原作を進めてばかりだと同じ流れを延々と垂れ流すだけになるので
―――。
誰かが私を呼ぶ声がする。
慣れ親しんだあだ名だ。
理由は確か、短い名字は私には変すぎるし、名前で呼ぶのは長すぎるという。
まるで農民のような名前だが、このあだ名を付けた人間曰く拒否権は無いらしいので、名を聞かれたらそう答えるようにと念押しされたのを覚えている。
―――――。
また私の名を呼ぶ声がした。
私のもう1人の友人が呼ぶ声と似ている。
落ち着いて知性のある声だ。彼と知り合ったのは酷い仕事の後だったから体中が臭いから近づくなと喚かれたものだ。
あの後すぐにいつもの酒場に行き、明け方まで話し込んだのを良く覚えている。
どちらも、私にとって大切で、大事な、2度と戻れないあの世界の残り香だ。
「織田作!」「織田作さん!」
今度はハッキリの鼓膜に響いた。
私を呼ぶ声だ。
明滅した視界を無理矢理開けると、そこには天井があった。
どうやら自身の住まいであるベッドの上に寝かされているようだった。
頭の下に何か柔らかい感触がある。どうやら枕を敷いてくれているようだ。
「おぉ、やっと起きた」
声が再びしたかと思えば左側から人影が二つ。
私を見下ろしていた。
少女が2人。
暖色混じりの白髪のボブカットと赤いリボン。
絹のようにしなやかで長い黒髪。
私は2人のことをよく知っている。
奇しくも、私の名をかつての友人達と同じ呼び方をしてくれている少女達だ。
千束とたきな。
何故彼女達が私の自宅…厳密に言えば千束の自宅の一つなのだがそれは置いておいて、何故この部屋にいて深刻そうな顔で私を覗き込んでいるのか、記憶を手繰る。
確か……。
「いやあ織田作も風邪ひくんだね」
「普通にひきますよ。それにしても、出かけて数分後にゲリラ豪雨なんて……」
「流石の未来予知でも天気予報はできなかったかー」
そうだ。
幼稚園の子供達に会いに行くために出かけた直後に見まわれた大雨にうたれたのだ。
弾丸の雨ならば幾度となく掻い潜って来られたが、街全体を覆う大粒の雫達相手に濡れないでいろという異能力は私は持っていない。
子供達を心配させまいとと引き返すこと無く強行したのが間違いだった。
今思えば考え無しだ。子供達にまで風邪がうつっていないといいが。
外套まで雨水で染み渡った姿で幼稚園の門を潜ったときの園児達の顔を見たときは、しまったと後悔したが後の祭りであった。
そして這々の体で自宅に戻ったまでは記憶にあるがそこからが曖昧だ。
恐らくそのまま倒れてしまったのだろう。
「看病してくれていたのか?」
「はい、仕事を抜けて駆けつけたときは玄関で倒れていました」
「もーびっくりしたよー! 服の濡れたままだったし、熱あるみたいだし、顔真っ赤だったし!」
「それで慌てて寝室に運んだんですけど、それからずっとうなされてました」
「そうか……すまない迷惑をかけた」
起き上がろうとするが、力が入らない。
体が重い。頭がぼんやりとする。
これは思ったよりも重症かもしれない。
「安静にしててください、今日一日はゆっくり休んでください」
「ほらほら病人は大人しくしてなさい!」
2人に肩を押さえつけられ、再びベッドに横になる形となる。
おとなしくお縄につく他ないらしい。だが、2人が居てくれて助かったのもまた事実だ。
1人で倒れたなら最悪肺炎になって死んでいた可能性だってあったわけだから、その点では運が良いと言える。
それにしても、たかが風邪ごときでここまで弱るとは情けない話だ。
こんな姿を見られたくは無かったのだが、どうしようもない。
「……ありがとう」
「ふふん、気にしないでいいよ!」
「いつも助けてもらってばかりなので、このくらい当然のことです」
何時もの自信満々な笑顔で応えてくれる千束と、少し恥ずかしげに微笑むたきな。
どちらも私の大切な友人であり、仲間だ。
「というわけで、織田作、お腹空いてない?」
「食欲はありますか?」
「そうだな……まだあまり無い」
「そっかぁ、でもちゃんと食べないと良くならないよ」
「台所借りますね」
パタパタと部屋を出ていく千束とたきなを見送る。
正直言うと食欲はあまり無かったが、折角の厚意を無下にする訳にもいかないので、素直に甘えることにした。
