しゅる、と袖を通した腕に走る肌触りの違いが面白い。やっぱり結構違うもんだな、と思いながら大きな姿見の前でそれを羽織った。
どう、と尋ねようと後ろを振り向けば、尋ねる必要もないほどに彼女の瞳は輝いていた。
「ようお似合いです、旭さん……!」
「そう?」
初夏というには少し早い、しかし早くもその足音が聞こえていている今日、紅葉が贔屓にしているという呉服屋に来ていた。正しく言うと贔屓にしているのは京都にある本店だそうだが、この支店の揃えもなかなかのものらしい。
ゆくゆくは本店を継ぐ予定だというこの店の主人もまた、紅葉に負けず劣らず目を輝かせて次々と浴衣や反物を取り出していく。
「いやあ無地や古典柄はもちろん一癖あるモダンな柄まで、ホンマに何でも着こなしはりますね。僕もおすすめのしがいがあります」
「どうも。こういうのって男物でもいろんな柄があるんですね、ちょっと意外」
「はは、実際、男物は昔よりだいぶ種類も減りましたし、柄も地味なものばかりになってるんですけどね」
「そうなんですか」
そりゃあ日常的に着物を着るひとが減れば廃れていくものもあるということだろう。
最近はたまに街中でも和服を身につけているひとを見かけることがあるが、それも男性よりも女性が多いような気がするし、鮮やかな和服を身につけた男性の姿は見た覚えがない。
確かに俺もシンプルなほうが落ち着くな、と内心だけで呟いて服の上から羽織っていた黒地に縞の入った浴衣を見下ろした。
「この市松模様もいかがでしょう。こちらの無地なんかも、無地だからこそ生地の良さが映える逸品でして」
「あら、その奥のしじら織りの反物も見せて頂けます?」
「ああなるほど、さすが大岡さま、良いお見立てです」
わいわいと俺を着せ替え人形にするふたりは何とも楽しそうで結構なのだが、ぽつぽつと「どうしよう違いがわからん」と思うものが積み上がっていく。かろうじて耳が捉えた柄の名称と思しきものを記憶していくが、奥の深い世界だなぁと遠い目をするしかない。
こちらとこちらではどちらがお好みですかって、その手の質問が大の苦手なので正直聞かないで欲しい。とはさすがに口にできないので、とりあえず紅葉の歓声が大きかった方を指さした。ひとりで来なくて良かった、いや本当に。
着せ替えが十と少しになったころ、ようやく店主が「はしゃぎすぎました」と恥ずかしそうに笑って奥に引っ込んだ。呉服店というのはお茶の用意までしてくれるらしい。
「うちの感覚では飲み物出すくらいは普通ですねえ」
「へえ、おもてなし文化ってやつか」
まあ着物も安くはないしな、と思いつつぼんやりと綺麗に並べられた浴衣や反物を眺めていく。
ようやく目が慣れてきたのか何となくの違いはわかるようになってきたが、どれが好きとか似合っていたかと言われてもまったくピンと来ないのが我ながらさすがに情けない。審美眼とかどうやったら身につくのだろう。
それにしても、と紅葉はそんな俺の隣にそっと並んだ。
「うちは構いませんけど、浴衣を選びたいやなんて何や御用事でもできはったんですか?」
「ん? 用事というか……」
その言葉に思い出される、少し前にふたりで街角を歩いたときのこと。
滅多にほかに意識を逸らすことのない紅葉が、ふと目をやった先にあったもの。
自分の意見をちゃんと言ってくれるようで意外とわがままを言ってくれない紅葉だから、俺が気付けたことくらいはできるだけ叶えてあげられればと、そう思って。
「やりたかったんじゃないの、
そのときすれ違ったふたりは浴衣でなく、もう少し日常使いするものを現代風にアレンジしているようだった。さすがにほとんど和服を着た覚えのない俺ではそこまでのことはできないが、比較的ハードルの低い浴衣なら俺でも何とかできるのでは、と。
前に見てただろ、と紅葉を見れば、思い出したのかじわじわと紅葉の頬が色づいていく。
「あ、旭さん、まさかそれで……?」
「俺はさすがにそんなに難しいことはできないけど、夏までには自力で着れるようにしとくから。夏祭り──は、死ぬほど混むから避けたいけど、花火がよく見える店とか探して──まあ何もない日に着てもいいか。浴衣って立ち位置としてはカジュアルな普段着なんだろ?」
確かどこかで読んだ限りではそうだったはず。その辺りの着物のマナーも目を通しておいた方がいいな、と脳内のメモ帳に書き添えた。
