彼岸花と迷い犬   作:黒ゴマアザラシ

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行ってきます

あの日の夜。

たきなの胸の中で暴れながら泣いていた後。

どうやって店に戻ったのか、記憶が曖昧だ。

おそらくはミズキ辺りが車に乗せてくれたのだろう。

1度店に戻った千束は、その覚束ない足で自宅に向かった。

自宅、と云うのはいささか語弊がある。

彼女が住まう家は全部で四つ。

リコリスとして外で働いている彼女が身を守るために作ったセーフハウス。

チンピラからリコリス殺しのリリベルまで多種多様な人間が彼女に恨みを買っていたためできた場所。

その内一つに、千束はいた。

部屋は彼女の名付けではセーフハウス4号。

かつて、犬小屋以下の暮らしをしていた彼と出会った時に貸すことになった部屋だ。

彼、織田作之助の部屋に、千束はいた。

下に隠された居住スペースでは無い。

セーフハウスとしてのカモフラージュに使われている生活感の無い空き部屋だ。

下着等の衣類をまとめる収納と、最低限の家具しか無い殺風景な空間。

そこに彼女はいた。

まるで、この世の全てを拒絶するかのように布団を頭から被り、ベッドの中に潜り込んでいた。

こうして何日続いたかも朧げだ。

最初の一日はずっとベッドの中で泣いていた。

二日目から汗で気持ち悪くなってシャワー浴びたがまたベッドの中でうずくまっていた。

空腹には耐えられず、途中でお客さんからもらった美味しい新米と塩鮭を口にしたが、涙の味しかしなかった。

それがまた悲しくて、泣いた。

三日目もずっとベッドの中で過ごしていた。

大好きな映画も見る気力が無く、ぼんやりと天井を眺めていた。

この部屋を見渡しても、何も無い。

彼を象徴する物が、彼が生きていた証の残す物が何も無い。

まるで最初から彼がいなかったように。

それがたまらなく悲しくて、また泣いた。

布団に染みついた彼の匂いだけが、千束にとって唯一彼を感じられるものだった。

だけどこの匂いも近いうちに薄れて消えていくのだと思えば思うほど辛くて、さらに泣いた。

四日目から変化が起きた。

朝は静かだったのに、昼間になると携帯がずっと鳴っている。

千束の携帯はリコリスとしての活動としても使われているため電池の持ちは使わなければ1週間は持つようになっているのだが、着信履歴を見ると全部同じ人物からの電話だ。

もちろん、相手は楠木からだ。

液晶の灯りを付けた時に見えたバナーに延空木完成セレモニー中にテロ発生という通知のおまけ付き。

おそらく、楠木の連絡はこの通知と関係があるのだろう。

だが千束は応じる気力など無かった。

彼女に出来ることは無い。

全て、彼が終わらせてしまう。

千束の救世主で、今も尚彼女の命を脅かしている吉松も今テロを起こしている真島も、それに荷担しているジイドも、全員殺す。

最後にジイドと差し違えるつもりだ。

彼は小説家になる夢も、自身の命すらも捨てて、千束を救う気なのだ。

だから彼女は自らの命すらも駆け引きの道具にして彼を止めようとした。

だがそれも無駄に終わった。

もう何もする必要は無い。

楠木が千束に頼るほどの相手達は、全て彼が殺してしまうだろう。

後はまた事件を都合良く塗り替えるのだ。

事件は事故に、悲劇は美談に。

10年前、千束が守り戦った旧電波塔と同じように。

きっと彼のこともなかったことにされる。

そうなれば、この世界に織田作之助という人間が最初から存在していなかったということになるだろう。

悲しくなって、また涙が溢れてきた。

なのに、彼女の気持を無視するかのように携帯は鳴り止まない。

きっと、楠木自身の保身のためだ。

テロ防止だのこの国の秩序などは二の次。

ここ数年まれに見る大規模なテロに対してリリベルを統括するお偉いさん達に催促されたのだ。

楠木も、リリベル達も、吉松も、結局千束を人を殺すための道具としてしか見ていない。

そんな奴らに、胸の中にある悲しみと思い出を踏みにじられていると思うと、鳴り響く携帯の音すら憎くなった。

布団から飛び起きて携帯を握りしめると大きく振りかぶる。そのまま窓ガラスへ向けて放り投げるために。

だけどすんでの所で腕が止まった。

この中に、一つだけあったからだ。

彼が、織田作之助がいたということを証明する物が。

千束とたきなと彼の3人で撮った、彼の大切な思い出の写真と同じ構図の写真。

撮影した直後、自宅でその写真を朝まで眺めていたことをすんでのところで思い出した。

 

