しんと静まりかえった会議室で、杉下の凜とした声はよく通った。
「そもそも今回の一連の事件についてこれほどまでに捜査が難航したのは、犯行が可能と思われるすべての人間に、被害者との接点が一切見えなかったためです」
どの犯行についても、犯行自体が可能な人間は幾人もいた。
一件目の刺殺は路上での犯行だったために付近の住人や通行人の姿も確認は出来たし、二件目の爆殺も住宅街での事件なのだから同様のことがいえる。三件目の毒殺に至ってはホテルのパーティ会場での事件だ。犯行が可能な人間というだけならば、それこそいくらでもいた。
それでも犯人を特定できなかったのは、その全員が被害者とほぼ初対面、あるいは時折挨拶をかわす程度の関係であり、決定的な物的証拠が見つからなかったこと、そして犯行に至る動機が見えなかったということにある。
「物的証拠が見つからないことから考えても、どの殺人も突発的な犯行とは思えません。時間をかけて入念に計画を練り、実行された犯行でなければここまで証拠が出ないのはあり得ない。しかし、犯行な可能な人々のなかに、被害者と接点のある者はひとりとして見つかりませんでした。この一連の事件が、警察への怨恨ゆえに行われた組織的な連続殺人であることが判明した今でも、なお」
その言葉に、聞き込みに走り回った捜査員たちは唇を噛む。
彼らは手を抜いたつもりなど毛頭ない。ありとあらゆる人物に、繰り返し繰り返し話を聞いた。あらゆる方法で調べ上げた。邪険にされようと、疎まれようと、それでも調べ続けた。しかし何も、出てこない。それが、どれだけの屈辱であったか。彼らの表情に、握りしめた拳に、その悔しさがにじみ出る。
杉下は、静かな声のまま、続けた。
「ですから僕はこう考えました。実は犯人と被害者の間に、接点など存在しなかったのではないかと」
***
その一言に、場は騒然となる。
唯一、降谷のみがその言葉を真正面に受け止め、動じることなくその先を促した。
「詳細を」
その言葉に、ひとつ頷いて杉下は続ける。
「僕が気になったのは、第三の殺人が起きたホテル、そこでお話を伺ったあるひとりの男性です。事件当時、パーティで給仕をしていたというその男性は、仕事の手を止めさせてしまったにもかかわらず、非常に丁寧にお話を聞かせてくださいました」
口元にはささやかな笑みを浮かべ、丁寧な物腰でこちらの言葉に耳を傾け、ひとつひとつの質問に真摯に答えた彼。
警察の捜査は幾度となく同じ場所に足を運び、同じ人に話を聞くことによって行われる。ただのひとつも取りこぼしのないよう、そして関係者が少しでも記憶を掘り起こしてもらうために必要なことなのだが、それに付き合わされる事件関係者には煙たがられることも多い。杉下が神戸と共に話を聞きに言ったころには、事件関係者もそれは繰り返し同じことを尋ねられたのだろう。またか、と嫌な顔をする者も少なくはなかった。
しかし彼だけは、おそらくほかの刑事にも向けただろう笑顔で、それを受け入れた。
「それだけなら、丁寧に話を聞かせてくださる非常に親切な方というだけ。ですが、僕にはどうも、そうは思えませんでした」
笑みを浮かべながら、笑っていない瞳の奥。
時折、噛みしめる歯を解くように開かれる口元。
何よりも、話を終えて背を向けたあとに見えた、彼の背中。
「燃え盛る感情を押し込めるように、強張った肩。あれは怒りなんて言葉で言い表せるような生半可な感情ではないでしょう。僕にはそれが、憎悪というに相応しいように思えました」
だから彼の素性を調べに向かったのだと、杉下は言う。紙の上の情報をたどり、その経歴や交友について話を聞くべく、彼の周囲に話を聞いた。いや、話を聞こうとした。
「これが不思議なことに、彼ご本人に近ければ近い方ほど、ひどく警察を嫌っているようでしてね。なかなかお話を伺うことはできませんでした」
会話をしてくれればまだ良いほうで、ほとんどのひとが警察と名乗った瞬間に門前払い、あるいは無視、ときには怒声すら投げつけられた。それでも何とか話の聞けそうな人間を探し出し、あの手この手で情報を引き出して、わかったことがある。
「彼には、幼い息子さんがいたそうです」
