彼岸花と迷い犬   作:黒ゴマアザラシ

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二人目の救世主

私がそこに来た時には、もう全て終わった後だった。

空が橙色に染まりだし、照明が消えた病室を悲しげに染め上げている。

病室にいたのは、主治医の山岸という医者。

ミカ、ミズキ、クルミ、たきな、そして千束だった。

私がどうやら一番最後らしい。

たが不幸中の幸いか、肝心の内容が話される前にたどり着くことだけはできた。

それ以外は、私は何も出来なかった。

「何された? 山岸先生」

病室の椅子に腰掛けた千束は、落ち着いた様子で尋ねている。

山岸という医者は、映し出されたレントゲン写真を指差して答えていた。

「あの女…急激な高電圧による過充電でハードとのアクセスが不可能になった。もう充電もできないよ」

 

モニターに映し出されたレントゲン写真は、千束の心臓であることが容易に判断できた。

その心臓を遮るように『no signal』という赤い文字が表示されている。

単純だけどよ。効果的な最高の破壊方法よ。と山岸医師は最期に告げた。

検診と称して千束に近づき、睡眠薬で昏倒させてその隙に人工心臓を高圧電圧で破壊した。

と、匙を投げるように投げやりに、彼女は淡々と話す。

盲点だった。

まさかDA傘下の医療機関にまで間者がいるとは思わなかった。ジイドに対しての警戒ばかり強めていた自分が道化に見えて仕方が無い。

「マジか」

そんな彼女を見て、千束は眉一つ動かさずにいた。

私には理解できなかった。いや、したくないだけかもしれないだけかもしれない。

その意味は、もうすでにわかっていたのに。

「あとどれくらい持つ?」

「幸い充電直後だったから持って2か月。動き回らなければもうちょっと持つよ」

「何が2ヶ月…」

たきなはまだ、状況を理解していないらしい。

だがその答えはハッキリと告げられた。

「余命だ」

ミカの口から、そう云われた。

千束の余命。

生きていられる時間が、二ヶ月だと云われたのだ。

「壊れた所を交換でもして…」

「できないのよ」

たきなの儚い希望は、無情にも言い終わる前に告げられた。

「悔しいけどよ。あたし達の知識と技術じゃどうにもできないのよ」と。

これは夏の頃、私達が松下という人物の護衛の際に小耳に挟んだことだ。

千束の心臓は、DAの技術じゃない。

アラン機関によってもたらされたものだ。

故に…

「千束の人工心臓に代わりはないんだ」

ミカの言葉に目を見開いたたきなは病室を飛びそうとする。

何を考えているのか、私にはわかっていたが止めることなどできようもない。

「どこ行くの?」

「あの看護師を始末します!」

「いいから~」

「いいわけないでしょ!」

いいのよと、何一つ動じること無く千束は云う。

「元々そんな長くなかったんだから」

彼女は全て、最初から理解しているようだった。

でなければ、あんな顔できるわけがない。

その様は、私の友人のようだった。

あの世界に退屈して、いつも死を望んでいた彼と面影が重なった。

若し彼が同じ状況に置かれたら、きっとこんな顔をしてしまうのだろうと、得も言われない確信があった。

千束はほほえみを絶やすこと無く立ち上がり、私達に

「帰ろう」

ただそれだけしか云わなかった。

私はそんな彼女を見て、あの時と同じ無力感を噛みしめていた。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

やがて日付が変わった。

千束は店にはいない。

DA本部から招集の命令が下った。心臓の件は楠木の耳にも入ったらしい。

朝からミズキの運転する車に乗せられているだろう。

ミズキもミカも、最初からわかっていたのか状況を知っていたのだろう。

病院からの帰り際に何も言わなくてすまないと云われたときはどんな顔をすればいいのかわからなかった。

ただ、酷いのはたきなだ。

千束が客の前であのパフェを出そうとしてもなんの反応もしない。

相当堪えている。

それは、私も同じだ。

 

――カランコロンと鐘が鳴る。

来客だ。

相手は…制服を着た2人組の少女。

リコリスだった。

フキとサクラ。

先月に起きた警察署襲撃事件依頼のご来店だ。

「いらっしゃいま…」

サクラはたきなに目もくれずカウンターに向かってミカに声をかけている。

団子を食すことができなかったのが相当ショックだったらしい。

続いて、フキのほうはたきなに用があるようで彼女に歩み寄る。

「明日までに返事しろ」

と、ある封筒を渡していた。

おそらく復帰の辞令だ、とフキは云っていた。

つまり、たきなの念願が対に叶ったのだ。

「真島のアジトが判明した。突入にあたって戦力がいる」

「よかったなーおい!」

 

「ほら帰るぞ!作戦は三日後だ。先生失礼します」

「パフェ~…」

そうか、ついに突き止めたのか。

フキはまたサクラを引きずって店を出て行った。

そこにはジイドもいるはずだ。

一抹の不安が過ぎる。奴がいる組織を彼女達だけで太刀打ちできるのか?

