吸血王女バラハンドル・マクシミリアンは今日も女に胸を差し出し戯れに杭を打たれる   作:てりのとりやき

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34本目はあなたの味

 

 

 昼頃、雨が降り出した。驟雨に慌ててサーシャは干していた洗濯物を家に入れ、ふうと息を吐く。閉じた窓から空を見上げると、分厚い雲が太陽の光を遮っていた。憂鬱な気分にさせる天気だ。

 

「今日は一日雨かなあ……」

 

 山師としての勘がサーシャにそう告げていた。こうなってくると、外でしかできない仕事のほとんどは諦める事になる。心配なのはミリア――あの吸血鬼の少女だ。

 

「ミリア、どうしたんだろう。朝からいきなり」

 

 今朝のことを思い出す。いつもはサーシャより遅く起きるミリアが、珍しくサーシャを叩き起こしたのだ。少女は開口一番こう言った。

 

『今日は一日家に居なさい! わたし? わたしは用事があるの!』

『は、はあ』

 

 ふふんと平たい胸を張る少女は、いつもよりやる気に満ちている様子だった。村へ降りてミサと出会ってからずっとそんな調子で、サーシャの仕事を眺めている事が多かったが一体。

 

『絶対よ、ぜーったい付いてきちゃだめなのよ』

『あの、それって付いてきてほしかったりとか?』

『いいから家にいなさい!』

 

 ついには眦を吊り上げたミリアに叱られて、仕方なくサーシャは詮索するのを止めた。――それが今朝の出来事。家を飛び出したミリアは自前の長い金髪を揺らしながら、どこかへ駆けていってしまった。

 

「やっぱり心配だなあ」

 

 つぶやいても、いつも側にいる我がままな吸血鬼の王女様は居ない。つい口から零れた言葉に、小さな自嘲の笑みが浮かんだ。自分も、ずいぶんと吸血鬼との暮らしに慣れたものだ。ひと月前には考えられない生活を送る今の自分は、これからどうなってしまうのだろう。

 

「お昼、勝手に食べちゃいますか」

 

 また独り言。

 自分の事をグルメだと言い張る少女はいないのに、サーシャは気付けば二人分の昼食を作っていた。簡単な野菜炒めは、一人で食べるとどこか味気ない気がする。

 自然、ため息が漏れた。

 空腹を満たすだけの食事を終え、雨でやることもないサーシャは寝室に向かう。ベッドに転がって深く息を吸うと、こんなに広いベッドだったかと少し意外に思った。――そうか。もう一月も二人で使っていたから、こんな風に独り占め出来たことも忘れていたのだ。

 横になっていると、少しずつ眠気が瞼を重くしていく。寝てはいけないと呟いた。寝てしまっては、ミリアを、迎えることが出来ないのに――。

 

 

 

 

 

 夢を……見ている。

 そこは、暗い、黒い、闇だけの世界。

 目の前に少女が居た。サーシャと違って色素の薄い肌に柔らかな金髪。その肌もその髪もずっとずっとサーシャの自慢だった。

 

「お姉ちゃん」

 

 眼下の妹が言う。床に倒れた少女は抵抗しない。

 妹が浅く上下させる胸の動き。そればかりを見る自分がいったい何を考えているのか、サーシャにはわからなかった。

 

「お姉ちゃんになら、いいよ?」

 

 

 ――とんとん、と、扉を叩く音でサーシャは目を覚ました。

 慌てて体を起こす。未だに扉は叩かれている。ちらりと時計を見れば既に夕刻時。窓の外には分厚い雲だけ。大急ぎで玄関へ駆けた。ようやくミリアが帰ってきたのだと、そうなぜか確信できたのだ。扉を叩くのはきっと両手が塞がっているからに違いないと。

 

「ミリア? どこ行ってたんですか、もうすぐお夕飯……」

 

 そうして、笑顔で女が玄関扉を開けた先。

 見えたのは、邪悪に歪んだ唇。聞こえたのは嗄れた鉄錆の声音。

 血に塗れた薄汚い男の声――。

 

「ほお。同族の匂いがやけにするかと思えば、ペット持ちとはな」

 

