刀の間合いと槍の間合い。当然ながらその二つが同じ距離であるはずが無く、一般的にいえば槍の方が遠くから攻撃できるという点で優れていると言えるだろう。
槍とは刺す、斬る、叩く、薙ぐ、突く、払うといった大抵の動きを可能とする大変優秀な武器で、またその扱いが容易いという点から、民兵から果ては大将クラスの武将までが愛用した武器だ。銃という武器が開発され戦闘が近代化を遂げるまでは、戦場の花形は槍であったと言えるだろう。
「一番槍を取る」。そんな言葉が広まるほどに、槍という武器の優秀さは世に広まっていた。
『フォルトゥナ』がロンギヌスの槍を構える。ただの槍ではない。神が作り出した文字通りの神槍。その槍の一突きは絶対領域とされるATフィールドすらを容易く突き破る。
【人よ。全ての意識を束ねし最後の羊飼いよ】
『フォルトゥナ』がアスカの声で、綾波の声で『シンジ』に語りかける。
【人の進化のその先に進む事を許された者よ。全ての人の代表として、欠けた人類の溝を埋めるただ一人の資格者よ。ヒトの王として戴かれた者よ。お前の望む形によって、人類の補完は完了する】
そう宣いながら、『フォルトゥナ』は槍の穂先を僅かに上げた。
【なぜ、その責務に反する?】
『フォルトゥナ』の問いに、神殺しの刀を構えた『シンジ』は即座に応えた。
「お前が全てを奪ったからだ・・・!」
エヴァ01の体から気炎が上がる。それが爆発するように膨張した瞬間、『フォルトゥナ』は瞬時に手にした槍を真横に傾けて掲げた。
掲げた槍が、振り下ろされた『
その衝撃が周りの大地に伏していたエヴァビースト共の肉片を業風で巻き上げ、空気が音を立てて破裂した。
「返せ・・・お前が奪ったもの、全てを!」
【無二の命を持つ者よ。それがお前の望みか?】
『フォルトゥナ』が槍を回転させて刀を弾く。だがエヴァ01はその弾かれた方向に自ら体を回転させて衝撃を緩和すると、そのまま勢いを利用して回し蹴りを『フォルトゥナ』の腹に叩き込んだ。
【・・・ッ】
「そうだ!お前が奪った全ての人の知性!そして、アスカと綾波の命を返せ!!」
エヴァ01は回転を止めず、その勢いに刃を乗せて再び斬りかかった。対して『フォルトゥナ』は蹴られた衝撃をそのままに、さらに地面を蹴る事で後方へと下がった。
互いに距離を開いた両者。しかし先に動いたのは『フォルトゥナ』であった。ロンギヌスの槍の穂先をエヴァの胸元に向けて容赦なく突き出す。
【私が奪ったものはなく、返せるものは少ない】
「どの口が!」
二股に分かれた槍の先端、その間に『シンジ』は刀を滑り込ませて槍を防いだ。互いの武器が激しくぶつかり合い、火花を散らす。
【槍を受け入れよ。さすればお前は生命の樹となりて、全てを新たに手に入れることができる。その資格がお前にはある】
「新しいものなんて要らない!僕は失ったものを返して欲しいだけだッ!」
【馬鹿な】
『フォルトゥナ』は槍の先端を一気に下げて刀の鍔にぶつけ、エヴァの力が緩んだところに更に鋭く突きを繰り出した。『シンジ』はその瞬時に繰り出された一連の動きに翻弄されかけたが、気合いで踏みとどまり、刀と膂力で以て槍を押さえつけた。
【これは選別だ。私が奪ったのではない。人は自ら失ったのだ。全ての命は私の声に応える事ができなかった。ただそれだけだ】
「だからお前は、自分が何も悪くないって言いたいのか!?」
【如何にも】
槍を引き、薙ぎ払う。その動きを『シンジ』は地に伏して躱し、立ち上がる反動を乗せて刀を逆袈裟に斬りあげる。『フォルトゥナ』はそれを槍の石突で逸らし、再び槍を薙ぎ払う。
【脆弱な魂に、補完を全うする事能わず】
「ふざけないでよ!!」
槍と刀が衝突し、周囲に稲妻が走った。その衝撃は上空に浮かんでいた雲を断ち切り、空を割った。
