借りていた本を返すついでに、と新一君をお茶に誘ったのだが、その電話口からやけに前のめりというか、どうも話したいことがある様子だとは思っていた。彼の一言目を聞いて、そういうことかと納得する。
「聞きましたよ、大岡さんのこと!」
「そうだった。でこ出せ新一君」
個人情報の漏洩という大罪の落とし前をつけた俺は、額をおさえてもだえる新一君に構わずブレンドをふたつ注文した。注文を聞いてくれた時は新一君を心配そうに見ていた榎本さんも、女の子の過去を無断でばらした罰だと言えば「それなら仕方ありませんね!」と笑顔で納得してくれた。知っていたけど彼女もなかなかの性格をしていると思う。
「そのおかげで上手くいってるくせに……!」
「別にそのおかげじゃない。止めなかった俺も反省はしているが、君も少しは反省しろ」
反省の様子のない新一君にため息をついてみせると、新一君は拗ねたように口を尖らせた。成人してしばらく経つ彼だが、それでもたまにこうして子どもらしい顔を見せる。それに少し笑って、手元の水に口をつけた。
「……でも、本当に上手くいってんだ」
「上手く、てのがどういう状況を指すのかわからないけど、親しくはなってると思うよ」
「柊木さんがと思うとすげえ違和感。治ったんですか?」
「いや、彼女だけ」
まずそれが不思議、と言われて、俺も肩をすくめるしかない。
今のところ、彼女とは月に数回会う仲だ。曰くデートというものなのだろうが、いまだにそれがどういうものかよくわかっていない俺なので毎回わりと必死だったりする。一応彼女は笑顔を見せてくれるので、とりあえず大きく間違ったことをしてはいない、はず。
出来るだけメッセージにも返信をするようにして、たまにはと俺から送ってみたりもした。他愛もないようなことだったが、すぐさま返信がきたので多分喜んでくれたらしい。
そんな俺の努力のほどを聞いた新一くんは、何か珍しいものでも見るような顔をした。何となくいたたまれない。
「いや何て言うか……本当に付き合ってんだなって……」
「……言いたいことはわかるから反論しないでおくよ……」
「あ、良かったとは思ってるんですよ? 彼女、ちょっときついところあるけど悪いひとじゃないし、大人っぽいから柊木さんとも話しやすいだろうし」
「お陰様でジェネレーションギャップはさほど感じずに済んでるけど……そうだな、確かにちょっと気が強いところはあるか」
その気の強さが俺に対して発揮されることはほとんどないが、言葉の節々からプライドの高さは感じている。そういえば京都に住んでいた大学時代、公家出身だという後輩もあんな感じだった。ちょっとかなり癖の強いやつではあったが、生粋の京都人のあの婉曲な言葉回しも、慣れてしまえばどうってことはない。
「……柊木さん的にはその気の強さオッケーなんだ?」
「気が弱いよりいいんじゃないか? 少々の嫌味くらい鼻で笑って言い返しそうな感じ、俺は心強いけど」
ええ……と引き気味の新一君。その反応に苦笑して、じゃあ聞くけど、と前置きして続けた。
「ひよわな精神の持ち主に、俺の《恋人》が務まると思う?」
「無理ですね~」
即座に答えてくれたのは、ちょうど珈琲を持ってきてくれた榎本さんだった。すみません口を挟んで、と笑いながらテーブルに珈琲を並べてくれる。
「どう考えてもモテないはずがない柊木さんの恋人なんて、絶対嫉妬の嵐でしょう? ちょっとやそっとのメンタルの持ち主じゃ正直辛いですよ~。あ、もちろん柊木さんなら守ってくれるんでしょうけど」
「まあ万が一そんなことになれば努力はすると思うけど、絶対に守ってみせるなんて無責任なことは言えないな。さすがにそこまで自信家じゃないよ」
嫉妬だの何だのの恐ろしさは骨身にしみてよく知っている。そういうものに振り回されてしまった人たちが、時にとんでもない行動に出てしまうということも。だからこそ、その全てから守るなんてことは口が裂けても言えなかった。その辺のチンピラ捕まえろと言われる方が数十倍マシだし気が楽だ。
空になった盆を胸に抱く榎本さんは、柊木さんらしいですねと笑う。
「それにしても珍しいお話されてるんですね。……ひょっとして柊木さん……?」
「あー……うん、治ったわけじゃないんだけど」
「わあ、おめでとうございます! 良かったですね!」
「お陰様で。ありがと」
お祝いに珈琲のおかわりサービスしますから言ってくださいね、と戻っていく榎本さんの後姿を見て、新一君が聞こえないようにぼそりと呟く。
「……というか、てっきり俺は梓さんとくっつくものと」
「彼女にも紅葉にも失礼だからやめろ」
「……ですね、すみません。けど、本当に良かったと思ってるんですよ」
「うん。ありがとう」
すると新一君はにっと歯を見せて笑って、そういえば、と続ける。
「知ってます? たぶん今、この上にいますよ」
「誰が?」
「大岡さん」