「……うぅっ」

 

手から携帯が滑り落ち、柔らかいベッドの上で何度も跳ねる。

その度にスピーカーが布団と重なったせいか、携帯からの音量が規則的に上下した。

「うううううぅっ」

ベッドの上にある携帯をまた握り締め、決して離さないように胸に抱きしめた千束はそのまま蹲ってまた泣いた。

捨てられない。

捨てられるわけが無い。

これを捨ててしまえば、織田作之助がいたという事実が、織田作之助が千束達と過ごしたという事実が、本当に何も無くなってしまうからだ。

涙で霧が掛かったようにぼやけた視界の中、震える指で携帯の電源を落とした彼女は、布団に包まると携帯を胸に抱きながら泣き続けた。

それからどれくらい時間が経っただろうか?

十分?

十五分?

三十分?

泣いていたからわからなかったが、玄関の戸が開く音がした。

普段ならば敵かと身構えた千束だったが、今はその気概もない。

敵ならばどうぞ殺してほしいとさえ願ってしまった。

そうすれば、彼の暴走を止めることが出来るのだから。

だが、聞こえてくる足跡は、千束が最も多く耳にした音だった。

足で床を踏む音の合間に聞こえる硬い何かが当たる音。

杖をついている音。

それが何を意味しているのか、千束はすぐに気付いた。

 

「ここにいたのか、千束」

 

千束が布団から顔を出すのと同時に部屋の扉が開かれ、そこには藤色の和服を着た色黒の男性が立っていた。

ミカだった。

千束にとっては銃の先生であり、育ての親であり、喫茶リコリコでの雇い主であり、千束の仲間である、ミカだった。

 