【新しき命の舞台に、補完の成った世界に古き物は要らぬ。古き物こそ、過ちであったが故に】
「そこにどれだけ大切なものがあったのか、わかりもしないくせにッ!!偉そうに、説教くさく言い訳をするなぁッ!!」
エヴァの刀と、『フォルトゥナ』の槍が掻き消える。音を置き去りに、光の速度を追い越して、二つの機体の残像だけが細切れのフィルムのように滑稽に空間に残る。周囲を二つの機体の攻撃の余波が襲い、大地が見えない斬撃によって切り刻まれていく。
「お前は!お前だけは許さない!何があってもお前だけは殺すッ!!!」
【無意な事を】
大地がドンッ!!という衝撃と共に弾ける。空を見れば、二つの常軌を逸した機体が互いに相手の身体に武器を叩き込まんと斬撃を振るっていた。
【全ての意思がお前に集まっている。お前の願いを、全ての命が受け入れる。お前はそれを選び取るだけで良いというのに】
「僕が選ぶのは過去だ!みんなが元に戻る世界だ!お前がそれを認めれば、全て元に戻るんじゃないのかよ!?」
【失ったものは戻らない。失われた知性は戻らない。獣は獣だ。人は獣と化した。お前が、お前の意思で『似たような世界』を作る事はできるだろう。お前がそれを望むなら・・・】
「それは、全くの別物だぁぁああッ!!」
『
しかし地面に叩きつけられ、その身を大地に沈めながらも、『フォルトゥナ』の態度は変わらない。
【すべての魂の担い手よ。お前が望む世界を与えよう。しかし失われたものだけは戻らない。それを理解し、新たな世界を生み出すのだ】
「もういいッ!!」
地面に倒れた『フォルトゥナ』の体に『
【!!】
「もういい!十分だ!お前が失った者を返さないと言うのなら、お前が奪ったものだけは!その体に宿したものだけは!アスカと綾波の魂だけはッ!!お前を殺して取り戻す!」
叫ぶ『シンジ』の声に呼応するように、『フォルトゥナ』の胸部に封じられていた第三と第四の腕が解放された。
その腕はエヴァ01の顔に優しく手を添える。
【ならば】
【アタシと一つに】
【わたしと一つに】
『フォルトゥナ』の口から、アスカの声で、綾波の声で、『シンジ』に向けて愛情の籠った言葉が漏れ出した。
『シンジ』の怒りが爆発した。
「死ねぇぇぇえええええええええッ!!!」
『
そして次の瞬間、『フォルトゥナ』の姿が忽然と消えた。
「!!?」
『フォルトゥナ』の姿を見失った『シンジ』が周囲を警戒しようと意識を巡らせた瞬間、『シンジ』の胸に衝撃が走った。
胸を見ればそこからは、赤い槍の穂先が2本。胸を貫いて生えてきている。
「ぐああああああああっ!?」
【【すべて、貴方と一つに】】
エヴァ01の背後に現れた『フォルトゥナ』が、ロンギヌスの槍でエヴァを貫いていた。ロンギヌスの槍はエヴァの血肉を浴びると、まるで意志を持った植物のようにエヴァに絡みついてくる。
「ぐがぁぁあああああああああああッ!!」
想像を絶する痛み。しかし、それを遥かに凌駕する怒りが『シンジ』を支配した。『シンジ』は巻きついてきたロンギヌスの槍を両手で引きちぎり、エヴァ01の開いた口でそれを噛みちぎり始める。
その動きを止めようと、『フォルトゥナ』がエヴァの背後から優しく抱きしめてくる。
【貴方の望みを叶えましょう】
その偽りの言葉に、アスカと綾波の声を模したという事実に、あまりの怒りに、『シンジ』の視界が瞬時に真っ赤に染まった。
『シンジ』は地面に突き刺さったままの『
背後にいる『フォルトゥナ』諸共、刀が貫くように。
【!!?】
「うがああああああああああああ・・・!!」
地獄の焔が、エヴァ01と『フォルトゥナ』に襲いかかった。エヴァ01に絡みついていたロンギヌスの槍はその焔を嫌がるかのように身をくねらせて、エヴァの体から剥がれ落ちる。