 ゾッとした。

 肌が泡立ち、玄関脇に立てかけてある鍬へと瞬間的に手が伸びる。その男を、殺そうとして――息が詰まった。下を向けば、男の拳が鳩尾に突き刺さっていた。

 肺と内臓を圧縮される痛みに、サーシャの思考が空白に染まる。その隙を男は見逃さず、サーシャを押し倒す。

 玄関を無様に転んだサーシャは、自身を抑えつける男に息を喘ぎながら口を開く。

 

「吸血鬼……ッ!」

「いかにも。貴様ら人間を捕食する者だ」

 

 知っている。忘れていない。『あの日』もそうだった。夜、唐突に扉を叩く音が聞こえて。そうして妹が――エルザが先に玄関へ向かったのだ。そうして聞こえた悲鳴に、サーシャが駆けつけた先。

 妹は既に血を吸われていた。

 

「――」

 

 そこに居た男は、今己にまたがる男そっくりの笑みを浮かべて! あの時と同じように鋭い八重歯が覗ける笑みをしている……!

 

「はな、せッ」

「活きがいいな。狩人か」

 

 当然かつてエルザを殺した吸血鬼は、最強の男キャラビスケ・ケスダットにより消滅している。だが、吸血鬼がこうも同じ笑みを出来るものなのかとサーシャは愕然とした。

 力に酔った邪悪な表情を、サーシャは憎む。今すぐ男の心臓に杭を打ち込みたくなる。殺せと吠える心臓のまま、吸血鬼をぐちゃぐちゃにしたかった。

 

「催眠をかけて血の貯蔵庫にすることはあるが、自我をこうまではっきりさせたペットというのも珍しい。貴様の飼い主は随分と酔狂だな」

 

 それでも、サーシャは弱い。その力は人並みの女のそれでしかなく、吸血鬼は人間を凌駕した身体能力があった。――だからサーシャはその瞳を殺意で燃やす以外の抵抗が出来ず、吸血鬼は上位者として振舞える。

 そうして男が口を開き、尖る牙がサーシャの首に近づいて。

 

「貴様の血はよほど美味いとみえる。味見させてもらうぞ」

「……っ!」

 

 サーシャの首筋に牙が突き刺さる、その瞬間。

 扉が開く音。そして――吸血鬼が吹き飛び、家の壁に大穴が開いた。

 轟音と衝撃。吹きすさぶ雨風の中で、砕け散る木片が舞う瞬間にサーシャは見た。――玄関を。

 そこには、ミリアがいた。

 3匹の兎の耳をまとめて掴み、土汚れと雨で全身を汚したミリアがいた。

 

「なに、してんの」

 

 ぽつりとつぶやかれた言葉に情動の色はない。

 少女の片手が掴む兎に、サーシャはすべて悟る。今日あんなに張り切っていたのは、自分の手伝いをするためだったと。内緒にして驚かそうとしたのだと。

 きっと……役に立ちたかったのだ。

 吸血鬼としてではなく、ミリアなりに。

 

「……ッ! 私は吸血鬼だぞ!」

「だったらなに。わたしも吸血鬼よ」

 

 ミリアに蹴り飛ばされた吸血鬼が瓦礫の奥で吼える。冷徹な少女の声に、男の息を呑む音が聞こえた。瓦礫をどけ、ゆっくりとこちらへ近づく男の態度には不遜さの中に小さな恐れが伺える。

 

「わかるはずだ。吸血鬼同士の争いはあまりに無益。我々は聖なる杭を打たれぬ限り死ぬことはないのだからな――そして我々は神の加護に触れることができない」

 

 同じ吸血鬼同士、仲よくしようじゃないか。

 

「無論、縄張りを荒らしたことは謝罪しよう。どうだ? 私のコレクションにそこの女と似た年頃の美味い血を作る女がいるが、なんなら渡しても」

「あっそ」

 

 ミリアは興味のひと欠片もない様子で、男の言葉を遮った。冗長な喋りを邪魔された男の表情が歪むのも気にせず、ミリアは部屋へと足を進める。狭い室内を歩き少女はとあるものを手に取った。

