「ちょっとフキ先輩!」
「テメェ舐めてんのかっ!」
DA本部の寮。
全てのリコリスが憧れとした幻想的な噴水が背景となっているこの場所に似合わない罵声が響いた。
小柄ながらも強い力で胸ぐらを押さえつけられたたきなは、そのまま壁に叩きつけられた。
今の相方であるサクラの制止も空しく、フキはたきなを睨みつける。
「別に…ただ事実を云っただけですが?」
背中に走るはずの鈍い痛みすら感じず、たきなは首を傾げながら静かにそう返した。
その反応が気に食わなかったのか、フキはさらに顔を歪めると拳を振り上げる。
だがそれは、突然現れた別の人物によって阻まれた。
くすんだ柑橘を思わせる丸みを帯びた頭髪の彼女は、エリカだ。
かつて、たきなとフキとアルファチームとして活動していた少女であり、たきなが喫茶リコリコに左遷された原因を作った少女。
彼女はフキの腕を掴む。
フキの覇気に怯えて、声を震わせながらも賢明に言葉を紡ぐ。
「落ち着いて…たきなも、ちゃんと謝って…」
「謝る事なんてないですよ。事実なんですから」
「んだとテメェ!」
「止めなよ!」
耐えかねて今度は別の少女も割って入る。
エリカとパートナーを組んでいるヒバナだ。
彼女もアルファチームの一員で、例の銃取引にいた。
エリカに比べて気丈な印象を与える彼女もまた、フキの身体を両腕で掴んでたきなから引きはがそうとしている。
だが、その顔は険しくたきなを睨み付けていた。
「たきな…、アンタ何であんなこと司令に云ったの? 真島を追うなんて時間の無駄。ただ死人を増やすだけ。作戦なんてやらなくていいって」
「えぇ、事実ですから」
たきなの言葉を聞いて、ヒバナの顔色がさらに変わった。
彼女の怒りに呼応してか、フキ腕の力が強くなったように感じる。
それでもなお、たきなは平然としていた。
「真島の用心棒、ジイドは危険です。私達じゃ絶対に勝てない。間違いなく全員殺されます」
たきなはあの亡霊の恐ろしさの一端を目の当たりにしたのだ。
歴代最強のリコリスと謳われた千束を数分足らずで戦意喪失まで追い込んだ男。
彼が、真島が企てている新しく創立される電波塔、『延空木』を狙ったテロ計画に荷担しているのだ。
この日、その真島が拠点としているアジトに踏み入ったがもぬけの殻。
通信映像で真島と楠木が何か話していたが内容など彼女の耳には入っていなかった。
正義がどうだの、悪がどうだの、秩序がどうだの、平和がどうだの、小難しい話をしていたような気がするが、ほとんど覚えていない。
彼女にとって、全て関係の無いことなのだから。
「じゃあどうしろっていうんだテメェは! このままあのテロリストが延空木を爆破するのを指くわえて見てろっていうのか!!」
「いっそのこと、ジイドと真島ごと延空木を爆破する作戦は悪くないですね。それなら、確実にジイドに致命傷を与えられます」
たきなは話していない。
話しても信じるはずがないからだ。
ジイドが何者か、たきなは知っていた。
彼女が慕っていた男、織田作之助と、全く同じ力を彼は持っている。
数秒先に起こる自身の危機を見る能力。
奇襲と暗殺が本懐のリコリスとは相性最悪だ。
勝てるわけが無い。
あるとすれば、逃げられない場所におびき出して周辺ごと焼け野原にするしか方法が無い。
たった1人の人間を除いて。
「そんなことをしたら、テロと変わんないじゃないっすか」
「だから、云ってるじゃないですか。無理なんですよ。私達じゃ勝てません」
「テメェ!」
「でも……、でも……」
エリカの声は段々と小さくなっていく。
そして、ついには何も言えなくなった。
「もう良いだろう。お前達」
そこに新たな声が加わる。
落ち着いた女性の声だった。
エリカやフキよりも大人びていて、それでいて威厳のある声音。
赤い頭髪に白いコートを揺らしながら毅然と歩いている。
楠木のものだ。
彼女はいつの間にかたきな達のすぐ近くに立っていた。
彼女の姿を見た瞬間、フキにエリカ、ヒバナにサクラの動きが止まる。
「……ッス」
「……はい」
2人は渋々といった様子で返事をして、たきなから手を離した。
解放されたたきなだけは、何事も無かったかのように服の乱れを直して佇んでいる。
楠木にすら、目を合わせようとする素振りすら見せようとしない。
「たきな、望み通りの復帰だぞ? なのにその態度はなんだ? 不満があるなら私に云ってみろ」
「不満はありません。ただ、多数の犠牲が出るのが分かっているのに彼らと対峙するのは無謀と云っているだけです」
「お前!」とフキが再び声を上げるが、楠木は手を出して彼女を止める。
楠木もわかっているのだ。
ジイドという男が、どれだけ恐ろしいか。
千束が撃たれた。
真正面に敵との立ち会いで。
今まで彼女の成長を見てきた楠木にとっても、その知らせは衝撃的であった。
被弾した姿など見たことが無い。
敵に拐かされることこそあったが、それも不測の事態故十分考慮できた。
