あの日の夜から、今日この日までどうやって過ごしたのか、良く覚えていない。
何日経っていたかも定かでは無い。
ただ、この日が、この時間が来ることだけを待ち望んで街中を1人歩き回っていたことだけは確かだ。
道を行き交う人々は皆、思い思いの方向へ歩いていた。きっと向かうべき場所があり、会いに行くべき人がおり、帰るべき家があるのだろう。それが、人間が生きる世界だ。
私が1度捨てて、もう一度手を伸ばそうとした世界。
確かに、私はそこにいられた。
だけどそれももう捨てた。
思い返せば、うつろな夢の中を漂っているような毎日だった。
空に浮かぶシャボン玉のように儚くて、指で触れただけで弾けて消えてしまいそうな日々だった。
だからこそ、終わるときもまた呆気ないものなのだと知った。
そしてそれは、今まさに終わりを迎えようとしている。
一つの希望があるとすれば、彼女達だけはこちら側の世界に来なくて済む。
ただ、それだけだった。
今の望みは、一つだけだった。
私はある廃墟の中を歩いていた。
そこは私がかつて過ごしていた場所からその御姿をよく拝ませてくれていた旧電波塔と呼ばれる施設。
誰もいない壊れた場所を不確かな足取りで歩いていた。
表向きには平和の象徴として祭り上げられていたその場所の内実は、十前にテロリストが爆破したことによる惨劇の証でもあった。
それが今や都合良く塗り替えられている。
私もそのように最初から無かったことにされるだろう。
だが、それでいい。
こちら側の世界に踏み入れた人間が、彼女達のそばにいていいはずがないのだから。
そして、私はたどり着いた。
旧電波塔の最上階。
私の居場所を見下ろし、儚く輝いていた展望台に。
そこに、私が求める物があったからだ。
ここに来る道中、街中のテレビ放送でなにかの演説が2回ほどあったがよく覚えていない。
平和とは自由とか、幸福やバランスとか真実とかよくわからないこと話していた。
多分私には関係の無いことだ。
わかっていればいいのは、画面に映っていた男の顔が、今日、私が殺さないといけない顔の一つであることだけだ。
だが、その前に殺さないといけない顔がある。
「やあ、織田君」
展望台に上ってすぐ、声をかけられた。
落ち着いた物腰をした声だ。背広姿に七三に分けた黄土色の頭髪に、輪郭線が薄い優男がいた。
吉松シンジ。
彼が、私が探し求めていた物を持っている男。
そして、彼女の命を救い、今は脅かしている男の名だ。
彼は私が展望台に来るのを待っていたのか、階段を上りきったところまで来ても動こうとはしなかった。
「君とは妙に縁があるね。千束もよく君のことを――」
彼の言葉は最後まで聞くことは無かった。
それはなぜか。
拳が彼のどてっ腹にめり込んだからだ。
誰の拳か?