「…先生」

千束は弱々しく声を上げた。

だがハッとした彼女はまたすぐに布団に包まる。

彼がここに来た理由がわかっていたからだ。

「楠木さんに言われてきたんでしょ?」

「そうだ」

「私をアイツらと戦わせるために?」

「いいや、違う」

杖をつきながら老犬のようにゆっくりとベッドまで歩いてきたミカは、千束が丸くなっているすぐ隣に腰を降ろす。

そして、ふぅと大きく息を吐いた。

「私は楠木に、千束と直接話してくると云っただけだ。連れてくるとは一言も云っていない」

「……そっか。先生も悪い人だね」

布団の中からくぐもった声で笑う千束。

その言葉に少しばかりムッとした表情を見せたミカだったが、彼女の様子を確認すると、何も言わずに微笑んだ。

そしてそのまま彼女の頭を撫でる。

まるで幼子をあやす様に。

だが、その感触が心地良かった。

昔を思い出すようだ。

初めてリコリコを始めたばかりのとき、千束とミカしかいなかった時、彼はこうしてよく千束の頭を優しく撫でてくれた。

その行為に深い意味など無い。

ただ、彼はそういう性格なのだ。

子供扱いされているようで嫌がる者もいるかもしれないが、少なくとも、千束は嫌いではなかった。

それに、彼にこうしてもらうといつも安心できた。

「千束、珈琲でも飲むか?」

彼の問いに、布団越しから「うん」と言葉が返ってきた。

「……ねぇ、先生」

「なんだ?」

向かい合うテーブルに、マグカップに注がれた珈琲が湯気を立てている。

それを一口啜る。やっぱり涙の味しかしない。

大好きだったはずのミカが淹れた珈琲の味が全くしなかった。

ポツリと呟いた千束の言葉に返事をするミカ。

彼女は大多数を占める不安と僅かに残った期待を胸に尋ねた。

「吉さんの話、本当?」

千束の心臓と吉松シンジのこと、その真実について。

あの夜話した内容は、あくまで織田の言葉でしか無い。

だからこそ、当事者であったミカ本人から本当のことを聞きたかったのだ。

「…そうだ」

彼の口から出てきたのは予想通りの答えだった。

「……続けて?」

驚くことは無い。

若し違うなら、あの時否定してくれたはずだ。

だからこれは確認ですらない。自分の気持ちを再認識するための儀式のようなものだった。

「あの時私がシンジにオペを頼んだのは司令官としての利益のためだ。少なくともあの時はそうだった」

ミカは続けた。

千束の人工心臓をなぜ吉松が提供してくれたのか。

その時、吉松とどんな約束を交わしたのかも。

必ず、千束をを最強の殺し屋として育ててくれ、と。

「そっか…」

そこまで聞いて、千束は全てを理解した。

理解はすでにしていた。

それでも、本人の口から聞かなければ、納得できなかった。

誰かを助ける救世主になる。

自分を救ってくれた吉松のようになりたい。

そのために人を殺すために銃を使わなかった。だけどそれは、彼の望みではなかった。

千束の力は人を殺すために銃を使えと望まれていた。

「…じゃあさ、なんで最初に教えてくれなかったの?」

その問いに、震えた声で「…云えなかった」と云う答えが返ってきた。

「お前の中でどんどん大きくなるシンジに対する憧れはいつ終わるかわからない命を支える力となっていった…」

ミカは続けた。

それはとても眩しくて、儚いものだと。

千束の無垢なる願いが、恩人である吉松に届いていない物だとしても。

「云えば良かったのか? お前の生き方は間違ってる! 殺しを重ねればシンジはまたお前を助けてくれると…」

珈琲の水面と湯気が揺れる。

それはミカが千束に一度も見せたことが無い、嘆きの表情だった。

きっと彼は後悔しているのだ。

あの時の決断を。

そして、千束に嘘をついたことを。

「言えばよかったのか!? 教えてくれ、千束」

だが、そんなミカの悲痛な叫びにも、千束は何も言わずソッと握られていたミカの手に触れる。

「ありがとう先生。私に決めさせてくれてありがとう」

温かく、大きな手だった。

その手が、震えていた。

千束は、ただ彼の手を握り返した。

「それ聞いてたら多分私は負けてた。そんで仕方なくリコリスの仕事してたと思う。んで嫌な事とか辛い事は全部先生や吉さんのせいにするんだ。それは嫌だわ~。うん。ないない」

まるで他人事のようにカラカラと笑う千束。

その様子をミカは呆然と見つめている。

「私の仕事も、このお店を始めたのも全部私が決めたこと。それをさせてくれた先生と吉さんへの感謝は今の話を聞いても全然変わんない」

指先ででテーブルを撫でながら千束は続ける。

「そうしてくれたから、私は先生とリコリコで働けた。ミズキとも仲良くなれた、お客さんとも、たきなとも、クルミとも会えた」

そのあり方を、選ばせてくれたのはミカと千束が吉さんと慕う彼がいたからだ。

例え、望まれていなかったとしても。

千束が選んだ道だ。

ミカが望まなくても、千束自身が選んだ道だ。

それが彼女の決めた人生だ。

誰かの時間を奪いたくない。

人を殺すのではなく、人を助ける存在でありたい。

吉松がいなければ千束は幼いときに死んでいたし、ミカがいなければこの生き方を選べなかった。

「二人とも私のお父さんだよ。それが一番嬉しいって感じする」

そう言って、千束は笑った。

ミカの目から涙が溢れていた。

「それとね」と千束は続けた。

もう1人いた。

この生き方を素敵だと言ってくれた人がいた。

ミカの他に、はじめから認めてくれた人がいた。

フキも、ミズキも、吉松も、たきなでさえも、彼女のあり方に少なくとも1度は異を唱えていた。

だけど彼だけは違った。

最初にそれを選べた千束は凄いと云ってくれた人がいた。

誰から言われたでもなく、自分で決めた。

確かにきっかけは誰かだったのかもしれない。それでも、生き方を自分の意志で決めることができた千束は凄いと云ってくれた人が、たった1人だけいた。

彼らが千束を救ってくれなければ、彼と出会うことは無かった。

彼と共に働くことも、仲間になる事も無かった。

だから、例え残りの命を奪われたとしても恨むことなど無い。

この気持ちを、知ることが出来たんだから。

「先生、訊いて私ね」

 

 

 

 

 

 

 

――好きな人ができたんだ。

 

 

 

 

 

 

 

「…そうか、そうかっ……」

 

