千束とたきな、そして織田の3人で始まった共同生活も、いよいよ三日目の夜を迎えようとしていた。
最初こそ、ジャンケンによる独裁政権であわや自身の将来が危ぶまれる危機に陥るやもと戦慄していた千束だったが、なんやかんや家事を分担して過ごせている。
今日は千束が夕食を作り、たきなが食器洗いをしてくれている。
これで多少は自身の体面を取れたはずだと安心する中、彼女の胸中は後ろめたい感情に支配されていた。
(…どうしよう、まだ戻せてない)
未だに千束のスカートには、織田の外套に忍ばせてあった一枚の写真が納められたままだったからだ。
彼が友人達と撮ったであろう一枚。
千束が新しい服を買わせるまでずっと彼が来ていた一張羅にあったそれが、今もなお彼女の手元にあるのだ。
洗濯の合間にそっと戻せればよかったのだが、彼も千束達の事情を知ってかなかなか1人で出歩く機会がないため返せないままでいる。
一番の理由は、目の前にその本人が座ってお茶の準備をしていること。
下手に動けばすぐに不審がられてしまうから何も出来ない。
エッチな本とか、アニメのグッズとかならまだからかえる程度で済んだけど、まさか写真だなんて……。
そう思う一方で、彼女はその写真を手放せずにいた。
わかりやすい笑顔もなければ、はしゃいでいる様子も無い、ただそこに彼ら3人が確かにいた。
その事実だけを証明するような、そんな写真。
これが、彼を…織田作之助を模る唯一の物。
気になりすぎて今見ているお笑い番組の内容すら頭に入ってこなかった。
(やっぱり、返した方がいいよね……でもどうやって?)
「千束? なんか鳴っていますよ?」
「えっ!?」
突然話しかけられたことに驚きながら振り返ると、そこにはお皿を流し台へと運び終えたたきなが立っていた。
テーブルに置かれたスマホを手に取ると、『Intruder Alert』と言う文字と真っ赤で悪そうな顔の記号と共に、警報音がなっていた。
「あ……またチンピラが来たのか」
「は?」
千束がDAの外に出て仕事をしていると、自分の家を相手に突き止められることがある。
普通のリコリスのように殺せば跡を追われることもないのだが、それを是としない千束にとってこのアラートとセーフハウスの数、そして部屋の構造は必須の物となっていた。
「例のリコリスの襲撃班が千束をつけてきたのか?」
「…どうだろ。多分いつものだと思うよ?」
「あの、さっきから何の話してるんですか?」
織田と千束の会話に、たきなだけがついて行けていない。
そもそもこのセーフハウスに来て最も時間が短いのがたきなだらか当然と云えるが、今はそれどころじゃ無い。
「じゃあ、私が追っ払ってくるよ」
「待て千束、俺も行く。お前が下手に暴れると窓が割れかねん」
「いや、だから一体なの話を…」
完全に置いてけぼりになっているたきなを置いて、千束と織田は梯子の方に向かう。
「織田作、スカートの中覗かないでよ?」
「なら俺が先に行こう」
「そう云うことじゃなくてさ~」
いつもと変わらない調子が、かえって千束の罪悪感を募らせた。
2人でなんとか梯子を登ると、上の部屋からは、足音が二つと怒号と疑念が混じった話し声がかすかに聞こえてきた。
「おい! いねぇぞ!」
「でもさっき確かにこの部屋に入ったはずだ!」
「ここにいるはずだ。人が暮らしている形跡がある。ん? これは銃か――ってうわ!!」
「人の私物に触らないでもらえるか?」
最初に動いたのは織田だった。
音も無く忍び寄ると、2人の内1人を背後から襲い、首根っこを掴んでそのまま持ち上げた。
身長差もあってか完全に宙ぶらりんの状態になってしまった男を、他の仲間に見せつけるように突き出す。
「動くな」
突然の家主のご帰宅に声を震え上がらせる侵入者を睨みつけながら、千束に合図を送る。
返事もなく走りだした千束は躊躇うこと無く愛銃に込められた非殺傷弾を発砲する。
「うわー!」
その後は語るまでも無い。
千束と織田によって彼らは自らの悲鳴を部屋中へと響かせてくれた。
死ぬほど痛いと言われる弾丸だ。殺さない分よく鳴いてくれる。
「千束、窓開けてくれ。前みたいにしないでくれよ?」
「はーい」
織田の指示に従い、窓を開ける。
動けなくなった両名の奥襟を掴み、ベランダまで引きずっていく。
「お…おい待て! 何する気だ!? おい!!」