2人とも、それなりに料理が出来るようで、しばらく前に実施されたこの部屋での共同生活でも遺憾なく発揮されていた。
今日くらい、彼女達に任せて全て委ねてもよさそうだ。
「え? たきな、アンタなに作ってんの?」
「なにって、プロテインです。これなら食欲が無くても効率よく栄養を摂取できます」
「いや普通お粥でしょ!?」
「お粥なんてカロリーが少ないじゃないですか」
「だって風邪引いてるのに液体の入ったコップだけ渡されて嬉しいと思う?」
「確かに、案外悪くないかもな」
「織田作は寝てて」
「……では咖喱とか?」
「いいね、織田作の好物だしって風邪引いてるのにそんなもん出せるか-!」
「俺は咖喱がいいな」
「織田作ちょっと黙ってて-!!」
騒がしい。
だが、2人のやり取りを聞いていると店の中にいるような感覚になり、不思議と心が落ち着く気がした。
暫くすると千束が何やら手に持って戻って来た。
盆の上に湯気立つ土鍋が乗っている。
どうやらたきなが用意したプロテインを却下されたようだ。
まあ確かに風邪に咖喱を食すわけにはいかないか。
「はい織田作、お待ちどーさま」
ベッドの隣に腰掛けた千束から、盆を受け取る。
蓋を開けると中には玉子雑炊が入っていた。
とても美味しそうだ。
思わず唾を飲み込む。食欲が無いとは云ったが、こうして湯気が立ちこめているのをみるとやはり食べたくなるものだ。
「はい、じゃあ口開けて」
千束はスプーンで一掬いして、息を吹きかけて冷ましてくれる。
それをそのまま私の口に近づけてくる。
私は口を開けた。
「あ~ん」
ぱくりと、私は差し出されたスプーンを口に含む。
熱い。しかし、それ故に味が染み渡る。
鶏の出汁と米の甘味、卵の旨みが合わさり、喉を通って胃へと落ちていく。
程よい塩味と出汁の旨みが効いて美味だ。
「美味しい?織田作」
「ああ、美味い」
「良かったー! どんどん食べて良いよ!」
そう言って千束は再び雑炊をすくい上げ、私の口元に差し出す。
先ほどと同じように彼女の手ずからの食事を咀噛し、嚥下していく。
何とも不思議な気分だった。
友人と親しくなる前、怪我で倒れていた彼を介抱し、こうして粥を作ってあげたことがあったがその時は文句ばかり垂れていたな。
思い返せば、彼に比べればこの2人は幾分か愛らしい。
だが、喜んでいる千束とは裏腹に、たきなは不満げな視線を私と彼女に向けていた。
どうやら、私のことを真摯に思ってのプロテインだったらしい。
「…………」
「な、なに?たきな」
「いえ、別に」
たきなは何故か不機嫌そうな表情を浮かべたまま、私のために作ったプロテイン入りの飲み物をストローで吸い上げた。
そして、その中身を一気に飲み干している。
「もーたきなーそんな目しないでよー」
千束が宥めるようにたきなの頭を撫でるが、彼女は相変わらずむくれ顔のままだ。
どうしたものだろう。
こういうときは、何かしらのアクションを起こした方が良いのだろうか。
しかし今はか弱き病人。彼女に声すらかけてやれそうにない。
たきなは不貞腐れたままだが、千束は私の方を見てニコッと笑った。
「そーだ。たきな、織田作の身体拭いてあげなよ」
「え?」
突然の提案に、たきなと私が疑問の声を上げる。
「ほら、汗かいてるし。このままだと気持ち悪いでしょ」
「たしかにそうだな」
千束の言う通り、今の私は寝間着が濡れるほどの発汗をしていた。
このままでは熱も下がりにくいだろう。
と、ここでふとある疑問が頭を過ぎる。
「確か、俺が家に着いた時と服が違うな」
「あっ…それは……」
「えっと……」
「着替えさせてくれたんだな。ありがとう」
「あはは、そうなの……どどど、どーいたしまして」
「っ……」
千束は狼めいておりが、たきなは少し複雑そうな表情を浮かべている。
一体何を考えているのだろう。
もしかしたら私に対して申し訳なく思っているのか。
どちらにせよ、彼女達には感謝してもしきれないな。
「と…というわけで、たきなお願いね」
「あ、分かりました」
「頼む」
意識が明瞭になってからしばらく経ち、大分身体が多少動くようになったため身を起こす。
襯衣の釦を外して脱ぎ、上半身裸になる。