それでも彼女達は挑む以外の選択肢はない。

私にできることは彼女らに乗じて単身でジイドと対峙することのみだ。

だがそれも、今や前提自体が崩れていく感覚を覚えた。

もはや、彼と戦う意味すら見いだせなくなっている。

「やったなたきな!」

クルミは声を上げて喜んでいる。

だが、返事は返ってこなかった。

たきなは無言で渡された封筒を見つめていた。

その時どんな顔をしていたのか、良く覚えていない。

 

そこからは酷い物だった。

何事も冷静に判断を下しているたきなが2度犯人を取り逃がした。

私と千束が走り回って捕まえたが、彼女の心が晴れることはない。寧ろ、千束が動けば動くほど、寿命を削っているという事実に耐えられないのだろう。

「いやーたきなもあんなミスするなんて、可愛いとこあるよね~、織田作も思うでしょ?」

「……あぁ、そうだな」

任務の帰り、先に店に帰投したたきなと分れた私と千束はある橋の下で雨宿りをしていた。

雨足は強くは無いが、絶え間なく降り続いている。

地べたで2人。腰を落として。

千束は私に話しかけてくる。

いつものように軽口を叩きながら。

私はそれに生返事をするだけしかできなかった。

「も~ちゃんと聞いてよ~。あとね、これ見て」

千束は私にカメラを見せてきた。

古いカメラだ。

携帯で写真を撮る彼女が持つには少々高価な物でもある。

それに写った一枚が視界に入る。

箱の中には見覚えのある人物がいた。

吉松シンジだ。

千束の心臓の提供者。

そしておそらくは……。

 

「やっぱり私を助けてくれたのは吉さんだったんだ」

彼女の恩人。

彼に会い、ただ一言お礼を言うためだけにDAを出た彼女にとって、この写真は集大成と云って良い。

それを私に見せてくれた。

「私ね、吉さんみたいな救世主になりたかったんだ。これと、この銃をもらったときから」

千束は話してくれた。

自身が過去に、先天性の心疾患を煩っており、7歳で死ぬ運命だったことを。

そしてそれを吉松に救ってもらったと。

彼は自分は千束を救う救世主だと云った。そして使命を果たして欲しいと。

だから、彼女はこの銃を、人を殺すためでは無く救うために使うと決めたことも、そもそも自身の寿命が20歳しか生きれないことも、全部教えてくれた。

 

「ごめんね、本当はもっと早く教えた方がよかったよね。織田作の話ばっかり聞いてたのに」

「……気にするな」

千束、なんでお前はそうして笑っていられるんだ?

自分をこんな風にした男を見て、なぜそう笑っていられる?

そもそも、千束が可笑しいのだ。

自身の余命を宣告されて平気でいられるなど、正気じゃない。

私の友人でもないかぎりだ。

いや、ずっと感じていた。

千束は彼に似ているのだ。

あの死にたがりと同じだ。

だからずっと彼女から視線を離すことができなかった。

ただ、自身の生き方に疑問を抱いていないだけ。

彼はよく云っていた。

生きるの反対は死じゃ無い。

死は生きるに組み込まれた機能の一部だと。

人を救う道を選び、生き方に納得を求めていた少女と、死と暴力の世界に身を投じることで人間の本質を知り、生きる理由を知ろうとした少年。

この2人が、私には同じに見えて見るに堪えなかった。

ただ違うことがあるとすれば、彼女には迷いが無いということだ。

彼のように、生き方の正解を求めていたわけじゃない。

自分の生き方を正解にしようとしたのだ。

私が彼にしてほしかった生き方を、彼女は最初からしてくれていた。

……ならば、私のやることはもう決まっているのでは無いのか?

 

 

「…千束、悪いが先に戻っていてくれ。俺は寄り道する。夜になったら話があるから皆を店に集めてくれ」

「え? うん、わかった」

「帰るときはタクシーに乗れよ? たきなが心配するからな」

「もー織田作も気にしすぎだって~いったでしょ? 元々長くなかったの。それがちょっと短くなっただけだから」

ね、と念押しするように彼女は私に微笑みかけるのを見て私はしとしと降りしきる雨の中に入る。

その笑顔に私は何も返せなかった。

もう答えは決まっていたからだ。

私はしばらく歩いた後、携帯を取り出して電話をした。

数コールもしないうちに相手は出た。

「織田作か? どうした?」

この幼い声はクルミだ。

年齢は未だ分かっていないが活動機関から計算して成人の可能性が濃厚である彼女。

私は彼女に用があった。

「ウォールナット、個人的に依頼したいことがある。できるか?」

「おいおい、その名前を呼ぶな。それに、僕に直電で依頼なんて良い度胸じゃ無いか? この店に匿ってもらっている千束やミカならともかく、お前からなら相応の金額を要求するぞ? いくらだすつもりだ?」