それは語るまでも無い。
なぜなら、ここには私と彼以外にいないのだから。
「かはっ……!」
吉松はその場に崩れ落ちるように膝から崩れ落ちた。
その顔が丁度私の膝元に切れくれたので、つい足を上げてしまった。
「ぐぅ……!」
踵で顎を踏み抜くようにして蹴り上げる。
靴底越しでも分かるほど骨の砕ける感触が伝わってきた。
「ごふっ!?」
そのまま力任せに押し込んでやったら、勢い余って仰向けに倒れてくれた。
「千束が心臓を壊されたとき、痛みは感じなかっただろう」
目の前で苦痛にあえぐ吉松の顔を見下ろす。
その表情には、まだ余裕が見られた。
どうやらこの程度ではまだ足りないらしい。
ならばと今度は逆側に体重をかけてみる。
するとまた鈍い音が聞こえた。
「千束が、救世主だと探していたお前の真実を知ったときの苦痛はこの程度じゃない」
彼女が、真実を話した私の前で見せた顔を、この男は知らない。
一見考え無しに見えて聡明な彼女が、今まで見て見ぬ振りをしてきた事実を突きつけられた悲しみを、涙を、彼は知らない。
私のためだけに、自らの命を投げ打ってまで引き留めようとした彼女の覚悟と、突き放された絶望を、彼は知らない。
それが、それだけが許せなかった。
「心臓はどこだ?」
これは要望でも要求でも無い。命令だ。
従わなければ殺す。
そう言外に込めながら、私は問いかける。
「すぐに答えれば、千束が抱いた苦しみの百倍程度の苦痛を味合わせた後に殺しやる」
彼女の命を脅かした罪。
彼女に人の命を奪わせようとした罪。
彼女を悲しませた罪。
それだけでポートマフィアの極刑ですらも生温いと思えるほどの地獄を見せてやる必要がある。
だが、吉松はそれすらも笑い飛ばした。
「ふふふ……」
不愉快だった。
こいつをこのままにしておけば必ず後悔する。そんな確信めいたものがあった。
「私を痛めつけるのは、あまりオススメしないよ?」
吉松は私の内心を見透かすように言った。
知りたいならば教えてあげようと、背広の襟帯を緩める。襟委の釦を外して、その下にある胸板を露出させた。
そこには、傷跡があった。
縦に一つの筋が通っており、縫合したような痕が残っていたのだ。
そして私は、それが何を意味するのかを理解した。
「千束を生かす心臓は、ここにある」
吉松は手術痕を指差しながら言う。
彼の言葉に、私は僅かに握っていた拳に力を込める。
「……お前は、なんなんだ?」
目の前に跪く男が、まるでこの世に生きる人間だとは思えなかった。
そもそも、彼は生きているのかすら疑問に思えた。
自らの臓器すらも捨てる狂気に、私は戦慄を覚えた。
しかし、吉松はそれを鼻で笑う。
「アランの理想を果たせるならば命だろうと捧げてみせる」
それが当然であるかのように、吉松は言い切った。
その目には輝きがあった。
私が憧れた世界で生きている者が発している光とはまた異質な、ギラギラと淀んだ光だ。
「千束は殺しの天才だ。必ず世界に届けなければならない。彼女が道を違えたならば、その責任は私の命で取ろう」
「…お前はなんなんだ?」と、先ほどの質問を繰り返してしまう。
この男からは意志が感じられなかった。
いや、意志はある。
それが自身の胸のうちから湧き出たような大層な物じゃ無く、他人の意志を、ただ空虚に反芻しているだけのようにしか見えないのだ。
彼の意志はどこにある?
アラン・アダムスという存在の理念を、ただ口にしているだけ。
まるで人形だ。
そこに、彼の、吉松シンジ個人の意志が一縷にも満たない程の存在さえ感じることが出来なかった。
「それが彼女にとっての幸福だ。人類と世界に貢献できるの――」
これ以上、彼の言葉を聞きたくなかった。
彼の言は、彼女をただの才能を内に秘めた人形としてしか捉えていないように聞こえたからだ。
彼女の想いを、意志を、愛情と慈愛と笑顔、それら全てがただの付け替えが可能な付属品程度にしか見ていなかった。
その事が、私には我慢ならなかった。
踏みつけた頭に力がこもる。頭蓋骨が軋む音が足裏から伝わってくる。
「……がっ……!」
「千束をお前のような奴と一緒にするな!!」
あの子を、お前のような人形にするな。
私やジイドのような、生存の階段から落ちた亡霊と同じ世界に引きずり込むな。
あの子の価値は、殺しなんてものじゃない。
あの子は私にたくさんの物を与えてくれた。
捨てたはずの夢を、2度と手に入れることのできない絆を、そして、かけがえのない記憶をくれた。
その価値は、誰にも貶させない。
誰にも穢させない。。
金銀財宝や、力や富と栄誉などよりも、遥かに尊いものを彼女は私に与えてくれた。
その全てを、目の前の男に否定された気がした。
靴越しから感じる感触が強くなる。骨が砕けているのだろう。
だが、そんなことはどうでも良かった。
こいつはここで殺さなければならない。
千束が受けた苦しみ以上の苦痛を与えて殺す。
それでようやくだ、ようやく私の苦しみが分かる。
吉松は苦悶の声を上げるが、それでもなお笑みを浮かべていた。
「……織田君、君には感謝をしている」
吉松は、私の足の下で口を開く。
その声音はどこか満足げに聞こえる。
「君が私を殺せば、千束は君を許さないだろう。きっと君を殺しに来る」
だが君はどうだ?
