星アキラは自由に生きたいっ 作:Magical forest
「それじゃ、宮沢賢治が聞きたかった『印度の虎狩』を弾いてよ。君はピアノが上手いって聞いたよ。」
部屋に合ったグランドピアノを指さしながら、阿良也は僕を挑発した。周りの劇団員は阿良也を止めようとおろおろとしていた。
「いいけれども阿良也、ちゃんと責任取ってよ?」
阿良也は意味が解らないようで、首を傾げていた。
「うーん。そのまま弾くのもいいけれども、せっかくだからYoutubeチャンネルのネタにしたいな。ビデオとかある?」
「ちょっと待っていて、今用意してくるよ」
青田亀太郎さんがビデオを取りに別の部屋に行った。
僕はピアノの前に座って、屋根を持ち上げると、鍵盤をぽこぽこ叩いて音を確認した。案の定、ほんのちょっとだけど音がずれている鍵盤があった。
このピアノは本来は、演劇が行われた大ステージで演奏するときに置かれているもので、今はこの部屋に退避してきたようだ。だから移動した際にいくつかのキーで少し音がずれているようだ。
大ステージに戻した時に調律するためか、ピアノの近くの棚に調律用のハンマーレンチが入っていたので、それで気になった音だけを調音した。
このピアノはほんのちょっとだけピッチを上げた音でチューニングされているようだ。この辺は煌びやかな音を出すためか、それとも本来設置されるホールの特性とチューナーさんの感覚なのか、はたまた次にホールに持って行った時までにピッチが下がる事を見越してその分わざとピッチを上げておいたのかは何とも言えなかった。
僕は全部の音を調音する時間も無かったし、別にそこまでこだわりは無いので、気になる音だけ調音した。
それに僕が考える『印度の虎狩』には、このチューニングはちょうど良かった。
それで、青田さんはまだ戻って来なかったので、僕は音の確認と指慣らしのためビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビー』を弾きながら待っていた。
ジャズを聞きなれていない人でも耳に残る美しい旋律に、みんな黙って静かに曲を聴いてくれた。実に良い雰囲気だ。この曲が罠だってみんな気づいていないだろう。すまし顔で演奏しながら、僕は心の中でにやけた。
「持ってきたよ。これでいい?」
曲が終わるころに青田亀太郎さんが、S社の最新式のビデオカメラを持ってきてくれた。劇団で使っているだけあって、高性能な外付けマイクも付けられている。
これならYoutube動画の撮影も問題ないだろう。
僕はいつも持ち歩いているコンパクトカメラからSDカードを抜きだし、ビデオカメラに入れて、ビデオカメラの設定を変更。試し撮りを行った後に雪ねぇちゃんにビデオを渡した。
「これで僕の演奏を撮影してくれる?」
「いいわよ。」
「それじゃ行きます。」
「こんにちは。星アキラです。今日は劇団天球さんの『セロ弾きのゴーシュ』を観に来ています。今回は素晴らしい舞台を見せてくれた劇団天球の皆さんにお礼として、僕の考える『印度の虎狩』の曲を聴いてもらおうかと思います。みんなも楽しんで聞いてね!」
「Hi! My name is Akira Hoshi and I am an actor in Japan.~」
僕は日本語の紹介の後に、英語、フランス語、中国語の自己紹介と曲の説明を入れた。
英語とフランス語は前世で話せたけれども、中国語についてはVTuberの中国公演や中国展開の時に簡単な日常会話ができる程度だけ覚えた。
チャンネルも軌道に乗って来た事だし、そろそろ、前世みたいにグローバル展開も考えてよい頃だ。
僕は海外の人向けに、自己紹介がてらの動画を取る事にした。
「それじゃ行きます。」
僕はトロイメライの和音をアルペジオに変換し、さらにアンティシペーションとディレイドアタックを同時に組み入れ、そこに振動比が調和しない不安を掻き立てる不協和音でボイシングさせるというとんでもないアレンジを組み入れたトロイメライを演奏する。というか、これがトロイメライだって認識している人はほぼ居ないだろう。
うん。最悪の曲だ。我ながら瞬時にこれが演奏できるのはすごいと思う。うん。これはまさにジャイアンリサイタル。最悪のメロディーだ。
『ワルツ・フォー・デビー』の美しい旋律から一転。劇団天球のメンバーはドン引きで、みんな僕をクソガキを見る目で見ている。
これは「ネコ」も逃げるだろう。あまりの不協和音にみんな耐え切れなくなって腰が引け始めている。これはすごく楽しい♪
素人が訳も分からずに、適当に鍵盤をたたいているのとはまるで違う。純然たる不協和音の塊。
適当に鍵盤をたたいて、和音から音が外れているのが不協和音じゃない。それはただの下手な和音。
ドレミファソラシドはそれぞれ決まった周波数を持っている。ドは261.6Hzでレは293.7Hz、そして次のドは前のドの倍の532.2Hz。
それぞれの波が一定の周期で調和が取れて重なる物が協和音。そして全く調和がとれずに、ぐちゃぐちゃなタイミングで波が重なる音が不協和音。
僕はこの不協和音をボイシング(コード構成音として音を重ねるテクニック)でわざと重ねた。
多くの文化圏では、協和音が調和が取れて美しいとされていて、不協和音を楽しむ文化は多分そんなに多く無いだろう。
そして、音楽は音の調和と規則性を楽しむ文化だ。 しかし、こんな不協和音の連続のくせに、ベースがトロイメライのため、メロディラインに規則性が保たれる。
規則性の取れたメロディから放たれるえげつない不協和音の塊。
人は自分の価値観が全く受けられられない状況になると、体と心を守るため、自己防衛を行うようになる。
そうして自己防衛のために刺激されるのは、恐怖、不安、悲しみ、怒りと言ったネガティブな感情
僕を挑発した阿良也は、挑発の方向性が完全に失敗した事を悟って、目を白黒させて耳を押さえている。顔色が真っ青になって来た♪
やつは感受性が高いからこの不協和音攻撃には耐えられないだろう。僕は他の劇団員を見渡す。
ふーん。この中で劇団員の中で感受性が特に高いのは阿良也で、後はそうでも無いのか。でも、なにか大切なことを忘れているような?