外気に晒されて肌寒く感じるが、すぐにたきなが蒸しタオルを持って来てくれた。
「失礼します」
たきなが一言断ってから、私の背中を拭いてくれる。
温かい。
適度な温度のお湯につけたタオルを使っているようだ。
それに彼女の小さな手が触れ、丁寧に優しく擦ってくれる感触が何とも心地よい。
やがて、背中以外の部位にも手を伸ばそうとしてきた。
「前は自分でやるよ」
「いえ、遠慮なさらず。織田作さんにはお世話になりっぱなしなのでこれくらいはさせて下さい」
「そうか」
そこまで言われては断る理由も無い。
私は大人しく前側を任せることにした。
たきなが私の腹を拭いているとき、千束の視線を感じた。
彼女は何故か私の方をじっと見つめている。
「……どうした?」
「いや、なんでもないよ。気にしないで続けて」
「ああ」
千束の態度に少々違和感を覚えるが、まあ良いだろう。
暫くして、たきなの手つきが妙なものに変わった。
「ん?どうかしたか」
「いえ、あの……これは」
「何だ?」
「その、筋肉が凄いなと思いまして」
「ああ、そうか」
確かに、仕事上それなりに鍛えているため、一般男性と比べてかなり引き締まっている。
特に胸筋などは、力を入れていない状態では女性のように柔らかいのだが、いざ力を込めると硬く隆起する。
それを興味深げに見ていたたきなだったが、急にハッとした様子を見せた。
「ごめんなさい」
そして、慌てて謝罪の言葉を口にし始める。
何故謝られるのだろうか。
不思議に思いつつも、私はたきなを宥めた。
「大丈夫だ。別に怒っていない」
「でも……」
「気にしていないさ。それよりも続きを頼めるか?」
「はい」
たきなは再び私の身体を拭き始める。
そして、その手つきが先ほどよりずっと丁寧で優しいものになった気がするのは気のせいではないと思う。
何事にも真剣な彼女らしい。
それがどんな種類の感情なのかは分からないが、少なくとも嫌がられてはいなさそうだ。
「終わりました」
「ありがとう」
千束が用意してくれた換えの襯衣に袖を通す。
未だに立ち上がることは出来ず、座ったままだが大分楽になった。
後は水分を取って安静にしていれば良くなるだろう。
そう思って千束を見ると、彼女は私を見て微笑んでいた。
「何かして欲しいことある?何でも言ってみて」
そう言われると困ってしまうな。
今すぐ欲しい物は特に無いし、頼みたいことも思いつかない。
だが、千束はそんな私の反応を見ても諦めず、色々と提案してくる。
「もーこう言うと時くらい甘えてよ織田作」
「しかし……」
「ううん、遠慮しないで!ほら、この千束さんに!」
「……」
ここまで言われては何も言い返せない。
私は観念して、彼女にしてほしいことをお願いすることにした。
「じゃあ、俺の枕元にある本を読んでくれ」
「うん、分かった」
私が指差したのは一冊の本。
千束達の前で小説家になるというかつての夢を話した際に、参考がてらに何か別の本でも買ってみればと云われて購入したものだ。
まだ読めていなかったから良い機会だ。
「では、読むね」
「頼む」
千束が朗読を始める。
だがページをめくる前に「そうだ」と手を止める。
そして隣に座っていたたきなに声をかけた。
「ねぇたきな、織田作に膝枕してあげなよ」
「えっ…えぇっ!?」
「だって私だけ読んでるとたきなが暇でしょ? 交代で読み進めて、片方が膝枕してあげるの」
「別にそこまでしてもらわなくて構わないのだが」
「いーからいーから」
「……」
たきなが無言のまま私の方に近付いてきた。
そして、私が横になっているベッドの奥に回り込むと恐る恐るといった感じで自分の大腿に私の頭を乗せてくる。
私は彼女の行動の意味がよく分からなかったが、とりあえずそのまま受け入れることにした。
何より、今の私には抵抗が出来ない。
彼女の足の間に自分の頭が収まるように置かれており、見下ろしているたきなの顔がすぐ近くにあった。
しなやかで繊細な黒髪が垂れて頬をかすめているのが少しくすぐったい。
「あの、ごめんなさい。あまり見ないでください」
「すまない」
「じゃあ始めるねー」
千束が本を捲り、朗読を開始した。
私も目を閉じよう。
するとたきなが私の髪を撫でている。