 木製のそれは、何本もあるうちの一本。聖水を塗り込まれた事で邪悪を排する、吸血鬼には触れられない――そういう摂理を持った、神からの加護を得し狩人の武器である。

 

「な、に――」

「で? 聖なる杭がなんなの?」

 

 ミリアは杭を手に、情のない言葉を放つ。吸血鬼が狩人の武器を持つ。その不可解な事実を説明できる理由はたった一つしかない。

 

「まさ、か、始祖級だと――名は!?」

「バラハンドル・マクシミリアン。吸血王女様よ」

「 “星の女王”の……!? な、なぜこんな辺鄙な村に!!」

「あんた程度の雑鬼には分からないわ」

 

 瞬間、ミリアの体がサーシャの視界から姿を消した。超速の動きに人間の目が追い付いていない、そんな単純な原理を理解したのは現象の結果が巻き起こってから。

 ぶちりと音が鳴る。

 見れば、男の体が半分に千切れていた。

 究極の身体能力をもって男に肉薄したミリアが、音よりも速く杭を振るい、瞬時に吸血鬼を引き裂いたのだとようやくサーシャは理解する。

 

「なんで再生しないんだ……」

「わたしが神の加護を受けているから」

 

 これが、始祖級。

 神の加護すら軽々と跳ね返すほどに強靭な、吸血鬼の上位種。

 幼い体躯に宿る力は、間違いなく吸血鬼の男よりも遥かに強い。

 

「たっ――助けてくれ! 始祖様の縄張りを荒らすつもりなんてなかったんだ!」

 

 上半身だけの男が醜い言葉を叫んでいた。

 ミリアは取り合わない。男の心臓めがけて杭を振り上げて――。

 

「そ、そうだ! 私のコレクションはいらないかね!? 美味い血を作る女を何人も保存しているんだ、それで手を打とうじゃないか!」

 

 一撃。直下へ投げつけた杭は的確に男の心臓を貫通し、床板をぶち抜いて激音を撒き散らす。

 あまりに早く、吸血鬼が死んだ。

 サーシャが抵抗ひとつできなかった強者は、遥かに強い少女によってあっさりと絶命してしまった。

 男の死体に、雲の切れ間から消えかけの夕陽が当たる。それだけで男の体はゆっくりと灰へ変わっていった。

 

「吸血鬼は、陽の光で死ぬ……」

 

 それが常識なのだ。

 だからこんな曇りの日は、家に閉じこもっていろと父はいつも言っていた。キャラビスケだって。なのに自分は、ミリアと暮らすことで吸血鬼が何であるかを忘れて、あっさりと吸血鬼を招いてしまった。

 力ではない。

 種としての強さでもない。

 そんな“当たり前”も忘れた自分は、狩人など名乗れないほどに、ただただ弱い。

 

「ありがとう、ございました」

 

 男の死体が消え失せた頃、ようやくサーシャは声を出せた。ミリアは男の残滓である灰の前に未だ立ち尽くしている。背中を向ける少女がどんな顔をしているのか、サーシャにはわからない。

 まるで幼い背中に自分の弱さを突きつけられている気がして、自然と女の口から弱音が漏れた。

 

「私はやっぱり弱い女なんですね。なんにも……できなかった」

 

 あの日もそうだ。サーシャはエルザが血を吸われる光景をただ見ることしか出来なかった。玄関で首を噛まれ、吸血鬼の餌になってしまった妹を、サーシャはただ見つめる事しか出来なくて。

 

「あの日も、私はエルザが餌になるのをただ見ることしかできなかった。戦おうなんて思いつきもしなかったんです」

 

 恐怖で、動くことすら出来なかったのだ。そうしてエルザの血を吸い尽くした吸血鬼が、妹の首筋から口を離して、ニタリと笑って……。キャラビスケがそんな吸血鬼の心臓を杭で貫き、だから被害はエルザ一人で留まった。

 だけど。

 サーシャの不幸はその先にあったのだ。

 

「私、私は、私が……!」

 