「俺の全財産」

即答すると先ほどの流ちょうさはどこに消えたのかと云うほど絶句してくれた。

私が喫茶リコリコで働いて稼いだ有り金全部。私が身を粉にして働き、この世界で積み上げた数少ない物の1つだ。

「なに、簡単なことだ。世界最強のハッカーなら片手間で出来るほどにな」

「詳しく聞かせろ」

「あぁ、それはな――」

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

「はいはいはーい! 皆辛気くさい顔しないでー! 織田作が今からお話しまーす!」

店に帰ってくる頃には、もう十分すぎるほど辺りは暗くなっていた。

またミズキにドヤされてしまったが、店の奥から現れた千束の声で大人しくなる。

彼女もまた、千束の心臓のことで思うところがあるのか、いつもの激しさが鳴りをひそめている。だが、今回ばかりは行幸だった。

「皆集まったな」

店のホールには、喫茶リコリコのメンバー全員が集合してくれた。

ミカ、ミズキも、くるみにたきな、そして千束だ。

各々が自身の気に入ったスペースに腰を下ろしている。

いつも通りの配置で。

私は店を一望し、全員がいることを確かに確認した。

「それで、話ってなによ?」

「何かわかったんですか?」

ミズキとたきなは口々に尋ねてくる。

今置かれている状況を考えれば、きっと彼女達も薄々気がついているはずだが明言しておく必要はある。

「千束のことだ」

「え~何何? もしかして、私のために何か楽しいことしよってこと? も~嬉しいけど気にしすぎだって~」

千束のいつも天真爛漫さが露骨に表れる彼女の笑顔が、今は少しだけ痛々しい。

それを分かっているのかいないのか、ミズキの隣にいるクルミはただ黙っていた。

私は彼女から視線を外し、全員を見渡した。

誰一人として目を逸らすことなく私を見ている。

「先ず状況を整理しよう。千束の心臓は、あと二ヶ月しか猶予は無いことだ」

一つずつ、明らかにしていく必要がある。

目的と行動を明確にするために。

「そして、それが誰の手によって千束の心臓が壊されたのか。それは」

「ちょっと待って!」

千束の声が店中に響き渡る。

その場に客がいないせいか、余計に空間にこだまするような感覚を覚えた。

「ねぇ織田作…そういう話止めようよ。ほら皆もそう思うでしょ?」

手を大げさに振り回しながら私の前に立った千束は、他の一同の顔を見渡す。

だが、誰も彼女とは目を合わせようとしない。

できるはずがない。

 