いた、と杉下は過去形でその存在を語る。それは、その少年がすでにこの世にはないことを意味していた。
「もともと病気がちで、あまり身体が強くなかったそうです。亡くなったのは、五年前の冬。あるホテルでの火災に巻き込まれたことが原因でした」
偶然手に入れたそのホテルのレストランの割引チケット。たまの贅沢にと、家族で食事に訪れた際に巻き込まれた、ホテル火災。最上階にあったレストランは炎と煙に囲まれ、従業員や客を含めた十数人が閉じ込められる事態となった。消防による必死の救助活動により全員が助け出されたものの、無傷とは言えず。
煙を吸い込んだことによる一酸化炭素中毒、炎に囲まれた経験による恐怖とストレス。どちらも、幼い身体には堪えきれるものではなかった。
「その日を境に息子さんの持病は悪化し、命を落とすこととなりました」
幼い息子を亡くしてしまった彼の嘆きは、どれほどのものだったか。そして追い打ちをかけるように、彼の妻もまた病床に伏せ、帰らぬ人となる。当時の彼を知る者は、ひどく痛まし気にそれを語った。絶望に染まり切った彼は、まるで自身こそが死人のようであった、と。
「彼はその火災によって、愛する家族を喪いました。彼がその火災について多くを語ることはなかったそうですが、それでも堪えきれずに零していた言葉があるそうです」
警察だけは、許さない、と。
ざわり、と捜査会議にどよめきが広がる。わずかに眉をひそめた降谷が、杉下に尋ねる。
「何故そこで警察を恨むことになる? そのホテル火災は覚えがあるが、あれは確か事故だったはずだ」
「仰る通り。その火災に警察は関与していません。しかし、その火災によって救助された者の中に、覚えのある名前がありました」
葛城智仁。その名を杉下が口にした瞬間、あっと会議室のほうぼうから声が漏れる。それは、第二の事件において爆殺された警視の名前と一致していた。
「その火災の現場において何があったのかは、現状では定かではありません。しかし、ここで第三の事件に居合わせ、警察への恨みを口にしていた事実があり、なおかつ犯行が可能である人物と、第二の事件の被害者に接点が見えました。これは仮説の域を出ませんが、この一連の殺人事件は―――」
その続きを、降谷が引き取った。
「―――交換殺人の、可能性がある、と」
その言葉に、杉下が大きく頷く。
交換殺人とは、殺意をもった複数の人間が、殺意の対象となる人物を交換して殺人を起こすことをいう。ミステリではたびたび見かける手法であるが、実際にこれが行われることは少ない。間違いなく共犯者が自分の憎い相手を殺してくれるという信頼、あるいは利害が成立していることが前提になるからだ。
互いに動機なき殺人を間違いなく執行するという確信があってこそ、この犯行は成立する。
「しかし今回の場合、厳密に言えば動機がないわけではありません。警察への憎悪、それで彼らの殺意は一致していた。警察への恨みをもつ者が集まり、各自の恨みの対象を入れ替えて行われた連続殺人。ひどく綿密に練られた計画的な犯行でありながら、犯行が可能な者と被害者の接点が見つからなかった理由も、これなら納得がいきます」
周囲がざわつく中、ひとつ呼吸をおいた降谷は、窮屈そうに組まれた長い足を組みなおした。安っぽいパイプ椅子の背もたれに背中を預け、事件資料と杉下の言葉を頭の中で再び辿る。その頭脳は、調べる価値あり、と答えを弾き出した。
同時に、さすがは柊木の尊敬する刑事、と心の中でだけ賛辞を送る。
「ではその火災当時の状況を洗いなおしと―――何よりもまず、第一、第二の事件で犯行が可能な人物と、第一、第三の事件の被害者との接点を洗う必要があるな」
嗚呼それについては、と降谷の言葉に杉下が答えようとしたとき、数人のあわただしい足音が近づいてきた。
捜査員たちの視線が会議室のドアに集まると同時に、ばたん、と勢いよくそれが開かれる。肩で息をしながら走りこんできたのは杉下の指示を受けて動いていた刑事たち__伊達、萩原、松田、およびその部下たちだった。
一番先頭で飛び込んできたタフが売りの彼は、人好きのする笑みを浮かべながら軽く頭を下げる。