 吸血鬼は基本的に子を産まない。

 彼らの種としての増え方は、吸血の先にある。それは、幾ら始祖級の娘を自称するミリアとて同じこと――つまり血による同化だ。

 キャラビスケの的確な心臓の破壊は、多少の血を辺りにまき散らした。偶然と奇跡と不幸が重なり合った結果、その血は傍で倒れていたエルザの首の、噛み痕に入り込んで……。

だから、妹は。

「妹は……あの日、吸血鬼に、なったんです……」

 

 その日、サーシャは神を憎み、何よりも自分こそを嫌悪した。

 キャラビスケは、吸血鬼として覚醒しつつあるエルザを殺さなかった。男は言った。「君がやるべきだ」と。

 その時の絶望を覚えている。

 どうして……強い力を持つ誰かが、弱い誰かのために事を為してくれないのか。

 神は、何故、妹一人を殺すためだけにその効力を示すのか。

 

「私より生きるべきはエルザだったのに。吸血鬼になったエルザと生きる道だってあったはずなのに!」

 

 初めて杭を握ったあの日。

 自分より幼い少女に初めて跨ったあの日。

 震える手で槌を杭を持ち、何度も何度も謝罪の言葉を口にしたあの日。

 妹は、いいよと言って、最後に笑った。

 

「エルザを、殺したのは、私」

 

 弱さは罪だとサーシャは知っている。

 全ての過去は弱さが招いた不幸だからだ。

 せめて、苦しまずに逝かせてあげたかったのに、それすらあの日のサーシャには出来なかった。少女の胸骨を砕くのに槌を12回も振るった。そのたびにエルザが痛みで呻いた。

 

「あの子の、小さな小さな心臓を潰した時……妹はありがとうって笑いました。実の姉に殺されて、ありがとうって、言ったんです」

 

 そう言える彼女こそが生きるべきだった。あの時死ぬべきは間違いなく、なんの決心もできなかった弱い自分だったのだ。

 だから強くなることを願った。狩人の術をキャラビスケに請うたのもそれが理由だった。

 それでも訓練の全てが実を結ばなかった事実はサーシャを苛む。

 涙が勝手に溢れてくる。こんなにも自分が弱かった現実に堪え切れそうになかった。

 と――。

 

「え……?」

 

 ぐしゃぐしゃになった心を癒すように、突然ミリアが近寄ってきた。未だに仰向けに倒れたままだったサーシャは急なことに反応できず、しなだれ掛かるミリアをそのまま受け入れてしまう。

 少女は女を柔らかく抱きしめた。

 

「あ、あの……?」

 

 突然抱きしめられたサーシャはどうすればいいか分からず、自分に覆い被さったミリアを見上げる。少女の赤い瞳は濡れていた。

 

「ミリア……?」

「血、吸わせて」

 

 少女はぽつりと言った。平坦な声には強い衝動を抑え込もうとする抑揚を感じる。

 サーシャの思考に空白が生まれた。

 

「え……?」

「いいから……あなたの血……ほしいのよ」

 

 強引に首筋へ顔を近寄せるミリア。ミリアに覆い被さられたかたちのサーシャは抵抗できない。

 いいや、それ以前に、少女のやろうとしていることは先の吸血鬼の男とまったく変わらない事だった。だというのに忌避感が生まれないのが、自分でも不思議で。

 

「な、なんで急にっ」

 

 涙で濡れた声を荒げたのも、突然求められて心の準備が出来ないために怯える生娘のそれ。カァッとサーシャの頬が燃え上がる。

 

「ちょっとだけ、ちょっとだけだから……」

 

 ミリアの言葉は理由になっていない。自分の欲望だけを紡ぐミリアを受け入れるべきか、拒絶すべきか、サーシャは悩んだ。腰に絡みつく少女の太ももの柔らかさが余計思考を鈍らせる。

 

「どうして、こんな時に……」

 

 かろうじて問うた言葉に、ミリアは何も答えない。ふるふると首を振り、その柔らかな金糸の髪を揺らすだけだ。

 赤い瞳はひたすらに訴える。

 “あなたの血が飲みたい”と。

 少女の懸命な眼差しに、サーシャの心はどんどん逃げ場を失っていった。どうして今なのか。何故、こんな時になのか。これではまるで恋人に体を求められて戸惑う少女と変わらない。自分とミリアは決してそんな関係ではないのに。ミリアが望んでいるのは、忌避すべき吸血行為だというのにどうして――。