「皆…」

「千束、これはお前の人生の話だ。ちゃんと話さないといけない。そうだろ?」

ミカ、と私はカウンター奥で口を噤んだままたっている彼に声をかけた。

彼は全てを知っている。

だが、彼がそれを話すことはできないのだろう。

「お前が言わないなら、俺が話す。それでいいな?」

「……」

ミカは何も言わない。

俯いたまま、縁の大きな眼鏡が光に反射して目の色すら伺えない。

ただそれが肯定であることだけが受け取れた。

「話を戻す。まずこれはほぼ確定と云って良い。千束の心臓を壊すように指示したのは吉松シンジだ」

私の言葉に返答は無い。

皆、知っているのだろう。

彼が何者で、何を信条とし、どんな動機で動いているのかを。

ただ1人、千束だけは目を見開き、瞳孔が揺れていた。

「そして、幼少期に先天性の心疾患で死ぬはずだった千束の心臓をつなぎとめたのも彼だ。彼の手によって、千束は生きながらえることができた」

そこまでは、千束から聞いた話。

彼はアラン機関の一員で、死ぬはずだった千束の命を救った。

だが、彼が望んだ生き方を千束はしなかった。

故に、心臓を壊したのだ。

「アランチルドレンに与えられた使命を果たさないならば、殺す。ただそれが彼の動機だ」

考えてみれば投資と同じだ。

伸びしろのある株に資産を投じ、伸び悩んだ株は切り捨てる。

裏社会の本質と変わらない。

よくあることだ。

「だがその割には矛盾する点もある。まず殺すなら電源を壊すなんて回りくどいやり方はしない。二ヶ月という猶予を、与えるはずが無い」

殺すだけなら、最初の時点で殺せた。

睡眠薬で眠らせた後に首をかき切っても、眉間を撃ちぬくこともできた。

それだけの時間と猶予があったのに、わざわざ千束に余命を残したのか。

その理由は、ハッキリしている。

千束、と私は揺れている彼女の淺日色の瞳孔を見る。

そして告げた。

吉松は何を望んでいるかを。

「千束、お前を救った吉松シンジは、死にたくないなら人を殺せと云っているんだ」

「やめて!!」

千束が耳を塞ぎ、叫ぶ。

店内に反響し、空気を震わせる。

だがそれでも彼女は叫んだ。

この世の全てを拒絶するように。

まるで、子供のように。

「なんでそんなこと云うの!? どっちにしたって吉さんは関係ない! あの人は私の救世主なんだよ!?」

「お前も本当は気付いているだろ? たきながこの店にやってくてからの数ヶ月、全て吉松が仕組んだことだと」

私の言葉に千束は息を飲む。

反論できるはずが無い。

彼女は聡明だ。

本当はもうすでに気がついているはずだ。認めようとしていないだけに過ぎない。

4月に起きた銃取引も、クルミにラジアータをハッキングさせたのも、7月に起きた松下の依頼も、全部仕組んだことだ。

でなければたきなが店に来たタイミングでこの店に来るはずが無い。

そして極めつけはミカとの密会だ。

あの会話が全て物語っていたと云って良い。

「だが織田作よ。わからんこともあるぞ?」

言葉を無くした千束に代わり、クルミが問いを投げかける。

「吉松の居場所が分からん。そもそも、換えの心臓があるのかすらもわからない」

「ある」

私は断言した。

そして、吉松が必ずこの東京のどこかにいることもだ。

「あの心臓もまた、アランの結晶だと云っていた。つまり、千束を簡単に切り捨てられない。奴は必ずこの千束と接触できる場所にいて、心臓を持ち歩いている」

彼のような男の生態を私は熟知している。

裏社会には必ずいる、用意周到で頭の切れる男。

そんな男がここまで大胆かつ精緻な絵を描いたのに、それを蔑ろにするわけが無い。

一番信頼できる自分自身の手元に心臓を置き、千束が人を殺すところを確認する必要がある。

そして、この手の手合いの人間は自分自身の目で確認した物しか信じない。

だから、必ず近くにいる。

「これが今、各人が集めた状況証拠で推測できる一番確実な状況だ。そして、この状況で、千束を救うために俺達は4つの選択肢を取ることが出来る」

ここからだ。

ここからが本番だ。

今まではただ状況を整理していただけ。

重要なのはこれから私達はどうするかだ。

「一つ目にできる選択は『服従』。吉松の云う通り、千束に人を殺すようにして生かしてもらうこと」

これが一番確実な方法で、私達にとって敗北とも云える結末。

吉松シンジが思い描いたシナリオ通りの顛末だ。

「二つ目の選択は『説得』だ。吉松に真摯にお願いして心臓を譲り渡してもらうこと」

これは一番可能性の低い方法。平和的にこそ解決できる。

だが奴が簡単に心臓を明け渡すはずがない。

だからこの案は使えない。

「三つ目は『脅迫』だ。何らかの弱みを握って脅し、交渉のテーブルに引きずり下ろして、心臓を受け取ること」

現実的に考えれば、これが理想的な解決方法だ。

大きな組織といえど、何らかの弱みはある。特に金だ。金の流れに毒を入れられればひとたまりも無い。

だが、アラン機関の弱みを握るには時間が掛かりすぎる。そもそも、彼らの実態のほとんどがつかめていないのだ。

ゆえに現実的では無い。

「…じゃあ、四つ目はなんなんですか?」

最後の答えを知るべく、たきなは問いかけてきた。

私はゆっくりと息を吸って告げた。

「殺して奪う、『強奪』だ」

だが、私はそれに動じることなく。

千束の命を救う、たった一つの方法を。

吉松を殺し、千束の心臓を奪う。

それが、彼女の命を救える唯一の道だと。

千束の顔から血の気が引いている。

これが一番確実で、現実的で、理想的な解決策だ。

嫌がる吉松と邪魔立てするアラン機関の面々を皆殺しにし、有無を言わさずに心臓を奪い取る。

猶予が限られている中で、これが一番合理的な手段だ。

「織田作!!」

三度目の悲鳴が響いた。

千束は立ち上がり、私の肩を掴む。

その瞳は涙を浮かべ、頬は赤く染まっていた。

「止めて! 殺すとか! 脅すとか! 奪うとか! そんな危ない言葉言わないでよ!! そんなことしたら、そんなことしちゃったら……」

彼女の腕から力が抜け、ずるりと落ちる。

そして膝をつき、俯く。

「――――――――」

掠れるような声で出されたその声は、私だけに聞こえた。

あぁ、この子は本当に頭が良い。

泣き叫んでいる割に思考がくるくる回るなんてアイツみたいだ。

ほんの僅かな情報だけで全て見えたのだ。

だけど、もう決めたことだ。

千束、と私は彼女の名前を呼ぶ。

顔を上げた彼女に向けて私は云った。

 

「俺は、リコリコを辞めるよ」

千束の瞳が小さくなる。息を飲んで言葉が出なくなっている。

私が出した結論はこうだった。

最初から決めていた。

もはや私は彼女達の仲間じゃない。

これからすることは全て私の独断。

千束達は一切関係ない。

そんな俺が個人的に奴らと対峙するだけのこと。

そして敵対する者を皆殺しにする。

それで全て解決する。

 

「そう言うわけだ。今から俺はお前達とは無関係だ」

私は店を出るために踵を返す。

従業員でも無い人間がこの店にはいてはけない時間だ。

すぐに退散するに限る。

しかし、私の足は止められた。

カチャリと金属同士がかみ合う音。

安全装置を外し、弾を装填した音だ。

「……止まって」

振り返れば、彼女は銃を構えていた。

それは、私と千束が初めて会った日に見せてくれた予備の銃。

千束が吉松から譲り受けた、人を救うための銃。

それを、私に突きつけていた。

「少しでも動いたら撃つよ」

「……千束」

ため息交じりに彼女の名を呼ぶ。

「お前に出来るのか? 俺を止めることが。ジイドにも手も足も出なかったお前に」

やってみろよと、焚き付けるように私は云う。

千束は顔を歪め、唇を噛む。

私に銃を向けるだけで精一杯なのか、手が震えている。

「っ!!」

だが、驚くことに引き金を引いて見せた。

火薬の音と共に銃口から吐き出されたそれは、私の顔を通り過ぎて店の壁に沈み込む。

木製の箇所に当たったらしい。

ミズキもクルミもミカも息を飲み硬直している。だが、たきなだけはまだ反応できたのか防弾鞄に手を添えていた。

だが、千束が放たれる弾丸からは見えなければならないものが見えなかった。

それは粉塵。

千束が愛用している非殺傷弾が相手に弾けたときに咲く赤い花。

壁に当たった時点で撒き散らされるはずのそれが、見当たらなかった。

これが何を意味しているのか?