と吉松は続けた。
「君に、千束を殺せるか?」
吉松は靴の下からほくそ笑んでいた。
その顔が、私の中で何かの糸を切った。
私の足が、吉松の顔を踏みつける。
鼻の軟骨が潰れる嫌な感覚が足の甲を伝って感じられた。
吉松は白目を剥いて口から血を流していたが、まだ意識はあった。
千束にとって、彼は恩人だ。
例え、自らの意志を曲げるよう強要されても、命を脅かされてもそれは変わらないというだろう。
私が彼を殺せば、彼女は絶対に私を許さない。
千束は、とても優しいから。
だが、吉松の思惑はアテが外れたと云って良いだろう。
なぜなら、と私は答えた。
「生憎、共に地獄に落ちる相手はもう決まっている。千束が俺を殺しに来ることは…ない」
今日、全てが終わるからだ。
最優先でここに向かったのは、心臓があるからだ。
彼を殺して心臓を奪い、信頼できる彼らに心臓を明け渡せばそれでいい。
その後の予定はすでに先約がいる。
死して尚私と殺し合いたいというラブコールに答えてやらねばならないからだ。
だから、千束の出番はないんだよ。
吉松の頭をさらに強く踏みつけてやる。
すると、吉松の表情が変わった。
「……ふっ……」
嘲笑うかのような笑いだった。
数秒も経たないうちに、夥しい銃声が聞こえたからだ。後れて爆発音も聞こえてくる。
「なんだ? 何が可笑しい?」
「不思議に思わなかったかい? ここに来る道中、誰からも妨害を受けなかったことに」
吉松の云う通り、旧電波塔に入ってから、いや入る前からもそうだ。
刺客や妨害の類いを見なかった。
私は、ここまで何の障害も無くたどり着いた。
そして、ここに吉松だけが残されていた。
まさか……。
私の中にある考えが浮かんだ。
「かごめかごめか」
「そこは通りゃんせじゃないのかい?」
吉松の問いには答えず、彼の頭から足を離す。
彼の身体を仰向けに転がした私は、左脇のホルスターから拳銃を取り出す。
そして、吉松の眉間に向けて照準を合わせた。
おそらくはあの画面に映っていたテロリストの策略だ。
だからこんな辺鄙な場所に吉松を誘拐して監禁した。
問題無く頂上につき、心臓を奪取した私の退路を塞ぐために、地上で身を潜めていた連中が遅れてここの占拠したのだ。
私にはここに指定された時間に来る以外の選択肢が無い。
奴らは指定した時間まで誰も殺さないと云った。
つまり、その時刻に遅れても早くても、約束を反故にしたとされて何をしてくる分からないからだ。それでは意味が無い。
頂上に向かう道中を狙うよりも、頂上から降りるところを迎え撃つつもりだ。
そうすれば私に逃げ場は無い。しかも、大事な心臓を抱えているとなれば動きはかなり制限されるはだろう
「お前を殺して奴らを迎え撃つ。心臓を取り出すのはその後だ」
私の言葉を聞いた吉松は笑みを浮かべた。
それは、どこか満足気な笑みだった。
吉松は両手を広げて、まるで私を受け入れるような仕草をした。
その行動に、私は思わず顔をしかめた。
この期に及んでまだアラン機関への信奉を捧げて、殉教者にでもなるつもりなのか。
その愚かさに辟易した。