齢七歳で、十名を越えた同世代のリコリス達を歯牙にもかけなかった千束がだ。
例え、DA本部に籍を置かなくとも、ある程度自由に行動することを許可したのも、彼女の圧倒的強さがあったからこそ。
だがそんな彼女をたった数手で戦意喪失まで追い込んだ。
それだけでたきなの妄言の意味が変わってくる。
「ジイドは、彼と、織田作さんと同じです。その上、彼と戦えば、あの馬鹿げた試験のような結果では済まされません」
たきなの言葉に流石の楠木も眉間の皺が増える。だがそれもたきなには関係の無いことだ。
そもそも、あの試験という茶番も楠木が事故に見せかけて彼を殺そうとしただけ。
ものの見事にスルーされた挙げ句、あの年齢で無理のあるお嬢様口調をさせられて赤っ恥をかかされたのだ。無理も無い。
DAに戻った直後に聞かされたが、あれが今もリコリスの間で流行っていると云う。
酷い話だ。
だが、奴は織田とは違う。
あの死霊ならば、織田と同じように、否、それ以上の力で襲ってくる。
彼のような優しさや情など持ち合わせていない。
銃を抜く暇も与えてはくれないだろう。
「たきな、そこまで言うならなにか意見を出せ。貴様もリコリスだろう。我々はこの国の秩序のために奴らのような者を消す使命がある」
話せ。
と、楠木の瞳が鋭く光る。
この場にいる誰もが、彼女の言葉に逆らうことは出来ない。
リコリスならば、例外はない。
たとえ、彼女がどんな理由を持っていても、だ。
その事実が、彼女達に重く圧し掛かる。
それでもなお、たきなは動じない。
まるで最初から答えが決まっているかのように。
淡々と、言葉を紡ぐ。
「だから、最初から話しているじゃないですか。何もする必要なんて無いんですよ」
何もしない。
する必要が無い。
それが答えだ。
なぜなら、全ての解決策はもう出ているからだ。
それを決めてしまったのはたきな自身だ。
彼女に出来たはじめての大切な人の願いを踏みにじった上、彼の夢を知っていたはずなのにその選択をしてしまった。
人の命を奪いたくないという彼女の願いと、小説家になりたいという彼の夢。
あの時したたきなの選択は、そのどちらも裏切ってしまった。
彼は、たった1人で奴らと対峙しようとしている。
それが何を意味するのかもわかってしまった。
彼が全てを終わらせてしまう。
そして、彼がいなくなってしまう。
例え、彼女が生き残っても意味が無い。
もうあそこに、井ノ上たきなの居場所は無い。
「ここにも、あそこにも、私の居場所はないんです」
それでは、とたきながその場を離れようとする。
もう話すことは何もない。
彼女は歩き出す。
しかし、「たきな」と楠木の声がその足を止めた。
「貴様の処遇は後々考える。だが今は延空木のことに集中しろ。貴様もリコリスとしての使命を果たせ」
振り返ること無くたきなは答えた。
「もう、良いんです」
どうでも良い。
もうすでに全て結している。
何をしても時間と労力の無駄で効率が悪い。
リコリスも、真島も、ジイドも、延空木も、心臓も、吉松も、アラン機関も何もかも、どうでもいい。
考えること全てが無駄だ。
だが最低限の仕事はしよう。
その後はもう全てどうでもいい。
彼女にとって大切な物は、もう手に入ることはないのだから。
「もう、どうでも良いんです」
*****
「…クルミ、アンタ何してんのよ?」
「ミズキこそ、何してるんだ?」
それから数日が経った。
彼女達が集う居場所にいるのは2人だけ。
クルミとミズキだ。
押し入れを改造して作り上げたハッカーとしての空間。
ミズキは戸を開けて中にいるクルミと共にいた。
ニュースでは春から話題となった延空木の完成で持ちきりになっているが2人は目もくれなかった。
織田は勿論、千束もあの夜店を飛び出してからこの店の扉を開けることはなかった。
彼女達の鼓膜に否応でも響く、千束が来ましたという声が聞こえてくることもない。
「たきなは?」
「あの子はDAに戻ったよ。あの日の朝に」
「そうか」
もう1人、ここを出た人間がいた。
たきなだ。
DA本部からの復帰の辞令。
真島というテロリストのアジトが分かったDAは、人手を確保するために追い出したたきなにまで招集命令をかけた。
春に喫茶リコリコに飛ばされた彼女にとって、それは念願叶った望みのはずだった。
だが、この場所で過ごしてきた彼女にとって、それが本当の望みであることを知る術は2人にはなかった。
「見つけた」
「何が?」
「これを見ろ。織田作の読みは合ってた」
クルミが見せた液晶映像には、ある人工心臓がアタッシュケースに収められているところを撮影したものだった。
あの夜から夜通し、寝る間も惜しんでダークウェブの海に潜り続けてつかんだ一縷の望み。
周辺のマグカップに注がれた液体の振動を逆算することで録音されていないはずの音声すらも、今話していることのように聞こえる。
「アンタ、これ! 千束の心臓じゃない! 本当にあったんだ」
