ。
思わず、率直な言葉が漏れる。
「気分屋だって自覚あったんですね……」
「……! そうじゃないわ、そうじゃないの!」
ミリアの顔が悲しそうに歪む。唇を尖らせて俯く少女は、自分の意思が上手く伝わらないもどかしさに震えてしまう。
「いじけないでください。私のために怒ってくれたんですよね。ちゃんとわかってますよ」
「……そんなんじゃないし」
その、納得いかない現実を割り切れない姿は本当に妹そっくりで。
つい手が伸びる。濡れた手が少女の頭を優しく撫でた。ぴくりと揺れた小柄な肩は、だけど静かに女の手つきを受け入れる。
「ねえサーシャ」
「なんですか?」
「吸血鬼ハンターなんて似合わないこと、なんでしてるの?」
そうしてしばらく静かな時間が流れていると、落ち着いたのかミリアはそんなことを訊いてきた。
「そりゃあ、憎いから、ですけど……」
「ふーん」
俯いたままの少女が顔を上げる。妖しい笑みがそこにはあった。いつもの、ミリアらしい微笑みだ。
「じゃあさっきからどうしてわたしの胸ばかりじろじろ見てるのかしら?」
「そ、それは……。いやというか何故それを……」
「ふん。オンナは自分が見られてることを自覚してるけど、あえて言わないものなのよ」
すっかり調子を取り戻したミリアがまた挑発的な目つきをする。先ほどまでのしおらしさはどこに行ってしまったのだろう。
湯船の中で、ミリアが膝をついて体を上げる。女を見下ろす少女の目つきは吸血鬼らしい不遜さが溢れていた。そして――胸骨の凹凸すら薄らと分かってしまう胸。
「好きなのよね、サーシャは。わたしの胸に杭を打ち込むのがやめられないんでしょう?」
ふふ、と少女が暖まった体から熱い息を吐く。歪な情で女を見下ろす全裸の少女は、恍惚に歪んだ眼差しと共に自分の鎖骨を撫でると、同じ指で女の鎖骨もなぞった。
「ふふん。結局サーシャはわたしがいないとダメダメなのよ。ダメダメなサーシャは、しっかり者のわたしが居ないといけないの」
「は、はあ」
「だからあのミサとかいう小娘よりもわたしを大事にすべきなのよ! わかった?」
年頃の少女では不可能ないやらしい仕草にしては、ずいぶん子供っぽい発言だった。気圧されていたサーシャの曖昧な返事が不満なのか、ミリアは女の鎖骨に噛みつく。地味に痛い。
跡が残る程度に力のこもった、甘噛みだった。
「……そろそろ、上がりますか。のぼせてしまいますし」
「そうね。……仕方がないから、とくべつにわたしの髪を梳くの、許可したげる。すごくコーエイなことなのよ」
そんな事を言うので、風呂上りに体を乾かしたサーシャは、ベッドの上でミリアの後ろに座ってヘアブラシを動かすことに。
少し湿り気を帯びた柔らかな長い金髪は、月光を受けて燃えるように眩い。梳くたびに輝きを増すようで、サーシャはだんだん楽しくなってきていた。
「ふふ。懐かしいなあ。昔はこうやって、エルザの髪を梳いてあげることが多かったんですよ」
そうだ。こうしてお風呂上りにエルザの髪を梳いてやるのが、サーシャの密かな楽しみだった。妹も人に梳いてもらうのが好きなのかいつも上機嫌で。父が死んで二人きりになっても、そんな時間があったから怖くなかったのだ。
ふいに妹の最期を思い出す。
妹が伸ばした両手が頬を撫でて。べったりとついた妹の血をどうすればいいのかも分からなかった。――お姉ちゃん、と囁く甘い声。その時、自分は、どんな顔をして妹を■したんだろう。
「あ、あれ。なんでだろう。なんでかな……」
目の奥が熱くなる。風呂に浸かったこととは無関係な熱い滴が頬を滑り落ちた。拭っても拭っても涙は止まらない。吸血鬼の少女は背中を見せたままじっとしていて、何を語っても許してくれる気がして。
「エルザは……よくできた妹でした」
「……」
「山師の父について回って、山の知識ばかり増えていく私とは違って、ちゃんと女の子らしい事が出来る子で……愛嬌があって、人に甘えるのが上手で、人を振り回すのはもっと得意で。そんな妹が自慢だったんです」
――吸血鬼は、神の加護によって殺される。
だけどサーシャには疑問があった。
どうして、吸血鬼なんて化け物には絶対に通用する神の効力が、当たり前の幸福を祈る人間には通じないのか。聖水で吸血鬼の体が燃えるなら人間が幸せになれないのはおかしい。それではまるでまるで。
そう、神とは――吸血鬼を殺すためだけにある摂理じゃないか。
祈りの価値も、十字架も聖水に浸した杭も水銀弾も、全て吸血鬼にだけ与えられた神の存在証明でしかないのは、あまりに不条理が過ぎる。
「だから……モノみたいに殺された事だけは許せない」
サーシャの心の奥底にある澱みが言葉となった。そこまで吐き出してからようやくサーシャは気付く。ぶつけた相手は、サーシャのためにここに居てくれる吸血鬼だと。少なくともこのひと月を上手に付き合ってきた相手をこうも蔑めば、ミリアはサーシャに愛想をつかすかもしれない。
――殺しても蘇る吸血鬼を失う事への恐怖が、サーシャの頭を真っ白にした。
涙すら止まり、懇願の情が弱い顔を作る。
サーシャはとっくの昔に、吸血鬼の少女が殺されることを許可し、そして何度も心臓を砕く秘め事なしには生きられないようになっていた。
そこまで自覚しても、そんな依存心すら言葉にしてしまえば本当にサーシャはミリアに従属してしまう気がして、喉で言葉が詰まってしまう。一線を越える事だけは躊躇った。――すると。
「いいわ」
少女は、言った。さっぱりとした声音だった。
吸血鬼が振り向く――エルザとは似ても似つかない笑顔。
「その感情、ぜんぶわたしにぶつけなさい」
ミリアの細い腕がサーシャの腕を撫でた。誘われているのだと悟った。どくんと、一際強い鼓動が黒い欲望を呼び寄せて、全身を支配する。
「わたしだけを見るのよ」
赤い瞳の少女だけを見た。
「わたし以外を目に映す必要はないわ」
月光も。ベッドの脇に転がっていた杭と槌も、もう映らない。
「わたしだけがサーシャの黒い欲望を満たせるの」
サーシャの口から、獣じみた呻きが漏れた。かたちとなった“鬼”の欲を、くすぐったそうに少女は瞳を細めて受け止める。サーシャの腕がミリアを押し倒した。杭と槌を握りしめた。
そこから先にあったのは、虐殺、
虐殺、
虐殺、
虐殺、
虐殺、
虐殺、
――――血の豊穣。