ずっと「今のまま」など有り得ないのはわかっていた。
そもそも見合いから始まった関係である以上、終点は「結婚」でなければならないしそこに到達できないなら本来はさっさと離れるべきだ。
紅葉の希望でその辺りを曖昧にしたまま何となく「恋人」のような関係が続いているが、彼女がそれを望まなくなれば即座に破綻する。紅葉が首を横に振るだけで、この心地よさは終わってしまうのだ。
ころころと心変わりするような女性じゃないのは知っているが、何せ紅葉は俺よりも一回り年下。これからいくらでも出会いは転がっている。条件や能力で俺を上回る野郎がそういなくとも、ひとの気持ちなんて些細なきっかけで転んでしまうもの。紅葉の気持ちが別の誰かに向き、別れを告げられる可能性は常に存在する。
目の前の大きなスクリーンには、婚約していた女性に手を伸ばす男の姿がアップで映し出されている。自分のどこがダメだったんだとわめき立てる姿は哀れで滑稽だが、これが他人事でないのだと思うとどこかぞっとするものがある。
男の手を振り払った女性は静かに首を振った。どこがダメだという話ではない、と。
『だって貴方は、私を愛してはいないでしょう?』
彼女はもう振り返らない。呆然と立ち尽くす男に一瞥もくれてやることはなく、ただ一途に自分を愛してくれるひとの元へ。
ありがちと言えばありがちの、しかし確実に俺の心を抉りにくる古典的な
そっと隣に座る彼女に視線をやれば、すでにハンカチで目元を押さえている。感受性豊かな彼女らしい反応だが、この場面で涙している時点で彼女がどれだけ「愛」に比重を置いているかは察せられる。
視線をスクリーンに戻し、ため息が漏れ出そうになるのをぐっと飲み込んだ。映画を楽しんでいる彼女に余計な気をつかわせてはならない。
真実の愛を得たとばかりに抱き合うふたりが、画面の中で白く輝いている。
それ、そんなに良いものなのか──などと思ってしまうのは、まあ、過去の経験から仕方ないと言わせてほしいのだが、今回は妙に嫌な苦みを含んでいるような気がしてならない。気のせいだと思いたかったが、事実は認めるべきだ。
俺が、──この俺が、ひとを愛せることを羨ましい、なんて。
そう脳内で言葉になった刹那、薄れていたはずの記憶が蘇る。攫われたことよりも閉じ込められたことよりも、あの眼がただただ怖かった。じとりとした湿気を含んだ、絡みつくような昏い視線。どうしても、あの視線から逃れられない。
震えだした手を握りしめ、せり上がってきた吐き気を飲み込む。暴れ出した心臓を深呼吸で押さえ込み、必死で平静を保った。
ここ十年くらいなかったとはいえ、この程度のフラッシュバックには慣れている。とはいえ、さすがにスクリーンからは視線を外して目を伏せた。この状態で感動のハッピーエンドを目の当たりにするのはさすがに辛いものがある。
無遠慮に耳に飛び込んでくる
やっぱり俺にそれができるとは思えない。厭う気持ちもまだある。
でも、いつまでも心地の良い好意に甘えていることはできない。──どこかで俺なりの結論を出さなくては。
瞼の裏に光が滲む。いつのまにかエンドロールは終わっていた。涙を拭った紅葉が丁寧にハンカチを畳んでバッグにしまっている。
泣いてしまいました、と少し恥ずかしそうに頬を染める彼女に何とか笑顔を返した。
「素敵なお話でしたね」
「……そうだね」
「あら。さては旭さん、寝てはりました?」
「ちゃんと起きてたし観てたよ。紅葉がハンカチ取り出したタイミングも覚えてる」
「そこは覚えてなくてええんです!」
ぷくりと膨れた彼女にごめんごめんと笑いながら、並んで劇場の外に足を向ける。