あっ、景ちゃんが真っ青になってしゃがみこんでいる。ヤバイっ。マジでやばい。
そうだ。阿良也よりも景ちゃんの方が感受性が高かったんだ!やばい。ちょっと軌道修正。
僕は、ボイシングした不協和音を転調して少しずつ少しずつ協和音へと変え、さらにドレミファソラシドで循環しながら「かっこう」の音感が判るように変調していく。
曲調が一緒なのに、とたんに不協和音が収まり、音に調和が生まれていく。曲調が変わらないはずなのに、劇団員の頭にハテナマークが付き始める。
徐々に、未知の音楽への「興味や好奇心、関心など」が刺激される。
しばらくそれを繰り返した後、ベースラインを加えてセッションさせる。
途端にジャズ調のノリの良いリズムに変わるトロイメライとおぼしき「たぬき」とのセッション。
音楽が共感され、「喜びや幸せ、楽しさ」が刺激される
そして、僕はアレンジで入れた各種テクニックをベースライン→ボイシング→アンティシペーション→ディレイドアタック→アルペジオの順に止めていく。
そして、最後に残った音楽が、シューマンの『子供の情景』第7曲 トロイメライ ヘ長調。
僕は「野ねずみの親子」に聞かせるように優しく、子ネズミの病気が治るように演奏していく。
みんなは名曲の本当の姿に「安心感や安らぎ、平穏」を覚えていく。
演奏を終えた時、劇団員達と一緒に来てくれたみんなは、万雷の拍手をしてくれた。
不要和音からの音楽は、不安、悲しみから始まり、楽しさ、安らぎに至るまで、人間の様々な感情を刺激した。
ある程度の年齢になれば感情が行き過ぎないように、そう言った物はフィルターでカットするけど、逆に感受性を研ぎ澄ましている役者は別だ。
景ちゃんは感情のコントロールが付かなくなって、ボロ泣きしていた。千世子ちゃんが景ちゃんを慰めていた。
阿良也も感情の処理が追い付かなくて涙を流しまくっている。
劇団員の何人かも同様に涙を流していた。
僕は阿良也に聞いた。
「ねぇ阿良也? ゴーシュが猫に弾いた『印度の虎狩』は、本当にダメな曲だったのかな? 僕にはそうは思えないんだよ。 だってゴーシュが猫に弾いた『印度の虎狩』は世界で唯一、ゴーシュしか弾けなかった曲なんだから。 そんなすごい曲を聞いて、それを認められなかったネコはそんなにかわいそうなのかな?」
「確かに、演奏が上達したゴーシュはみんなに好かれて共感されるようになったよ。 でもその代わり、ゴーシュは世界でただ一つのオリジナルであった自分自身の個性を失ったんじゃないかな?」
「ねぇ阿良也? 世界で唯一、自分ただ一人の個性があるけど理解されない人間と、他人に評価されるけれどもアイデンティティを失って代わりが居る人間。どっちの人間が幸せなんだろうね? 僕にはわからないよ。 君には答えがわかるかい?」
阿良也は戸惑ったまま何も答えなかった。
「はっははははっ。アキラ、阿良也をからかうのはそのぐらいにしたらどうだ? お前が演じているのは阿良也には判りにくいんだからな。」
「ちぇっ、せっかく、阿良也にマウントを取ろうとしたのに、巌のじっちゃんはなんでネタばらししちゃうのさ!」
「何の役を演じていたんだ?」
「新世紀エヴァンゲリオンの渚カヲルだよ。とりあえず哲学的な事を言っておけばそれっぽく聞こえて便利だから。声まで似せるとバレちゃうからせっかく地声でやったのにっ。」
「相変わらずのクソガキっぷりだな。なまじ技量があるからタチが悪いな。ハッハハハッ。」
巌のじっちゃんは僕の演奏と演技を観れた事でご満悦のようだ。
「さてと、」
僕は景ちゃんを慰めている千世子ちゃんの前に行った。案の定、千世子ちゃんは泣いてなかった。僕は千世子ちゃんの凄い所を撮ってみたくなった。