『フォルトゥナ』もその焔から逃れようと、エヴァの体から手を離す。しかし『シンジ』はそれを許さない。離れかけた腕をガシッと掴み取り、決して離さないという意志でもって『フォルトゥナ』を自身に縛りつけた。
「アスカ!綾波!帰ってこい!!・・・・・・来い!!」
『シンジ』の叫びに、『フォルトゥナ』の体が大きく震えた。まるで、『フォルトゥナ』の体内に閉じ込められた二人の少女の魂が震えるかのように。
「もう、絶対離さない!これは僕の我儘だ!だけど、もう嫌なんだ!二人がいない世界なんて耐えられない!だから、お願いだ・・・・・・帰ってきてくれぇぇええッ!!」
エヴァが空に向かって、『シンジ』と共に吠える。地獄の焔がエヴァと『フォルトゥナ』を包み込む。
しかし、悲しい哉。背後にて『
『シンジ』は焔に包まれながら、全身を焼かれながら辺りを見回す。しかしどこにも、『フォルトゥナ』の姿は見当たらない。
だが、『シンジ』の直感が、『シンジ』の少女たちへの想いが、彼女たちが何処にいるのかを正確に教えてくれていた。
『シンジ』が空を見上げる。広大な、どこまでも広がる青空。その向こうに、『シンジ』は全身を焼かれながら視線を向ける。
「そこに、いるんだな?」
『シンジ』はエヴァに突き刺さった刀を抜き取ると、無造作に大地に放って捨てた。捨てられた刀は持ち主を失い、その業火はやがてマッチの炎が消えていくようにか細くなって消えた。
エヴァを覆っていた焔も、少しずつ収まっていく。全身から血を流し、火傷に爛れた生体部品を晒しながらも、エヴァは遥か彼方の上空を見上げていた。
「そこに、いるんだね?・・・・・・アスカ、綾波・・・・・・」
エヴァの目から、涙が零れ落ちる。決して戻ってくることのない、人狼化現象の被害者たち。
しかし確かにそこにあると感じる、アスカと綾波の魂。それを感じ取れたことによる涙が、エヴァの瞳を伝って地面に落ちる。
『シンジ』の視線が、大地へと降りてくる。その先にあったのは、綾波レイが先の作戦で使い、目的を達する事ができずに放置された兵装。
それに、足元もおぼつかない足取りで近づくと、エヴァ01は迷うことなくその兵器、『アズマテラス』を手に取った。
傷だらけの体で。
もう、これ以上動けば死を免れないというほどの死に体で。
『シンジ』は、その弓を手に取り、空に向けて掲げた。
「綾波。ありがとう・・・・・・」
エヴァ01が、見えない弦を引くように右手を後方へ引き絞る。
「アスカ。迎えに行くよ・・・・・・」
七色の光がアズマテラスの周囲に浮かぶ。途端、エヴァ01の体が塵のように崩れ始める。
アズマテラスが、エヴァ01の身体を一本の矢として弓に当てがう。
「二人とも、大好きだ」
『シンジ』の言葉とともに、七つの光が一直線に弓に並ぶ。
「今、行くよ」
その言葉を最後に、アズマテラスから一本の矢が空を貫いて流星の如く駆け上がっていく。
赤い大地に残された者は居なかった。
◇
月。
この世界では、『ルナ』と呼ばれている衛星。その地表の上で、満身創痍の『フォルトゥナ』は地に膝をつけていた。
全身を地獄の焔で焼かれながらも、『神』より与えられた使命を全うするため、己の存在を消す事なく佇むそれは、頭上の青く光る星を見上げた。
【人類の補完。その終わりの時が来た】
唄うように、『フォルトゥナ』が己が使命を口にする。
【長き時の果てに、人は神へと至る階段への一歩をようやく登り始めた。私に課せられた使命も、ようやく終わりを迎えるだろう】
『フォルトゥナ』が4本の腕を大きく広げる。
【私は神へと至れない。私は人という種族を統べる羊飼いなれば。なればこそ、我が羊が良き、より高みに昇る存在へと至る事に魂を賭けて祝福を与えよう・・・・・・例えそれが、神への反逆であったとしても】