「織田作の読みはあくまで推測だ。この目でちゃんと調べ上げないと納得できない」
「でも、これじゃやっぱり」
「…そういうことになるな」
それは、織田が提案した四つの手段の内、最後の四つ目を実行することが確定してしまったということになる。
強奪。
彼は吉松を殺して、千束の心臓を奪い取るだろう。
もし見つからなければ、予備の人工心臓などなければ彼を説得して、千束の元へ呼び戻すことも出来たはずだ。
それが、千束にとって最も大切な願いだったはずだから。
「アイツなら、きっとやる。千束は助かるよ。ただ」
ただ、もう彼がここに足を踏み入れることはない。
彼女達がいたこの場所に、戻ってくることは、もうない。
命大事に。
その方針と、千束の命令を反故にするために彼は袂を分かったのだ。
それはクルミとミズキにも同じだ。
クルミは何も知らなかったとはいえ、命がけの千束の説得を邪魔立てした。
ミズキも、ただ傍観しているだけで反論も、彼を止めることもしなかった。
彼女の望みと願いを踏みにじったのだ。
「…そっか。じゃあもう、私らが出来ることは無いのね」
「そうだな」
これで万事解決。めでたしめでたし。
とミズキは伸びをしながら腕や身体を回している。
その年齢になってそういう少女らしい身振り手振りは見ていて痛々しいを通り越していたのでクルミは見て見ぬ振りを貫くこととした。
回りながら、それで、とミズキは続けた。
「アンタはこれからどうするの?」
「僕はそろそろこの国を出るよ。良い機会だ。いつまでも千束達に匿ってもらうわけには行かない。ミカに案内してもらえばすぐだ」
お前は?
と、今度はミズキに訊く。
意外な答えが返ってきた。
「私はーそうね、婚活サイトで知り合ったバンクーバーのイケメンに会いに行こうかしらー」
「おぉ、ついに候補が見つかったのか?」
「見てみる?」
「おぉーガチムチだなぁ。しかも金髪碧眼じゃないか。こんなのどうやって見つけたんだ?」
画面の中で微笑む男性の顔を見て、ミズキは目を輝かせている。
万年限界婚活女子である彼女のお眼鏡にかなう相手がついに見つかった。
バンクーバーは遠いが、彼女もまたDAの職員。
車の操縦以外にもヘリや小型飛行機の操縦から多様な語学。
千束がリコリスとして活動するために十全なサポートをこなすためにはどれもかかせないものだった。
彼女ならば新天地でもやっていけるだろう。
「んじゃ、準備しないとね」
「そうだな」
「……」
「……」
「……」
「……」
沈黙が続く。
会話が続かなくなる。
2人の間柄で、そんなことは起きなかったはずなのに。
だが、理由だけは分かっている。
彼が、彼女達がいないからだ。
あの3人が、いないからだ。
いつも自分勝手に動くくせに妙に周りが見えてこの店を明るく照らしていた少女が。
効率重視で一見冷たいが、最近になって様々な表情を吐露し始めてきてこの店も少しだけ賑やかなものになっていた少女が。
いつも無愛想な顔をしていて実は面倒見が良くて意外と抜けていておかしな所もあった青年がいない。
あの3人がいない。
この店で、この場所で、そこにいるだけで気温を上げていた彼らがいない。
それだけだ。たったそれだけのことだ。
「…静かになったわね」
「…そうだな」
「店閉めてるから客も来ないし」
「アイツらがやかましくしないから落ち着いて調べることが出来たし」
「良いことずくめね」
「良いことずくめだな」
「……」
「……」
再び沈黙がこの場を支配する。
いつもなら、彼らの内の誰かが声をかけてまた引っかき回すのだ。
それが、五月蠅く、喧しく、騒がしく、煩わしかった。
声を上げて突っ込むことも、激情に駆られて切れ散らかすこともない。
静かで、朗らかで、安からで、穏やかな空間のはずなのに。
それだけだ。たったそれだけのことだ。
それだけのことなのだ。
それだというのに。
どうしてか、2人は黙り込んでしまう。
何かが足りない。
何が足りていないのかは分からない。
だが、確かにここには何かが欠けている。
それがなんなのかが分からなくて、だから何も言えない。
いなくなって初めて気付くことがある。
彼らは自分達にとってどれだけ大きな存在だったかを。
それが、どういうわけか落ち着かなかった。
耐えかねてか、人と関わるのを好まないはずのクルミからその沈黙を破った。
「なぁミズキ」
「なによ?」
「このままでいいと思うか?」
「何言ってんのよ? 千束は死なないし? たきなはDAに戻れたし? 織田は…まぁアイツはなんやかんや死なないだろうし、クルミは生きてこの国を出られるし? 私はついに理想の相手と完璧な結婚生活を迎えられるわけよ?」
「そうだな」
「そうでしょ?」
最後の沈黙を迎えた。
ほんのわずか、ほんの数秒の小さな沈黙。
破られたのは、同時に同じ言葉が発せられたからだった。
「「良い訳ないだろ!!」」