 ――嫌じゃないんだ。

 ――この子に、血を吸われても……。

 

「い、痛く……しませんか?」

 

 熱っぽい瞳の少女は頷き、女の首を隠す黒髪を静かにどける。その時僅かに触れた少女の爪に「あ……」と湿った吐息が漏れた。自分の口から漏れたとは思えないほど甘くいやらしい声に、少女が堪え切れない衝動を耐えるようにきゅっと目を絞る。

 

「い、いいでしょ? 痛くなんかしないから……怖いことなんかないから、ねえ、サーシャあ……」

「あ、ぅ、ぁ……」

 

 胸を押さえながらハアハアと荒い息をつくミリア。

 興奮しているのだと悟った。

 その欲情の矛先が自分に向かっていると自覚した。

 もう、サーシャには何が正しいことなのかもわからない――。

 

「…………い。いい、です……よ?」

「……ん」

 

 吸血を拒まなかった理由は、自分でも分からない。ミリアの表情が血に飢えた吸血鬼のそれでなく、力に酔った強者のものでもなかったのは理由の一つだろう。

 ミリアがこくりと頷く。

 ――かぷりと。

 少女の可愛らしい唇が首筋の表皮に触れた、その柔らかさ。そして奥に潜む杭よりも鋭い牙が確かに肉を抉った痛み。サーシャの表情が歪む。それでもミリアは口を離さない。

 

「ッ」

「あんひゃはわひゃひのものひゃはら」

 

 首筋に吸い付きながら喋られるこそばゆさと、幼い舌が首をチロチロ舐める感触に――何より確かに血を吸われていくおぞましい喪失感から、生物としての本能によってサーシャの全身が意味不明な衝動で暴れだした。

 今すぐミリアを蹴飛ばしたい。どかしたい。――けれど両肩を強く握られていて動けない。

 

「い、ひ、ひゃ……や、やだ……! やだ……!」

 

 今、自分は少女に組み敷かれて欲望のはけ口にされているのだと思うと涙が溢れてきた。毎日少女にしている秘め事と同義の行為も、受け手に回れば恐怖しかなかった。

 サーシャが顔をそらそうとすると、唇を首に触れたままミリアが不満そうなくぐもった声を出す。

 

「――ぷは。動いちゃだめ」

 

 顔を上げたミリアが口元を拭う。薄らとした血が少女の唇を赤く染めていた。紅を引いた唇が余計に少女の表情を淫らにした、気がした。

 

「もう一回言うからよく聞いて?」

 

 上気した頬のままミリアは顔をサーシャに近寄せる。女の頬を両手で撫でて、うっとりと蕩けた瞳を晒す少女を、サーシャは拒めない。先ほどまであったはずの蹴飛ばそうだなんて考えは粉々になっていた。

 外ではいまだに雨が降り続けている。家の壁に開いた穴から聞こえる雑音も、二人を邪魔することはできなかった。

「サーシャはわたしのモノなんだから、わたしにだけ血を吸わせるのよ。わかった?」

「なんで、そんなこと、ミリアに言われなきゃ……」

「だってそうでしょ。弱いサーシャを守るのは、強いわたしの義務なのよ」

「義務……」

 

 ミリアは、確かにサーシャより強い。狩人として培った技術を易々と超えるほどに。その事実に悔しさを感じるよりも、女は安堵を覚えてしまう。

 

「サーシャ。わたし、あんたが血を吸われそうになった時すごく嫌な気分になったわ。頭が真っ白になって、許せなくて、あの吸血鬼を殺したくなったの」

 

 唐突にミリアは言葉を並べだした。眉根を詰めた少女はなおも言う。

 

「わたし……嫉妬をしたの。あの吸血鬼に」

「え? 嫉、妬……?」

 