「すみません、ちょっと調べることがありまして遅刻しました。いくつか報告があるんですが、いいですかね?」
視線が伊達に集まっているのをいいことに、降谷はほんの少しだけ口角を上げて、遅い、と唇を動かした。それを見た伊達は、浮かべていた苦笑の苦味をわずかに強くする。その隣にいた萩原もまた苦笑を浮かべたまま小さく肩をすくめ、松田は無表情のままそっと目をそらした。
三人の仕草に言葉のないやりとりを察したらしい杉下は、穏やかな笑みを浮かべて口を開く。
「ちょうど僕の報告が終わったところですよ、伊達刑事」
「なら話が早い。降谷警視、よろしいでしょうか」
では報告を、と降谷に促され、伊達は懐の手帳を取り出し、表情を改める。
「交換殺人の可能性については杉下警部が報告されたかと思います。その線で関係者を洗いなおした結果、第一、第三の事件の被害者__犬山巡査部長、南巡査に恨みをもつ可能性のある人物が、第一、第二の事件の関係者から浮上しました」
またざわりと、どよめきが走った。
息を整えるふりをして俯いた萩原は、誰にも見えないように自慢気な笑みを浮かべる。
***
『警察を憎んでいながら、それを押し殺しているような人はいなかったでしょうか』
そう電話口で尋ねられたとき、確かに萩原の脳裏に浮かぶ影があった。しかし警察が嫌われるのはいつものことと言われればそれまでで、しかもその当人と、居合わせた殺人の被害者との接点は見えてこない。ならばそれ以上追求するのも、と思いながら頭の片隅にひっかかっていたそれ。
います、と萩原が答えると、では、と杉下はホテルの従業員のひとりの名前を言う。その人とあと二人ほどいます、と答えると、やはりそうですか、と杉下は応じた。
萩原刑事、と改めて名を呼び、無茶ぶりで評判の彼は告げる。
『調べていただけませんか、その二人』
そして、ではよろしくお願いします、と返事も聞かずに通話は切られた。どれだけ自分勝手だこのひと、とさすがの萩原も呆れたが、ほかに当てがあったわけでもなく。
何より、ひとを見る目の確かな悪友が、心から尊敬するひとの言葉だ。それを無下にして後悔するくらいなら、それにしたがって無駄足を踏むほうがよほどマシだ。そうして萩原は部下を動かし、伊達と松田にも協力を頼み、出来うる限りの手段を用いて彼らを調べ上げた。結果として、萩原の判断は正しかった。
伊達はちらりと自身の愛用する手帳に目をやり、口を開いた。
「まず、第一の事件。犯行現場近くのコンビニの監視カメラに映っていた女性。本人は夜中に小腹がすいてコンビニに寄っただけ、と説明していますが___彼女には婚約者を事故で亡くしている過去があることがわかりました。海水浴場での不慮の事故だったことは間違いないようですが、どうもその日、第三の事件の被害者、南巡査も同じ海水浴場を訪れているようでしてね。南巡査のSNSの投稿を見る限り、時間帯も一致しています」
海水浴場で事故があったとなればそれなりの騒ぎがあったと思われるが、その当日の南巡査のSNSには、デートで海水浴を楽しんだという投稿のみ。SNSにマイナスな投稿をしたくなかっただけ、という可能性もあるが、それでも違和感は残る。
「それから第二の事件ですが、葛城警視が殺害された自宅近くのマンションに住んでいる、早朝の散歩が日課だという男性。彼は数年前、冬の山間を移動中、ひとけの少ない場所でエンストを起こし、凍死しかけたことがありました。その日は急な冷え込みで道路が凍結し、また事故も頻発していたために救助が遅れ、彼もかなり危うい状況だったと聞いています」
そんで、とその先は松田が引き継いだ。どこか眠そうに目を細めながら、自身の警察手帳を開いて続ける。
「同日、第一の事件の被害者、犬山巡査部長は隣県にある実家から都内のマンションに戻っていたことがわかっています。実家の住所と帰宅した時間帯を考えると、その男性が立往生した現場を通った可能性は高い」
しかし、犬山巡査部長が救助をしたという事実も、通報したという事実すらもなかった。帰宅した犬山巡査部長はただ「道が凍っていて大変だった」とこぼしていた程度で、特別何かあったとは話していなかったという。