もう猶予は無い。
必要なのは心臓だけだ。
この顔が見えなくなるまで撃ち抜いてやろう。
私は引き金に手をかけた。
――織田作も、殺しちゃダメだよ。
その言葉が脳裏に蘇る。
千束の声が聞こえた気がした。
その瞬間、私の指が止まった。
――なりたかったなんて悲しいこと云わないでよ。だって、織田作は誰も殺してないじゃん。
違う。
殺したさ。
何人も、何十人も、何百人も。
私が殺さなかったんじゃない。
私が、人を殺すことしか出来なかっただけなんだ。
1度はそれを止めた。
だが、結局私は殺した。
もはや、何も残されてはいない。
――私も、織田作さんの小説読んでみたいです。
声はさらに聞こえた。
今度は別の少女だ。
私と同じで、殺すことしか価値を見いだせず、絶望して泣きはらしていた少女だ。
だけど、今の彼女はとても美しかった。
私なんかとは違う。
それでも彼女が、私を肯定してくれた。
――貴方が私をこうしたんですよ。
と、自分の生き方を、自分自身で決められる。
強くて美しい少女の声が、聞こえた。
視界がぼやける。
目を擦ることができない代わりに瞬きをした。
何回視界が明滅しただろう?
ようやく前が見えた時、私は息を飲んだ。
私の手を、掴んでいる手があったからだ。
とても、小さい手。
子供の手だった。
それが、一つ、二つ、三つ、四つ、五つと増えていく。
私の手を掴み、引き金を引かせないように抑えていた。
全ての手に、私は覚えがあった。
忘れるわけが無い。
だって、この手は……。
この子達は……っ。
――風が吹いた。
この旧電波塔は爆破によって崩れこそいるが、私達がいる展望台はまださび付いた柱やひび割れたガラス程度での劣化で済んでいる。
すきま風ならともかく、外套を揺らす風など吹くわけが無い。
その真意はすぐにわかった。
一瞬の出来事だ。
だが、私にはそれが永遠にも近い時間が過ぎ去ったかのように思えた。
背後のガラスを突き破る音がした。
誰かが飛び込んできた。
あまりに激しい勢いだったためか、二つの人影は宙に浮いていた。
二つの影は、ガラス片が顔に刺さらないよう腕を構えながらも、まっすぐ私を見据えていた。
そして、叫んだ。
「織田作!」「織田作さん!」
制服に袖を通した2人の少女だった。
それぞれ色違いの赤と黒を基調とした制服は、私がこの世界に流れ着いて最も脳裏に焼き付いた光景。
かつて、私と共にいた少女達が、そこにいた。
2人は着地するとすぐに、私の方へと走る。
尋常ならざる速度だ。あっという間に、距離を埋められる。
咄嗟に身体を動かそうとするが動かない。
いや、どう動けば良いのかわからない。
私は、彼女達に何も出来ないのだから。
「っ!」
2人は必死の剣幕のまま、私に飛びついてきた。
衝撃に耐えきれず、そのまま後ろに倒れてしまう。
背中に激痛が走ったが、不思議と痛みは無かった。
目を開けば、そこには暖色まじりの白髪と、しなやかな黒髪が私の前に垂れていた。
淺日色の瞳と、花色の瞳が、私を見つめていた。
「よかった…」
「間に合いましたっ…」
心底安心したように、二人は微笑んでいた。