「ほらっ」
「「うわー!!」」
マンションの部屋はそこそこの高さだが、織田は躊躇いなく、ゴミを捨てるように2人を放り投げた。
下はちょうど、ゴミ捨て場となっており、日本人らしく分別され、綺麗に袋に詰められた塵紙達が落ちていく彼らを優しく包み込んだ。
ベランダから見下ろすと、うめき声が聞こえる。
男だからきっと大丈夫だと、織田は無責任そうに呟いていたが、念のためと千束も出てきた。
怯えている彼らに、銃を向けて。
「助けてくれ-!」
「逃げろ! 急げぇ!!」
あれ程痛い目を合わしてやったのだ、撃ってもいないのにパブロフのなんとかのように涙目になりながら必死で逃げ出す。
「部屋が荒らされなくて良かった」
「……うん」
彼らがいなくなったことでようやく一息つけた織田がほっとした表情を見せる。
千束はそれに曖昧に頷くことしか出来なかったからだ。
自分がしたことと、逃げ出していった彼ら、やっていることはほとんど同じだ。
許可無く上がり込んで、人の私物を物色して、挙句には勝手に持ち出している。
これではまるで……。
(泥棒じゃん)
その事実は、千束にとってあまりに重くのしかかった。
「このためのセーフハウスですか?」
「えっ? あぁ、うん。あんな連中ならいいんだけど昔はリリベルも来てたから~」
慌てて笑顔を取り繕って、何事も無かったかのように振る舞う。
誤魔化すために別のワードでたきなと織田を釣る。
「リリベル?」
「あ~…男の子版リコリスみたいな? おっかないよ~」
「それ…普段何してるんですか?」
「さぁ。よく知らなーい」
普段なら男に興味でもあるのとたきなをからかう程度の気力があるのだが、今の千束にはそれがなかった。今頃になって罪悪感が溢れてきた。
しかしもう遅い。既に手を出してしまった。
千束は今更のように後悔した。
自分の行動の軽率さに。
何より、彼に嫌われるのではと。
「どうした千束、顔色が良くないぞ?」
「なんでもないよ?」
「本当か?」
「ほんとだってば~」
「そうか」
「そうだよ~」
織田はそれ以上追求しなかった。
そんな優しさに、千束は甘えた。
結局その後は何事も無く、たきなが立てたスケジュール通り、交代で睡眠を取り始める。
千束とたきなが3時間休み、その間は織田が起きている。
その次は千束達が起きて部屋を守ることになるのだが。
(……寝れない)
隣では寝袋に包まりスヤスヤと聞こえるたきなの寝息。
その音を聞きながらも、千束は眠れないでいた。
眠ろうとしても、先程の光景を思い出してしまう。
いつでも起きて動けるように来ているリコリスの制服にある一枚の写真。
その光景が。
織田に取って、あの彼らはなんだったのか。
彼がたまに話していた、かつての友人であるのは想像にかたくない。
でも、ボロボロになっても肌身離さずに持っていること、初めて彼と話したときに会うことは叶わないと云っていたこと。
だからこの一枚は、彼に取って大切な思い出のはずだ。
そして、もう会えないということは、何か悲しいことがあったはずだ。
灯りが付いてない照明を眺めていると、余計に思考が回って、比例するように罪悪感が膨れ上がってくる。
自分のしていることが、彼の尊厳を穢しているように思えて仕方がない。
「……」
ゆっくりと身体を起こして梯子へと向かう。
上の部屋には彼がいる。普段からこの階層は使っていないようだが、千束達を気遣って睡眠中は上の階で時間を潰しているはずだ。
梯子を登り、そっと隠し扉を開ける。
やはり織田はそこにいた。
起きている。
部屋の灯りは消えているが、彼が向かい合っているテーブルに備え付けられたスタンドライトが赤銅色の頭髪を照らしていた。
千束はその光に吸い寄せられるように、静かに近づく。
気配を感じたのか、織田が振り返った。
目が合う。
「…織田作」
「千束か、すまない。起こしたか?」
「ううん。大丈夫。なんか寝付けなくて」
「そうか」
「……」
「……」
「…あ、私珈琲入れるね」
「頼む」
織田がいつものようにマグカップを用意してくれる。
お湯を沸かしてから、持ってきたドリッパーにフィルターと挽かれたコーヒー豆をセットする。
ふわりと香る苦味のある匂いが、千束の気分を和らげてくれた。
織田も、どこか安心したような表情を浮かべている。
