杉下との通話を終え、萩原は数秒考えるように視線を揺らす。珍しすぎる連絡で何を言うかと思えば、と唇をぺろりと舐めた。頼むだけ頼んで詳細の説明をしないまま通話を切られたことには思うことがないではないが、噂に聞く限り無駄なことを頼むようなひとではない。
「……お~いちょっと~、皆しゅ~ご~」
「その気の抜けた集合の掛け方、もうちょっとどうにかならんのですか」
「堅いこと言いなさんなって」
ため息をつく部下たちにへらりと笑いかけ、声を改める。
「調べたいことがある」
どんな小さなことでも、たとえ空振りだったとしても、今は動くしかない。手がかりらしい手がかりのないこの状況、ほんの僅かでもひっかかることがあるのなら。
「松田と伊達にも連絡まわして協力させる。今から俺が言う関係者をとことんまで洗いなおすぞ。交友関係、経歴、全部だ」
これ以上の犠牲者を、出すわけにはいかない。萩原の頭にあるのは、それだけだった。
*
「柊木、首尾は?」
「運良く当時のことを覚えてるひとがいたよ。身元はわかった」
「急いで洗おう。何とか捜査員回してもらう」
「なるほどねぇ。諸伏ってったか、ちょっと待ちな。おい大木、小松!」
いつも通り小窓から特命係をのぞき込んでいた角田の腹心たちは、はい、と返事をして顔を出す。角田は珈琲の入ったパンダのカップを掲げて、指示を出した。
「ちっと手のすいてるやつら連れてこい」
「角田課長、」
「そっち、捜査員足りてねえんじゃねえの? 人命と警察のメンツがかかってんだから堅いことは言いっこなしってもんよ」
何より、と時にはやくざ相手にも堂々と啖呵を切ってみせるそのひとは、いつものように軽く笑う。しかしその瞳には、挑むような色があった。
「そいつが犯人だって自信、あるんだろ?」
投げかけられた視線の意味を正しく理解した柊木は、口元をきゅっと締めて、そしてまた、いつものように穏やかに笑ってみせる。
「あります」
絶対に、間違いない。強がりでなく、柊木は脳裏に浮かんでいる人物が「マツバ」である確信を持っていた。
***
ぎしり、と椅子が悲鳴をあげる。
これだけのヒントで俺を見つけてくれるかな、とどこか他人事のようにマツバは思った。今のところ、自分にも仲間にも捜査の手が及んでいる様子はない。いまだ警察と繋がっているSNSの方でも、何か反応があったという話はなかった。
逃げ切るつもりがない、と言ったことに嘘はない。たとえ柊木が自分を思い出すことはなくとも、なすべきことを完遂できたなら逮捕されても構わない。「マツバ」が真にやりたいことは、その先にあるのだから。
ふう、とひとつ息を吐いたとき、スマホの画面が明るくなる。協力者からのメッセージだった。
『計画は順調?』
マツバは即座にもちろん、と返信を打つ。どうせ次は、隠れるつもりなど毛頭ない。計画といえるほどのものもなければ、準備するものも大振りのナイフくらいであり、ターゲットの動向も確認済みであった。やろうと思えば今すぐにでもことを起こせる。それでも一週間という余地を警察に与えたのは___あえて表現をするならば、柊木への「敬意」だろうか。
衝撃的だったのだ。どう見ても私服で、警察手帳を示し、我が身よりも他を想って指揮を執るその姿は。
『大丈夫、ゆっくりで構いませんよ。焦らないで』
『時間は十分にありますから。ええ、走る必要はありません』
『君がお母さんの手を引いてあげてくれ。……よし、涙も止まったな。えらいぞ』
柊木は、パニックに陥りそうになるひとびとを緩やかに制し、穏やかに声をかけ、その笑顔で正気に戻した。不安がる声に耳を傾け、怯えて震える子どもの頭を撫でてやり、冷静さを欠いたひとから怒声を投げられようとも、一度も笑みを崩すことはなく。
それを見て、マツバは思った。警察手帳は、本来こういうひとの手にあるべきだ、と。
『……どっちだ』
しかし、
『どっちが、《警察》なんだよ……!』
それを確かめるために、マツバは柊木を指名した。当初提案された安全かつ確実な計画とにはなかった、マツバがマツバのために起こした「けじめ」だった。リスクでしかないこれを快く受け入れてくれた仲間たちには、感謝しかない。
柊木が自分を思い出し、素性と過去を調べ上げ、こちらの意図をすべて理解したうえで《警察》がマツバの前に現れることがあれば、そのときは。
マツバは小さく息を吐き、協力者とのやりとりが映し出されているスマホの画面をぼんやりと見つめる。
「……アンタには、迷惑かけないから」
君の願いが果たされることを祈るよ、と表示されたそれを、マツバは強く握りしめた。
*
『……アンタには、迷惑かけないから』
耳元のイヤホンから聞こえてきた声に、舌打ちをする。盗聴アプリが拾ったマツバの声はまるで祈りのように真摯な色をしていて、そんなことだから周りにいいように使われるのだ、侮蔑を込めて画面を見る。