そんな二人の笑顔を見て、私の胸中に熱い何かが込み上げてくる。
喉の奥から嗚咽が出そうになるのを、私は唇を噛んで耐えた。
今、ここで涙を流す訳にはいかない。
その資格など私には無い。
彼女達の裏切ったのはわたしなのだから。
「……どうして」
私は問う。
「なんで……来たんだ?」
何故来たのかと2人に問う。
千束とたきなに。
「そんなの」
「決まってますよ」
千束は私の顔を見ながら答えた。
彼女の表情は怒りに染まっていた。
たきなも、いつも以上に真剣な眼差しで私を見る。
「織田作に、誰も殺して欲しくないからに決まってる!」
「そうです!」
私の手を握りながら、千束は声を上げた。
たきなが私の肩を掴む。
強い力だった。
思わず顔をしかめてしまった。
しかし、彼女は気にせず続けた。
力強く、真っ直ぐと、私を射抜くような視線を向けて。
「千束…お前はいいのか? このままじゃお前は……」
「誰かを殺して生きても!それはもう私じゃない!」
私は言葉を遮られた。
あぁ、だからだ。
この子は優しい。
だから私は全てを捨てたんだ。
千束がこう云うとわかっていたからだ。
「たきな…お前はどうなんだ? 千束が死んでも良いのか?」
「良い訳ないでしょう!!」
たきなもまた声を上げる。
彼女は泣いていた。
だけど、決して私の目からはそらさない。
「私だって嫌だ! 千束と一緒にいたい! 生きて欲しい!! でも…でも……っ!」
貴方もいなきゃ意味が意味が無い。
そう告げて、たきなは涙を流した。
あぁ、本当に強くなった。
強くて、綺麗でとてもまぶしい。
私ではとても見ていられないほど、美しかった。
「……俺も、嫌だよ」
震えた声がした。
私の声だ。
顔を腕で覆う。
「嫌だ……子供が目の前で死ぬのを見るのはもう嫌だ」
あの時のように、ただ叫ぶことしかできないのは嫌だ。
あの子達のように、あの静かな世界に彼女達を連れて行きたくない。
それ以上に私は――
「…もう、あの時の絆を失うのも嫌だ……」
彼らとの関係が、絆が壊れたように。
彼女達との居場所が壊れるのも怖かった。
だから、自ら壊したんだ。
なのに、それなのに彼女達は、来てくれた。私のために。
私を救うために。
「ねぇ織田作」
私に寄り添いながら、千束は言った。
その手は私の手に重ねられている。
暖かい手だった。
私より小さな手は、私よりもずっと大人びていた。
私の頬に手を当てながら、彼女は私を見つめていた。
私を映す瞳は、やはり優しく温かかった。
「ありがとう…でも私は本当はもういないはずの人。吉さんに生かされたから織田作にも、たきなにも出会えた」
千束は笑った。どこか悲しそうな顔で続ける。
「私だけじゃない。お別れの時はみんなに来るよ」
…止めてくれ。
アイツのようなことを云わないでくれ。
分かっている。
永遠なんて無い。
価値がある時点で、手に入れた時点で失うことは約束されている。
そんなこと、分かっている。
だからこそ、失ったからこそわかる空白を、私は失いたくない。
「でもそれは今日じゃない」
そうでしょ?