コポコポとお湯の注がれる音が、部屋の中に響いていた。
静かな空間。
お互い、言葉を交わすことはない。
それでも、不思議と居心地の悪さは無かった。
「はい」
「ありがとう」
出来上がった珈琲を差し出すと、彼はそれを受け取って口をつける。
千束もまた、自分用に作った珈琲を一口飲んだ。
美味しい。
千束はブラックだが、織田は意外にも砂糖もミルクもいれる。
本人曰く、特にこだわりはないとのこと。
甘い方が好きなのかなと思っていたが、どうやら違うらしい。
カレーは辛いのが良いと云う当たり、本当によくわからない。
「…ねぇ、それって」
「あぁ、これか」
千束は向かい合うように椅子に座ると、彼の手元にある物がわかった。
鉛筆が握られている。
テーブルには何枚のも原稿用紙の束が広げられている。
だけど、そのどれかにも、文字の一画すらも書かれていない。真っ新の状態だった。
「例の水族館以来、こうして暇を見つけては書こうとしているんだが、一向に進まない」
困った。と、織田は肩をすくめた。
確かに、千束から見てもそれは一目瞭然だ。
「書きたい物語は一本しか無い。それはこの中に収まっている」
彼は自分の頭を指先で叩く。
「なら、どうして?」
「だが、俺には、それを現実に映し出すために必要な道具も技術も無い」
登山靴と小さなピッケルだけ持って、世界最高峰の霊山を前に途方に暮れている登山家のような気分だ。
本当に小説家のように表現する彼に、千束はクスリと笑みをこぼした。
「何がおかしい」
「ごめん、馬鹿にしたわけじゃないよ」
千束は両手を振る。
「織田作があんまり真剣に言うから」
「そうか?……そうかもな」
自覚がなかったのか、織田は少し照れたように頬を掻く。
「できるよ」
千束は言った。
「えっ」
「きっと書けるよ。その道具を、織田作は持ってるよ」
不思議と、そう言い切ることができた。
水族館の時とは違う、漠然とした物じゃ無い。
彼女以外にも、そうあるべきだと望んでいる人がいる気がしたから。
その人達がどんな人かはわからない。
でも、あの写真に写っていた人達は、きっと彼が小説を書ける未来を誰よりも望んでいると思えたから。
「正直なところ、お前に言われてもあまり説得力が無いのだが」
「もー!なんでそういうこと言うの!」
「すまん。冗談だ」
織田は軽く謝りながら、再び珈琲を口に運ぶ。
「でも、そうだな。ありがとう」
「うん」
千束は笑顔で応えた。
そして、彼の手にある原稿用紙を見る。
そこに書かれているはずの物語を、千束は知らない。
だけど、いつか読める日が来るかもしれない。
その時を楽しみにしながら、千束は再び珈琲を飲むのだった。
「そろそろ休め、たきなに怒られるぞ?」
「えーまだ話してたーい」
「まったく……」
織田が呆れ顔になる。
時計を見ると、日付が変わるまであと数分といった時間になっていた。
元々千束の活動時間はここからが本番だ。
今日も床につくタイミングは早すぎたのだ。
「……ね、織田作」
「なんだ?」
「織田作の友達の話してよ」
「お前…見たのか?」
「あっ…いや」
しまった。と思った時にはもう遅い。
織田はこちらをジッと見つめていた。だけどすぐに目を閉じる。
「洗濯の時にか。まぁ大切な物だからそのまま回されなくてよかったよ」
「そ、そう! 洗濯しようと思ったの! たきなにも頼まれたし! それで見ちゃったの! 別に変なこと考えてないから!」
千束は慌てて弁明する。
本心はもっぱら、織田の変な趣味とか見つけたら面白いなと言うのが源泉なのは云わないで置こう。
もうたきなにもバレているけれど、自分が折れて共犯の彼女を売るわけにはいかない。
「なんでそんなに慌ててるんだ?」
「いや…その、なんでもないよ」
「まぁいい。わかった。話す」
織田は千束の反応を見て、追求するのは諦めてくれたようだ。
「とは言っても、大した話は出来ないと思うが……」
「全然良いよ。私、織田作のこともっと知りたいし」
「そうか」
織田は短く返事をすると、何を話したものかと顎に手を当てて考え始めた。
「そうだな、何から話したものか」
千束も、彼の言葉を待つ。
静寂が部屋を包む。
だけど、それは決して居心地の悪いものではなかった。
だがそれもすぐ終わる。
どうやら話題が決まったらしい。