俺よりいくらか低い位置にある彼女と視線を合わせるのも、今となっては慣れたものだった。慣れるほどに隣を歩いていたのだと、今だから理解できる。
ぐるぐると巡る思考が気持ち悪い。どうしたらいいのかわからない現状が途方もなく苦しかった。どれだけ考えたって、俺は俺にできることをするしかないのに。
俺ってひょっとしてめちゃくちゃ不誠実なクソ野郎なのではと自問自答を繰り返しながら、とにかく考えることはただひとつ。
――ただ、今だけでも紅葉が俺の隣で笑っていてくれるように。
そう心を決めた直後のことだった。
*
油断していたのかと言われれば否定はできない。
今日訪れていたのは近隣でも比較的小さな映画館で、放映されていたのも古典作品のリバイバル。早い時間ならひとも少ないだろうと時間帯も選んだが、どんな場所だろうと紅葉をひとりにするべきではなかったのだ。
トイレから出て彼女を待たせていた方向に目をやると、そこにいたのは紅葉と、ひどく険しい顔で何か喚いている様子の女性の姿。
そのひとの名前は知らないが、少し前に庁内で挨拶をされた覚えがある。断片的に「家の力」だの「迷惑」だの「柊木さん」だのの言葉は聞き取れた。それだけでかつての記憶が蘇る。
『柊木くんは迷惑してる』──俺がいつそんなことを言った?
『優しいから我慢してるだけ』──いったいお前が俺の何を知ってる?
『もう柊木くんに近寄らないで』──どの立場でものを言ってるんだ?
そもそも俺に親しい女子などいなかったのに、俺がほんの一言挨拶を返しただけで「標的」は生まれる。俺の近くにいる「女性」は、否応なしにトラブルに巻き込まれる。
まして、紅葉という存在がいることは知れ渡ってしまったのだ。せめて俺と一緒にいるときだけでも絶対にひとりにすべきじゃなかった。目を離すべきじゃなかった。
焦りでもつれそうになる足を動かす。紅葉、と俺の口が動こうとしたとき、それを押しとどめたのは紅葉本人だった。
「──あら。もしかして今の、うちに仰ってました?」
あまりに穏やかで、あまりに柔らかな声。
え、とつい足が止まる。
「えらい賑やかな方がいてはるなァとは思てましたけど」
聞き流してましたと口元を隠して微笑む紅葉は、どこまでもいつも通り──いや、わずかに眼光が鋭い。俺には決して見せることのない表情だ。
何ですってと鼻息荒く言葉を返されても、大和撫子は揺らがない。
「せやけど、たぶん人違いやと思いますよ。うち、貴方の仰る『柊木さん』にちぃとも心当たりありませんし」
紅葉の声はどこまでも静かだ。言葉遣いが荒いわけでもない。むしろ聞き分けのない子どもに言い聞かせるようなそれ。
ただし、何故だか妙に気圧されるものがあった。他の発言は許されず、紅葉の言葉を聞かされる。紅葉の眼前の女性が反射的に後ずさるのが見えた。
そんな彼女を見据えたまま、紅葉の唇がゆっくりと動く。
「うちの知る柊木旭さんは権力で言うこと聞かされるような方やありません。うちの家の力を使うことはあっても当てにすることは矜持が許さへんでしょうし、まして屈したり尻尾を振ったりするやなんて」
そないワンちゃんみたいに
「うちの人と同じ名前やなんてえらい偶然。『
そこで少し言葉を切った紅葉は、改めて目を細め、少し首をかしげてみせる。
「──貴方も、ワンちゃんみたいに吠えるんがお得意みたいですし」
刹那、時が止まる。ああこれダメだ。一気に脳細胞が正常に動き始めた。浮きかけた状態で止まっていた右足を前に踏み出し、一直線に紅葉に向かう。