そう告げると、ミカは涙を流したまま笑い出した。

嬉しそうに、幸せそうに。

そして、千束も泣きそうな顔のまま、笑顔を作った。

「大きく、なったなぁ……」

「うん。大きくなったよ。私だって変わったんだよ?」

ミカの言葉に千束は応えた。

「ああ、そうだな。本当に、すっかり大人の女性だな」

「……えへへ、ありがと。先生」

千束は照れくさそうに頬を掻く。

ミカの瞳からは未だに涙が流れていたが、その表情はとても晴れやかなものだった。

「先生」

「なんだ?」

「その人はね、私を助けるために自分の全部を捨てようとしてるの。自分の夢も、生きる理由も、命すらも。全部、私のために」

1度口にすると、覚悟が決まった。

これから自分がどうしたいか、残された命をどう使いたいか、決めることが出来た。

ミカが千束に決めさせてくれたように、彼が凄いと云ってくれた時と同じように。

千束の言葉にミカは静かに目を閉じる。

それはまるで祈るような姿だった。

千束はその姿を見て、微笑みながら口を開いた。

彼の事を、想いながら。

ゆっくりと、言葉を選ぶ。

「私、その人に生きて欲しい。生きて、1度捨てちゃった夢をちゃんと叶えて欲しい」

その願いに、ミカは目を開けて千束を見た。

その表情は、どこか納得しているようで、そしてとても満足しているように見えた。

「だから、その人を助けたい。助けに行きたい」

「……そうか」

ミカはそれだけ呟いた。

その声には諦めや、悲しみは含まれておらず、ただ、穏やかで優しい響きがあった。

「だから、行ってくるね? 先生」

千束の宣言にも、ミカは驚くことなく穏やかな声で言った。

「行ってこい。千束」

ミカの声を聞き、千束は立ち上がった。

「うん。ありがとう先生」

「送ろうか?」

「いやいい。これはリコリスとしてじゃなくて、私がしたいことだから」

千束はそのままドアの方へと向かう。

そんな千束の背中に向かって、「忘れ物だぞ」とミカは言った。

千立ち止まり振り返った。

手渡されたのは携帯。

千束と彼の思い出が記された大切な物。千束はそれをギュッと抱きしめた。

彼の温もりを感じる気がして、また泣いてしまいそうだった。それをグッと堪えて笑う。

「行ってきます」

千束は部屋を出た。

そしてすぐに走り出した。

切っていた携帯の電源を入れる。

十数秒ほど起動に時間を要すると、すぐに電話が掛かってきた。

また楠木かと思い画面を見ると意外な人物からの知らせだったためそのまま出た。

「ミズキ?」

「あ!! アンタやっと出たわね!! 途中で電源切れてたし何してたのよ!!」

「あれ? もしかして割と前から電話してきた?」

「そうよ!! 何回もかけても出ないし! 次でなかったらアンタのセーフハウス全部回ってやるとこだったんだからね!!」

千束は思わず笑ってしまった。

ミズキらしい行動だと。

彼女はそれに気づいたのか少し黙ったあと、いつものように悪態をつく。

だが、その口調は普段よりもずっと優しく、彼女の心配が伝わってきた。

「それで? その様子だともう復活してる感じ」

「うん、なんとかね」

「あ~じゃあ私がアンタに何か発破をかける必要はなかったわけね」

再び悪態を零すミズキに「そんなことないよ」と千束は返した。

「ミズキの声訊いたらなんか安心した。ありがと」

「…あんった、そういうとこ調子良いわよね……」

今度はため息交じりにそう言うと、ミズキは続けて話し始めた。

千束が助けたい人が今どこにいるのか。

どこに向かっているのか。

それを教えてくれた。

「そっか、ありがと」

「礼ならクルミに言いなさい。クルミが全部調べたんだから」

「うん、後でちゃんと連絡する」

千束はそう答えると、通話を切った。

クルミの名前を聞いてまた安心する。彼のために、彼女もまた何かしようとしてくれている。その事実が千束の背中を押してくれた。

そして走る速度を上げる。

(早く、あの人のところへ)

ミズキにに教えられた場所。

それは、彼女達の居場所、喫茶リコリコを見守るように見下ろしてくれていた場所。

錦木千束にとって、最も因縁のあるあの場所に向けて、彼女は走り出す。

 

平和の象徴。

旧電波塔へ。








晴れ着シーンを描写できなかった(血涙)
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