彼女は今、何を思っているのだろう。
少なくとも嫌がられてはいないはずだ。
彼女の表情を見れないのが残念でならない。
千束の朗読が耳に心地よく響いている。
彼女の声は、時に癖のある抑揚を生むが、不思議と耳障りにはならない。
それどころか、まるで子守唄を聴いているような安心感さえ覚える。
次第に意識が微睡み始めた頃、不意に額に触れた柔らかいものを感じた。
それはすぐに離れて行ったが、とても温かく、優しく触れてくれたものだと分かる。
瞼を開けると、目の前にはたきながいた。
花色の瞳にはいつもの無表情の中に、どこか照れくさそうな様子を滲ませていた。
「たきな?」
「……すみません、起こしてしまいましたか?」
「いいや、気にするな」
「……はい」
たきなはそれ以上何も言わなかった。
ただ黙って、再び私の頭をゆっくりと撫で始める。
その手があまりに気持ち良くて、思わず口元を緩め、再び目を閉じた。
「じゃあたきなー交代、次私が膝枕するねー」
「…わかりました」
ベッドを降りて私の傍から離れる。私の頭髪を撫でていた指先がどこか名残惜しそうに見えたのは気のせいではないだろう。
入れ替わるように千束が枕元までやってくる。
たきなと同じように私の頭を膝に載せた。そっと私の頭に手を添えると、やはり優しい手つきで撫でてくれる。
「んふふ、織田作の髪の毛、柔らかい」
「そうなのか?」
「うん。なんかね、犬みたい」
「そうか」
千束の手の動きに合わせて、意識が再びまどろんでいく。
「どーお? 私の太股寝心地いーでしょ?」
「そうだな。柔らかくて大きい」
「ちょー何宣ってんだーこの口は-」
千束の指が私の口の両端をつまむ。
彼女はそのまま引っ張ったり押したりして弄ぶ。
多少、いやかなり痛い。
「ふははい。ふぃめふぇふふぇ」
「どーだー? 参ったかー?」
「千束、私の朗読聞いてもらえないじゃ無いですか。大人しくしてください」
「だってー織田作がはずかしーことゆーからー」
「貴女って人は……」
たきなが呆れたように溜息をつく。
千束の指が離れた。
「ごめんごめん。じゃあ続きお願い」
たきなの声が響く。
淡々としていて、それでいて透き通るような響きを持った声だ。
千束とはまた違った雰囲気を持つ、綺麗で落ち着いた声音、耳に心地よい響きだ。
私は再び目を閉じる。
まどろみがまた深くなってきた。
今日はもう休もう。今日は一にも増して穏やかに休めそうだ。
そんなことを考えながら眠りについた。
*****
「織田作、よく寝てるね」
「はい、ぐっすりです」
しばらく時間が経った頃。
幾度と読む係と撫でる係で交代し、読み終える頃には織田は再び深い睡眠に落ち、規則正しい呼吸を繰り返していた。
「今日は起きるまでいてあげよっか」
「そうですね」
千束もたきなも、彼の穏やかな顔を見て笑みを浮かべる。
二人にとって、彼がこんなに安らかな顔をしている姿を見るのは初めてだった。
それだけ、普段から気を張っていたのだろう。
特に最近。
千束と彼の前に現れたジイドという男が来てから尚のこと。
常に周囲を警戒していたからこそ、こうして気を抜くことが出来る時間が必要だったのだ。
「……私達、彼の重荷になっていないでしょうか?」
「どうしたの急に?」
「いえ、ちょっと不安になってしまって」
「うーん、大丈夫じゃない? 私とたきなだけじゃしんどいかもだけど、お店の皆がいるもん」
千束の言葉に、たきなは黙ったまま小さく首を縦に振った。
そして、たきなの膝の上で眠る彼に視線を向ける。
「でも、やっぱり一番大事なときくらいは、私たちを信じて欲しいですね」
「そうだね。だからさっきも言ったけど、これからも支えてあげようよ」
「そう、ですね。私達が織田さんを支えてあげるんです」
「うん! その意気!」
ベッドに肘を突いていた千束は、身を起こして部屋の隅に置いていた鞄を手に取ると再び戻ってきた。
その表情をたきなは知っている。
いつも彼女が何か変な事を企んでいるときの顔だ。
「なにするつもりですか?」
「なにって~織田作の顔にラクガキして~写真撮ったら面白いかな~って」
「貴女って人は本当に……」
「たきなもやってみない?」
「……じゃあちょっとだけ」