季節外れの紅葉色に染まった頬に手を添えた彼女は、でも、と恥ずかしそうに言いよどんだ。
「……め、目立つかもしれませんよ? 旭さん、そういうのお嫌いでしょう?」
「言ってなんだけど、紅葉と俺が並んで歩いてる時点でだいたいいつも視線はうるさいよ。今さらだって」
ひとりで歩くときもまあそうだが、紅葉と一緒だとさらに目立っていることは自覚している。紅葉だって十分に人目を引く外見をしているのだから、それはもう仕方がない。
普通にしていても目立つのだから、そんなことは考えるだけ損だ。
「紅葉はそういうの言わないし、俺から言っても遠慮しそうだし、それなら後から言えばいいかなって。違った?」
「……違いません……」
「なら良かった。俺こういうのよくわかんないから、紅葉の好みで選んでくれると助かるんだけど。紅葉の隣に立つためのものだし」
「、ホンマに旭さんは、もう……!」
紅に色を染めた紅葉にくすりと笑い、ほら選んでと促せば、細い指がそろそろと指し示したのは光の加減によっては紺とも黒とも言える、しかし涼やかな生地の反物。無地に見えるが織りのせいか柔らかなグラデーションになっているようにも見えた。
仕立てからになってしまいますけど、と遠慮がちに言う声に軽く手を振り、じゃあこれにしようとそれを手に取った。
「似合うかな」
「旭さんは何着たって素敵です。……けど、それをあわせてはったときが一番素敵でした」
「ありがとう。あと何いるんだっけ」
「そうですね、帯と、……旭さん」
「ん?」
「帯、うちに贈らせていただけませんか」
え、と思いもしない言葉に瞬きをしたが、いやそれは、と俺が言い返すよりも先にずいっとまだ少し頬を染めた紅葉が前に出る。
「先月の、旭さんのお誕生日のぶんです」
「誕生日? ちゃんとプレゼントとして接待にも使えるお店紹介してくれただろ」
「旭さんが『ものはいい』って頑なに仰るからやないですか。そのお店でお食事頂いたときも、結局旭さんがご馳走してくださって」
「いや、一回り年下の学生さんにお金を出させるのはちょっと」
「ええ、ですからうちも引き下がりましたけど……うち、少し前からアルバイトをしてるんです。大学で、少しずつですけど」
帯くらいは買えるお給料を頂いたんですよ、と言う紅葉の顔には「絶対に譲りません」としっかり書かれていた。
初めて自分で稼いだ金くらい自分の好きなように使えばいいと思うけれど、そう口にすればきっと「『好きなように』なら旭さんに使わせてください」とか言い返してくるのだろう。基本的には俺を立ててくれる紅葉がこうも頑なになることは滅多になかった。
俺のプライドと紅葉の願いを両の皿にのせた天秤がぐらぐらと揺れる。
「……。……帯だけだからな」
とはいえ、ここまで言われて自分のプライドを優先できるほど自分本位にはなれず。数秒の葛藤の末にそう絞り出せば、ぱあっと薄紅の花が咲いた。
帯もきっと一番似合うの選んでみせますから、と張り切る紅葉をよそに、少し前から空気を読んでいた背後の彼に声を掛ける。
「……笑うんなら素直に笑ってくれませんかね」
「おや、お気づきでしたか。申し訳ありません、微笑ましくて」
湯飲みののった盆をもった彼は、浴衣はもうお決まりですねと俺の手にある反物を見る。
「そちら、ようお似合いでしたよ。お仕立ても夏には間に合わせますので」
「どうも。……彼女が帯以外に何か俺のもの買おうとしたら止めてもらえます?」
「はは、お約束はできかねますが、それとなくお止めしましょう」
大事にしてはるんですね、とそんな生温い視線を送りながら言われると何となくむず痒い気分に駆られる。大事にしようと努力しているのは事実なのだが、他人から言われると妙な感情が沸き起こるから不思議なものだ。
差し出された盆から湯飲みをとり、誤魔化すように口を付ける。
紅葉に同じ気持ちを返せるかはわからない。だけど無碍にはしたくないと思う。自分なりに誠実に、できるだけ笑顔でいてくれるように。
完全に手探りの状態だが、端から見ても紅葉が幸せそうに見えるのならとりあえずはそれでいい。
ちょうどよく冷めていたお茶を一気に飲み干し、湯飲みをお盆に返した。
「……着方は勉強しますが、着崩れしにくいコツとかあったら教えて頂けますか」
「もちろん、私どもに万事お任せください」
どうか素敵な夏の思い出になりますように。
そう微笑んでくれた彼に、俺もぎこちなく笑顔を返した。
まじ牛歩。