自分の中に生まれた「結論」を言葉に直すことにはなかなかに苦戦を強いられた。
筋の通った理屈ならともかく、自分の感情を相手に誤解なく伝えるというのはやはり難しい。言葉を選べば選ぶほどただの美辞麗句に成り下がり、かと言って思ったままに単語を繋げばまるで小学生の作文。俺はこんなに語彙がなかっただろうかと真面目に頭を抱えた。
さすがにこのままでは紅葉に何も伝えられないと唯一の既婚者をとっ捕まえて事情を説明すれば、笑うべきか泣くべきかわからないという顔で肩を叩かれた。
『悪いことは言わねえ、小学生の作文以上を目指すなお前は』
お前に「美辞麗句」はあまりにも無理って、さすがにそれは辛辣では。しかし「下手に飾った言葉使っても誤解しか生まねえよ」の一言には確かにというほかなく。
まあ心配すんな、と楊枝をくわえた横顔は妙に自信のある様子だった。
『今さらお前の馬鹿正直に引くような相手じゃねえんだろ?』
何となく言いくるめられた感が強かったが、なら直球で行くと頷いたのが先週のこと。
ようやくしぶとかった残暑が過ぎ去った今日、俺は紅葉と木々が冬支度を始めたというさまを見物に来ていた。
名所というにはあまり知られていない場所らしく、紅に染まる視界のなかには紅葉しかいない。好きなものに囲まれ上機嫌な紅葉の足取りは、いつもより軽やかだった。
「ホンマ、一番ええときに来ましたね」
「みたいだな」
少し視線を浮かせれば紅の合間から青空が覗き、どこからか鳥の声が響く。足下からはさく、さく、と落ち葉の砕ける感触が靴底を通して伝わってきた。
何度も重ねてきた秋という季節だが、今日はやけにそれが鮮やかに感じられる。
五感のすべてが妙に鋭敏で、俺の感性が少しは育ったのか、それとも単に緊張しているのか。せめて一割くらいは前者が理由だと思いたい。
「……もう秋なんだな」
ゆらりと視界に散る紅の葉が、記憶の中で紅葉の着物を彩っていたものと重なる。
誰に言ったつもりもない言葉だったが、紅葉はそんな俺に微笑み、踊るような足取りで数歩前に出た。
舗装された街道が、紅葉の少し高いヒールを受けてこつりと音を立てる。
「……せっかくのデートで上の空なやんて、ホンマいけずなひと」
う、と肩を揺らすと、少し困った様子の紅葉がゆるりと首を傾けた。
「うちかて鈍感やありません。旭さんが考えてはるそれは、ひょっとして旭さんとうちに関わることやろか」
「……ほんっとに俺は……」
仕事中ならいくらでも取り繕えるというのに、プライベートだと気が抜けていけない。紅葉に気をつかわせてしまったことへの反省は後でするとして、促されてしまった以上はここで話を切り出すべきだろう。
小さく息を吐いて正面を見据える。俺の前に立つ紅葉の顔にも、わずかに緊張した色が見えた。
「──紅葉との関係は見合いから始まったものだ。だから、この関係性の延長線上には結婚がある。紅葉が学生のあいだは急かされることはないだろうけど、卒業後もずっとこのままってことはきっとない。どこかでせめて婚約か、別れるかの選択をしなきゃいけなくなると思う」
実際、これについては先生にも確認した。まだ腹を決めてなかったのかと呆れつつ、そうさなァと先生は面白そうに肩を揺らしていた。
この曖昧な関係も、猶予はせいぜい紅葉の卒業から一、二年後まで。
『紅葉ちゃんの強い希望もあるし、それくらいは待ってくれるだろうよ。向こうも旭くんなら可愛い孫娘を託せるって乗り気みてェでな、俺も鼻が高いってもんだ』
あとはお前さんの心ひとつだとどこか鋭さを含んだ視線を向けられたが、それはもう正しくない、とは言わなかった。
「正直、婚姻届に名前を書くという意味での『結婚』なら俺は普通にできる。だけど、紅葉が望む『結婚』はそれじゃないだろ」
紅葉が俺に向ける感情がそう表現して正しいものなのかはわからないが、少なくとも俺が紅葉に向けるものはそれじゃない。そうだとは思えない。
「詳細は言いたくないけど、……昔いろいろありすぎたから、俺は誰に対しても恋愛感情をもったことはないし、これからもその可能性はかなり低いと思う。……恋愛に、恐怖心や嫌悪感すらあると言ってもいい」