 頷いて、口を開いて、そのふたつの牙をサーシャにだけ見せつけて。

 また、かぷりと。

 今度は痛みもなく、そして抵抗の衝動も湧き起こらない。……慣れてしまったのだろうか。

 少女がちゅうちゅうと淫猥な湿っぽい音を立てて首筋に吸い付くのを、目を瞑って受け入れる時間は、何故だか甘い充足で心の隅々まで満たされた。

 

「――ぷはっ。……わたしよ。サーシャはわたしのものなの。だから、わたし以外に触られたことが、血を吸われそうになったことが、許せなくて……」

 

 だから嫉妬したのだとミリアは言う。吸血の疲れで胸を上下させるサーシャを、蕩けた眼差しで少女は見下ろし続ける。

 

「あんなに嫌がってた吸血を、わたしがしたいって言ったらびくびくしながら受け入れて……まるで男に押し倒されて、怖がりながら期待する生娘みたいだった」

「ミリアは……一体、何が言いたいんですか……」

 

 急に抱きついて。急に血を吸いたいと言って。それに、そんな、まるで恋人に囁くような甘い言葉をたくさん吐いて。

 これまでずっとサーシャを詰るばかりだったのに。

 理解不能な情動にわななく少女は、サーシャに信じられない一言を告げた。

 

「わたしはサーシャを愛してるんだって気付いたのよ」

「………………は?」

 

 ――なんだ、それは。

 心に冷たい何かが広がっていくのがわかった。

 

「愛なんかじゃ、ないですよ」

 

 サーシャの全身を黒い感情が支配する。それは復讐の意思であり、恨みであり、怒りだ。サーシャがこれまで抱えてきた吸血鬼全体への想いそのもの――“鬼”が、ゆっくりと瞼を上げる。

 

「どうして愛せるなんて言えるんですか。私は、あなたを何度も殺したのに。……それに私があなたを愛せません。無理ですよ。すべての不幸を生んだのはあなた達吸血鬼じゃないですか。どうして……」

「それでもわたしは、サーシャがいいのよ」

 

 歌うような言葉だった。

 愛を紡ぐ微笑みは頑なで、サーシャが背負った“鬼”よりも遥かに清い。

 明らかに正義はこちらにあるはずなのに、サーシャは自分の全てを否定された気がした。自分が醜い生き物だと言われた気がした。

 

「わたしはサーシャの妹にはなれないわ」

「――違う! あなたを妹と思ったことなんてッ」

「あら。違うの? わたしを見て、わたしの先に妹を見ていたんでしょう?」

「ち、がッ……そんなんじゃ、ない。そんなことない! 私は、あの日をずっと後悔してて……だから……そんなこと……」

「いいのよ」

 

 ミリアの柔らかい手がサーシャの体を抱きしめた。少女の柔らかい熱に覆われて、女はエルザの体温を思い出していた。

 どれだけ否定してもミリアと触れて思い出すのは自分で殺した妹だ。何一つ否定できない弱さに、ぽろぽろ泣くことしか出来ない。

 

「わたしはそんな風に弱いサーシャが好きなの。弱くて、脆くて、すぐ泣いて。なのにわたしをいじめたくてドキドキしてて、興奮して発情していやらしいことばっかり考えるサーシャがダイスキ」

 

 ねえ、わかるでしょ? ――そう囁く少女が薄い胸を押し付けてくる。

 柔らかい脂肪の奥で、どくどくと脈打つ熱の塊。自分が潰し続けた心臓の、命のうごめきにサーシャの体が一度跳ねる。その時敏感な部分をかすめたのか、はぁっ……と熱い息を吐いた少女がおかしそうにくすくす笑うのが聞こえた。

 

「わたしの心臓、今とっても激しいでしょ。サーシャのことを感じるだけでこんなドキドキするのよ。サーシャのせいよ? サーシャがわたしを、こんなにおかしくさせちゃったの」

 

 だからもう駄目なの。

 

「サーシャから二度と離れたくないのよ」

「―――――」

 

 ――その、一言を。ずっと待っていた気がする。

 自分よりも強い誰かが傍に居続けてくれるという事実に、サーシャの何もかもが動きを止めた。

 

「ず、っと?」

「ええ」

「私を……ひとりにしないでくれるんですか」

「ええ!」

 