この計画を授けたのも、そのための用意をしてやったのも、いつも通り、ただの戯れ、暇つぶしだ。傷ついた彼に耳障りの良い言葉をかけてやれば簡単にこちらの言葉を信じ、言うがままに動いてくれたマリオネット。あまりに簡単に話が進みすぎて退屈にすら思っていたが、柊木の存在を示してくれたことは功績に数えてもいい。
カーテンを締め切った暗い部屋の中、警察がSNS上に上げた動画を再生させる。
『今、動画を撮影しています』
そこらのモデルなど問題にならないほどに整った外見、スマートに着こなしている仕立てのいいスーツ、言葉の節々から理性的な性格が伺われた、若くして地位もあるそのひと。
マツバに乞われて柊木旭のことは調べ上げたときから気になってはいたが、実際に動いて喋るその姿を見て、なおさら惹き付けられるものがあった。
こんな面白そうなひとが、警察なんかにいたなんて。
「……ふ、」
思わず、笑みがこぼれる。
柊木旭。ひいらぎ、あさひ。その名前を何度も頭の中で半数する。頭の堅い馬鹿ばかりと思っていた警察に、まさか。
「遊び甲斐、ありそう……」
計画に修正をいれよう、とその人物は画面の上の指を動かす。どうせならば、より面白く。自分で動くつもりはなかったが、たまには少しばかり動いてみるのも面白いだろうと、次なる仕掛けを用意する。
相手が優秀な人間であるほど、その顔を苦悩と屈辱に歪ませる快感はたまらないものがある。それを想像したそのひとは、いかにも美味そうに唾液を飲み込んだ。ごくり、というその音すら、この静寂の中では大きく響く。
暗闇の中で瞳孔の開いていたその瞳には、淀んだ愉悦が滲んでいた。
***
同期たちから送られてくる個人的な報告に目を通し、降谷はそっと目を閉じる。手で隠した口元には、確かな笑みが浮かんだ。
彼らの優秀さを、降谷はよく知っている。もちろん、心から信頼もしていた。
特命係の確かな手腕も、話には聞いている。特に杉下の推理力は柊木が素直に感嘆し、刑事部の同期たちが舌を巻くほどだと。
けれど、それでもやはり、思ってしまう。
「……まさか、ここまでとはな」
そうつぶやいてから、どこかで聞いた言葉だったような、とふと思う。何だったか、と思い出すより先に、耳聡い右腕がどうかしましたか、と聞き返した。
「いや、……風見」
「はい」
「明朝の捜査会議で、動くぞ」
その言葉に、風見はほんの僅か、目を見開く。しかし次の瞬間には元の表情に戻り、ではそのように、と返事を返した。
「何か手配しておくものはありますか」
「いや、……そうだな」
出世をして以降、降谷は第一線よりも後方でひとを動かすことの方が多くなった。その立場にはその立場の面白みややり甲斐もあるが、たまにもどかしく思うこともある。自分自身、あるいは自身が認めるほどに有能な人材を前線に立たせることの出来ない、もどかしさに似た感情を抱くことも。
実に楽しげな音色で、公安を上り詰める若き指揮官は囀る。
「彼らをまとめて、公安に引き抜く用意かな」
「それは__」
ひとつ瞬きをしたその右腕は、僅かに口元を緩め、柔らかい声を紡いだ。
「それは、骨が折れますね」
公安に刑事、まさかの監察官や特命係まで。通常、これほどに部署が入り乱れてひとつの事件に立ち向かうことはそうそうない。おそらく最初で最後であろうと、風見は思う。だからこそ、だろうか。尊敬する上司の楽しげな顔を見て、本当に全員引き抜ければ良いのにと、そんなことを風見は思うのだった。
***
毎朝行われる捜査会議に、緊張が走る。
期限まであと三日に迫りながらもろくな報告が上がらなかったなか、そのひとはひとり、いつも通りまっすぐに背筋を伸ばして立っていた。責任者たる降谷は顔の前で手を組み、その視線を真っ向から受け止める。
「ご報告したいことがあります。よろしいでしょうか、降谷警視」
怪訝な顔を向ける公安部の人間に対し、彼をよく知る刑事部の人間は息を飲んだ。
上層から嫌われ、捜査権をもたない彼であるが、その推理力は内心で誰もが認めている。そして、この打つ手のない状況を変えてくれる「何か」が今、必要であった。
「では、報告を。……杉下警部」
若い指揮官の声にひとつ頷き、杉下は口を開いた。
*
「うわっねえちょっとヤバいって捜査会議始まってるって!」
「とりあえず降谷と杉下警部には遅刻するって連絡飛ばしたから松田、安全運転な!」
「パトランプも付けてねえんだ当たり前だろ! 柊木の安全運転講習なんざ絶対受けたくねえわ!」
*
「これでとりあえず裏は取れた……って諸伏、捜査会議九時からじゃなかった?」
「うん、遅刻だな! まあまあ真打は遅れてやってくるもんだから!」
「諸伏お前さん、意外と肝据わってんな。
「あはは、公安から放り出されることがあれば是非!」