女性苦手は努力の甲斐あってだいぶマシになったし、何故だか紅葉のことは最初からずっと平気だった。しかし、俺が抱えてしまっているものはそれだけじゃないと最近になって気付かされた。
思いだしてしまう。もう見られていないとわかっているのに吐き気が蘇る。
暗闇の中のあの視線。あの眼。皮膚を突き破って内臓に届くような、細胞のひとつひとつをなぞられているようなあの感覚。
あのとき俺に向けられた「感情」が、ただただおぞましい。
「俺は、──」
あんなモノを、俺は抱きたくない。
あんなモノを、誰にも向けたくはない。
まして、それを紅葉にだなんて。
「──紅葉が望む『結婚』を、叶えてやれない」
彼女に笑顔でいてほしいと思うのに、どう考えても俺では望み薄だ。だったら、紅葉の願いをすべて叶えてくれるようなやつを選んだ方がいい。紅葉ならきっと、これからどれだけでも相応しい出会いがあるだろう。
そのうえで、俺が出した結論。紅葉に伝えなければならないと思ったこと。
紅葉はじっと俺を見つめたまま。ただ、その瞳はわずかに揺らいで見えた。口元に徐々に力が入っていくのがわかる。
すっと息を吸った。ふっと小さく吐き出した。指先が震えているような気がする。あまりに情けなくて、震えごと両手を握りしめた。
「
紅葉の目が見開かれた。え、とその唇が動くのに構わず言葉を続ける。
「普通なら紅葉のこと考えて身を引くとかそういうの言うべきなのかもしれねーけど、俺はそういうのただの自己満足としか思えねーし。俺が思ってること全部伝えたうえで紅葉に選んでもらうのが筋だと思った。だから、ちゃんと伝えようと思って、」
だんだんと早口になっている自覚はある。年下の女の子の前で子どもの駄々のような本音を晒しているのが何とも恥ずかしく、じわじわと顔に熱が上がっていく。
「恋愛感情以外のことはなるべく紅葉の希望に添うし、少なくとも浮気とかそういう類いは一生しない。できないし、しようとも思わない。地位とか財力については……今で不足なら今後に期待してもらうしかないけど、それなりに出世する自信もある。その他なにか要望があるなら前向きに検討のうえ努力する。ある程度は何とかしてみせるから」
だから、それでも紅葉には俺を選んで欲しい。
俺が大岡紅葉という女性を選んだように、紅葉にも柊木旭という男を選んで欲しい。
「……俺で妥協してくれって言い方になるのがすげえ情けないけど、今はそういう言い方しかできない」
でも、でも、と俺のなかでガキのわがままが降り積もる。
だって、それでもと思ってしまったから。そう思ったのは初めてだったから。
あまりの自分勝手な言い分に、つい視線が下りていく。
「……お、れは、」
恋愛なんておぞましくて気持ち悪くて恐ろしい。できる気がしないししたくもない。できれば触れることもないまま一生を過ごしたかった。
その気持ちは一向に変わる気配を見せないのに、今は相反する感情もこの胸にある。
「もしいつか、恋をできるなら──紅葉がいいんだ」
きっと、紅葉しか有り得ない。
そう言い切る前に、両頬を柔らかい手に挟まれる。いつのまにか目の前に紅葉の顔があった。
「大事なことは目ェ見て言うもんです。違いますか?」
「……違わない」
「でしょう」
緩く下がった瞳は涙で潤んでいるようで、しかしこぼれ落ちる様子はない。どころかむしろ、決意のほどで燃えているような。
紅葉、と言おうとした俺の口を、紅葉の不敵な笑みが押しとどめる。
「旭さんが仰りたいことはようわかりました。せやから今度はうちの番です」
紅葉はまっすぐに俺を見据えたまま。
俺のほうが戸惑ってしまいそうな気迫に、クイーンの風格を見たような気がした。
「うちは、絶対に妥協なんてしません」
愛し、愛される人生を諦めるつもりはない、と紅葉は強く言い切った。
そりゃそうかと俺としては苦笑するしかない。「狙った札は必ず手に入れる」が信条の彼女に、妥協なんて言葉が似合わないのはわかっていた。
そう、とまた下がろうとした目線を紅葉の手のひらが押しとどめる。
「だから、何としても旭さんにはうちのこと好きになってもらいます」
「…………ん?」
何か噛み合ってない言葉に瞬きをすれば、ふふふ、と紅葉は勝ち気に笑う。
「旭さんかて絶対に恋ができひんとは言い切れへんから『可能性』って仰ったんでしょう?
