(まさか、これほどとは…)
ここはトウショウボーイのトレーナー、安田の事務所。
彼は、パソコンの前に向かい、先日おこなわれた、トウショウボーイの第二戦のレースについて回想していた。
彼女はデビュー戦、芝1400mのレースに勝利した。タイムは、1分24秒7。
そして、第二戦のつくし賞は、ダート1400m。
勝ちタイムは…
1分24秒8。
ダートコースは、バ場状態が悪いほど、タイムが良くなる傾向にある。
それは、良バ場ではサラサラとしている砂が、水を含むことによって固くなり、足抜きが良くなるからである。
レース当日のダートのバ場状態は、稍重だった。
しかし、いくら足抜きが良かったとはいえ、これは芝並みの時計である。実際、芝の前走と比べ、わずかコンマ1秒しか違わない。
腰の甘さが解消されて、まだ2か月も経っていないはずだ。彼女のバ体の完成は、まだまだ先のことだろう。
それでも、これほどのタイムを、現時点でたたき出してしまうとは。
いくらなんでも、である。
(思った以上に、底が知れないな…)
寒気すら覚える、驚異のポテンシャル。
そして、最早疑いようのない、卓越したレースセンス。
ウマ娘の力の深淵を覗き込んだような気がした。
(こりゃクラシックの一つや二つどころじゃ、ウソだな…)
ふうっ…と、大きなため息をつくと、安田は自分の責任を果たすため、今後のトレーニング計画の策定に取り掛かった。
桜のつぼみが膨らみ始め、開花のときを今か今かと待っている。
3月中旬、ようやく春の陽気が感じられる日々がやってきた。
トウショウボーイは、校門をくぐった先の桜並木の下を、とぼとぼと歩いていた。
(先週も、結局テンちゃんには会えずじまいだったなあ…)
あれから何度かテンポイントの教室に行ってみたのだが、彼女にプレゼントを渡せる機会は訪れなかった。
最初にトウショウボーイに応対してくれたウマ娘も、空振りが続き、しょげている彼女の姿を目にし続けた結果、これ以上は逆に気の毒だと感じたのか、最近は声をかけてくれることもなくなった。
トウショウボーイ自身も、徐々に足が向かなくなってしまった。
「ボーイちゃんー、おはよー」
背中の方で、明るい声が弾ける。軽快な足取りで一人のウマ娘が近づいてきた。
グリーングラスだった。
「あ、グラスちゃん。おはよ」
言ってから、少し胸が痛んだ。ちょっと素っ気なかったかもしれない。
グリーングラスは、気にしていないどころか、むしろ、どこか元気のないトウショウボーイのことを、逆に気遣ってくれる。
「どうかしたー? 元気ないみたいだけどー」
慌てて笑顔を作るトウショウボーイ。
「ううん、そんなことないよ! ごめんね、ちょっと考え事してただけ」
「そうなのー? まあー、何事もー、考えすぎはよくないよー」
特に深入りはしようとせず、いつもの調子で、励ましてくれた。
そこで、トウショウボーイはふと思い出す。彼女の明るい声音の、その理由を。
すぐに表情を仕切り直し、明るく、精いっぱいの気持ちを込めて言う。
「そうだ、グラスちゃんおめでとう! 一昨日、初勝利だったね!」
グリーングラスは先週の土曜日に、デビュー三戦目にして、待望の初勝利を挙げた。
そのときの彼女は、一戦目、二戦目とは打って変わって、走りに鋭さがあった。道中はピリッと集中して前方を追い、直線に入ると「ここしかない」という絶好のタイミングで抜け出し、二着を半バ身抑えての勝利。
派手さはなく、記憶には残りにくいレースだったかもしれないが、見る者が見れば、彼女の秘められた力を、存分に感じることのできる、そんな内容の走りだったと言える。
グリーングラスは、嬉しそうに、顔をほころばせ、
「うんー、ホッとしたよー。やっと勝ちあがれたからー」
やっと、というところに、喜びを一心にかみしめている様子がうかがえた。
トウショウボーイも、テンポイントに振られ続けている寂しさを、一時忘れることができた。
二人は、再び校舎に向かって歩き出す。
「先生にねー、お前は何度かレースを走ったほうがー、調子が上向くなー、って言われたんだー」
こういうタイプを、「叩き良化型」と言ったりする。
目標レースの前に、一、二戦、レースに出て「叩く」と、ぐんと調子が上向くウマ娘のことだ。
それに対し、レース間隔が空いて、ぶっつけ本番でも好走するタイプを、「鉄砲が利く」と評したりもする。
「なるほど、まさにおっとり型のグラスちゃんにとって、ピッタリの評価だね、それ」
くすくす笑うトウショウボーイ。
「えー、なにそれー」
やだなあと、恥ずかしそうに笑うグリーングラス。小さくこぶしを作り、冗談めかしてトウショウボーイの肩を小突いてみる。それに対し、「痛いなー」と、笑って言い返すトウショウボーイ。
ほのぼのとした雰囲気を醸す二人が、校舎の入り口近くに差し掛かると、以前どこかで見たような、黒山の人だかりが、彼女たちの目の前に姿を現した。キャーキャーという黄色い声が、ここまで届いてくる。
先に気付いたグリーングラスが、
「なんだろうねー、あれー」
と、トウショウボーイに声をかける。
彼女は、すぐに悟った。
(あ、テンちゃんだ…!)