千束の銃に込められているものは……

 

 

「実弾か」

 

店の奥から出てきた時点で怪しむべきだった。

あの千束がホールに入り浸らないわけがない。おそらく、地下の武器庫から持ち出したのだ。

おそらくは最初からこうなることを千束も気付いていたのだ。

私を止めるために。

 

「……ははは」

 

硝煙が香る店中に乾いた笑いがこぼれ落ちる。

千束の声だ。

目から涙をこぼしながら、銃を握る手を震わせながら、それでも彼女は笑ってみせた。

私は笑わない。

笑えるわけが無い。

だが彼女は続ける。

 

「…ダメだな。いっつも先生の弾撃ってたから。実弾の当て方忘れちゃった……」

 

でもね、と千束は動いた。

震える手で握る銃の向きを変えた。

 

「…これなら外さないよ?」

 

その場にいた私を除いた全員が声をあげた。

「ちょっとアンタ……っ!」

「お前何してんだ!?」

「千束っ……」

「千束!」

 

 

私も息ができなかった。

千束は銃を向けていた。

自分自身にだ。

彼女の柔らかい頭髪が、銃口に触れて燃え上がる。

引き金を引けば、自分の脳漿をぶちまけることになるだろう。

浮き足立ち、彼女の凶行を止めまいとした彼らを「動かないで!」と云う千束の声が制止した。

「ちょっとでも動いたら撃つよ? いいの?」

そう言って千束は笑う。

いつものように、楽しげに。

まるでイタズラを仕掛けた子供のような笑顔を浮かべたまま、彼女は私を見つめた。

私を含め、この場に立つ全員は動けない。

動けるはずがない。

私達の制止を確認した千束は、ゆっくりと私に向き直り、「織田作」と私の名を呼ぶ。

「……お願いだから止めて。誰かを殺すなんて云わないで」

「千束…」

「今すぐ云って!! そんなことしないって約束して!! でないと」

私は死ぬ。

そう口にする千束は自分の頭に銃口を押し付けていた。

私は何も出来ない。

出来ることはもうない。

「私を納得させて!! 少しでも嘘をついてると思ったり、少しでも疑問に思ったら撃つ!!」

無理だ。

この今の私に千束を安全に無力化する術はない。

未来を見なくてもわかる。

銃を抜く動作や駆け寄ろうとする動作を見てから引き金を引く。

それは彼女にとって銃弾を避けることより容易いことなのだから。

錦木千束にとって、これが私を止める最も有効な手段だ。

「……織田作、聞いて?」

震えた声がまた聞こえる。

彼女だって怖いに決まっているはずなのに。

「私と初めて会った日の事覚えてる?」

「…あぁ」

「織田作と一緒に敵に捕まったよね。私ね…すごく怖かったんだ。あぁここでこの人に殺されて死ぬんだなって」

覚えている。

忘れるわけが無い。私と対峙していたせいで閃光と昏倒瓦斯に巻き込まれた彼女は、為す術無く敵に捕縛された。

以下に最強のリコリスといえど、両手両足を縛られてはただの少女にすぎなかった。

例え人を殺めていなくとも、この世界にいる以上、死は付きまとってくる。

私がかつていたあの場所と同じように。

「でも…織田作は助けてくれたでしょ? 自分が殺させるかもしれないのに、自分を殺そうとしたリコリスの私を助けてくれたでしょ?」

真っ赤に熟れた頬から流れる雫が床に落ちる。

ポロポロと雨粒よりも大きめの水滴が落ちていく。

それでも千束は続けた。

泣きながら、引き付けを起こしながらも、彼女は続けた。

「織田作はね、私にとって二人目の救世主だったんだよ?」

彼女がその言葉を口にしたとき、私の胸は酷く痛んだ。

だが、それを口にしてなお、千束は微笑んでみせた。

銃を握りしめたまま、引き攣った笑顔のまま、涙を流す。

「だからお願い……誰を殺すなんて云わないで。織田作は……織田作の夢をちゃんと叶えて」

私に、否、この場にいる全員に誰1人手を汚して欲しくないと、彼女は願っているのだ。

それがたとえ、自分が早くに命を亡くしても。

私は目を閉じ、そして開いた。

目の前には千束がいる。

私を救ってくれた少女がそこにいる。

私にもう一度、小説を書く夢を見させてくれた少女がいる。

私に何ができるのか。何が出来るのか。

私は、私は……

「……わかった」

私はそう答えるしかなかった。それ以外答えようがなかった。

千束は安心したように笑みを浮かべると、銃を下げた。

そして、その時が来た。

 

 