覚悟してください、と言ったその声はまるで炎のようだった。
「もううちは、狙った
すとん、と何かが腑に落ちた。
今日、この話をしたら紅葉はどんな顔をするだろうとずっと考えていた。ひょっとしたら別れを告げられてしまうかも、そうなったらそれはそれで仕方ない、と紅葉の選択を尊重するつもりだった。
だというのにまさか、宣戦布告をされてしまうとは。まだまだ俺は彼女という人間をわかっていなかったと思う反面、それでこそ紅葉だと思う俺もいる。
つい、ふはっと笑いが零れた。
「あ、笑いましたね旭さん。余裕でいられるのも今のうちなんですから」
「はは、ごめんごめん、そういうのじゃないよ」
ただ、やはり紅葉は強いな、と。
頼もしくて、心強くて、だけどその強さに縋るなんて格好悪いことはしたくないという意地が、俺を奮い立たせる。
下を向くなと頬に触れる手の体温が心地良い。
「……俺の決意表明のつもりだったんだけどな」
「もちろん、そっちもしかと受け取りました。旭さんもちゃんとうちだけを見とってくださいね。余所見は許しませんよ?」
「だから浮気とかそもそも無理なんだって……ああ、紅葉は余所見してもいいよ。ちゃんと婚約するまでの間なら紅葉の自由だ」
何を、とつり上がった眉に笑い、ずいっと顔を寄せた。
驚いた表情の頬がぽっと紅に染まる。
「このさき紅葉のことを心底好きだって野郎が現れたとしても、そいつより俺のほうがずっといい男だって言わせてみせる。それが俺の『決意』だよ」
そのための努力を惜しむつもりはない。何でも器用にこなすとは言いがたい俺でも、「努力をすること」自体は得意分野だ。何より、「大切」な存在が身近にいてくれることが当たり前ではないのはよく知っているから。
「……俺にできることは全部するよ」
ずっと両頬に添えられていた手に手を重ね、そっと外して左手を繋ぐ。足を進め、緩やかにその手を引いた。
「まずはデートの続きだな。この先にお茶屋さんがあるらしいからそこまで歩こう」
「……ホンマ、旭さんてそれが素やからびっくりです……」
「? 何が?」
「何でもありません」
ゆっくり行きましょう、と握り返される手が嬉しい。それからまた、とりとめのない会話をしながら紅のトンネルを歩いていく。
紅葉狩りなんて、わざわざ外出して色が変わっただけの木々を見つめるだけの行為だ。以前の俺なら「それ何のためにするの?」とか平気で口にしただろうが(今もちょっと思っていなくはない)、今日は無駄だとは思えなかった。
葉の一枚ごとに異なる色合いに、その隙間からそそがれる日光。視界は紅と光できらきらと輝き、さらに目をこらせば俺の語彙では表現できないような多くの色に溢れているのがわかる。
今まで知らなかった。知ろうともしなかった。知る余裕もなかったのかもしれない。紅葉の手を引き、彼女の歩く速さにあわせて歩いている今だから気づけたこと。
綺麗ですねえ、と今日幾度となく聞いた言葉に俺も心から頷き、それを口にした。
「ああ、──綺麗だな」
紅葉と見る世界は、どこまでも色鮮やかだ。
紅葉には少し早いですが、涼しくなりましたので。数日のうちにエピローグあげます。
本に書き下ろしで収録した伊達さん目線のSSは、いつかまた気が向いたときに。
そのSSを含めて完結のつもりでいます。