『フォルトゥナ』の心の中には歓喜があった。従えていた獣が、飼い主に牙を剥く。それはあってはならない事ではあったが、同時に『神』が心から待ち望んでいた事でもあった。
その結末を迎えられたことに、羊飼いたる『フォルトゥナ』は喜びを覚える。
【■■■■■。どこに居られるのですか?私はまもなく、貴方の望みに応えるでしょう】
祝福を、お与えください。
『フォルトゥナ』が祈る。
【貴方の望んだ種がやがて芽吹き、花を咲かせて彩るでしょう。どうか祝福を。芽吹く新たな可能性に、祝福を・・・】
その言葉を何もない空に放った瞬間であった。
頭上の青い星より、七色の閃光が走ったかと思うと、その光が『フォルトゥナ』の身体を貫いていた。
【か・・・・・・!?】
『フォルトゥナ』の身体に激痛が走る。自身を貫いた光を目で追い、振り返ってみれば──、
「アスカと、綾波を、返せ・・・・・・ッ!!」
エヴァンゲリオン01が、『碇シンジ』が、満身創痍の姿で月面に立っていた。
それを目にした『フォルトゥナ』は混乱と、狂喜の狭間にいた。
自身の目の前に、神に捧げる供物がある。それは自身の望む形ではなかったが、確かに供物として『成った』ものであった。
それが正しいのか、間違いないのか、それは『フォルトゥナ』自身にも分からない。だが、自身の生涯を賭けた『成果』が確かに目の前にあった。
【ああ・・・・・・】
『フォルトゥナ』がエヴァ01に向けて、人類補完計画の完遂者である『碇シンジ』に向けて手を伸ばす。愛おしむように、羨ましむように。
【よかろう。選びとるのだな?お前は、ソレを?】
『フォルトゥナ』の不明瞭な言葉に対し、『シンジ』は力強く一歩を踏み出した。全身が焼け爛れ、流れた血が燃えながらも『フォルトゥナ』に近付いてくる。
『フォルトゥナ』はそんなエヴァ01の様子を、感慨深く眺めていた。まるで我が子が初めて一人で歩き始めた事を喜ぶように、両手を広げて向い入れる。
【良い。これで良いのだ。すべては、神の御心のままに・・・・・・】
「知らないよ。そんなのは」
エヴァ01の貫手が、『フォルトゥナ』を貫いた。
力を失い、エヴァ01を抱きしめるようにもたれ掛かる『フォルトゥナ』。それを、『シンジ』はとっさに抱き止めた。
その骸の中に閉じ込められていた、アスカと綾波の魂を迎入れるように。
「ごめんね。こんなに待たせて・・・・・・本当にごめん」
『シンジ』は、『フォルトゥナ』の身体を抱きしめる。
「大丈夫。かならず元に戻すから。全ては戻らないかもしれない。けれど、二人だけは・・・・・・アスカと綾波だけは絶対・・・・・・」
満身創痍の『シンジ』の顔に笑みが溢れる。もはや地球、『テラ』を大きく離れた『ルナ』では、NERV本部の通信も届かない。でも、それでいい。この穏やかな静寂こそが、『シンジ』の心を優しく癒してくれていた。
その静寂が、決して変わらぬものだと気付くまでは。
「・・・・・・?」
『シンジ』は、腕の中にある『フォルトゥナ』の遺骸に意識を向ける。
「アスカ・・・・・・?綾波?」
二人の魂に向けて、呼びかける。優しく。愛おしむように。
しかし、それに対する返答は虚無であった。
「・・・・・・アスカ?綾波?」
腕の中で、冷たくなっていく遺骸に声をかける。
「・・・・・・なに黙ってるんだよ、アスカ。綾波も、人が悪いよ」
『シンジ』は苦笑する。それは、愛おしい少女たちのイタズラだとでも言うように。
だが、どれだけ待てども、彼女たちからの声は聞こえない。
それに得体の知れない恐怖を感じ、『シンジ』は『フォルトゥナ』の遺骸を強く抱きしめる。
「ねぇ。二人とも。終わったんだよ?全部終わったんだ。全て、終わったんだよ?なんで黙ってるのさ?」
『シンジ』が二人の魂に呼び掛ける。そこにあるはずの二人の魂に。
だが、魂は本当に、そこにあるのだろうか?