 感極まった様子のミリアが頬を首を擦りつけてくる。愛し気な仕草は自分の所有権を他の誰かに訴えているようで、もうとっくの昔に自分はミリアのモノになった気さえした。誰かに征服されていくのは暖かい泥沼に沈んでいくようだった。

 

「……っ」

 ミリアは、弱いサーシャを守るのは義務だと言った。

 それは言い換えれば強者による庇護だ。

 同時に、弱者を征服する強者の傲慢でもあった。

 だけどサーシャは、強者が正しく弱者を庇護する、その関係を求めていた――エルザを殺したあの日からずっと。

 

「吸って、ください。いくらでも……血を飲んでください」

 

 ……結局、自分は孤独なままでは生きられない人間だったのだろう。

 サーシャはミリアを抱きしめながらそう考える。

 

「あなたが望むなら、どんな事でもしますから。ミリアが食べたいものを作ります。ミリアが望むだけ抱きしめてあげます。他にも何だってできます。私、家事とか、猟とか、得意だから……」

 

 人はどこまで行っても孤独な生き物で、だけど、孤独なまま死にたくないから。

 例え隣人が吸血鬼でもいい。

 妹を殺すに至った種族でもいい。

 世界中の誰からも否定されて構わない。

 

「だから、だから……っ」

 

 愛でなくとも。

 憎悪でも。

 歪でも。

 それでも、

 

「あなたの側に、いていいですか?

 あなたの心臓を毎日潰していいですか?

 あなたの苦痛で歪む顔を毎日見ていいですか?

 あなたの体を、私だけが好きにして、いいですか?」

 

 それでも。

 サーシャはミリアとの生活を捨てられないほど、少女に依存している。

 若い女の頬を一筋の滴が滑る。

 それは、狩人として、人として間違った選択を受け入れた自分自身の『堕落』に絶望した涙。少女が血色の紅い舌で女の頬から雫をすくい取る。ぞくりとする艶かしさに嫌悪は浮かばない。

 自然と近づいた女と少女の間に言葉は必要なかった。二人は既に愛憎の契約で結ばれている。

 徐々に徐々に二人の呼吸と呼吸の距離は縮まって。

 そして――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ああ。こんなところにいたんですね」

 声は、唐突。

 大人びた女声に、サーシャとミリアは一斉にそちらを向き。

 

「探しましたよ、ミリア」

 

 髪は黄金。

 肌は真珠。

 瞳は紅玉。

 夜闇にあって、女の腰まである金髪は燃えるような輝きを放っている。白皙の頬と紅玉の瞳もそっくりだった。

 そこに、美しいまま成長したミリアが居た。

 そうサーシャが勘違いするほどにその女は吸血鬼の少女に似ていて――。

 ミリアが、声を震わせる。

 

「お母様……!」

「おかあさま……?」

 

 理知的な表情のまま、女はニコリと笑う。

 

「私は、

始祖吸血鬼が第六柱、バラハンドル・エクスキューション。

 エクスクと呼んでくださいね」

 

 ――かつて、千年王国と呼ばれた巨大な国があった。大陸全土をわずか一週間で統一して見せ、文字通り千年間繁栄を続けた伝説の王国は、一人の女王によって建国され、代替わりすることなく運営され、そして女王本人の失踪により滅んだという。

 そうしてとある吸血鬼についた名が“星の女王”。

 戯れに人の統治をし、戯れにそれすら捨てた厭世の気質は、間違いなく永世を生きる始祖吸血鬼のそれ。

 始祖吸血鬼第六柱“星の女王”バラハンドル・エクスキューションが、自身の娘に会うため、そこに居た。

 

「人間風情が、娘をたぶらかしてくれたようで」

 

 そして女の視線は娘ではなく――娘に覆い被さる若い女へと向く。慈愛の眼差しではなく、零下の殺意が女の紅玉を静かに燃やしていた。

 

「その罪、魂の粉砕に値する。

 散れ雑草。貴様に存在していい世界などない」

 

 サーシャは不思議と女の怒りに納得できた。

 当然だろう。娘を殺した人間に、怒らない母はいない。そして女……エクスクには、怒りを実行に移せるだけの強さがある。

 

「無上上教令輪身」

 

 女の言葉によって空間が歪曲した。

 歪みがエクスクの右肩付近に生み出したのは、現れたのは、金色の太い何か――腕?