プツン、と部屋の灯りが消えた。

日が落ちるのが早くなってきたこの季節、今の時間帯でも電気が全て止まれば、部屋は深淵よりも深い暗闇に包まれる。

ほんの一瞬。

瞬きするよりも短い時間。

私はすでに動いていた。

目の前には、千束がいた。

淺日色の瞳孔が狭まり、大きく見開かれる。

私は、彼女の細い手首を掴み、そのまま押し倒した。

引き金を引くよりも速く。

彼女の手に握られていた拳銃が音を立てて転がり滑るように店の中を走る。

それは、たきなが履いているローファーのつま先にコツリと当たると、僅かに音を立てて止まった。

「たきな!」「たきな!」

私と千束は全く同時に、彼女の名を叫ぶ。

「銃を捨てろ!」「銃を渡して!」

だが、その内容は全く相反する形となった。

千束は私に押さえつけられた腕を振りほどこうと暴れるが、私の力は緩まない。

彼女はまだ諦めていない。

彼女が最も信頼している者に、最後の決定権が回ってしまったからだ。

私と千束は、もみ合いながら同じ人物を注視した。

たきなだ。

すでに銃を拾い上げていた彼女は、花色の瞳孔を小さく揺らしながら私と千束の顔を交互に見た。

艶のある黒髪が逆立ち、不安定に揺れている。

手に握られた銃が、かすかに震えていた。

「……千束、織田作さん…」

「たきな! 頼む!」「たきな! お願い!」

私と千束の言葉が重なる。

たきなは迷っていた。

拳銃を捨てるべきか、それとも千束に渡すべきかを。

だが、彼女ならば選べるはずだ。

千束を救う最も合理的な方法は、これしかないのだから。

 

 

 

 

「……わかりました」

 

 

 

そう言って、たきなは銃をカウンターの上に置いた。

千束からは、絶対に届くことの出来ない場所に。

「た、き…なっ……なん…で…」

押さえ込んでいた腕の力が抜けていく。

千束の声は絶望に染まっていた。

この土壇場で、自身が一番信頼していた者が裏切ったのだ。

彼女にとっても、それがどれだけ残酷なことなのかは計り知れない。

だが、千束を救う方法は、これしかないのだ。

「……たきな、ありがとう」

「……ごめんなさい」

「……どうして? どうし……て……?」

「……千束が、大切なんです」

彼女の頬から涙が零れ落ちた。

それを拭うことも無く、たきなはただ、謝罪を口にし続けた。

何度も、何度も。

そして、私はゆっくりと千束から離れた。

千束はもう抵抗しなかった。

ただ、冷たい床に力なく手を添えているだけだった。

「織田作さん……お願いします。どうか千束を……救ってあげてください」

彼女にも、私にも目をあわさずにそう告げたたきなに、私は無言で頷くと立ち上がった。

話は結した。

私がこれからどうするのか、もう決められた。

あとはただ、全てを全うするだけだ。

「作之助」

今日、初めてまともに聞いたミカの声が背後から鼓膜に響いた。

振り返ることはせず、足を止めて彼の言葉の続きを待った。

「…武器庫の弾薬、持って行けるだけ持って行け」

「……恩に着る」

千束を頼む。もう、お前しか頼れない。

絞りきるように震えた声が、私の背中に刺さる。

答えはもういらない。

支度をするために地下へ向かおうとするが、肝心な事を忘れていたため足を止めた私は、彼女に声をかけた。

「クルミ、報酬だ」

外套の懐から出された薄い封筒。

私がこの世界に来て稼いだ有り金全て。

それを、私は彼女の目の前に構えてある座敷の上に置いた。

「流石の手際だ、ウォールナット。おかげで千束を止めることができた。ありがとう」

「どういうことよ!?」

私の言葉に反応したのはミズキだった。

この状況で、声を上げることができる彼女が持ち合わせている胆力には恐れ入る。

だが、終わった以上は話さねばなるまい。

私はもう、ここにはいられないのだから。

「俺がクルミに依頼した。夜、ある時間になればこの店の灯りを消すようにハッキングしてくれと」

吉松の話をすれば、千束は私を止めようとするのは分かっていた。だが、彼女を無力化するのは容易ではない。

ジイドのように殺すのならばあるいはだが、それでは意味が無い。

確実に、安全に無力化するには彼女の目を奪うしか無かった。

「クルミ! アンタ何してんのよ!」

「…僕は個人的に依頼を受けただけだ。それがどう使われるかは僕は知らない」

さらに怒声を飛ばす彼女に、クルミは目を合わすことなく封筒を握りしめる。

そして、カウンターから降りて私のそばに歩み寄った。

「これは正当な報酬で、君から受け渡された報酬で、僕の金だ。だから、僕の好きに使って云い。違うか?」

「あぁ、そうだな」

「なら――」

 

クルミは、小さな身体で大きく動く。

封筒が握られている腕を円を描くように振り回すが、運動神経の無い電脳専門の彼女の動きはどこかつたなく歪だ。

だが、確かな力が感じられた。

私は動くことはしなかった。

 

「っ!!」

 

封筒が、私の胴にぶつかってそのまま滑り落ちる。

ぱさり、と力なく床に落ちたそれに目もくれること無くクルミは見上げた。

「見損なったよ」

そう言い残して、彼女は踵を返して店の奥へと消えていった。

これでいい。もう二度と会うこともないだろう。

だが、それで構わない。

これが最善であり、唯一の選択だ。

今更何を言われようと、後悔はない。

私は何も言わずに、今度こそ地下へと続く階段を降りた。

その瞬間に、私と千束達の間に一陣の風が吹き、目に見えない溝が確かに刻まれた感覚を覚える。

同時に何かが壊れる感覚がした。

楔が撃ち込まれ、修復不可能な罅が入ったようにそれは壊れた。

あの時、かつて失った物をと同じ物。

 