と、千束がたきなに問いかける。
たきなはこくりと、力強く首を縦に振って応えた。
二人の目は決意の色に染まっていた。
あぁ、全く。敵わないな……。
私が何を言っても無駄だろう。
それに……もう限界だ。
私は身体から力を抜いた。
「……すまない。本当にすまない」
「謝らないで下さい」
「うん、そうだね。これは私たちの我がままだから。それに、時間が限られてるから、大切に思えるんだよ」
「ああ」
私は小さく返事をした。
そして、目を閉じた。
瞼の裏に焼き付いた光景が浮かぶ。
それはかつて、私が生きた世界の事。
彼らと過ごした時間と空間だ。今目の前にあるのは、それに並ぶほどの私にとっては大切な思い出だ。
例えそれが仮初であったとしても、偽りのものだったとしても、それでも私には掛け替えのないものだ。
「帰ろう。織田作」
「帰りましょう」
二人の言葉に、私に残っていた最後の力が抜けていく。
「…………ああ」
私はゆっくりと、二人に手を引かれるように立ち上がる。
まだ足取りはおぼつかない。
だが、私を支えてくれるこの手があれば、きっと大丈夫だと思えてしまう。
「…………千束、たきな」
私は彼女たちの名前を呼ぶ。
「何?」
「なんですか?」
二人は私の呼びかけに応える。
私は、彼女らの手を握りながら告げた。
「ありがとう」
私は心の底からの感謝を。
「……それで、どうするんですか?」
「……何がだ?」
「だから、アレです」
たきなが指さした先には、私が相手していた男、吉松シンジだった。
「全く、君たちは本当に私の期待を裏切るね」
どうやら私の尋問に相当効いたらしく、先ほどの問答にも口を挟めないでいたらしい。
特に最初のボディが効いているのか腹を抑えている。
鼻血も止まらないせいか、呼吸も荒い。
「……千束、君の心臓は私の胸の中だ。私を殺せ、そうすれば君は生きて――」
千束は彼に目もくれることなく引き金を引いた。
彼女の愛用していた非殺傷弾が彼の背広に炸裂し、真っ赤な花が咲く。
「がはっ!」
「あーもう、今ようやく話がまとまったのに空気読んでよー」
千束は呆れた様子で呟く。
「おい、私の話を――」
「千束、この人どうします? 確か、真島に武器を渡したのもこの人で、ウォールナットにラジアータをハックさせたのも殺したのもこの人で、あと松下もこの人で、千束の心臓を壊したのもこの人ですよ?」
宣う吉松を無視して、たきなは次々と、彼が暗躍して起こした悪行の数を連ねていく。
さながら罪状の読み上げのようだ。
おそらく、春からの一連の事件はすべて吉松が手引きしたものと見ていいだろう。
私達の主格である千束に、たきなは意見を求めていた。
だが、答えは決まっているだろう。
「そりゃあ、私達のやり方があるでしょ?」
「その心は?」
私の問いに、千束は元気よく答えてくれた。
「死なない程度にぶっ飛ばす!!」
「そういうと思ってました」
「だな」
私たちは三人そろって笑い合う。
吉松はそんな私たちを見て顔を青ざめさせていた。
「まっ、待て! 私の話を訊いてくれ! いいのか!? このままだと君は死ぬんだぞ!?」
まだ、そんなことを言っている。
私は、千束とたきなをちらりと見る。
2人も私と目を合わせてくれた。
「そうだね。私も死ぬのはいやかな~」
「そうですね。私も千束には死んで欲しくないです」
「俺も同感だ」
「そ、そうか! なら――」
「「「そんな訳あるかーー!!!!」」」
―――
――
―
「あースッキリした!」
「そうですね」
「あぁ」
そこからは、まぁ色々あった。
一頻り3人で吉松の顔をぶん殴ったあと、極めつけに千束とたきなによる両サイドから繰り出された腕挫十字固と、私がよく子供達にお仕置きとしてやっていた電気あんまを食らわせてやった。
痛めつけられても得意げな顔を崩さなかった吉松も、流石にこの三点責めには耐えられず情けない声を旧電波塔から東京の街へと送りと届けくれたことだろう。
吉松は今、展望台の一角で気を失っている。