「ねえ、なんで黙ってるんだよ・・・・・・?あ、そうか!身体がないから、なんだね!?大丈夫!すぐにNERVに戻って、何かしらミサトさん達と相談するからさ・・・!」
強がり。認めたくない事実。拒否する心。様々な感情が『碇シンジ』の胸の中を通り過ぎていく。
そして、それらをどれだけ無視しようとも、決して覆らぬ事実が目の前に提示されていた。
「嘘だ・・・・・・嘘だよね?・・・・・・アスカも綾波も、ここにいるよねェ!?」
『フォルトゥナ』の中にいる、
それが、存在しないという事実。
『フォルトゥナ』は確かにアスカと綾波の声を使って自身に語りかけてきた。
だが、それは本当に二人の魂の声なのか?
そんな確証は、どこにも無い。無かったのだ。
それは『シンジ』が『フォルトゥナ』と戦う前から不明確な事で。
『フォルトゥナ』が何度も「失ったものは戻ってこない」と言っていた事実で。
結局は、それが真実であった。
「嘘だ・・・・・・」
エヴァンゲリオンの腕の中から、『フォルトゥナ』の遺骸がずるりと雑に崩れ落ちる。
「嘘だ・・・・・・アスカも、綾波も、その魂は・・・・・・だって父さんが言ってたんだ・・・『フォルトゥナ』を殺せば、二人は戻ってくるかもしれないって・・・・・・」
そこで初めて『シンジ』は、ゲンドウの言葉を正確に捉えた。
「かもしれない」だったのだ。確証は無かったのだ。ただの、希望的観測にすぎなかったのだ。
それを勝手に、正解であると決めつけていたのは自分の勝手な思い込みで──、
「嘘だ」
「嘘だ嘘だ嘘だ」
「嘘だあああああああああああああッ!!」
『碇シンジ』は自分の頭を握り潰すほどに、両手で頭を掻きむしっていた。
「嘘だぁッ!アスカはッ!綾波はッ!戻ってくるんだッ!戻ってこなきゃダメなんだッ!!絶対に戻ってくるはずで・・・・・・」
そう否定すればするほどに、『シンジ』の中の前提が崩れていく。
「嫌だ!嫌だ嫌だ嫌だ!嫌だ!!なんのために僕はッ!アスカは!綾波はッ!」
残酷な死を、突き付けられたのか。
「嘘だぁぁああああああああああ・・・・・・!」
月面で、『碇シンジ』は泣き喚く。みっともなく、惨めなほどに。
「嫌だ!嫌だ嫌だ嫌だ!二人とも!戻ってきて、お願いだから・・・・・・お願いだからぁ!」
『碇シンジ』の心が壊れる。壊れてしまう。自分の心の依代を失ったように、『碇シンジ』は、エヴァンゲリオンは、月面で悶え苦しむ。
この宇宙まで来て、二人を取り戻すために全てを投げ打つ覚悟で、挑んだ死闘に意味は無くて。
勝利を手にしたと思えば、心の底から、他の何を捨ててでも譲れなかった、最後の最後まで諦められなかった二人の魂は戻らず。
ただの虚飾のために。命懸けで戦った。
『シンジ』の心に残っていた最後の依代は、初めからこの世から消え去ってしまっていて──。
「あ、ああああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああぉああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ・・・」