彼女が大切にしていた場所。

皆が笑顔に溢れ、楽しくいられる彼女の居場所。

私が大切にしていた記憶に並ぶ宝物。

 

 

それを私は、自分の意志で壊した。

 

 

 

地下の武器庫に入った私はすぐに準備に取りかかる。

その動作はあらかじめ決められた動作をなぞる様に迷いがない。

淀みなく行われる動作は祈りに近かった。準備の動作を繰り返す内に、心はそこにある身体から遊離し、記憶をさまよった。

いつかと同じ気分になる。

あの子達を殺されたときと、同じ。

ただ一つ違うことは、まだそれが失われていないということだ。

元々、私が求めていたのはかつて捨てた物。

紙くず同然の物を未練がましく拾い上げただけに過ぎない。

そんな物よりも価値のあるものが、まだ残っているだから。

予備の弾倉を、収納がついたリストバンドや外套に入れられるだけ詰め込んだ。

その後、どうやって店を出たのかは良く覚えていない。視線を全く感じなかったことだけは覚えている。

ただ、気づいたときには、外にいた。

玄関ポーチの前に立っていた。

客の来店と退店を知らせる鐘の音が聞こえなかったのは、私はもうここにいて良い存在では無いからだろう。

気がつけば、私は深い闇の中を街灯が照らす道を歩いていた。

ふらつく足取りは、まるで幽鬼のようだったに違いない。

それでも、私を突き動かす衝動が、歩みを止めることを許さなかった。

やることは決まっている。

あのハッカーは云っていた。奴の足取りが掴めないと。

だが私にはある。

彼女の人生を奪おうとしている人間と、同じ事を望んでいる存在ががいるということを。

私が望めば、その幽霊は答えてくれる。私と殺し合うことを何よりも欲しているのだから。

やがて、外套に忍ばせていた携帯が鳴る。

画面を見れば、非通知とかかれていた。

迷うこと無く通話に応じた。

 

「随分なことになっているな、サクノスケ」

 

乾いた声が、薄い液晶端末のスピーカーから聞こえた。

来た。

だから私は彼女達と袂を分かったのだ。

奴……ジイドから引き離すために。

 

「何故俺の番号を知った?」

「我らのハッカーもそれなりに優秀でな。貴君の連絡先は簡単に入手できたよ」

「それで俺と夜中に長電話か? ポートマフィアを震え上がらせた男が可愛い趣味だな」

皮肉を込めて言った言葉に、ジイドは喉を鳴らすように笑った。

だが、笑い声はすぐに止む。

「貴君が求めているのはあの少女の心臓だろう?」

指に力が入る。

声を上げることはしない。表情にも出さない。

奴が俺に接触を仕掛けてきた時点で、周囲に監視の目があってもおかしくないからだ。

「吉松という男を捕らえた。乃公があの少女と殺し合いたいと云えば笑顔で色々教えてくれたよ」

ジイドは笑いながら話す。

千束の心臓のこと。

吉松のこと。

私が求めている答えが、そこにはあった。

吉松を追うのが難しい以上、彼と最も接点があるのが真島だ。そして、真島と繋がっているジイドは、私の望みに応えてくれるという確信があった。

真島と手を組んでいるジイドは前々から千束に興味を示していた。

彼女を、自身の魂を浄化しうる可能性を持った敵として。

それに吉松が興味を惹かないわけが無い。

吉松は千束に人を殺して欲しい。

ジイドは千束に殺して欲しい。

利害が一致している。

ならば接触があるはずだ。

「ジイド、望み通り殺し合ってやる。居場所を教えろ」

「まぁそう焦るな。我らにも準備がある。真島が面白いことを考えていてな」

指定した日時に、ジイドはある場所に来るよう指定した。

電話でデートの待ち合わせの場所を決めるとはこの世界に来て、少女趣味にでも目覚めたらしい。

私のもう1人の友人が聞けば頭痛の種を増やすことなるだろう。

「安心しろ。その日が来るまで我らは誰も殺さないと約束する」

「信用できるか」

「決めるのは貴君だ。今この場で貴君が求める物を全て壊してもいい。前回と同じ展開はつまらないだろう? 余興は多い方が乃公も楽しめるという物だ」

罠だ。

ジイドの言葉は間違いなく、私を誘い込むための罠。

だが、私には真正面からその蜘蛛の糸を引き裂く以外に道は無い。

最初から決めていたことだ。

今更何を迷うというのだ。

「そこに真島がいるなら伝えておけ。その日、千束は来ない。歴代最強のリコリスがお前達の計画を邪魔立てしないのはお前達にとって最大の幸福のはずだ」

そして、お前達に最大の不幸を教えてやると云うと、私は告げた。

 

 

 

 

 

「俺がお前達の敵であるということだ」

 

 

 

 

 

彼らが決めた日付。

それは記念日だ。

彼女を殺す者。

彼女を縛る者。

彼女を悲しませる者。

全てが消えて無くなる目出度い日。

そこで全てが終わる。

 