おそらく、初めて彼女と会ったとき同様、ファンの生徒たちに取り囲まれているのだ。
トウショウボーイは、カバンの中のかすかな重みを確かめ、自分に言い聞かせるように、うん、と一度うなずく素振りを見せると、グリーングラスに、
「ごめん、グラスちゃん。私、ちょっとあそこに行ってくる」
と告げ、駆け足で向かっていった。
グリーングラスは、ぽつんと一人取り残される。
(なんだろー?)
いつになく慌てたトウショウボーイの様子を不思議に思った彼女は、トウショウボーイの姿をそのまま目で追い続けた。
人だかりに加わることなく、その外周を、右に左にうろちょろしている。時折つま先立ちになって、ぴょんぴょんと、中央の様子をうかがおうとするが、首尾よく運ばないらしく、がっかりしながら元の姿勢に戻る。
反復横跳びと垂直飛び。
その繰り返し。
(かわいいー、ボーイちゃんー)
あたふたするトウショウボーイを、慈母のまなざしで見守る。
しばらくして、ようやく群衆の一角が崩れ、中から金色の貴公子が姿を現した。
同時に、表情がぱあっと明るくなるトウショウボーイ。
(やっぱり、テンちゃん!)
テンポイントの姿にうっとりする生徒たちは、トウショウボーイの視界に全く入ってこなかった。
神々しいほどまでの輝きを放ち、見る者すべてを魅了する、尾花栗毛。
その一点に吸い込まれるように、視界は収斂されていった。
トウショウボーイがその姿を目にするのは、およそ二か月ぶりだが、初めて出会ったときの、あの煌びやかな印象はそのままで、バ体は一層引き締まり、無駄なぜい肉は一切感じられない。肌もピカピカと艶が出ており、好調をうかがわせる。
つい、うっとりと見惚れてしまうトウショウボーイ。
ハッ!?
(いけないいけない! 私には目的があるんだった…)
意を決して彼女の前に立とうとした瞬間、ほぼ同時に、テンポイントが、周りの生徒たちの中に、トウショウボーイの姿があることに気付いた。
ふと目が合う。
テンポイントは、ちょっと困ったような表情。
トウショウボーイのほうも、周りの生徒の目が気になって、なかなか次の行動に出られない。
(つ…詰んでる?)
絶望的な状況、と思った矢先、左手のほうから、
「ボーイちゃーん! おーいー」
と、グリーングラスが、今まで聞いたことがない、大きな声で呼びかけてきた。
(え? グラスちゃん、あんな大きな声出せたんだ?)
問題は、そこではない。
彼女は、いつの間にやら、群衆をよけて、校舎の脇に移動していた。そこから、トウショウボーイに向け、右手を大きく振っているが、同時に左手で、何やら手招きをしているようだった。
それを見たトウショウボーイは、瞬間的に、グリーングラスの意図を察する。
すると、すかさず目の前のテンポイントの手を取り、
「テンちゃん、ごめん、ついてきて!」
と言うと、相手の了承を得る間もなく、グリーングラスのほうに向かって走り出す。テンポイントも彼女に引っ張られる形で、そのまま並走を始めた。
置き去りにされた非公認ファンクラブ会員たちは、一斉に悲鳴をあげる。
「どうしたんだい、ボーイ?」
事態に困惑するテンポイント。
トウショウボーイは、振り返ることなく、前を向いたまま、
「いいから!」
「こっちこっちー!」
と、グリーングラスが手招きするほうに疾走。
やがてグリーングラスは、建物と建物の間のスペースに体を滑り込ませる。
トウショウボーイとテンポイントも、グリーングラスのあとを追って右手にカーブした。
建物間の狭いスペースを駆け抜ける。しばらくして再び右手に折れ、そのまま前方に向かって走る。ようやくグリーングラスがペースを落とし始めると、後続の二人の足取りも、次第にゆっくりとなっていった。
彼女たちがたどり着いたのは、校舎の裏手で、普段誰も訪れることのないような、寂しい場所だった。
グリーングラスは、トウショウボーイが落ち着いてテンポイントと話せる場所に、誘導してくれたのである。
若干、息が上がった。
トウショウボーイが下を向いて、軽く呼吸を整えていると、ややとげのある言葉が、彼女の耳に届く。
「どういうことか、説明してほしいな、ボーイ」
見上げると、テンポイントが、あきれた顔でトウショウボーイのことを眺めている。
「ご、ごめんね」
と言いながら、カバンの中をガサゴソ。
「…はい、これ!」
取り出したのは、ずっと渡せないでいたプレゼント。