「千束」、と名前を呼んで、彼はゆっくりと口を動かしてこう云った。
「堅豆腐っていう豆腐があってだな」
*****
「旦那ぁ、ダメだ。コイツマジでつかえねぇわ」
「お、おい! 待て! 僕の話を聞いてくれ!」
憎き宿敵ウォールナットを始末し、晴れて日本最強のハッカーとして世界中に名を馳せようとしている男が、自室である映像を見ていた。
彼はロボ太。
本名では無い。
だがハッカーというのは総じて本名と素顔を隠していた方が長生きしやすい。
何分恨まれやすい職業だからだ。
だが、その日本最強のハッカーである彼の活動に、早速陰りが出始めていた。
その理由は、今彼のお気に入りのかぶり物に銃口を突きつけている男、真島が原因だった。
ある人物に、テロリストの彼に協力しろという依頼を受け彼に近づいたのだが、かなりのくせ者だ。
テロリストや凶悪犯罪者を秘密裏に始末しているリコリスの本拠地であるDAを三日以内に探せだなんて無茶な命令をしてきたのだ。
そもそも、依頼人側も酷いのだ。
頑張れとかうまくバランスを取れとか適当なことしか云わない。
あらゆる手を使ったが、上手くいかず、あるリコリスの映像で彼の興味を引こうとしたのだが、その前に三日の機嫌がやってきてしまったのだ。
「テメェ分かってんのか? テメェの指示でこっちは仲間が10人死んだんだぞ? 旦那がいなけりゃもっと死んでた」
屈強な男に指示させてロボ太の両腕を掴み動けなくしてから真島はうつろな目でまくし立てる。
「待ってくれ! 見て欲しい奴がいるんだ!」
「知るかよ」
「待って! 待って! 見てほしいものがあるんだ!」
「だからよぉ、そのリコリスがどれだけ強かろうが、旦那に敵うわけねぇんだよ。だから早く本拠地を見つけろって云ってんのがわかんねぇのか!? あ!?」
真島の怒声に、ただでさえ脆いロボ太の心臓が止まりそうになる。
一方、彼が旦那と慕う、というか崇拝すらしているのでは無いかという襤褸男は、ロボ太の部屋の一等地。
一番大きなモニターを見ていた。
いや、見ていたのかは怪しい。
全身を襤褸で覆い、深く被っているため視線が見えないが、身体や首の向きから推測するしか出来なかった。
「なぁ旦那! アンタの見立てでコイツの話受けたけどもういいよな!? こんな期待外れだとは思わなかったしよぉ!!」
「待てよ!! お願いだ! もっとちゃんと見てくれ!!」
「うるせぇよ! さっきから同じことばっか繰り返してんじゃねえよ!」
「頼むよ…絶対損はさせないから!」
「そんな言葉聞きたくもねぇよ!」
真島の拳銃を握る手に力が込められた瞬間。
「待て」
その声は、静かに響いた。
低く、乾いた声が、襤褸男から確かに聞こえた。
今まで一言たりとも発さなかったその男の声で、真島はハッと我に帰る。
「旦那?」
「貴君よ」
「え? それって僕のこと?」
「他に誰がいる」
「え? はい…何でしょう?」
襤褸男は、部屋の一番大きなモニターを指差して云った。
「このカーテンの奥をもっと拡大することはできるか?」
「はい! できます!」
「ならば、それをしてくれ」
彼の言葉のためか、真島はロボ太の両腕を掴んでいた男に声をかけて拘束を説くよう指示する。
銃口は向けられたまま、少しでもヘマをしたら撃たれると分かっていたロボ太は自由になるとすぐにパソコンにかけ出した。
もはや生きる道はこれしかない。そう思って必死にキーボードを叩く。
それはあるマンションの一室をドローンで撮影した物。
この部屋に暮らしている連中に雇った殺し屋が返り討ちに遭っているところだった。
そして、遂にカーテンの隙間にある男を映し出した。
少女の影に隠れた男。
赤銅色の頭髪に無精ひげ。
例のリコリスとよくつるんでいる男だ。
なぜ彼に興味を示したのかわからない。
この襤褸男は、真島と作戦会議をしてもほとんど声を聞かなかったのに、今は随分としゃべる。
今日初めて、彼の声を聞いたほどだ。
「……旦那? コイツがどうした?」
「……」
「旦那?」
「貴君よ」
男はゆっくりと歩き出し、ロボ太の前までやってくると、襤褸で隠れていた腕が伸びる。
その手は、そっと彼の肩に置かれた。
見上げても顔は見えない。
襤褸から覗く深海のように黒い闇から、真っ赤な瞳でロボ太を縛り付けながら云った。
「良く見つけてくれた」