え、とひとつ瞬きをする。この上というと、そこは当然毛利探偵事務所だ。
「一応確認するけど、探偵事務所に何か相談しに行ったわけじゃ……」
「ないですないです、すみません紛らわしい言い方して。蘭と一緒にいるんですよ、最近よく会ってるそうで」
「そうか、それならいい」
万が一トラブルに巻き込まれているのならたぶんすぐに相談してくれるとは思うけれど、もしかしたら俺には言いにくい何かがあったのかもしれない、といろいろと頭をよぎったが、そうじゃないなら良かった。
胸をなでおろした俺を見て、新一君は面白そうに続ける。
「柊木さん、彼女に余計なこと言ったんですって?」
「余計なこと?」
「ええ。大岡さん、それを気にして蘭に相談に来たそうですよ」
余計な、こと。ざっとここ最近の彼女との会話を振り返るが、思い当たることはない。と同時に、神戸さんに言われた「野暮天」というワードが頭の中で鳴り響く。彼女との会話には相当に気を付けているつもりだったが、俺は何かやらかしてしまったのだろうか。俺に他意がなかったとしても、紅葉がどう受け取ったかは別問題だ。
「……正直全く心当たりがないんだけど新一君……」
「でしょうね。柊木さん的には普通のことですし」
「……だったら思い出してもわかるわけないな」
「と、思います。聞きます?」
これも情報漏洩かもしれませんけど、とにんまりと笑う新一君に、ひくりと口角が揺れる。
勝手に聞くのはよくない。よくないが、同じ轍を踏んで紅葉を傷つけるようなこともしたくない。必要ならフォローもしたいし、蒸し返すのがはばかられることなら聞かなかったことにして今後は触れないようにすればいい。
内心でぽんぽんと浮かんでくる言い訳を、俺は大きなため息で押しとどめる。そして覚悟を決めて、言葉を絞り出した。
「……失態を繰り返したくないから教えてくれ……」
「ははは! そんな深刻な顔しなくても大丈夫ですよ」
実は、と続けられた内容は、俺にとってはあまりに意外なことだった。
*
冬は好きだが、寒いのは苦手だ。
暦の上では春になった今日も、まだまだ寒さが和らぐことはない。マフラーに顔をうずめる俺を見て、紅葉はくすくすと上品に笑った。
「ホンマに寒いの苦手なんですね」
「暑い方がいくらか堪えられるよ。紅葉は寒くない?」
「うちは平気です。せやけど風邪でも引きはったら大変ですし、どこか入りましょか?」
「俺は大丈夫。せっかく来たんだから見ていこう」
今日は近くの公園にある梅林を見に来ていた。見ごろを迎えた梅はささやかながらに綺麗に咲いていて、時折ふわりとその香りが鼻腔をくすぐる。寒さのせいか幸いにもひとは少なく、静かな空気が流れていた。
「梅の花なんてちゃんと見たの初めてかも」
「あら。桜の方がお好きですか?」
「んー。どっちがどうっていうより、花を見る習慣がなかったんだよな。風景の一部として流し見してたっていうか。桜なら花見はするけど、まあそれも花より団子だし」
数年前に俺の誕生日に花見をして以降、何となく毎年同期で花見をやるようになっていた。花の盛りや仕事の調整もあるのでいつも誕生日にというわけではないが、せっかくだからと毎回ケーキを用意してくれている。嬉しいは嬉しいのだが、本当にいい加減子供向けのケーキを出してくるのはやめてほしい。
毎年いつも通りな宴会なので、当然のように花よりメシだし酒になる。情緒や風情を重んじるような繊細な感性の人間がいないのだから仕方がない。
「……いつもこういうところ誘ってくれはりますけど、旭さん、うちに合わせんくてもええんですよ?」
「見る習慣がないからって楽しんでないわけじゃないよ」
少し心配そうな顔で言う紅葉に、心からの言葉を返す。
確かに彼女が好みそうな場所を選んで誘ってはいるが、逆に言えば紅葉というきっかけがいてくれなければ来ることもなかった場所ということだ。見たことがないものを見るのも、新しいことを知るのも、俺自身は結構楽しんでいる。相変わらず情緒だ何だがわかるような感性は身についていないが、それでも未知を喜ぶ好奇心くらいは持ちあわせていた。
「紅葉に会わなきゃこういうのに触れる機会もなかったんだろうし。お、メジロ」
花の後ろに隠れるメジロにつられて首を傾けると、隣からふふ、と控えめな笑い声が聞こえた。目線だけ向けると、ゆるく細められた目元が見える。
「旭さんてホンマ……旭さんですねぇ」
「……褒めてる?」
「もちろんです。ああ旭さん、向こうの紅梅も綺麗ですよ」
楽しそうに俺の腕を引く紅葉に逆らうことなく脚を動かす。白もええけど紅も華やかでええですね、と笑う彼女に、俺も小さく笑った。
「恥ずかしい話、俺、紅梅と桃の花の区別が付かないんだけど」
「嫌やわ旭さん、まず花の時期がちゃいます。桃の節句は三月でしょう?」
「あ、確かに」