高い背広も襟衣もシワだらけ、大人びた顔は痣や青たんだらけで見る影も無く、セットに時間が掛かったであろう七三の髪もボサボサになっていた。
彼の惨めな姿をみると、リングの上に響き渡る試合終了のゴングが聞こえてくるようだった。
俺達はここから降りるためのルートを探すために展望台を見下ろしている。
「だが、よかったのか? 一応、恩人なんだろう?」
「あーまぁそうなんだけどさ」
流石に痛めつけ過ぎじゃないかと不安になってきた私は、彼を最も慕っていたはずの千束に訊いてみることにした。
例え、心臓を壊されても、千束にとっては彼は大切な存在だ。
あれほどまでに雑に扱ってよかったのかと訊くと、答えはすぐに返ってきた。
「私にとって、吉さんは恩人で、お父さんみたいな人だよ。どんなことがあっても、どんなことをされてもそれは変わらない」
でもね、と続けて千束は云う。
「娘は父親に反抗期があるものなのです」
「そうか、ならしかたないな」
「しかたないですね」
千束の半開きの目で云われた言葉に、私は納得したように首肯する。
たきなも、うんうんと同意してくれた。
それがなんだか可笑しくて、3人同時に笑いが零れてきてしまう。
ひとしきり笑って落ち着いたところで、もう一つの疑問について尋ねることとした。
「そうだ。お前達、どうやってここまで来たんだ?」
私がここに来るのもかなりの時間を要したが、千束とたきなが合流してからたどり着くまでの間と私が吉松にしていた尋問の時間にはかなりの開きがあるはずだ。
しかも展望台から飛び込んでくるなんて予想外だった。
一体どんな方法を使ったのか、気になってきた。
「えっとね、虎に乗ってきたんだ」
「虎?」
「はい、すごく大きかったです」
千束だけじゃなく、たきなまで云うから驚いた。
まさか本当にこの東京に人を乗せる虎がいるというのだろうか。
俄かに信じ難い話だ。
「それとね、ロケットランチャーを切り裂いた女侍がいたんだ!」
「さっきの爆発はもしかしてそれか」
「後ですね、手帳の紙切れが鍵になったんです」
「たきな、それは本当か?」
本当です、とたきなは肯定してくれる。
いよいよ意味不明だ。
2人が嘘をつくわけがない。
私をからかうにしてももっと上手にやるだろう。
だが、事実として2人は今此処にいる。
私の知る常識でこのような非現実的な力、とそこまで考えた時だった。
ふと強い風が吹いた。
ここじゃないどこかの風だ。それでいて、どこか懐かしい。
私は、彼女達の話していた現象の正体を知っている気がした。
ふと、風が吹き付けてきた先を向く。
そして、私はそれを見た。
そこには人が立っていた。
懐かしい風が、砂色の外套と身体に巻き付けられた長い包帯を揺らしている。
懐かしい顔がそこにはあった。
だが一つだけ違うことも見つけた。
そこにいたのは子供じゃ無かった。
暗闇の中で、私達が見ている世界よりも遙か何も無い虚無の世界で1人取り残されて、ただ泣いている子供ではなかった。
そこにいたのは、1人の大人だ。
迷い、間違えながらも、正しいと信じた道を選んで生きる。
1人の大人だ。
彼は、何も云わず優しい笑みを零しながら両腕を広げた。
そしてそのまま、風に溶けていくに東京の空へと落ちていった。
その顔は、まるで故郷に帰るような安らかな顔をしていた。
そこで、すべてを理解した。
あぁ、そうか。お前が連れてきてくれたんだな。
「……ありがとう、太宰」
私の零した言葉は、その後に現れた大きな風とプロペラ音に遮られて誰の耳にも届くこと無く、かき消された。
千束とたきなは音と風がしたの方角を見ている。
そこにはヘリが、展望台近くに滞空していた。
ヘリからは、見慣れた顔が私達を視覚に捉えて声を上げている。
「おーいお前ら無事かー!ミズキがうるさいから早くしろ!」
クルミだ。
きっとミズキが運転しているのだろう。
本当に彼女は多彩だ。これなら1人でも生きて行けるだろう。
「織田作」
「織田作さん」
千束とたきなが同時に私を呼ぶ。
私は振り向いて、2人に笑顔を向けた。
彼女たちはそんな私を見て微笑んでくれた。
「あぁ、今行く」
また、風が吹いた。