こういう状況でどうすべきなのか、正解はわからなくても経験から決めていることはある。「俺のため」なんて思い上がりが過ぎる理由でひとを傷つけようとするやつに、俺は何ひとつとしてくれてやらないということだ。
あら旭さん、と何でもないように瞬きする紅葉に苦笑し、その手を取った。
「え、……ひ、いらぎさ、」
「行くよ、紅葉」
そのまま俺よりずっと小さな手を握り、振り返ることなく足を進める。
名前も知らない「誰か」に目をやることも、声を掛けることも俺はしない。
俺には理解できない感情だが、どうやらそういう連中はそんなものでも受け取れば喜んでしまうらしい。今回と同じような、思い出したくもない「誰か」からそう学んだ。
だから、俺は何も与えない。視線も、声も、感情も、思考も。俺のどんな小さなひとかけらさえも渡してやらない。その全ては、俺と俺の大事なひとたちのためにある。
背中に突き刺さる視線の一切を無視し、俺は紅葉を連れてその場を離れた。
*
一直線に駐車場に向かい、自分の車に乗り込んだ。
隣に紅葉が乗り込んだのを確認し、ふっと息をつく。ハンドルを両手で握り、身体をかがめて額を押しつけた。
ずっと堪えていたものがとうとう溢れ出す。
「……ふ、……ふ、はは、」
「……旭さん?」
「ま、まさかの犬扱いって、あ、はは、腹いてぇ……!」
その場で噴き出さなかった俺は偉い。揺れる肩と腹筋を必死で押さえるが、込み上げる笑いはなかなか収まってくれそうにない。
「も、もう、旭さん、何を笑てるんですか!」
「い、や、笑うって、あんな……!」
萎縮するでも涙するでも、正面から怒りを見せるでもなく、堂々と笑顔で煽り返すとは。紅葉らしいと言えば紅葉らしいが、まさか本当に。
何をするかわからない相手を刺激するなと言うべきところだが、それよりも今は愉快が勝った。笑い過ぎて涙まで滲んでくる。
ハンドルに顔を寄せたまま、顔を助手席のほうに向けた。
頬を染め、唇を尖らせる紅葉の様子に、先ほどまでの鋭さは見る陰もない。どちらかというと幼くすら見えるその表情に、思わずまた小さく噴き出した。
「もう、……もう! 旭さん!」
「ご、めん、て、……はー……」
何とか息を整え、ほとんど無意識で左手を伸ばす。
指先に柔らかい髪が触れた。さらりとした感触が心地良い。
ぴくりと震えた紅葉の頬がさらに紅に染まる。かするように頬に触れた指先から、その熱がじわりと伝わったような気がした。
「……紅葉」
「は、……はい」
「怖くなかった?」
「怖く……いいえ?」
「少しも?」
「はい」
いっそ不思議そうに言う紅葉に苦笑が漏れる。
少し恥ずかしそうに俺の手に触れた彼女は、頬を染めたまま続けた。
「旭さんがいてくれはりますから。うちはなぁんも怖くなんかありません」
守ってくださるでしょう、と。
その言葉は俺にとってひどく重い。しかし、不思議と重いだけのものでは決してなかった。笑いで涙が滲んだ眼の奥が、さらにじんわりと熱を帯びる。
「……少しは怖がって逃げてくれって、本来なら俺は言わなきゃいけないんだけど」
「……言わないんです?」
「……言えねーよ」
怖くない、と。
俺がいるなら傷つくことなどない、と。
その言葉を、嬉しいなどと思ってしまっている時点で。
俺の指が、滑らかな頬を滑る。
「……強いなぁ」
俺の「結論」が定まったのは、このときだったように思う。
次の話で一区切りとしますが、せっかくなので完結話は紅葉のころに。
7/30の裏家業でこれを書籍化しますので、完結話を早く読みたい&エピローグとおまけを読みたい方はそちらをお手にとって頂ければ。
本にするときはタイトルを改めます。
「ある奇跡の話」改め「そして若葉は色を知る」
よろしくお願いします。