『シンジ』の心は、痛みに引きちぎられていた。その痛みを負っても尚、『シンジ』の心は収まりを見つけられず、ただ決して癒えることなき痛みを訴え続ける。
そして、「人類補完計画に選ばれた者」として、全ての命の意識が彼に向いていることなど気にも留めることなど出来なくて。
『シンジ』は、思ってしまったのだ。それは本当に一瞬の逡巡の一つであったが、確かに感じてしまったのだ。
《全ては、僕の失敗だ》と。
その想いとともに、『フォルトゥナ』の遺骸から、『シンジ』に向かって伸びてくる二つの『声』があった。
【アタシと一つに】
それは誰よりも愛おしい少女の声であった。
【わたしと一つに】
それは誰よりも親愛を感じる少女の声であった。
二人の魂無き声。しかし今の『碇シンジ』にとっては甘美に過ぎる声。
それに、『フォルトゥナ』の遺骸を通してエヴァ01の体を侵食しながら迫り上がってくる。身体を侵食し、紫色だったその身体を黒く黒く塗り潰していく。
「ああ・・・・・・アスカぁ・・・綾波ぃ・・・・・・」
『フォルトゥナ』の遺骸が、黒い意思となってエヴァ01を包み込む。それは後の世に『アルマロス』と呼ばれる存在にだんだんと近付いていき・・・・・・、
『碇シンジ』にとって、この上なき甘美な声と共に。
『・・・・・・くん!・・・・・・ちゃん!シンちゃん!駄目!持ち堪えて!それはアスカやレイの声ではないわ・・・・・・』
遥か遠くの『テラ』から、自身の信頼する女性の声が聞こえてくる。
だが、
その声に、
応ずる必要があるのか?
「僕は・・・・・・失敗した・・・・・・全て、遅すぎた・・・・・・全部、全部、失敗した・・・・・・」
『碇シンジ』の声が、自分の世界に、認識できる世界の全てに木霊する。
「僕は失敗した・・・・・・【この世界は、失敗した】」
裁定者たる『フォルトゥナ』を抹殺し、その後継者となった『碇シンジ』は、そう、認識してしまった。
『だめ!ダメよシンちゃん!気をしっかり持っててててててててててててててててててててててててててててげかかがががごがごだ』
エヴァを通した通信から、聞いたことのある声が聞こえたような気がする。
でも、もう、どうでもいいんだ。
僕は失敗した。【この世界は失敗した】。
【僕は失敗した。この世界は失敗した。だからこの世界は無かった事にして、『次の世界』でやり直さなきゃ・・・・・・】
この星の、『テラ』と呼ばれた世界において、全ての魂が獣へと化していく。
それは無差別に、無感情に、無感動に。
一切の考慮なくして、全ての命を『獣』へと落とし込んでいく。
魂の継承は必要ない。どのみち、新たに生まれた魂こそが選別の対象なのだから。
古き者は過ち故に。
一切の過ちは過去に押し付けて、捨て去っていく。
『アルマロス』。そう呼称され、それを打ち砕ける存在が生まれるまでは、この無限地獄とも取れる世界を断ち切る
だが、強固に結び付けられた者もある。それは「最初の裁定者」であるところの『碇シンジ』。
その魂の救いは、彼を上回る魂を持った者でなくては齎されないだろう。
それこそが、『エヴァンゲリオン』という福音という名の呪縛に囚われたが故に。
彼の魂の安らぎは、幾万とある並行世界の彼方にしかないのだから。
つづく