テンポイントにとっては、予想外の事態だったようで、彼女の表情が、それを物語っていた。
「ごめん、一か月遅れになっちゃったけど、バレンタインのチョコだよ。むしろ、時期的にはホワイトデーだけどね、えへへ」
顔をほのかに紅潮させながら、トウショウボーイは言った。
(受け取ってくれるかな…)
一瞬の沈黙が、トウショウボーイにとっては永遠にも感じられた。
テンポイントは、ゆっくりプレゼントを手に取ると、一呼吸おいて、破顔する。
「ありがとう。嬉しいよ」
全身から力が抜け、今にもその場にへたり込んでしまいそうだった。
「よ、よかった…」
テンポイントが苦笑する。
「はは、大げさだね」
二人のやり取りを横で見ていたグリーングラスが、
「よかったねー、ボーイちゃんー」
と、勇気を出してミッションをやり遂げたトウショウボーイを、笑顔で称えた。
グリーングラスとテンポイントはすぐに打ち解けた。
会話が進むうち、自然とグリーングラスは「テンちゃん」、テンポイントは「グラス」と呼び合うようになる。
トウショウボーイは少しばかり嫉妬した。
(グラスちゃん、すごいな…私なんて、勇気を振り絞ってお願いしたのに…)
それからテンポイントは、トウショウボーイを待たずにすぐに練習に行ってしまっていたことを詫びる。
「すまなかった。君が来てくれていた、というのは知っていたんだけど、どうしても練習がしたくてね。そのうち私のほうから、君のところへ赴こうと思っていたんだ。しかし、お恥ずかしながら、練習にのめり込む自分を止められなくて…」
トウショウボーイは首を横に振った。
「ううん。いいの。それにしても、すごい気合いだよね。やっぱり、皐月賞に向けて?」
テンポイントは強くうなずく。
「ああ。ジュニアチャンピオンとして、ふがいない走りはできないからね。前走は接戦だったし、これからもたくさんのライバルたちが襲い掛かってくるだろうから、気は抜けない」
そんな彼女の優等生的な答えを聞いたグリーングラスは、どこか違和感を覚える。
(あれー? テンちゃん、なんかウソついてるー?)
トウショウボーイのほうを見ると、彼女はうんうんとテンポイントの言葉を素直に受け取っているようだった。しかし、グリーングラスは、さきほどテンポイントがうなずいたときに、腕を背中のほうに回し、拳をぎゅっと握っているのを見逃さなかった。
(…まあ、いっかー)
彼女は今目にしたことを、しばらくは胸の内に秘めておこうと思った。
テンポイントが言う。
「でも、それでハードワークが過ぎてしまってね。先生から、これ以上は調子を落とすことになるからやめておけ、とストップをかけられたんだ」
そのため、朝練をせずに直接校舎に赴いたものだから、例の非公認ファンクラブの生徒たちに、一瞬にして取り囲まれてしまった、というわけだった。
(人気者って、たいへんなんだなあ)
苦笑いするトウショウボーイ。
それでも、こうして再び会えることになったのだから、テンポイントの先生には感謝だ。
「ボーイは条件戦、快勝だったね」
テンポイントの言葉を聞いて、ひどく驚いた。
「え、見てくれてたの?」
「君を焚きつけた私が、見ないわけにはいかないだろう?」
(イケメン発言キター!)
思わず身もだえしそうになる。が、グリーングラスが見ている手前、自重。
「皐月賞には、間に合いそうだね?」
「うん。あと一度レースに出て、安田先生に判断してもらう。私は、出るつもりだよ! だから、次のレースも、絶対に結果を出すんだ」
テンポイントはポンポンとトウショウボーイの肩を叩いた。そして、
「その意気だ。絶対に勝ちあがってくるんだよ。待っている」
と言ってほほ笑んだ。
トウショウボーイは、
「うん!」
と、今までで一番気持ちをこめて返事をした。
三人は昇降口まで一緒に向かい、そこで別れ、それぞれの教室へ向かった。
トウショウボーイは、教室へ向かう途中、さきほどのテンポイントとのやり取りを回想し、プレゼントを受け取ってもらったときの手の感触を思い出す。
そして、「待っている」という言葉。
身体のあちこちがむず痒い感じだ。
(私に、期待してくれてる…)
彼女が、自分に期待を寄せてくれていると感じたのは、安田に続き、二人目。
よし、とこぶしを握り締めた彼女は、これからの練習に、一層力を入れようと決意した。
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