花の形も見比べたら全然違うんです、と言われたのでスマホで画像を探すと、なるほど確かに花びらの形も花の付き方も違う。へえ、と素直に感心すると、楽しそうに紅葉は笑った。
「これでもう見分けがつきますね?」
「うん、勉強になった。時期になったら桃の花も見に行こうか」
「ええですね。是非」
桃の花が見られる場所と盛りの時期も調べておこう、と頭の中でメモをする。同時に、俺が花の見ごろなんてものを意識するようになるなんて、となんだかおかしくなった。日常生活と警察官の職務に必要ないことは切り捨てて生きてきたのに。
ひととの繋がりが増えれば、その影響を受けて変化が生じるのは当たり前のことだ。当たり前のことなのだが、それが紅葉からの影響だと思うとなんだかくすぐったい。
「? 旭さん?」
「ん、何?」
「いえ、ぼうっとしてはったみたいやから」
お疲れですか、と聞かれてゆるゆると首を振る。紅葉のことを考えてた、なんてまるで恋愛小説でもありそうな表現だ。本当に、らしくなさすぎる。
ちょうど言わなければいけないことがあったのを思い出して、ついでとばかりに口を開いた。
「そういえば、紅葉」
「何でしょう」
「別に俺は料理出来なくてもいいと思うよ?」
それを聞いた紅葉は一瞬硬直して、みるみるうちに真っ赤になる。紅葉の後ろに見える紅梅と同じ色をしていて、思わず小さく吹き出した。
「だ、誰がそれを……また工藤君ですね! もう、ホンマに余計なことを……!」
「確かに新一君からだけど、今回は俺が聞き出したからお叱りは俺が受けるよ。俺が言ったことを紅葉が気にしてるって聞いたから、つい。うん、勝手に聞いて悪かった」
どんな話の流れだったか、俺が一通りの家庭料理くらいは作れるということを話したことがあった。俺からすれば必要に駆られて覚えただけのことなのだが、紅葉にはそれが衝撃的だったらしい。お嬢様育ちでほとんど料理をしたことがないことを気に病み、毛利さんに頼み込んで料理を教わっているのだとか。順調かどうかなのかまでは聞いていないが、かなり熱心な様子だということは聞いている。
「知ってると思うけど、俺はずっと父親しかいなかったから家事をやらざるを得なかっただけ。だから俺に合わせて頑張る必要はないよ? やりたくてやってるなら口出しはしないけど」
俺の家庭環境については多分見合いのときに一通り聞いているはずだ。料理をする必要があった俺ができるのは当たり前で、必要がなかった紅葉ができないのは何もおかしいことではない。もちろん女性だからどうこうなんて、今の時代にあわない概念を持ち出すつもりもなかった。やりたいならやればいいが、やりたくなければやらなければいいのだ。
恥ずかしいのか、赤い顔のまま俯いてしまった紅葉。数秒黙って、か細い声が聞こえてきた。
「料理を習い始めたのは、確かに旭さんがお料理しはるって伺ったのがきっかけです、けど……旭さんに美味しいって言うてもらうものを作るって、うちが決めたんです」
そしてばっと顔を上げて、赤い顔のまま言う。
「せやから、うち、頑張ります」
俺のために頑張るというなら止めようと思っていた。けれど、彼女は自分の立てた目標のために頑張るという。だったら、俺があれこれと口を出す理由はない。
紅葉のこういうところは、素直に好ましい。
「そっか。じゃあ楽しみにしてる」
「はい!」
ちなみに好き嫌いはありますか、と聞かれて特にないよ、と答える。が、ふと思い出して付け加えた。
「嫌いなわけじゃないけど……」
「何です?」
「バレンタイン時期限定で、チョコレートはトラウマ級に苦手」
来月に迫った一年で一番嫌いな日を思うと、いつも気が重い。口に出すのも憚られる贈り物をもらった経験から、二月だけはチョコレートの香りに吐き気を覚えるし、バレンタイン当日は何としても有休をもぎ取っている。
けれどもしかしたら、と思う。もしかしたら、彼女ならそれを変えてくれるかも、と。
「……だから紅葉、俺のトラウマ払拭に協力してくれない?」
そう言うと紅葉は少し目を見開いて、きゅっと唇を結んだ。
俺が女性を苦手なことは伝えてある。察しのいい彼女なら、何となく事情は理解してくれるだろう。さすがに俺の酷すぎる女運についての詳細を話したくはない。
強い光が、彼女の目に宿る。そんなに意気込まなくてもいいと思う反面、何となく嬉しい感情を抱いていることに気付く。どうやら俺は、彼女のそういうところが嫌いではないらしい。
「絶対、美味しいチョコレートお渡ししてみせます! もうバレンタインのチョコレートが苦手やなんて言わせませんから!」
「期待してるよ」
ひとの手作りのものを楽しみにするなんて、どれだけぶりだろうか。
決意に燃える彼女を微笑ましく思いながら、馨しい香りを振りまく紅梅を見上げる。きっと来年からは、梅の花を見かけるたびに彼女のことが頭に浮かぶんだろうなと、そんなことを考えた自分に、笑った。