 

 

 

 

「ポートマフィアの殺し方を教えてやる」

 

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

 

 

時計の針が巻き戻る。

それは彼が、織田が地下に降りた直後にまで遡る。

重く、肺から身体に巡る酸素までもが重くなったような空気がホールを包んでいた。

「…千束」

僅かに呼吸が出来たたきなは、床に膝をついたままの千束に声を絞り出した。

だが、彼女の反応は無い。

いつもなら、犬のように振り返るはずの彼女が、今や肩をピクリとも動かさなかった。

だが、やがて千束はゆっくりと立ち上がる。

その場にいたミカにも、ミズキにも、たきなにさえも目を合わせることはないまま店の扉の前に立つ。

「ごめん、ちょっと1人にして」

「…千束、私は」

「いいよ。誰も悪くない。悪くないから」

声を遮るように千束は云う。

でもごめん、ともう一度謝った。

そして告げた。

「今の皆は信用できない」

「千束!」

そう云って、彼女は店から出ていった。

カランコロンと、鐘の音が空しく響き渡ると同時にたきなは走り出した。

千束を追わなければと思ったからだ。

理由は分からない。

動けば心臓の充電が減るとか、ジイド達に狙われるとか、そんな理屈じゃ無い。

今の千束を1人にしてはいけない。

ただそれだけの理由でたきなは走った。

扉を開けて玄関ポーチを駆け下り、石畳を蹴った。

すぐに千束の背中を捉えた。

暖色混じりの白髪が深まった闇夜の中、上下に揺らしながら遠ざかっていく。

「千束! 待って!」

たきなはその後を追った。後ろ姿はどんどん小さくなる。

それでも、千束を見失わないように必死に追いかけた。

しかし、千束が足を止めたのはたきなが追いつけない距離ではなかった。

そこは、街灯の少ない路地裏だった。

大通りから離れたそこは、人の気配も無く、薄暗い空間が広がっていて、まるでこの世の終わりのような錯覚すら覚えた。

そして、そこに千束の姿があった。

建物と建物の隙間から覗く夜空の下、息を切らしている。

「千束……」

あり得ない。

リコリスの中でも随一の実力を誇る彼女がこの程度で息が切れるなんて。

やはり心臓の影響が少なからず出ているのか。

あるいは、彼とたきな自身のせいなのか。

それを知る術は今のたきなにはない。

あるとすれば、彼女に聞くことのみだった。

たきなは、手に膝をついていた彼女の肩に手を触れようとした。

「!」

だが、振り払われた。

相手は他でもない。

千束だ。

誰かと手を取り合うのが好きな彼女からもっともかけ離れたことを、最も親しい人間に振るい、叫んだ。

「なんで銃を渡してくれなかったの!?」

普段の彼女からは想像もつかないような鋭い眼光で睨みつける。

その瞳の奥には怒りと悲しみが渦巻いていた。

泣き叫び、喚き、糾弾する。

錦木千束だ絶対に他人には見せたことのない感情をまき散らしていた。

「なんで! どうして!!」

「それは……」

「どうして織田作を止めてあげなかったの!? なんで! なんでっ!!」

そして、千束は大粒の涙を流す。

頬を伝い、赤い制服でいくら拭っても溢れてくる。

そして、千束は叫ぶ。

 

「止めなくちゃいけなかったの!! あの時、あぁでもしないといけなかったの!! でなきゃ……そうでなきゃ……」

 

 

 

 

織田作が死んじゃう。

 

 

 

 

膝をつき、顔を伏せて千束は泣く。

嗚咽が漏れる。

ようやくわかった。

あの時、彼にだけ聞こえるように呟いた言葉の意味が。

千束がなぜ、自分の命を擲ってまで彼の暴走を止めようとしたのか。

彼女はわかっていたのだ。

あのまま彼を行かせてしまえば、彼が死ぬことを。

最初から、わかっていた。

 

吉松を殺し、真島を殺し、ジイドを殺す。

千束を救うために。

千束に害をなす者を討つために。

例え、最後に自身が死ぬこと知っていても。

「…ごめん、なさい」

たきなは後悔した。

自身の選択を。

結果として、慕っている彼を、恩人である彼を、かけがえのない仲間である彼を殺してしまう選択をしてしまったことを。

「ごめんなさい……っ」

 

泣き叫ぶ千束の身体を、頬を伝う液体が走るのを感じながら抱きしめる。

千束はたきなの腕の中で暴れる。

それでも、放さない。

今、彼女を離せばこの闇の中に飲まれて消えてしまいそうだったからだ

「ごめんなさい……ごめんなさいっ……」

たきなはただ謝ることしか出来なかった。

「馬鹿! たきなの馬鹿!! 馬鹿ぁ!!」

千束もまた、子供のように泣いていた。

声を上げて、腕を振り回し、足を叩きつけて、力いっぱいにたきなの胸を叩く。

何度も、何度も…何度も。

 

 

「うわああああああああああああああああっ!!!!」

 

 

そして、虹色に輝いている平和の象徴が立つ夜空に彼女の泣き叫ぶ声が遠くに溶けていった。








不語。
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