どちらも、接点があったかどうかは定かではない。が、殺害現場近くで目撃された両者とその周囲は、明らかに警察への憎悪を抱いている。また、それぞれが接触した可能性のあるその日を境に憎悪が生まれたという証言もある。これは何かがあったのだと考えるほうが自然だろう。
「まだ推論の域を出ませんが、この二人、調べる価値はあると思いませんか?」
どうよれーくん、と言わんばかりの萩原に、降谷は内心でやれやれと苦笑を漏らす。どうよも何も、お前らならやってくれると信じていたよ、と決して口にはしない本音を心の中だけでつぶやいた。
捜査方針はこれで固まった。それぞれの事件において犯行が可能であり、警察への憎悪を口にしていた事実があり、また今回の連続殺人の被害者との接点をもった可能性がある三人。洗いなおす価値は十分にある。
しかし、ようやく前進したと思われる状況でも、降谷は険しい顔を崩せない。この交換殺人という仮説が正しかった場合、ひとつ問題がある。
「報告はわかった、今後はその線も踏まえ捜査を進める。しかし……この一連の殺人事件が交換殺人であるなら、きわめて重大な問題が残るな」
降谷の言葉に、杉下や萩原ほか同期たちは大きく頷く。
事情を把握しきれていない捜査員たちを代表して、降谷の隣に座っていた風見は、というと、とその先を促した。降谷は息をついて、また身を乗り出した。
「被害者の三人と、彼らに恨みをもつ可能性のある容疑者三人。
第一の事件の被害者を恨む者が、第二の事件を。
第二の事件の被害者を恨む者が、第三の事件を。
第三の事件の被害者を恨む者が、第一の事件を。
殺意と犯行の矢印は互いに結ばれ、それらは環を形成していた。つまりこの交換殺人は、すでに完成してしまっているのだ。しかし、それではおかしい。何故なら、事件はまだ続くと宣言されているからだ。
「では、
はっと、捜査員たちは息をのんだ。
「三日後、マツバはもうひとり殺すと言っている。これまでの事件が交換殺人だったとしても、それはすでに完成している。マツバが誰で、誰に恨みをもっているのかは依然としてわからないままだ」
そう、もう残された時間は三日しかない。犯人と思しき三人に犯行を認めさせ、マツバについて話を聞こうにも、現状では任意同行がせいぜいだろう。拒否されれば、警察としては手を出すことができない。
とにかく、時間がなかった。ぎり、と降谷は悔しさに奥歯を噛みしめる。柊木の警護を務める諸伏からは、柊木が思い出したかもしれない、というメッセージを受けて以来、報告がなかった。あれほど報告はまめにと言っているのに、と内心で小言を並べつつ、渦巻く屈辱を押し込めた。
悔いている時間すら惜しい。今は、やれることをやるしかない。
「捜査方針を立て直す。班の振り分けは、」
と、降谷が再び口を開いたそのとき。
いまだ会議室の入り口近くに立っていた刑事たちの後ろから、ちょっとすみません、と軽い声が響く。彼らの間をすり抜けるようにして会議室に入ってきたのは、降谷が待っていた二人。
「すみません、遅くなりました」
仕事用の猫かぶりに笑顔を乗せて、柊木はさらりと言う。気楽そうな態度をとってはいるが、腕に持ったスーツにはくたびれた色が見える。その隣に立つ諸伏もまた、無表情を作っているがその目元には疲労が見えた。
おせえぞ、とほかには聞こえないように松田が言うと、諸伏もまたほかに聞こえないように、お前らも遅刻だろ、と言葉を返した。これでも急いだんだよ、と柊木は内心だけで言い訳を並べる。
二人の登場を喜ぶ顔を隠すように、降谷は慇懃な態度で笑みを作った。
「遅刻という失態を埋め合わせるだけの成果はありましたか、柊木監察官」
ぴり、とした空気が会議室に流れる。
ああそういう態度で来るのか、と徹夜明けゆえに沸点の低くなっている柊木は、最大級の笑顔で答えた。
「もちろんですよ、降谷警視」
降谷と柊木の視線が交錯する。赤い火花が、散ったように見えた。
「マツバを、見つけました」
柊木は、確かに過去、マツバに出会っていた。それは柊木にとって数少ない、自らが関与した大事件のときのこと。
その事件のこと捜査会議で説明したら松田嫌がるだろうなぁと柊木が愉しそうに笑っていたことを、諸伏だけが知っていた。