 人間の数倍はある大きさの腕が、エクスクの肩から顕現しつつあった。まるで拘束を脱するようにのたうち暴れながら形を明確にさせていくそれ――黄金の腕は、吸血鬼という禍々しい生物が持つにしては不思議なほど美しい力で。

 

「あら。疑問に思ったことはありませんか?」

 

 サーシャの小さな疑問に気付いたのか、エクスクは笑顔のまま一人語る。

 

「なぜ、神とやらの加護が我々吸血鬼に通用するのか。どうして人の庇護者である“神”が、人類の天敵である我々にだけその力をはっきりと示すのか」

 

 それはですね、

 

「それは始祖六柱が……始まりの吸血鬼が異種の神性生物その成れの果てだからですよ。あなた達が信仰する神性生物はよっぽどその地位を独占したいようで」

 

 だから、私たちはあなた達の神様に呪われているんですよ、とエクスクは笑った。

 

「私は金剛界曼荼羅十号तथागतのひとつ、रत्नसम्भवですよと、そう言えば伝わりますか?」

 

 ――サーシャには知る由もないことだが。

 金剛界曼荼羅とは、遥か遠い異国で考案された神界の想像図を指す。そしてそこに座す最高位尊格を十号と呼び、救いを求めて人々はそれに祈りを捧げた。

 それら神性生物を総称して、如来と、そう呼ぶ。

 

「 “軍陀利”右腕解放」

 

 サーシャには理解不能な言語を口にしたエクスクが、腕を上へ。天へと伸ばす。同じ動きで半透明の巨大な腕はゆっくりと動き、その掌をサーシャへ向けた。同時に無数の円陣がその巨大な掌を中心に生成され、幾つもの不可思議な文様は天を覆う。

 赤。青。黄。藍。紫。橙。緑。

 七色の光を放つそれら幾多様々な円陣は、まさしく闇すら塗りつぶす星々の光。邪悪な吸血鬼には似つかわしくない、凄絶に美しき、浄化の輝き――。

 

「神の部分現界、それによる超高出力熱量の放射です。魂すら虚無まで砕く力、存分に味わいなさい」

 

 女は最後に美しい微笑みを浮かべた。円陣が放つ輝きはより強くなり、溢れだす光は二人の視界すべてを純白に染め上げ。そして。

 

「娘を痛めつけた罪を地獄で後悔してくださいね」

 

 太陽に等しき極光は生まれ出ずる。

 そうして世界に昼が訪れた。

 それは付近一帯の山を蒸発させた。

 それは大陸を砕いた。

 それは、星を抉る、絶命の砲撃。

 結果として延べ15億人近くが死亡し、人類種は神の気まぐれな殺意によって絶滅にまで追いやられる事となる。

 

 

 

 

 

 ――――はずだった。

 

「……人間なんて」

 

 エクスクの声を、サーシャは確かに聞いていた。膨大な光量で視覚を潰され、直後に訪れた物質全てを無に帰す熱量で、死を覚悟していたはずなのに。

 サーシャは生きていて。

 じゃあ、一体、だれがあの一撃を……?

 

「人間なんて、所詮100年も生きられない生き物よ」

 

 恐る恐る、サーシャは瞼を上げる。そして息を呑んだ。

 

「どうして?」

 

 目の前に、金髪の少女が立っていた。少女の、いつもいつもサーシャを艶めかしく撫でていた右腕がそこには無かった。少女の右肩には、焼いたかのような焦げた痕だけがあった。

 瞬間、サーシャは理解する。

 

「どうしてそんな命を守るの、ミリア」

「サーシャはわたしの大事なものだからよ、お母様」

 

 山は蒸発せず。

 大陸も惑星も砕かれず。

 人は、誰一人として死んでいない。

 ミリアが――吸血鬼が、弱いだけの人間を救ったのだ。

 それが今ここにある現実の全てだった。

 

 

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